黙示録講解

(第202回)


説教日:2015年4月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(31)


 先主日は復活節でしたので、ヨハネの黙示録からのお話はお休みしました。今日は2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話に戻ります。
 10節には、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と記されています。
 前回は、このみことばの前半に記されています、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

というみことばについてお話ししました。
 前回お話ししましたように、このみことばは、

 恐れてはいけない

という命令形のことばから始まっています。しかもこれは強調形の命令で、それを生かして訳しますと、

 何も恐れてはいけない

.となります。
 何を恐れてはいけないのかと言いますと、

 あなたが受けようとしている苦しみ

ですが、具体的にには、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と説明されています。
 ここには「悪魔」が出てきますが、9節では、スミルナにある教会の信徒たちが

 サタンの会衆である人たちから、ののしられている

と言われていて「サタン」が出てきます。
 この「悪魔」ということばと「サタン」ということばについて、整理しておきたいと思います。
 「悪魔」ということば(ディアボロス)は、「(敵意をもって)告発する」、「密告する」、「中傷する」ことを表す動詞「ディアバッロー」を名詞化(実体化)したことばで、「告発する者」「中傷する者」を意味しています。このことば(ディアボロス)は、ヘブル語聖書のギリシア語訳である七十人訳では、「敵」、「敵対する者」を意味する「サーターン」(「サタン」)ということばの訳語として用いられています。これは「敵対する」ことを表す動詞(サータン)のもう一つの名詞形(スィトナー)が「敵意」や「告発」を意味していることと関連しているのではないかと思います。
 「サタン」と訳されているギリシア語の「サタナース」は、ヘブル語の「サーターン」に当たるアラム語の「サーターナー」の音訳です。
 以前お話ししましたように、ヘブル語の「サーターン」はもともと「敵」、「敵対者」を意味する一般的なことばでした。それに(「ハッサーターン」と)定冠詞がつけられて、特定の「敵」、「敵対者」、すなわち、神である主、ヤハウェとその民に敵対する霊的な存在を表すようになり、さらにこれが固有名詞化されたものです。それで、私たちが一般的に用いている「サタン」ということばは固有名詞で、「サタン」という名、いわば「個人名」です。
 新約聖書で「サタン」と訳されていることばは、異論もありますが、固有名詞で、「サタン」という名であると考えられます。けれども、旧約聖書では、固有名詞としての「サタン」という名が出てくる(と考えられている)個所は、歴代誌第一・21章1節だけです。その他の13個所では、一般的なことばに定冠詞がつけられて特定の「敵」、「敵対者」を表すことば(「ハッサーターン」)が用いられていますが、実質的に「サタン」を表していますので、「サタン」と訳されています(ヨブ記1章6節ー9節、12節、2章1節ー4節、6節ー7節、ゼカリヤ書3章1節ー2節)。
 「神」は呼称としての御名であるように、「悪魔」は呼称としての名です。話を分かりやすくするために、私について言いますと、私の呼称としての名は「人」です。ただし、「人」はひとりだけではありませんから、「人」と言っても、これだけでは、誰のことを指しているかは分かりません。
 そして、「ヤハウェ」が神さまの固有名詞としての御名であるように、「サタン」は固有名詞としての名です。また私について言いますと、私の固有名詞としての名は「清水武夫」です。ただし、「ヤハウェ」は神さまの(存在あるいはそのお働きの)本質的な特性を表す御名ですし、「サタン」も悪魔の(存在あるいはその働きの)本質的な特性を表す名です。そして、実際に、主、ヤハウェはその御名のとおりの方ですし、「サタン」もその名のとおりの存在です。しかし、「清水武夫」は勇ましい名で、名をつけた両親の願望を表してはいますが、気が小さくて、憶病者である私の本質的な特性からは、かけ離れた名です。
 いずれにしましても、「悪魔」の名が「サタン」です。
 新約聖書の中では、この「悪魔」ということばと「サタン」ということばは、同じ存在を表していますから、交換可能なことばとして用いられています。イエス・キリストはメシヤとしてのお働きを始められたときに、荒野で試みをお受けになりました。そのことを記しているマタイの福音書4章1節には、

