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説教日:2015年3月29日 |
ここでは、 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。 と言われています。 私たちがこれを読みますと、今日の日本で監獄に入れられることを想像してしまうかも知れません。けれども、今日でも、迫害を受けている人々が捕らわれている牢獄の環境はきわめて劣悪なものであると言われています。その当時の牢獄も、きわめて劣悪なものであったと考えられます。特に、迫害を受けている人々が投獄される牢獄は劣悪なものであったと考えられます。 そればかりでなく、その当時のローマ社会の投獄は、投獄それ自体が、今日の禁固刑のような、犯罪に対する刑罰ではなかったようです。その当時の投獄は三つのことのためになされたようです。一つは、騒乱を引き起こした者たちを一時的に拘束するためのものです。もう一つは、裁判を受けようとしている者たちを拘束するためのものです。さらにもう一つは、処刑されるべき者たちを拘束するためのものです。これらのうち、ここで言われている投獄がどれに当たるかということですが、イエス・キリストが、 死に至るまで忠実でありなさい。 と語っておられることは、ここで言われている投獄が、処刑されるべき者たちを拘束するためのものであったことを示唆しています。裁判を受けようとしている者たちを拘束するためのものである可能性もありますが、それも、裁判の結果、処刑されるべき者とされてしまう可能性が高いことだと考えられます。 この投獄が「あなたがたのうちのある人たちを」と言われていますように、一部の人に限られているということで、割引して見ることはできません。ほとんど全員が投獄されてしまうということも恐ろしいことですが、その場合には、それでも一致してその試練に立ち向かおうとする姿勢が生まれてくる可能性があります。 ところが、一部の人たちだけが権力者からにらまれて、投獄され、処刑を待つ身になってしまうというときには、それとしての問題が生じてくる可能性があります。 これは、かなり前に読んだ本に記されていたのですが、この本をどこにしまったのか思い出せないため、確かめることができません。うる覚えのままですので、これを記しておられる方のお名前は伏せておきます。この方は牧師ですがすでに召されています。そのお父さんもホーリネス系の教会の牧師でしたが、先の太平洋戦争のさ中に弾圧を受けて、投獄され、獄死しました。この方が中学生の時に、お父さんが弾圧を受けて投獄され、教会も解散させられてしまいました。そのために、この方のご家族はとても苦しい状態になってしまいました。ある時お母さんがこの方に、農家で、教会の役員をしておられた方のところに行って、かぼちゃを分けてもらってくるように言ったので、役員だった方の家に行ってお願いしたところ、役員だった方から、この方の家にあげるようなかぼちゃはないと言われて、断られてしまったということでした。 お断りしておきますが、この方はこれを個人的な恨みとして記しているのではありません。どうしてキリストのからだとである教会にこのようなことが起こってしまうのかという問題があるのです。 私は、 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。 というイエス・キリストのみことばを読みますと、このことが思い出されます。投獄された人とその家族は試練に会い、試されますが、投獄されなかった人たちとその家族も、別な意味で、試練に会って試されることになります。もちろんその人たちも、投獄された兄弟姉妹たちと心を一つにして、とりなし祈りつつ、具体的な交わりの手を差し伸べていくことができます。けれども、その人たちが、自分たちは「幸いにも」権力者からの弾圧を受けていないと思い始め、いつ自分たちにも弾圧が及んでくるかという恐怖に縛られてしまいますと、そこから、投獄された人と自分たちとの一致が破られてしまうことになる可能性があります。そして、そのような中で、キリストのからだである教会が引き裂かれてしまうようなことになる危険があります。これが、「あなたがたのうちのある人たちを」と言われていることに潜んでいる悪魔の巧みさです。 これに対してイエス・キリストは、強いことばで、 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。 と言われます。今お話ししたことから分かりますが、これは、投獄されるようになる人たちが、恐れてはいけないというだけのことではありません。迫害による苦しみと貧しさの中にあって心を一つにしているスミルナにある教会の信徒たちは、それを引き裂こうとしている悪魔の巧みさによって生み出される試練によって試されることになります。その時にこそ、スミルナにある教会の信徒たちすべてが、 何も恐れてはいけない と命じられているのです。 この 何も恐れてはいけない というイエス・キリストの命令のことばについては、いくつかのことが考えられますが、今日は、一つのことだけお話しします。 ルカの福音書12章4節ー5節には、 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。 というイエス・キリストの教えが記されています。 ここでイエス・キリストは「恐れなければならない方」がどなたであるかを教えておられます。そして、その方は、 殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方 であると言われます。 同じ教えは、マタイの福音書10章28節に、 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 と記されています。 ここに出てくる「ゲヘナ」は「地獄」のことです。 私たちが真に「恐れなければならない方」は「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」です。ここに記されているイエス・キリストの教えでは、この真に「恐れなければならない方」を恐れることは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たち」を恐れることと相容れないことを示しています。 