黙示録講解

(第204回)


説教日:2015年5月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(33)


 黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 スミルナは、ヨハネが黙示録の1章ー3章において取り上げているアジアにある七つの教会の一つです。この場合のアジアはローマの属州であるアジアのことで、今の小アジアの西側の地域に当たります。スミルナはエーゲ海に面していた港湾都市として繁栄していました。けれどもそこにあった教会は、2章9節に、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている

と記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受け、とても貧しい状態にありました。
 スミルナは古くからローマ帝国との関係が深く、皇帝礼拝も盛んなところでした。そのような町でイエス・キリストを主として告白して生きていくことは大変なことでした。その当時、ローマ帝国からの迫害を受けていたクリスチャンたちに当てはまったことですが、偶像礼拝に関わることを避けようとしたために、職人は仕事の依頼が限られてしまうこともありました。商売をする人の場合にも、ボイコットされてしまうことがあったでしょう。また、暴行を受けたり、財産が没収されることがあったのではないかと考えている人もいます(David Chilton)。
 さらに、港湾都市として繁栄していたスミルナには相当数のユダヤ人がいてユダヤ人共同体を形成していたようです。スミルナにある教会の信徒たちは、そのユダヤ人たちからも「ののしられて」いました。ここでは「ののしり」ということば(名詞・ブラスフェーミア)が出てきます。これは人に向けられれば「ののしり」、「悪口」ですが、神さまに向けられれば「冒 的なことば」となります。13章5節では「けがしごと」と訳されています。神さまを汚すことばのことです。ヨハネの福音書15章20節には、

 もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。

というイエス・キリストの教えが記されています。スミルナにある教会の信徒たちがユダヤ人たちから「ののしられて」いたのは、イエス・キリストがユダヤ人たちからにせメシヤとして退けられ、ローマに引き渡され、十字架につけられて殺されたからです。
 イエス・キリストが十字架につけられたときのことを記しているマルコの福音書15章29節ー32節には、

 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

と記されています。
 ここで、「道を行く人々」と、「祭司長たち」や「律法学者たち」、そして「イエスといっしょに十字架につけられた者たち」がイエス・キリストを「ののしった」り「あざけった」りしたと言われています。[注]

[注]29節では(「道を行く人々」が)「ののしった」が主動詞で、「頭を振りながら」と「言いながら」が分詞でこれにかかります。この「ののしる」ということば(ブラスフェーメオー)は、黙示録2章9節に出てくる「ののしり」ということば(ブラスフェーミア)の動詞形です。最後に出てくる「イエスといっしょに十字架につけられた者たち」がイエス・キリストを「ののしった」ことは別の動詞(オネイディゾー)で、「非難する」こと「とがめる」という意味合いがあります。

 その当時のユダヤ人たちの間には、メシヤはその力を発揮して、今自分たちを虐げているローマ帝国を打ち破り、自分たちをその主権の下から解放し、ユダヤ人を中心として、モーセ律法を基盤としたメシヤの国を永遠に確立するという考え方と期待がありました。しかし、イエス・キリストは、そのローマの手に引き渡され、さばかれて、十字架につけられてしまいました。そして、この時は十字架の上で苦しんでいるだけで、十字架から降りてきて自分を救うことすらできないでいるのです。それが、この人々のののしりとあざけりのことばの意味していることの一つです。
 これには、もう一つのことがかかわっています。
 申命記21章22節ー23節には、

もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

という戒めが記されています。
 この戒めの根底には、

 木につるされた者は、神にのろわれた者である

という神である主の教えがあります。この場合、「木につるす」ことは、それ自体が絞首刑のように処刑の方法ではなく、処刑された人が神ののろいを受けて処刑されたことを示すために、その死体を木にかけることです。イエス・キリストは生きているうちに木にかけられて「神にのろわれた者」となられました。
 ユダヤ人たちには、イエス・キリストは、こともあろうに、「神にのろわれた者」として木にかけられていることが分かりました。そして、そのような状態にありながら、十字架から降りることができないでいます。
 人々はかつてイエス・キリストが自分たちの期待しているメシヤではないかと考えて、イエス・キリストについて行ったことがありました。ところが、イエス・キリストは自分たちをローマ帝国の主権の下から解放してくれるどころか、「神にのろわれた者」として木にかけられてしまったのです。人々のののしりには、このようなイエス・キリストの姿に対する失望が込められていたことでしょう。
 「祭司長たち」や「律法学者たち」は初めからイエス・キリストをにせメシヤとしていました。この時は、やはり自分たちの判断が正しかったことが明らかになったという思いがあったことでしょう。そればかりでなく、マタイの福音書27章18節には、

