黙示録講解

(第201回)


説教日:2015年3月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(30)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られてみことばについてのお話を続けます。
 10節には、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と記されています。
 まず、ことば遣いに関して、いくつかのことをお話しします。
 イエス・キリストは、

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。

と言われます。これは

 恐れてはいけない

という命令形で始まっています。
 ここでは強調の意味合いを伝える「いけない」ということば(メーデン)が用いられています。これは、1章17節において、ヨハネがイエス・キリストの栄光の御姿を見た時のことを、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後である。

と記している中に出てきます、イエス・キリストの、

 恐れるな。

という命令のことばより強い命令です。このことを生かして訳しますと、

 決して恐れてはいけない

あるいは、より文字通りの、

 何も恐れてはいけない

となります。
 また、

 あなたが受けようとしている苦しみ

と訳されていることばは、一般的な(より広い)意味としては、

 あなたが経験しようとしていること

となります。ここで用いられている「経験する」ということば(パスコー)は、苦しみや困難を経験することだけでなく、望ましい経験をすることも表します。たとえば、ガラテヤ人への手紙3章4節で、

 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。

と言われているときの「経験した」ということばです。それがどのような経験であったかは、続く5節で言われている、主が、

 あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた

ことです。ですから、これは望ましい経験をしたということを意味しています。
 このように、より一般的な意味としては、

 あなたが経験しようとしていること

ですが、より特殊な意味としては、新改訳の、

 あなたが受けようとしている苦しみ

となります。これを何とか直訳調に訳してみようとしましたが、私の限られた言語能力では、別の意味になってしまって、うまくいきませんでした。2章10節では、スミルナにある教会が迫害の中にありますので、新改訳はより特殊な意味で、

 あなたが受けようとしている苦しみ

と訳しています。
 ただ、一般的な意味で、

 あなたが経験しようとしていること

と言われているとしても、実質的には同じことになります。というのは、具体的に、スミルナにある教会の信徒たちが何を経験しようとしているかということが、これに続いて、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と記されているからです。つまり、

 あなたが経験しようとしていることを何も恐れてはいけない。

と言われていますが、それがどういう経験かと言うと、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

ということで、これでも意味が通ります。
 ここで、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と言われていることは、「事後預言であるように見える」(佐竹明『ヨハネの黙示録』中巻135頁)という見方があります。これは10節に記されていますが、9節で、すでに、スミルナにある教会の信徒たちが迫害を受けていることが示されています。このことを踏まえて、「彼らが今すでに患難の中にあるならば、その彼らにとって、将来の『十日間』の患難について予告されることは、意味をなさなかったであろう」というのです。ただし、この後で「何人かの教会員は捕らえられ、現在すでに獄中にある。出来事は完全に過去のものになってはいない」と言われています。つまり、「完全に過去のものになってはいない」けれども、すでに現実になっているという意味で「事後預言であるように見える」ということです。
 この見方では、「9節と10節の患難はおそらく同じ出来事であろう」と考えられています。けれども、このように考える必要はありません。確かに、9節で、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

と言われていますように、スミルナにある教会の信徒たちは、すでに、迫害を経験していますし、そのために、貧しさの中にありました。しかし、10節では、すでにそのような厳しい状態にあって、主の民として忠実に歩んでいるスミルナにある教会の信徒たちに、さらに追い討ちをかけるような試練がやって来るということが示されていると考えることができるからです。それが、さらに追い討ちをかけるような試練であるからこそ、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために

と言われていますように、それによって、スミルナにある教会の信徒たちは試されることになるということでしょう。
 しかも、それは、特に、悪魔が仕掛ける試練であると言われています。確かに、9節に記されている迫害も「サタンの会衆である人たち」からくるものであると言われていますので、突き詰めていくとサタンから出ています。けれども、ここ10節では、より直接的にサタン、すなわち、悪魔の働きであることが示されています。
 どちらもサタンから出ているからということで、二つが同じことを指していると考える必要はありません。
 私たちはヨブ記において、サタンの執拗さに触れています。主、ヤハウェがヨブは真に神を恐れている者であると言われると、サタンは、ヨブは「いたずらに」神を恐れているのではないと主張しています。ヨブは神からいただくものを目的として神を恐れているのであって、神ご自身を愛し敬っているのではないと主張しているのです。つまり、ヨブの信仰は「御利益信仰」であるというのです。そして、1章11節に記されていますように、サタンはそのことを明らかにするためにということで、最初、主、ヤハウェに、

