黙示録講解

(第205回)


説教日:2015年5月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(34)


 黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 まず、これまでお話ししたことを振り返っておきます。
 スミルナはエーゲ海に面している港湾都市として繁栄していました。しかし、9節でイエス・キリストが、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

と語りかけておられますように、スミルナにある教会の信徒たちはローマ帝国からの迫害を受けて苦しみ、貧しい状態にありました。けれども、イエス・キリストが、

 しかしあなたは実際は富んでいる

と語りかけておられるように、スミルナにある教会の信徒たちは霊的に、すなわち、神さまの御前においては富んでいました。迫害によってもたらされた苦しみと貧しさの中にあって、神さまに信頼し、神さまとの愛にあるいのちの交わりを深めつつ、お互いの間の交わりを深めていたと考えられます。スミルナにある教会の信徒たちがそのように歩むことができたのは、イエス・キリストが、

 わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。

と述べておられるように、主であられるイエス・キリストご自身が彼らとともにおられて、彼らの苦しみと貧しさをご自身のこととして、ともに味わってくださり、ともに歩んでくださっていたからにほかなりません。
 神さまに敵対していて、そのご計画の実現を阻止しようとして働いている悪魔は、このような霊的な状態にあるスミルナにある教会の信徒たちを、何としても、イエス・キリストにある神さまの愛から引き離し、お互いの間の交わりを分断しようとするはずです。事実、悪魔は巧妙なはかりごとをもって、スミルナにある教会の信徒たちをさらなる試練にさらすようになりました。そのことが、10節に、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と記されています、イエス・キリストのみことばの意味です。
 悪魔はスミルナにある教会の信徒たちの「ある人たち」を投獄しようとしていました。この投獄は、今日の「懲役何年」というような禁固刑ではなく、裁判を受けるため、あるいは、処刑されるために投獄されることを意味しています。イエス・キリストが、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と語りかけておられるように、それが裁判を受けるための投獄であったとしても、その結果「死に至る」ことがありました。
 このことで悪魔が狙っていることは、

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。

というイエス・キリストの戒めのことばが示していますように、スミルナにある教会の信徒たち全体の間に恐怖心を生み出すことです。
 もちろん、このような試練に対しては誰でも恐れを感じます。けれども、そこからどのようになっていくかには違いがあります。
 そのことを考えるためには一つのことを踏まえておく必要があります。イエス・キリストが、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と言われるときの、

 あなたがたをためすために

と訳されていることばは、受動態で表されていて、直訳調に訳しますと、

 あなたがたがためされるために

となります。この場合の受動態はいわゆる「神的受動態」で、スミルナにある教会の信徒たちを試す方が、突き詰めていきますと、神さまであることを示していると考えられます。実際に、スミルナにある教会の信徒たちの一部を投獄するのはローマの官憲たちですが、そのことの背後にあって働いているのは悪魔です。神さまはスミルナにある教会の信徒たちに対する悪魔の企みをもお用いになって、ご自身のみこころを実現されます。このようにして、ここでは、悪魔がスミルナにある教会の信徒たちを試そうとしているのですが、神さまがそれをもお用いになってスミルナにある教会の信徒たちを試そうとしておられます。
 このことを踏まえたうえで、試練の中でスミルナにある教会の信徒たちがどのようになっていくかの違いを考えてみましょう。
 もし、スミルナにある教会の信徒たちがそのような状況の中で恐怖に縛られてしまいますと、投獄された人たちは「どうして自分だけがこのような目にあうのか」というような思いをもって、主の愛と恵みを疑うようになる可能性があります。また、投獄されなかった人たちは、自分にもそのような「わざわい」が降りかかってこないようにしようと思って、投獄された人たちから距離を置こうとするようになる可能性があります。もしそうなりますと、神さまへの不信が芽を出し、ガラテヤ人への手紙5章6節に記されています、