もちろん、真に「恐れなければならない方」を恐れることと、人を恐れることが相容れないのは、迫害を受けている状況におけることであって、すべてのことに当てはまるのではありません。ローマ人への手紙13章7節には、 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。 と記されています。ここで「恐れなければならない人」と言われているのは、1節で「上に立つ権威」と呼ばれている立場にある人々のことです。この人々は「神のしもべ」としてこの世における秩序が守られるために立てられていると言われています。 ただ、実際には、この地上の権力者が主の民を迫害するようになることがあります。その場合、この地上の権力者は「からだを殺しても、たましいを殺せない人たち」と呼ばれていて、恐れるべきではないと言われています。 また、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たち」ということばでは、からだを殺されることがあることを示しています。このことばや黙示録2章10節の、 死に至るまで忠実でありなさい。 というイエス・キリストのみことばは、神さまが主の民を迫害の中でも殺されることがないように守ってくださるから、 何も恐れてはいけない と命じられているのではないことを示しています。 このことをどのように考えたらいいかということですが、その根本的なことは、これを先主日と先々主日にお話ししました「最初の福音」とのかかわりで理解するということです。 「最初の福音」は創世記3章15節に記されています、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 というサタンへのさばきの宣告において示されています。このサタンへのさばきの宣告においては、「女」と「女の子孫」の共同体がサタンとその霊的な子孫たちの共同体との霊的な戦いを展開することが示されています。神である主はこの霊的な戦いの歴史において、「女の子孫」の子孫のかしらをお遣わしになり、この方を通して、「女」と「女の子孫」の共同体をご自身の民としてお救いになり、サタンとその子孫たちへのさばきを執行されます。その「女の子孫」の子孫のかしらとは、父なる神さまがお遣わしになった贖い主、御子イエス・キリストです。 その霊的な戦いにおいて、サタンとその霊的な子孫たちの共同体は、武力や政治的、経済的な力などの血肉の力をもって、「女」と「女の子孫」の共同体を迫害します。それは肉体的な死をもたらすことがあります。主の契約の民たちがサタンとその霊的な子孫たちからの迫害を受けて、肉体的に殺されることは、このような、「最初の福音」から始まる、神である主の贖いの御業の歴史の中で起こることです。それは、彼らが「女の子孫」のかしらとして来てくださった御子イエス・キリストの民であることの現れであるということになります。ですから、私たちは、 何も恐れてはいけない と命じられているのです。 この「女の子孫」のかしらとして来てくださった御子イエス・キリストは、スミルナにある教会に対して、ご自身のことを、 死んで、また生きた方 として示しておられます。この方が死んだのは、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わってすべて受けてくださって死なれたことを意味しています。私たちはこの方の死にあずかって罪をまったく贖われています。また、この方が「生きた」のは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを意味しています。私たちはこの方の栄光にあずかって、新しく生まれています。ですから、私たちはもはや「「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼ」されることはありません。 そうであれば、私たちはもう「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」を恐れなくてもいいのでしょうか。ある意味において、恐れなくてもいいのですが、別の意味では、恐れなくてはなりません。確かに、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと死者の中からのよみがえりにあずかっている私たちは、この方をさばきをもたらす恐怖の対象として恐れなくてもいいのです。けれども、マタイの福音書10章28節では、 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 と言われていますが、これは、この方を恐怖の対象として恐れなさいという教えではありません。というのは、これに続く29節ー31節には、 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。 と記されています。 ここでは「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」のことが「あなたがたの父」と呼ばれています。そして、この私たちの天の父は私たちの「頭の毛さえも「みな数え」ておられ、私たちのすべてを知ってくださって、支えてくださっていると言われています。このように私たちのすべてを知ってくださっている父なる神さまが、私たちのためにご自身の御子を「女の子孫」のかしらとして遣わしてくださったのです。 この御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと死者の中からのよみがえりにあずかっている私たちは、「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」を「私たちの天の父」と呼んでいます。そして、この父なる神さまの愛に包まれて、父なる神さまを恐れ敬いつつ愛しています。これが真の意味で「恐れなければならない方」を恐れることです。それで真に「恐れなければならない方」を、本来の意味で恐れている私たちは、何も恐れる必要がありません。それで、私たちは、 何も恐れてはいけない と命じられているのです。 |
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