黙示録講解

(第203回)


説教日:2015年4月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(32)


 先主日には特別集会がありましたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばからのお話に戻ります。
 前回と前々回は、10節に記されています、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

というみことばの前半の、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

というみことばについてお話ししました。
 第一主日の復活節の礼拝と第三主日の特別集会の礼拝などで、お話がとびとびになってしまいましたので、今日は、9節からの流れも含めて、これまでお話ししてきたことを補足するお話をします。
 まず、スミルナにある教会の状態について、いくつかの補足を加えながら、振り返っておきます。
 スミルナは黙示録の最初の3章に出てくるアジアにある七つの教会の一つです。この場合のアジアは、ローマの属州としてのアジアのことで、今のトルコがある小アジアの西側の地域です。
 黙示録を記したヨハネはイエス・キリストの十二弟子のひとりで、使徒でした。ヨハネはアジアにある諸教会(そのうちの七つが黙示録に取り上げられています)の指導的な立場にあり、アジア州の中心地であったエペソに住んでいました。けれども、この時は、1章9節に記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑となっていました。
 スミルナはローマ帝国の時代には、エーゲ海東岸にある港湾都市として繁栄しました。それは、スミルナが地中海交易の重要な港湾都市であるとともに、肥沃なヘルモ低地につながっていて、ヘルモ低地の産物の流通においても重要な役割を果たしていたことにもよっていました。
 スミルナはその美しさと、アジア州最大の劇場、さらには競技場、図書館などの建造物で知られていました。これもスミルナの豊かさを反映しています。
 スミルナは歴史的にローマに忠誠を尽くしてきました。ローマがカルタゴと覇権を争っていたときには、ローマ側につきました。宗教的には、前195年にローマを人格化したとされる女神ローマのための神殿を建設した最初の都市となりました。また、前23年には、皇帝ティベリウスのための神殿を建設する許可を願い出たアジア州のほかの10都市に先駆けて、神殿建設の許可を得ました。
 このように、スミルナは繁栄していた都市でしたが、そこにあった教会については、9節で、イエス・キリストが、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

と語りかけておられるように、その信徒たちは迫害を受けて苦しみ、その迫害の中にあって、社会的に不利な立場に立たされ、貧しさの中にありました。
 それは、スミルナが歴史的にローマとの関係が深く、皇帝礼拝に積極的であったことと関係していたと考えられます。
 スミルナにある教会の信徒たちは、その他の町にある信徒たちもそうですが、聖書(この場合は旧約聖書ですが)に基づく使徒たちの教えに従い、まことの神は天と地をお造りになった方であられることを信じていました。また、人はその造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、自らの罪に対する神さまのさばきを受けて死ぬべきものとなってしまっていることを信じていました。それとともに、神さまがご自身の一方的な愛によって、自分たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださったこと、そして、御子イエス・キリストが自分たちを愛してくださって、十字架におかかりになり、自分たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、自分たちに代わって受けてくださったことを信じていました。さらに、このように、父なる神さまが御子イエス・キリストによって自分たちの罪を贖ってくださって、再び神さまとの愛の交わりの中に生きる者として回復してくださったことを信じていました。
 そして、聖書は、この神さまとの愛の交わりに生きるいのちこそが永遠のいのちの本質であると教えています。永遠のいのちはただ時間的にいつまでも続くいのちであるだけではありません。それだけではなく、その質において、神さまの限りない愛を受け、その愛に包まれて、神さまを礼拝することを中心として神さまを愛し、ともに神さまの愛を受けている信仰の家族の兄弟姉妹たちを愛することに現れてくるいのちです。
 先主日の特別集会において取り上げましたヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。また、これに先立つ3章16節には、