 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。

と記されています。そのことからしますと、「祭司長たち」や「律法学者たち」のうちには、ある種の勝ち誇る思いがあったと思われます。


 このようにして、その当時のユダヤ人たちからすれば、ナザレのイエス[「ナザレ出身のイエス」という意味(イエス・キリストはナザレというガリラヤ地方の町でお育ちになりました)]はにせメシヤであり、そのために「神にのろわれた者」として木にかけられて殺された者であるということになります。そうしますと、そのようなナザレのイエスを神から遣わされたメシヤであると信じている者たちは、神を冒 している者たちであるということになります。神が、よりにもよって「神にのろわれた者」であるナザレのイエスをメシヤとしてお遣わしになったと考えるだけでも、神を冒 することだということになります。
 スミルナにある教会の信徒たちを含めて、イエス・キリストを主として告白して生きている人々がユダヤ人たちからののしられていたのは、このような理由によっています。そのののしりは、イエス・キリストご自身が受けたののしりと密接につながっています。このようなことを踏まえますと、ヨハネの福音書16章2節ー3節に記されています、

人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。

というイエス・キリストの教えが理解できます。
 実際に、「神にのろわれた者」であるナザレのイエスを、神から遣わされたメシヤであるとする教えを根絶やしにすべきであると信じて、クリスチャンたちを迫害していた人物がいました。それが後に、イエス・キリストの使徒となったパウロです。パウロの回心にかかわる記事は使徒の働きに3回ほど出てきますが、その最後のアグリッパ王の前でのパウロの弁明のことを記している26章9節ー18節には、

以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」私が「主よ。あなたはどなたですか」と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」

と記されています。
 これはパウロがイエス・キリストとの出会いのことをアグリッパ王に語っていることばです。パウロはダマスコにいるクリスチャンたちを捕らえてエルサレムに連行しようとして(9章2節)ダマスコに向かっている途上で、栄光の主がパウロに現れてくださいました。パウロはその方に向かって、

 主よ。あなたはどなたですか

と問いかけています。このことから、その方が栄光の主、ヤハウェであると理解したと考えられます。
 この時、パウロがこの方のことを「主よ」と呼んだからといって、この方が栄光の主、ヤハウェであられると理解していたとは言えないという見方もあるでしょう。その場合には、パウロはこの方がどなたかは分からないけれど、天に属する栄光を帯びた御使いのような存在であると理解したということになります。その可能性もあります。けれども、仮に、パウロが、

 主よ。あなたはどなたですか

と問いかけたときには、その方のことを御使いのような存在であると理解したとしても、それで終わってはいません。
 パウロは、イエス・キリストが栄光の主、ヤハウェであると理解するようになったことは、パウロのいくつかの手紙から明らかです。先ほど引用しましたパウロのアグリッパ王の前での弁明は、それらの手紙が記された後になされたものです。ですから、この弁明がなされたときには、パウロは、イエス・キリストが栄光の主、ヤハウェであるということを理解していました。そして、この弁明の中でパウロは、あの時は、イエス・キリストが栄光の主、ヤハウェであるとは知らなかったとは言ってはいません。
 これはパウロがこの方のことを栄光の主、ヤハウェであると理解していたということを積極的に示すことではありませんが、積極的なこともあります。パウロは、その時、その方が自分を、自分を異邦人に福音を伝えるために遣わしてくださったと述べています。16節後半ー18節に、

わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

と記されているとおりです。その際にその方は「わたしを信じる信仰によって」(直訳「わたしへの信仰によって」。これは18節の最後に置かれて強調されています)と言われて、ご自身が信仰の対象であることを示されたことをあかししています。パウロにとって信仰の対象は神である主おひとりです。
 また、パウロからすれば、十字架につけられて「神にのろわれた者」として殺されたナザレのイエスは滅んでしまったはずです。ところが、そのイエス・キリストがパウロに、天に属する栄光の主としてご自身を現されました。もちろん、この方はご自身のことを、

 わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

とあかししておられますから、御使いではありません。
 これらのことから、パウロは、たとえ初めからではなかったとしても、この時のイエス・キリストとの出会いをとおして、イエス・キリストが栄光の主、ヤハウェであられることを啓示されて知るようになったと考えられます。そして、その後の旧約聖書の啓示のみことばに基づく思索において、その意味についての理解を深めていったと考えられます。
 この時、イエス・キリストが、ご自身が主、ヤハウェであられることをパウロに示してくださったという理解を支持することがもう一つあります。それについては、後ほどお話しします。
 その時まで、パウロは、

 ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました

と述べているとおり、クリスチャンたちを迫害することは主のみこころであると考えていました。ところが、その栄光の主が、パウロに、

 サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか

と語りかけられたのです。「サウロ」は「パウロ」のヘブル語名です。ことばとしては、ヘブル語の「サウル」を音訳してギリシア語化した名(サウロス)で、使徒の働きにしか出てきません。
 パウロが、栄光の主に向かって、

 主よ。あなたはどなたですか

と問いかけますと、その方は、

 わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

とお答えになりました。なんと、ユダヤの最高議会にして最高法廷であるサンヘドリンにおいて神を冒 するにせメシヤとして断罪され、ローマ帝国を代表するピラトの裁判によって十字架刑に処せられ、「神にのろわれた者」として死んだナザレのイエスは、栄光の主、ヤハウェであるというのです。これがパウロにとってどれほどの衝撃であったかは、私たちの想像を越えています。
 このようにして、パウロはユダヤ人から捨てられ、ローマ人の手によって十字架につけられて殺され、「神にのろわれた者」として死んだナザレのイエスは、栄光の主、ヤハウェであるということを、イエス・キリストの栄光の顕現(クリストファニー)において、イエス・キリストご自身から啓示されました。この時から、パウロはこの啓示を中心として、また鍵として、聖書(旧約聖書)を読み直し、聖書(旧約聖書)が一貫して、イエス・キリストをあかししていることを理解するようになります。それは、栄光の主であられるイエス・キリストが御霊によってパウロの心を照らしてくださり、みことばを理解させてくださったことによっています。

 パウロにとっての衝撃は、ユダヤの最高議会にして最高法廷であるサンヘドリンにおいて神を冒 するにせメシヤとして断罪され、ローマ帝国を代表するピラトの裁判によって十字架刑に処せられ、「神にのろわれた者」として死んだナザレのイエスは、栄光の主、ヤハウェであられるということでした。そのような衝撃的な啓示を受けたパウロにとっての問題は、それでは、どうして、無限、永遠、不変の栄光の主であられるヤハウェが、人として十字架につけられ、「神にのろわれた者」として死ななければならなかったのかということです。
 パウロも含め、使徒たちが伝えた福音では、そのことは、イザヤ書52章13節ー53章12節に記されています、一般的に「主のしもべの第4の歌」と呼ばれるみことばとのかかわりで理解されています。一般的には、「主のしもべの第4の歌」に出てくる主のしもべのことが「苦難のしもべ」と呼ばれています。けれども、それは一面的です。「主のしもべの第4の歌」は、52章13節の、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

というみことばで始まっています。これは主のしもべの栄光化を述べているものです。その際に、

 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われています。これは、まず、「高められる」(ルーム)と「上げられる」(ナーサー)ということばが重ねられて、高く上げられることが強調されています。この二つのことばが重ねられているもう一つの個所である、6章1節には、

 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と記されています。ここでは、主の「王座」が「高くあげられた王座」と言われていますが、先ほどの二つのことばが重ねられて強調されています。[注] ところが、52節13節では、この二つのことばに、「非常に高くなる」ということば(ガーバハ・メオード)が重ねられて、さらに強調されています。これによって、主のしもべの栄光が、6章1節に記されています「高くあげられた王座に座しておられる主」の栄光に等しいことを汲み取ることができます。

[注]類似の表現は40章26節に、
  目を高く上げて、
  だれがこれらを創造したかを見よ。
と言われていることに見られます。この場合の「高く」は名詞(マーローム)です。ここで、「目を高く上げて」見るのは、この後に出てくる天の「万象」です、けれども、「だれがこれらを創造したかを見よ」ということばは、その目(信仰の眼)を目(肉眼)に見える「万象」を超えた方である主、ヤハウェにまで向けさせます。