 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

と記されていて「悪魔」が用いられています。同じことがマルコの福音書1章12節ー13節には、

 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。

と記されていて「サタン」が用いられています。
 ちなみに、統計的なことだけですが、マルコの福音書では「サタン」ということばだけが用いられていて、「悪魔」ということばは出てきません。また、ルカの福音書では8章12節までは、悪魔」ということばだけが用いられていて、10章18節以下では、「サタン」ということばだけが用いられています。
 マタイの福音書にはこれらの現象は見られません。荒野の試みのことを記している4章1節ー11節では、荒野の試みのことを説明する文の中では「悪魔」ということばが用いられていますが、イエス・キリストが悪魔にお応えになったみことばでは、

 引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。

と言われていて、「サタン」ということばが用いられています。では、イエス・キリストはサタンのことを常に「サタン」と呼んでおられるかというと、そうではありません。イエス・キリストはサタンのことを「悪魔」とも呼んでおられます(13章39節、25章41節を見てください)。
 ヨハネの福音書では「サタン」ということばは一度だけ(13章27節に)出てきて、後の4回は「悪魔」ということばが用いられています。「最後の晩餐」のことを記している13章では、2節に、

 悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた

と記されています。そして、27節には、ユダのことが、

 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。

と記されています。ここでは、同じことの流れを記している中で、「悪魔」ということばと「サタン」ということばが用いられています。
 黙示録12章9節には、

 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。

と記されていて「悪魔」と「サタン」ということばが同時に出てきます。そして、続く10節には、

今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

と記されていて、その「巨大な竜」のことが、「私たちの兄弟たちの告発者」と呼ばれています。これは「悪魔」ということば(ディアボロス)が意味していることです。
 このこととの関連で言いますと、ペテロの手紙第一・5章8節には、

 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

と記されています。ここでは「悪魔」が「あなたがたの敵」と呼ばれています。ここで「」と訳されていることば(アンティディコス)は「訴訟における」、「訴訟における告発者」を意味しています。その意味では、黙示録12章10節の「私たちの兄弟たちの告発者」に通じています。


 これらのことから、黙示録2章9節に出てくる「サタン」と10節に出てくる「悪魔」は交換可能なことばであることが分かります。ここでは、交換可能な二つの異なったことばが重ねられて用いられています。これによって、サタンの働きが強調されていると考えられています。どういうことかと言いますと、9節では、

ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられている

と言われています。これは、スミルナにある教会の信徒たちが、自分たちこそ「ユダヤ人」であり、アブラハムの子孫であり、主の民であると主張している人々からののしられていることに触れています。そして、それは突き詰めていくと、主、ヤハウェとその民に敵対して働いている「サタン」から出ていることを、スミルナにある教会の信徒たちに示しています。このことを踏まえたうえで、さらに、10節では、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と言われています。これは、スミルナにある教会の「ある人たち」が投獄されるようになることを伝えています。実際に、この人たちを投獄するのはローマの官憲たちです。そして、

 死に至るまで忠実でありなさい。

というイエス・キリストのみことばが示していますように、この人たちは殺される危険にさらされることになります。その処刑も、ローマの官憲たちによって執行されます。ですから、目に見える出来事としては、「ユダヤ人」たちからのののしりであり、ローマの官憲たちによる投獄であり、処刑です。けれども、それを突き詰めていくと、「サタン」という名をもつ「悪魔」から出たことであるということが、スミルナにある教会の信徒たちに明らかにされています。
 このことともに、10節で、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と言われていることには、もう一つ注目すべきことがあります。
 ここで、悪魔はスミルナにある教会の信徒たちのある人たちを投獄しようとしていると言われています。そして、その目的は「あなたがたをためすため」であると言われています。この、

 あなたがたをためすために

と訳されていることばは受動態で表されていまして、直訳調に訳しますと、

 あなたがたがためされるために

となります。この受動態をどのように理解するかということが問題となります。これは少し複雑です。
 一般的なこととしては、このような場合の受動態は「神的受動態」として、その主体(そのことをなさる方)は神さまであると理解されます。つまり、神さまがスミルナにある教会の信徒たちを試されるということです。
 ところが、今お話ししましたように、10節では、スミルナにある教会の信徒たちのある人たちを投獄して、処刑するようになるのはローマの官憲たちであるけれども、突き詰めていくと、それは悪魔から出たことであるということが示されています。そうしますと、スミルナにある教会の信徒たちを試すのは悪魔であると考えられることになります。これが新改訳の、