 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と記されています。さらに、ローマ人への手紙5章8節ー11節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。
 このように、自分たちは神さまが御子イエス・キリストをとおして示してくださった一方的な愛によって、生きておられるまことの神さまを礼拝する者としていただいていることを信じているクリスチャンたちは、たとえそれがその当時の最強の帝国であるローマ帝国の皇帝であっても、人を神として拝むことはできなかったのです。そして、スミルナにある教会の信徒たちは、そのために迫害を受け、社会的に不利な立場に追いやられて貧しくなってしまいましたが、そのような信仰の姿勢を変えることはありませんでした。これがスミルナにある教会の信徒たちの「苦しみと貧しさ」の核心にあることでした。
 ただし、その貧しさはこの世の価値尺度から見たときの貧しさ、社会的、経済的な貧しさであって、霊的な状態、すなわち神さまとの関係においては、イエス・キリストが、

 しかしあなたは実際は富んでいる

と述べておられます。
 その豊かさは、自分たちを含めて、この世界とその中のすべてのものをお造りになって、真実にすべてを支えておられる神さまを、神として礼拝している豊かさです。それも、神さまを自分たちから隔絶したところですべてを支配しておられる方としてだけでなく、罪を犯して神さまに背いて死と滅びの道を歩んでいた自分たちのために、ご自身のひとり子である御子をも遣わしてくださり、御子が十字架にかかって死んでくださって自分たちの罪を贖ってくださるようにしてくださるほどに、自分たちを愛してくださっている方として親しく知って、その愛に包まれている豊かさです。それはまた、神さまご自身が自分たちの喜びとなるほどに神さまを愛する愛に生きていることの豊かさであり、同じく神さまの愛に包まれて生きている兄弟姉妹たちを愛する愛に生きていることの豊かさです。
 イエス・キリストはスミルナにある教会の信徒たちの間では、そのような霊的な豊かさが、ローマ帝国からの迫害によってもたらされた「苦しみと貧しさ」によっても、失われることがなかったことを示しておられます。それが、

 しかしあなたは実際は富んでいる

というみことばが示していることです。


 けれども、イエス・キリストはスミルナにある教会の信徒たちがさらなる試みを受けるようになることを示しておられます。それが、10節に、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と記されていることです。
 すでにローマ帝国からの迫害を受けて、さまざまな苦しみを経験し、社会的に不利な立場に追いやられて、貧しさにあえいでいるスミルナにある教会の信徒たちを、さらに追いつめるような試練がやって来るということです。
 イエス・キリストは、その試練が、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている

ことであると述べておられます。
 すでにお話ししましたように、その当時は、今日一般的な「懲役何年」という禁固刑はありませんでした。この場合の投獄は、イエス・キリストが、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と言っておられることから分かりますように、処刑されるための投獄、あるいは、処刑という判決が下される可能性がある裁判を受けるための投獄を指しています。
 実際にスミルナにある教会の信徒たちのある人々を投獄するのはローマの官憲たちです。けれども、イエス・キリストはそのことの背後にあって働いているのが悪魔であることを明らかにしておられます。
 神さまのみこころが実現することを何としてでも阻止しようとしている悪魔にとって、迫害と苦しみの中にあってもなお、今お話ししたような、霊的な豊かさのうちにあるスミルナにある教会こそ、最も目障りな存在です。それで悪魔はスミルナにある教会の信徒たちをさらなる試練に遭わせ、神さまの愛を疑わせ、スミルナにある教会を分断し、キリストのからだである教会としての本質を失わせようとしていると考えられます。
 前々回、投獄される人がスミルナにある教会の信徒たちの一部の人たちであることに悪魔の巧妙さがあるということをお話ししました。まとめておきますと、すでにスミルナにある教会の信徒たちは程度の差こそあれ、全体的に迫害による苦しみと、貧しさの中にありました。しかし、そのような中にあっても、御子イエス・キリストにある神さまの愛を確信し、お互いに愛し合い、支え合って生きていたと考えられます。
 そのような中にあって、信徒たちのある人たちがローマの官憲によって捕らえられ、処刑されるために投獄されるようになりますと、そのことがスミルナにある教会全体に、恐怖をもたらす可能性があります。
 そうなりますと、投獄された人々の中から、どうして自分たちだけが、というような思いをもって、神さまの愛を疑う人が出てこないとも限りません。悪魔はそのような人が出てきて、神さまの愛を疑い、神さまへの信仰を捨ててしまうようになることを狙っているはずです。
 そればかりではありません。投獄されなかった人々の中にも恐れに縛られてしまう人々が出てきますと、その人たちは投獄されてしまった人たちと距離を置こうとする可能性があります。そうしますと、スミルナにある教会に生き生きと脈打っていた愛の交わりが、分断されてしまうか、形式的な交わりとなり、教会がキリストのからだである教会としての本質を失ってしまう可能性があります。
 イエス・キリストが、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と述べたおられることには、少なくとも、このような悪魔の巧みさが潜んでいると考えられます。
 しかし、これがすべてではありません。前回お話ししましたように、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために