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

というパウロの教えに沿って言いますと、「愛によって働く信仰」がそのいのちを失い、お互いの交わりは形式化し、教会がキリストのからだである教会の実質を失ってしまいます。これが悪魔が狙っていることです。
 けれども、 スミルナにある教会の信徒たちが、そのような恐れがあるために、むしろ、さらに主に近づいて、恐れのことも含めて一切のことを主の御手にお委ねするようにようになることもあります。ちょうど、子どもが何か怖いことがあった時にお父さんやお母さんのところに行って抱きつくようなことです。その子はお父さんあるいはお母さんの腕の中で安心し、改めて、その怖いことが何であるかを確かめることができるようになります。これが神さまが、イエス・キリストをとおして、また、御霊によって、スミルナにある教会の信徒たちを導こうとしておられる状態です。こうして、この試練の結果、スミルナにある教会の信徒たちが真の主の民であることが明らかにされるようになります。
 マタイの福音書10章28節に記されています、

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えに沿って言いますと、スミルナにある教会の信徒たちは、そのような厳しい状況の中で、真に恐れなければならない方を恐れ敬い、その力強い愛の御腕の中で平安を得て、恐れなくてもいいものを、恐れなくてもいいものとして理解するようになり、実際に、そのようなものを恐れない者へと造り変えられていきます。
 以上はこれまでお話ししたことです。


 イエス・キリストはスミルナにある教会の信徒たちに、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と語られた後、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

と言われました。
 今日はこのことについてお話しします。
 この「十日の間」が何を意味しているかについてはいくつかの見方があります。私が調べられたかぎりでは七つほどの見方がありますが、中には、すぐに、これは無理であると思われるものもあります。
 まず「」という数ですが、これは、その当時の文化の中で広く見られることですが、聖書においても「完全数」、「神聖な数」と呼ばれる数の一つで、「完結していること」を意味しています(ZIBD)。両手の指を折りながら数えていくと「」で完結することにかかわっているのではないかと考えられているようです。
 これとともに、旧約聖書の記事の中には、「十日の間」ということばは、それが短い期間であることを表していると思われる事例があります。
 創世記24章55節には、

すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが」と言った。

と記されています。
 アブラハムは息子のイサクと結婚する女性にかんする神である主の命令に従って、しもべをアブラハムの親族たちのいる地に遣わしました。イサクと結婚すべき女性は主、ヤハウェを信じて、週とともに歩んでいる女性でなければなりませんでした。
 ここに記されているのは、アブラハムのしもべが神である主の導きを受けて、「アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘」リベカと出会い、リベカの「兄と母」の同意を得て、彼女をイサクのと結婚する女性として、アブラハムのいるカナンに連れて行こうとしているときのことです。リベカの「兄と母」は、これが神である主のみこころであることを信じて、リベカがイサクと結婚することを受け入れますが、リベカを直ちに遠いカナンの地に送り出すことは忍び難いことでした。それで、

娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが

という思いを伝えています。

 ここには、「しばらく、十日間ほど」ということばが出てきます。これですと「十日間」は「しばらく」という短い間ということになります。

 ただ新改訳で「しばらく、十日間ほど」と訳されていることばは「日」の複数形と「あるいは十」ということばの組み合せです。このことばについては、理解が一致しているわけではありません。いくつかの翻訳を見てみますと、「十日くらい」(新国際訳)「数日、たとえば十日」(新アメリカ標準訳)、「数日、少なくとも十日」(新欽定訳)、「少なくとも十日」(新改定標準訳、K=B)などの訳があります。
 どのような訳を取ったとしても、これはリベカの家族が娘を遠くカナンの地に送るときのことですので、「十日」は短い期間を表していると思われますが、
 同時に、「せめてこれくらいであればよい」という意味合いもあって、「」という数が「完結している」ということも含んでいると考えられます。
 これらの訳とは違って、「日」の複数形は「年」を表すとして、「一年くらい」と訳している学者もいます(Wenham)。仮にこれであったとしても、リベカの親族にとっては、「短い期間」と感じられたことでしょう。
 もう一つの事例ですが、民数記11章19節ー20節には、

あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。

と記されています。これはエジプトを出て荒野を旅していたイスラエルの民が、主が与えてくださるマナを食べ飽きたと不平を漏らし、エジプトにいたときのように「肉が食べたい」と「大声で泣いて、言った」(4節)時に、主がモーセをとおして語られたことです。実際には、この時、神である主が大量のうずらが風で運ばれてくるようにされました(31節)。ここでは、「十日」は「短い期間」を表しています。
 このように、「十日の間」は「短い期間」を表すことがあります。

 これらのこととともに、多くの学者たちが、黙示録2章10節に出てくる「十日の間」の背景として、ダニエル書1章に記されていることがあると考えています。
 そのダニエル書1章に記されていることがどのようなことであったかを簡単に見ておきましょう。
 紀元前605年の第一回捕囚の時に、バビロンの王ネブカデネザルの命令により、ユダ王国の「王族か貴族」の中から選ばれた若者たちがバビロンに連れて行かれました。これらの若者たちのことが4節では、

その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。

と記されています。ここで「少年」と訳されていることば(イェレド)は「少年」からその当時の「若い成人」を表しています。ここでは、彼らが王宮で仕えるために訓練を受けるようになったことが示されています。そのことを、その当時そのような訓練を受ける若者は14歳であったというペルシアの記録に照らして、彼らは14歳か15歳くらいであったと考えられています。
 その中に、ユダ部族に属していたダニエルと三人の友人たち、「ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤ」がいました。
 5節には、

王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし、そのあとで彼らが王に仕えるようにした。

と記されています。この場合の「彼ら」はユダ王国から連れて来られた若者たちすべてのことです。
 これに対して、8節には、

ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。

と記されています。そして、続く9節に、

 神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。

と記されていて、このことに神さまがかかわってくださっておられたことが示されています。
 ダニエルの願いを聞いた「宦官の長」は、10節に記されていますように、

私は、あなたがたの食べ物と飲み物とを定めた王さまを恐れている。もし王さまが、あなたがたの顔に、あなたがたと同年輩の少年より元気がないのを見たなら、王さまはきっと私を罰するだろう。

と答えました。
 これを聞いたダニエルは、「宦官の長」の言うことがもっともなことであることを認めたうえでのことであると考えられますが、12節ー13節に記されていますように、「宦官の長」がダニエルたちの世話をするために任命した「世話役」に、

どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませてください。そのようにして、私たちの顔色と、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、あなたの見るところに従ってこのしもべたちを扱ってください。

と願いました。
 その結果が、続く14節ー17節に、

世話役は彼らのこの申し出を聞き入れて、十日間、彼らをためしてみた。十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。

と記されています。
 そして、18節ー20節に記されていますように、「三年間」の「養育」(5節)が終わった後、ダニエルと三人の友人たちはバビロンの王ネブカデネザルに仕えることになりました。
 以上が、ダニエル書1章に記されていることのあらすじです。
 黙示録2章10節に記されています、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

というイエス・キリストのことばに出てくる「十日の間」がダニエル書1章12節ー14節に出てくる「十日間」を背景としているかどうかについては、いくつか問題があって、直ちに、「そうだ」と言うことはできません。
 けれども、黙示録の背景にダニエル書があることは明白なことです。また、黙示録2章10節に出てくる「十日の間」とダニエル書1章12節ー14節に出てくる「十日間」は、どちらも、「試される期間」であるという点で一致しています。それと、積極的なことではありませんが、旧約聖書の中には「十日間」ということばが出てくる個所が少なく、ダニエル書1章12節ー14節以外には、黙示録2章10節に出てくる「十日の間」の背景となっている可能性がある個所がありません。もちろん、黙示録2章10節に出てくる「十日の間」に何らかの歴史的な背景がなければならないわけではありません。
 このようなことから、黙示録2章10節に出てくる「十日の間」がダニエル書1章12節ー14節に出てくる「十日間」を背景としている可能性は高いと思われます(これにかかわるいくつかの問題につきましては、後ほど取り上げます)。
 それで、先ほどお話ししましたダニエル書1章に記されていることを踏まえて、ダニエル書1章12節ー14節に出てくる「十日間」について、もう少し見てみましょう。
 第一回の捕囚において、ユダ王国から連れて来られた若者たちはネブカデネザルに仕える者となるために「三年間」の「養育」を受けました。そして、18節ー19節に、