 悪魔はあなたがたをためすために

という訳が示していることです。
 ただ、そうであるとしますと、原文のギリシア語では先に出てくる、

 あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている

ということが能動態で表されているように、それに続く、

 あなたがたをためすために

ということも、能動態で記されていたはずではないか、少なくとも、その方が自然ではないかという疑問が生じてきます。つまり、どうして、ここでは、

 あなたがたがためされるために

というように、わざわざ受動態が用いられているのだろうか、という問題が残るのです。
 これは単純に文体上の変化をつけたものであると説明される可能性もありますが、ここには「神的受動態」があると考えることができると思います。そうであるしますと、ここで言われていることは、次のようになります。
 先ほどお話ししましたように、ここでは、まず、スミルナにある教会の信徒たちのある人たちを投獄して、処刑するようになるのはローマの官憲たちであるけれども、突き詰めていくと、それは悪魔から出たことであるということが示されています。けれども、ここでは、それがすべてなのではなく、そのことをさらに突き詰めていくと、そのような悪魔の悪巧みをも用いて、スミルナにある教会の信徒たちを試されるのは、神さまであることが、スミルナにある教会の信徒たちに示されているということです。
 そのことは、これに先立って、イエス・キリストが、

 あなたが受けようとしている苦しみを[何も]恐れてはいけない。

と命じておられることと、これに続いて、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

というイエス・キリストのみことばが記されていることによって支持されます。
 まず、イエス・キリストが、

 あなたが受けようとしている苦しみを[何も]恐れてはいけない。

と命じておられることですが、これがイエス・キリストの命令であることに意味があります。イエス・キリストはスミルナにある教会への語りかけにおいて、ご自身のことを、

 初めであり、終わりである方

として示しておられます。これは、すでにお話ししましたように、1章17節に記されています、イエス・キリストがヨハネに語りかけられた、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばを受けていて、それを省略したみことばです。新改訳では訳語が違っていますが、原文のギリシア語では同じことば(ホ・プロートス・カイ・ホ・エスカトス)で表されています。17節の、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばは、
  エゴー・エイミ・・・
という強調形の現在時制で表されていて、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを伝えています。そして、「ヤハウェ」という御名が啓示された出エジプト記3章14節ー15節では、ヤハウェは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として、ご自身が契約において約束してくださったことを必ず実現してくださる方であることが示されました。
 このことが根底にあって、イエス・キリストは、ご自身のことを、

 わたしは、最初であり、最後である

と示しておられます。これは、主、ヤハウェであられるイエス・キリストが「最初であり、最後である」方として、この歴史的世界のすべてを、そのみこころにしたがって始められた方であり、終わらせる方であることが示されています。また、それは、イエス・キリストがただ「初め」と「終わり」にかかわられるだけでなく、その間のすべての物事をみこころにしたがって支え、導いておられることを意味しています。これはヘブル人への手紙1章3節で、

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と言われていることに当たります。
 このように、スミルナにある教会の信徒たちに、

 あなたが受けようとしている苦しみを[何も]恐れてはいけない。

と命じておられるイエス・キリストは、

 初めであり、終わりである方

です。そうであるとしますと、イエス・キリストは、ただ単に、ことばで、

 あなたが受けようとしている苦しみを[何も]恐れてはいけない。

と命じておられるだけではありません。これから恐るべき試練に見舞われるスミルナにある教会の信徒たちを、その試練をとおして、支え、導き続けてくださるのです。
 イエス・キリストが地上において、メシヤとしてお働きになったときのことです。「会堂管理者のひとりでヤイロという者」の娘が死んでしまいました。しかし、イエス・キリストはヤイロの家に行かれました。マルコの福音書5章41節ー42節には、イエス・キリストが、

その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。

と記されています。イエス・キリストが死者に「起きなさい」と命令されますと、死者がそれに従って起き上がり、歩き始めました。それは、イエス・キリストが死者を生き返らせ、完全に回復してくださったということです。イエス・キリストの命令は、イエス・キリストを信頼する人々にその命令に従う力を与える命令です。スミルナにある教会の信徒たちに、