と言われているときの「あなたがたをためすために」と訳されている部分は受動態で、文字通りには「あなたがたがためされるために」です。この受動態は「神的受動態」で、そのこと、すなわち「あなたがたをためす」ことをする主体が神さまであることを示しています。
 ですから、スミルナにある教会の信徒たちの中のある人々がローマの官憲に捕らえられて投獄されるようになることをとおして、悪魔がスミルナにある教会の信徒たちを試すだけでなく、神さまもスミルナにある教会の信徒たちを試されるのです。けれども、その目的はまったく違います。
 悪魔はそれによって、スミルナにある教会の信徒たちを恐怖で縛り、その愛の交わりを損ない、スミルナにある教会がキリストのからだである教会としての本質を失うようになることを狙っています。
 その一方で、聖書には神さまが、ご自身の民が試練に遭うことをよしとされたことが記されています。それによって、その人たちが試練の中で、それまで気づいていなかった神さまの恵みや愛を見出して、さらに神さまに近づくようになることがあります。あるいは、すでに神さまがその人のうちに与えてくださり、育ててくださっている信仰が試練の中で働いて、その人が真の主の民であることが明らかになってくることがあります。また、ほとんどの場合がそうですが、その二つのことが同時に起こることがあります。
 今私たちが第三主日の午後に学んでいます「ヨブ記」に記されていますヨブの試練はこの二つの意味をもっています。また、創世記22章に記されています、その子イサクを主に献げるように命じられたアブラハムが受けた試練も、この二つの意味をもっています。
 そして、試練を受けた人が、その試練を通して、それまで気づいていなかった神さまの恵みや愛を見出して、さらに神さまに近づくようになることも、すでに神さまがその人のうちに与えてくださり、育ててくださっている信仰が試練の中で働いて、その人が真の主の民であることが明らかになってくることも、すべて、神さまがその人たちを愛をもって導いてくださり、恵みによって支え続けてくださることによっています。
 このように、神さまが私たちご自身の民を試練に遭わせられるときには、それによって、私たちを神の子どもとして成長させてくださり、私たちがご自身にさらに近づくようにしてくださろうとしておられます。そして、実際に、ご自身の愛と恵みによって、私たちを導いてくださり、支えてくださいます。詩篇119篇67節には、

 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。
 しかし今は、あなたのことばを守ります。

と記されていますし、71節には、

 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
 私はそれであなたのおきてを学びました。

と記されています。
 神さまが試練の中にある私たちを支えてくださり導いてくださるというとき、神さまは超然としておられてお働きになるのではありません。イザヤ書63章8節ー9節には、

 こうして、主は彼らの救い主になられた。
 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
 ご自身の使いが彼らを救った。
 その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
 昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

と記されています。
 ここに記されていますご自身の民とともに苦しまれ、愛とあわれみによって彼らを贖われた主は、父なる神さまがお遣わしになった贖い主であられる御子イエス・キリストにおいて最終的な現実になっています。先主日の特別集会の礼拝でお話ししたことを、ほぼそのまま繰り返しますが、イエス・キリストが十字架につけられたときのことを記しているマルコの福音書15章33節ー34節には、

さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

と記されています。これに先立って25節には、

 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

と記されています。この午前9時から12時までの3時間は、イエス・キリストの処刑を見にきた人々のあざけりとののしりで満ちていました。けれども、12時から3時までの3時間には全地が暗やみに包まれてしまい、人が出る幕はなくなってしまいました。この暗やみは神さまのさばきを表象的に表しています。この暗やみの中で起こっていたことは、私たちの想像を絶する出来事であり、ことばで表すことができない恐ろしいことです。それで、福音書は、この暗やみのことを記した後、それ以上のことについては沈黙しています。ただ最後にイエス・キリストが、

 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」[わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか]と叫ばれた

ということだけが記されています。このことは、この暗やみの中で、父なる神さまはご自身の「ひとり子」、ご自身の愛を限りなく注いでおられ、ご自身にとって最も大切な方である御子に、「私たちの罪」に対する聖なる御怒りによる刑罰を執行しておられたことを意味しています。この刑罰は、終わりの日に行われる最後のさばきによってもたらされる地獄の刑罰に相当するものです。
 このようにして、父なる神さまが私たちの罪のために遣わしてくださった御子イエス・キリストが、十字架の上で、私たちに代わって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けてくださいました。これによって、私たちの罪は完全に贖われており、私たちの罪に対する刑罰はすべて終わっています。
 ですから、私たちの主イエス・キリストは、私たちが苦しむときに、私たちとともに苦しんでくださるだけではありません。本来、私たちが受けなければならない、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰の苦しみ、地獄の刑罰の苦しみを、私たちに代わってすべて受けてくださり、私たちに代わってその苦しみを極みまで味わってくださったのです。
 このようにして、私たちご自身の民とまったく一つとなってくださった御子イエス・キリストは、今も、私たちの苦しみをご自身のこととして汲み取ってくださいます。ヘブル人への手紙2章17節ー18節には、このようにして、私たちのあわれみ深い大祭司となってくださった御子イエス・キリストのことが、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と記されています。また、4章15節ー16節にも、

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と記されています。
 ですから、黙示録2章10節には、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちに、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と言われたことが記されていますが、イエス・キリストは超然としたところから、このように命じておられるのではありません。イエス・キリストは、私たちご自身の民のためにいのちをお捨てになり、本来、私たちが受けるべきである地獄の刑罰の苦しみを、私たちに代わってすべて味わってくださって、私たちのためのあわれみ深い大祭司となってくださっています。それで、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちに、

 わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。

と言われるとき、スミルナにある教会の信徒たち一人一人の苦しみと貧しさ、それに伴う悲しみや痛みを、ご自身のこととして知っていてくださっています。ただ知っていてくださるだけではありません。ご自身が試練の中にあるスミルナにある教会の信徒たち一人一人ともに歩んでくださり、ご自身の愛といつくしみをもって、慰めてくださり、励ましてくださり、力づけてくださり、支えてくださり、約束してくださっている祝福にあずからせてくださいます。
 スミルナにある教会の信徒たちと同じように、現在の小アジアに当たる地方(スミルナは小アジアの西側の地域ですが、小アジア全体にわたる地域)にあって、迫害を受けて苦しんでいた諸教会の信徒たちに宛ててペテロが記した、ペテロの手紙第一・1章5節ー9節には、

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

と記されています。これが試練の中にあって、イエス・キリストの愛と恵みによって支えられている信徒たちの姿です。それが、試練の中ではっきりと立ち現れてきたのです。ここでは、

 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており

と言われていますように、試練の中にあってイエス・キリストを愛しており、信じていることが示されています。
 ペテロは、さらに、その彼らに、愛のうちを歩むように勧めています。同じ1章の22節ー23節には、

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

と記されています。これがイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪をまったく贖っていただいただけでなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれている、私たち主の民の生き方です。
 これらのみことばによって、このように、イエス・キリストを愛し、お互いに愛し合う歩みのすべては、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛によって支えられていますので、降りかかってくる試練によっても取り去られることがないばかりか、その真の姿がよりはっきりと現れてくるようになることが示されています。
 このことは、そのまま、スミルナにある教会の信徒たちに当てはまりますし、この時代に生きている私たちにも当てはまります。


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