 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。

と言って、ヨブの「すべての持ち物」を取り去るように要求しました。それが実行に移されても、ヨブが主をのろうことがなかったとき、2章5節に記されていますように、サタンは、さらに、

 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。

と言って、ヨブの全身が病に冒されるように要求しています。ヨブはそれでも、主、ヤハウェをのろうことはありませんでした。
 そればかりではありません。ヨブ記の中心を占めているのは、ヨブとヨブの三人の友人たちとの対論ですが、その対論をとおして、さらに、ヨブの信仰が真に神を恐れるものではないことを明らかにしようとしています。サタンはこの対論の背後に退いていますが、友人たちは知らずのうちに、ヨブの信仰がサタンの主張しているとおりの「御利益信仰」であることを明らかにしようとするような方向へと誘っています。けれども、ヨブは最後まで主、ヤハウェご自身を求め続けていきます。
 このようなサタンの執拗さは、さらに、イエス・キリストがその公生涯の初めに経験された「荒野の試み」からも汲み取ることができます。マタイの福音書4章1節ー11節には、

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

と記されています。悪魔は簡単には引き下がりません。この「荒野の試み」でも、ルカの福音書4章13節に、

 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。

と記されているとおり、これで完全に、引き下がったわけではありません。
 これらのことから分かりますが、サタンの執拗さは、試練に会ってすぐにつまずいてしまう人々に対してではなく、試練に会っても揺るぐことがなかった主の民に対してこそ発揮されるものです。すでに、お話ししてきましたように、スミルナにある教会の信徒たちは迫害を受けて苦しんでいましたが、イエス・キリストから悔い改めるようにと求められるようなことはありませんでした。スミルナにある教会の信徒たちは迫害による苦しみと貧しさの中にあって、心を一つにして支え合っていたと考えられます。サタンとしては、そのような群れこそ、さらなる試練によって試みて、ずたずたにしてしまおうとするに違いありません。
 このようなわけで、黙示録2章9節に、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている

と記されていることは、程度の差はあるとしても、スミルナにある教会の信徒たちすべてが、なんらかの形で経験していることであると考えられます。これに対して、10節に、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と記されていることは、「あなたがたのうちのある人たちを」と言われていますように、すでに苦しみの中にあるスミルナにある教会の信徒たちに、さらなる試練が襲ってくることを示していると考えることができます。
 そして、それがさらに追い討ちをかけるような試練であり、悪魔が仕掛けているものであるということから、イエス・キリストは、