彼らを召し入れるために王が命じておいた日数の終わりになって、宦官の長は彼らをネブカデネザルの前に連れて来た。王が彼らと話してみると、みなのうちでだれもダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに並ぶ者はなかった。そこで彼らは王に仕えることになった。

と記されていますように、その「三年間」の「養育」を受けた後で、ネブカデネザルの試問(「面接試験」)を受けました。それで、この「三年間」の「養育」の期間は、若者たちが、肉体的にも、人格的にもどれほどの成長を遂げるかを試されるための期間でした。
 そのような意味をもっていた「三年間」の「養育」の期間において、「王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め」たダニエルは、本来、「三年間」の「養育」の期間が終わった後に判定されるべき、「顔色」やからだつきのよさについて、それよりはるかに短い「十日間」で試してほしいと願い出ました。そして、実際に、その「十日間」でその結果が明らかとなりました。15節に、

十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。

と記されているとおりです。
 このことから、ダニエル書1章12節ー14節に出てくる「十日間」について、三つのことが見えてきます。
 一つは、その「十日間」は、若者たちが試される期間である「三年間」の「養育」の期間に比べると、ごく短い期間であったということです。
 もう一つは、その「十日間」という短い期間であっても、ダニエルと三人の友人たちがどのような者であるかが明らかになりました。5節に、

 王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし

と記されていますように、このことを定めたのはバビロンの王ネブカデネザルでした。バビロンの王が賜ったものを拒むことは、ことに、捕囚の身であった彼らにとっては、命がけのことであったはずです。また、バビロンの「王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒」はとても贅沢なもので、「王族か貴族」の出身でありながら捕らわれの身となっている若者たちの心を引きつけたことでしょう。しかし、ダニエルと三人の友人たちはそのようなことに心を奪われることなく、また身の危険を顧みることなく、「王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚す」ことがないようにという姿勢を貫きました。このことによって、神さまとの関係を最も大切なこととしている者であることが明らかにされました。それとともに、実際に、彼らの「顔色」やからだつきがよくなり、彼らは「王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒」を口にしなくても大丈夫であることが明らかになりました。つまり、この「十日間」は短い期間ではあっても、彼らが試されて結果が出るために十分な期間であったということです。
 さらに(三つ目ですが)、この「十日間」は神さまが特別な意味で、ダニエルと三人の友人たちに関わってくださり、彼らを支え、導いてくださった期間であったということです。それで、この「十日間」は短い期間でしたが、十分な期間でもあったのです。
 このような意味をもっているダニエル書1章12節ー14節に出てくる「十日間」が黙示録2章10節に出てくる「十日の間」の背景となっていると考えられます。

 ただここには、先ほど触れましたが、考えておかなければならない問題もあります。
 その一つは、ダニエル書1章12節ー14節に出てくる「十日間」は、ダニエルが申し出た期間です。けれども、黙示録2章10節に出てくる「十日の間」はイエス・キリストが明らかにしてくださった期間です。それは、2章8節において、ご自身のことを、