 けれども、主のしもべがそのような栄光を受けるのは、その後の、53章1節ー12節に記されていますように、主のしもべが、私たち主の民の「そむきの罪のために刺し通され」、「私たちの咎のために砕かれ」、「自分のいのちを罪過のためのいけにえとする」ことによっています。
 栄光の主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、十字架につけられて「神にのろわれた者」として死なれたのは、「主のしもべの第4の歌」に預言的に示されていたことの成就だったのです。十字架にかかって、私たちご自身の民の罪を贖ってくださったイエス・キリストは、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われているとおり、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上られて、父なる神さまの右の座に着座されました。それも、ご自身のためではなく、私たちご自身の民をご自身の復活の栄光にあずからせてくださるためのことでした。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されているとおりです。
 パウロは、栄光の主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、十字架につけられて「神にのろわれた者」として死なれたことについて、ガラテヤ人への手紙3章13節で、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

と述べています。

 イエス・キリストは、パウロにご自身を現してくださったときに、ご自身が主、ヤハウェであられることを示してくださったという理解を支持することがもう一つあります。それは、イエス・キリストがパウロに、

 サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか

と語りかけられたということです。もし、パウロにご自身を現してくださった方が御使いであったとしたら、たとえば、

 サウロ、サウロ。なぜ主の民を迫害するのか

というような言い方をして、決して、

 サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか

というような言い方はしなかったはずです。
 この方は、パウロが迫害しているクリスチャンたちとまったく一つとなっておられます。御使いが地にある主の民とこれほどまでに一体化することはありません。これは、単に、クリスチャンたちへの迫害をご自身への迫害と「見なす」というようなことではありません。これは、先主日も引用しました、イザヤ書63章8節ー9節に記されています、

 こうして、主は彼らの救い主になられた。
 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
 ご自身の使いが彼らを救った。
 その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
 昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

というみことばにあかしされている、契約の神である主、ヤハウェがご自身の契約の民とともに歩んでくださり、彼らの苦しみをご自身の苦しみとしてくださったことの最終的な成就です。
 また、イザヤ書43章1節ー3節には、

 だが、今、ヤコブよ。
 あなたを造り出した方、はこう仰せられる。
 イスラエルよ。
 あなたを形造った方、はこう仰せられる。
 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
 わたしはあなたの名を呼んだ。
 あなたはわたしのもの。
 あなたが水の中を過ぎるときも、
 わたしはあなたとともにおり、
 川を渡るときも、あなたは押し流されない。
 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、
 炎はあなたに燃えつかない。
 わたしが、あなたの神、
 イスラエルの聖なる者、
 あなたの救い主であるからだ。

と記されています。
 主のみことばである聖書が一貫して示していることは、主、ヤハウェはご自身の契約に基づいて、私たちご自身の民の間にご臨在してくださり、私たちとともに歩んでくださるということです。主、ヤハウェがご自身の契約に基づいて、私たちの間にご臨在してくださり、私たちとともに歩んでくださるということは、「インマヌエル」(神さまは私たちとともにおられる)というイエス・キリストの御名によって要約的に示されます。
 イエス・キリストが私たちご自身の民とともにいてくださることは、イエス・キリストが私たちと一つとなってくださって、十字架にかかって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて私たちに代わって受けてくださったことにおいて極まっています。ご自身のいのちの価をもって、私たちをご自身の民としてくださったイエス・キリストは、ご自身の民が迫害を受けて苦しんでいるとき、それをご自身の苦しみとしておられます。それで、ご自身の民を迫害しているパウロに、

 サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか

と言われたのです。これほどまでに、私たちご自身の民と一つになってくださる方は、御使いではなく、契約の神である主、ヤハウェにほかなりません。
 イエス・キリストはスミルナにある教会の信徒たちに、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と語られました。イエス・キリストはそのような試練にあって苦しむご自身の民とまったく一つとなってくださって、彼らとともに獄屋にいてくださり、その苦しみをご自身のこととして苦しんでくださいます。そればかりでなく、彼らとともに歩んでくださって、彼らを必ず「いのちの冠」にあずからせてくださいます。


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