 あなたが受けようとしている苦しみを[何も]恐れてはいけない。

と命じておられるイエス・キリストは、厳しい試練にさらされているスミルナにある教会の信徒たちがご自身を信頼するように導いてくださり、恐れを取り除いてくださり、試練の中でもお互いへの愛のうちを歩むように力を与えてくださり、導いてくださいます。
 マタイの福音書10章17節ー20節に記されていますが、イエス・キリストは公生涯におけるお働きにおいて、十二弟子たちをお遣わしになったときに、

人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。

と教えられました。そして、そのことを弟子たちの現実としてくださいました。それはまたそのまま、スミルナにある教会の信徒たちにも当てはまることです。
 以上のことは、イエス・キリストが、

 あなたが受けようとしている苦しみを[何も]恐れてはいけない。

と命じておられることとの関連で考えられることです。
 また、イエス・キリストは、スミルナにある教会の信徒たちに、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

と言われました。これによって、イエス・キリストは、やがて起こるであろう恐るべき試練も「十日の間」のことであるということを、スミルナにある教会の信徒たちに示しておられます。この「十日の間」が何を意味しているかにつきましては、改めてお話しします。ここでは、

 初めであり、終わりである方

であられるイエス・キリストが、その恐るべき試練をも、父なる神さまののみこころにしたがって治めておられることをスミルナにある教会の信徒たちに示しておられます。それによって、スミルナにある教会の信徒たちは、やがて起こるであろう激しい試練の中で

 初めであり、終わりである方

であられるイエス・キリストに信頼して歩み続けるようにしていただくことができるのです。
 コリント人への手紙第一・10章13節には、

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

と記されています。これは主の民すべてに与えられている約束ですが、スミルナにある教会の信徒たちには、

 初めであり、終わりである方

であられるイエス・キリストがこの約束のみことばを実現してくださるはずです。
 このように、スミルナにある教会の信徒たちに降りかかってくる激しい試練には悪魔だけでなく、

 初めであり、終わりである方

であられるイエス・キリストも関わっておられます。
 悪魔は神である主に敵対し、それゆえに、主の契約の民であるスミルナにある教会の信徒たちに敵対して、試練に遭わせます。その試練によってスミルナにある教会の信徒たちをふるいにかけて、何とか、主イエス・キリストへの信仰と信頼を捨てさせようとします。けれども、イエス・キリストは、父なる神さまのみこころに従い、そのような悪魔の悪巧みをもお用いになって、その厳しい試練をとおして、スミルナにある教会の信徒たちが確かに主の契約の民であることを実証してくださいます。
 これが、黙示録2章10節において、

 あなたがたがためされるために

というように、わざわざ受動態が用いられていることの理由でしょう。
 サタンがスミルナにある教会の信徒たちを試練をとおして試すだけでなく、神さまもスミルナにある教会の信徒たちを試されます。けれども、その目的はまったく異なっています。
 悪魔はローマの官憲たちを動かして、スミルナにある教会の信徒たちのある人々を投獄し、死に至らせようとする試練に遭わせます。悪魔の意図は、それによって、スミルナにある教会の信徒たちが恐れによって縛られ、お互いの間で分断され、教会がキリストのからだである教会としての本質である愛における一致を失ってしまうように仕向けることです。
 これに対して、神さまの意図はまったく別の所にあります。神さまはそのように厳しい試練に遭うことになるスミルナにある教会の信徒たちを、

 初めであり、終わりである方

であられるイエス・キリストによって最後まで支えてくださり、その試練にあっても、主に信頼して歩み続けるように導いてくださることによって、スミルナにある教会の信徒たちが真の主の民であることを明らかにしてくださいます。
 私たちも地上にあって、しばしば、試練を経験します。それは、悪魔の企みから出たことであることもありますし、私たち自身の罪がもたらした苦しみであることもあります。また、そのどちらでもある場合もあります。
 それがどのような形でやって来るとしましても、父なる神さまのみこころは変わることはありません。その試練をとおして、私たちがますます神さまの御臨在の御許に近づいて、私たちのために十字架におかかりになって、死者の中からよみがえられたイエス・キリストをとおして現されている神さま愛と恵みに信頼することです。そして、御臨在の御許に備えられている贖いの恵みに覆っていただき、御霊に導いていただいて、愛のうちを歩み続けることです。さらに、これによって、私たち一人一人が栄光のキリストの御姿と同じように造り変えていただくことであり、教会がキリストのからだとして整えられ、建て上げられていくことです。


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