 初めであり、終わりである方

とあかししておられる方、すなわち、この歴史的な世界の歴史を始められた方であり、終わらせる方として、一切のことを支え、導いておられるイエス・キリストがお定めになった期間です。
 この違いは、決定的な違いではないかと思われるかも知れません。けれども、ダニエルが「十日間」という期間を申し出たのは、「宦官の長」がダニエルに告げた懸念をもっともなこととして認めたうえで、神さまを信じて決めた期間です。その際に、ダニエルは神さまにとってはその「十日間」で十分であると信じたのです。それで、神さまはダニエルが決めた「十日間」を「ご自身の時」として受け入れてくださり、実際に、ダニエルと三人の友人たちを祝福してくださり、彼らの顔色とからだつきを優れたものとしてくださったと考えられます。また、また、神さまとの関係においては、その「十日間」で、彼らが神さまとの関係を第一のこととしていて、「王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚す」ことがないようにしている者であることを明らかにしてくださったと考えられます。それで、これら二つの「十日間」には、見たところの違いほどの違いはないと言えます。
 もう一つ考えておかなければならないことは、ダニエル書1章12節ー14節に出てくる「十日間」は文字通りの「十日間」です。けれども、黙示録2章10節に出てくる「十日の間」は、文字通りの「十日間」ではなく、黙示文学的な表象として用いられている、象徴的な「十日間」であると考えられます。その点では、これら二つの「十日間」には違いがあります。
 けれども、これは、黙示録2章10節に出てくる「十日の間」は、ダニエル書1章12節ー14節に出てくる文字通りの「十日間」を背景とした象徴的な期間であるということですので、この違いが、ダニエル書1章12節ー14節に出てくる「十日間」が黙示録2章10節に出てくる「十日の間」の背景となっていることを否定することはありません。
 このように、黙示録2章10節に出てくる「十日の間」は文字通りの「十日の間」ではありません。ここで、イエス・キリストが、スミルナにある教会の信徒たちに語ってくださった、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

ということは、スミルナにある教会の信徒たちが苦しみを受ける期間の長さが実際にどれくらいであるかを示してくださるものではないのです。
 その「十日の間」は、何よりもまず、ご自身のことを、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

とあかししておられるイエス・キリストが、歴史的な世界の歴史を始められた方であり、終わらせる方、一切のことを御手に収めて導いておられる歴史の主として、特別な意味で、スミルナにある教会の信徒たちにかかわってくださって、彼らが真にご自身の民であることを明らかにしてくださるための時として定めてくださったものです。
 さらに、その「十日の間」は、具体的な長さを示すものではないのですが、短い期間であることが示されています。また、短い期間ではありますが、主が、スミルナにある教会の信徒たちが真にご自身の民であることを明らかにしてくださるために十分な期間でもあります。
 これら二つのことから、この「十日の間」は、おそらく、マタイの福音書24章22節に記されています、

もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

という終わりの日についてのイエス・キリストの教えの光の下で理解することができると思われます。
 詳しい説明を省かなければなりませんが、このイエス・キリストの教えは、4節ー14節に記されていますイエス・キリストの教えに示されている、終わりの日に至るまでの歴史において主の民が苦難を受けることを受けています。9節ー14節には、

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

と記されています。
 ここには、終わりの日に至るまでの歴史において主イエス・キリストの民が迫害を受けて苦しむことが示されています。黙示録ではそれは、突き詰めていくと、神である主の贖いの御業にかかわるご計画の実現を阻止しようとして働いている悪魔から出ていることが明らかにされています。けれども、それは絶望に終わるのではなく、「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ」るようになることが示されています。神さまの救いのご計画は、御子イエス・キリストをとおして必ず成し遂げられるのです。
 そのことが踏まえられたうえで、22節では、主の民が受ける迫害による苦しみのことが、

もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

と言われています。注目すべきことは、ここで「選ばれた者のために」と言われていることです。悪魔は、神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業をあかしする福音のみことばを宣べ伝える主の民を地上から根絶やしにしようとして働いています。それによってもたらされる迫害やにせ預言者たちの欺きは激しいものです。けれども、主の民として「選ばれた者のために、その日数は少なくされます」ので、主の民は地上から根絶やしにされることなく、「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ」るようになります。
 スミルナにある教会の信徒たちが受けようとしている苦しみの期間が「十日の間」であると言われていることも、これと同じように考えられます。スミルナにある教会の信徒たちは厳しい迫害を受けて苦しみますが、そのことの中で、神である主の救いのご計画は揺るぐことなく、しかも、スミルナにある教会の信徒たちのあかしをとおして実現していきます。それはその「十日の間」が、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

であられるイエス・キリストが特別な意味でスミルナにある教会の信徒たちにかかわってくださる時であり、ご自身の愛と恵みに満ちたご計画を実現してくださる時であるからです。実際、スミルナにある教会の信徒たちがどのように主であるイエス・キリストのみことばに導かれて生きたかについてのあかしは、今日ここにいる私たちにも伝えられています。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第204回)へ戻る

「黙示録講解」
(第206回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church