 あなたが受けようとしている苦しみを何も恐れてはいけない。

というように、強調形の命令のことばで語っておられるのだと考えることができます。


 ここでは、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と言われています。
 私たちがこれを読みますと、今日の日本で監獄に入れられることを想像してしまうかも知れません。けれども、今日でも、迫害を受けている人々が捕らわれている牢獄の環境はきわめて劣悪なものであると言われています。その当時の牢獄も、きわめて劣悪なものであったと考えられます。特に、迫害を受けている人々が投獄される牢獄は劣悪なものであったと考えられます。
 そればかりでなく、その当時のローマ社会の投獄は、投獄それ自体が、今日の禁固刑のような、犯罪に対する刑罰ではなかったようです。その当時の投獄は三つのことのためになされたようです。一つは、騒乱を引き起こした者たちを一時的に拘束するためのものです。もう一つは、裁判を受けようとしている者たちを拘束するためのものです。さらにもう一つは、処刑されるべき者たちを拘束するためのものです。これらのうち、ここで言われている投獄がどれに当たるかということですが、イエス・キリストが、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と語っておられることは、ここで言われている投獄が、処刑されるべき者たちを拘束するためのものであったことを示唆しています。裁判を受けようとしている者たちを拘束するためのものである可能性もありますが、それも、裁判の結果、処刑されるべき者とされてしまう可能性が高いことだと考えられます。
 この投獄が「あなたがたのうちのある人たちを」と言われていますように、一部の人に限られているということで、割引して見ることはできません。ほとんど全員が投獄されてしまうということも恐ろしいことですが、その場合には、それでも一致してその試練に立ち向かおうとする姿勢が生まれてくる可能性があります。
 ところが、一部の人たちだけが権力者からにらまれて、投獄され、処刑を待つ身になってしまうというときには、それとしての問題が生じてくる可能性があります。
 これは、かなり前に読んだ本に記されていたのですが、この本をどこにしまったのか思い出せないため、確かめることができません。うる覚えのままですので、これを記しておられる方のお名前は伏せておきます。この方は牧師ですがすでに召されています。そのお父さんもホーリネス系の教会の牧師でしたが、先の太平洋戦争のさ中に弾圧を受けて、投獄され、獄死しました。この方が中学生の時に、お父さんが弾圧を受けて投獄され、教会も解散させられてしまいました。そのために、この方のご家族はとても苦しい状態になってしまいました。ある時お母さんがこの方に、農家で、教会の役員をしておられた方のところに行って、かぼちゃを分けてもらってくるように言ったので、役員だった方の家に行ってお願いしたところ、役員だった方から、この方の家にあげるようなかぼちゃはないと言われて、断られてしまったということでした。
 お断りしておきますが、この方はこれを個人的な恨みとして記しているのではありません。どうしてキリストのからだとである教会にこのようなことが起こってしまうのかという問題があるのです。
 私は、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

というイエス・キリストのみことばを読みますと、このことが思い出されます。投獄された人とその家族は試練に会い、試されますが、投獄されなかった人たちとその家族も、別な意味で、試練に会って試されることになります。もちろんその人たちも、投獄された兄弟姉妹たちと心を一つにして、とりなし祈りつつ、具体的な交わりの手を差し伸べていくことができます。けれども、その人たちが、自分たちは「幸いにも」権力者からの弾圧を受けていないと思い始め、いつ自分たちにも弾圧が及んでくるかという恐怖に縛られてしまいますと、そこから、投獄された人と自分たちとの一致が破られてしまうことになる可能性があります。そして、そのような中で、キリストのからだである教会が引き裂かれてしまうようなことになる危険があります。これが、「あなたがたのうちのある人たちを」と言われていることに潜んでいる悪魔の巧みさです。
 これに対してイエス・キリストは、強いことばで、

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。

と言われます。今お話ししたことから分かりますが、これは、投獄されるようになる人たちが、恐れてはいけないというだけのことではありません。迫害による苦しみと貧しさの中にあって心を一つにしているスミルナにある教会の信徒たちは、それを引き裂こうとしている悪魔の巧みさによって生み出される試練によって試されることになります。その時にこそ、スミルナにある教会の信徒たちすべてが、

 何も恐れてはいけない

と命じられているのです。

 この

 何も恐れてはいけない

というイエス・キリストの命令のことばについては、いくつかのことが考えられますが、今日は、一つのことだけお話しします。
 ルカの福音書12章4節ー5節には、

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでイエス・キリストは「恐れなければならない方」がどなたであるかを教えておられます。そして、その方は、

 殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方

であると言われます。
 同じ教えは、マタイの福音書10章28節に、

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

と記されています。
 ここに出てくる「ゲヘナ」は「地獄」のことです。
 私たちが真に「恐れなければならない方」は「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」です。ここに記されているイエス・キリストの教えでは、この真に「恐れなければならない方」を恐れることは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たち」を恐れることと相容れないことを示しています。
 もちろん、真に「恐れなければならない方」を恐れることと、人を恐れることが相容れないのは、迫害を受けている状況におけることであって、すべてのことに当てはまるのではありません。ローマ人への手紙13章7節には、

あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

と記されています。ここで「恐れなければならない人」と言われているのは、1節で「上に立つ権威」と呼ばれている立場にある人々のことです。この人々は「神のしもべ」としてこの世における秩序が守られるために立てられていると言われています。
 ただ、実際には、この地上の権力者が主の民を迫害するようになることがあります。その場合、この地上の権力者は「からだを殺しても、たましいを殺せない人たち」と呼ばれていて、恐れるべきではないと言われています。
 また、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たち」ということばでは、からだを殺されることがあることを示しています。このことばや黙示録2章10節の、

 死に至るまで忠実でありなさい。

というイエス・キリストのみことばは、神さまが主の民を迫害の中でも殺されることがないように守ってくださるから、

 何も恐れてはいけない

と命じられているのではないことを示しています。
 このことをどのように考えたらいいかということですが、その根本的なことは、これを先主日と先々主日にお話ししました「最初の福音」とのかかわりで理解するということです。
 「最初の福音」は創世記3章15節に記されています、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

というサタンへのさばきの宣告において示されています。このサタンへのさばきの宣告においては、「」と「女の子孫」の共同体がサタンとその霊的な子孫たちの共同体との霊的な戦いを展開することが示されています。神である主はこの霊的な戦いの歴史において、「女の子孫」の子孫のかしらをお遣わしになり、この方を通して、「」と「女の子孫」の共同体をご自身の民としてお救いになり、サタンとその子孫たちへのさばきを執行されます。その「女の子孫」の子孫のかしらとは、父なる神さまがお遣わしになった贖い主、御子イエス・キリストです。
 その霊的な戦いにおいて、サタンとその霊的な子孫たちの共同体は、武力や政治的、経済的な力などの血肉の力をもって、「」と「女の子孫」の共同体を迫害します。それは肉体的な死をもたらすことがあります。主の契約の民たちがサタンとその霊的な子孫たちからの迫害を受けて、肉体的に殺されることは、このような、「最初の福音」から始まる、神である主の贖いの御業の歴史の中で起こることです。それは、彼らが「女の子孫」のかしらとして来てくださった御子イエス・キリストの民であることの現れであるということになります。ですから、私たちは、

 何も恐れてはいけない

と命じられているのです。
 この「女の子孫」のかしらとして来てくださった御子イエス・キリストは、スミルナにある教会に対して、ご自身のことを、

 死んで、また生きた方

として示しておられます。この方が死んだのは、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わってすべて受けてくださって死なれたことを意味しています。私たちはこの方の死にあずかって罪をまったく贖われています。また、この方が「生きた」のは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを意味しています。私たちはこの方の栄光にあずかって、新しく生まれています。ですから、私たちはもはや「「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼ」されることはありません。
 そうであれば、私たちはもう「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」を恐れなくてもいいのでしょうか。ある意味において、恐れなくてもいいのですが、別の意味では、恐れなくてはなりません。確かに、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと死者の中からのよみがえりにあずかっている私たちは、この方をさばきをもたらす恐怖の対象として恐れなくてもいいのです。けれども、マタイの福音書10章28節では、

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

と言われていますが、これは、この方を恐怖の対象として恐れなさいという教えではありません。というのは、これに続く29節ー31節には、

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

と記されています。
 ここでは「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」のことが「あなたがたの父」と呼ばれています。そして、この私たちの天の父は私たちの「頭の毛さえも「みな数え」ておられ、私たちのすべてを知ってくださって、支えてくださっていると言われています。このように私たちのすべてを知ってくださっている父なる神さまが、私たちのためにご自身の御子を「女の子孫」のかしらとして遣わしてくださったのです。
 この御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと死者の中からのよみがえりにあずかっている私たちは、「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」を「私たちの天の父」と呼んでいます。そして、この父なる神さまの愛に包まれて、父なる神さまを恐れ敬いつつ愛しています。これが真の意味で「恐れなければならない方」を恐れることです。それで真に「恐れなければならない方」を、本来の意味で恐れている私たちは、何も恐れる必要がありません。それで、私たちは、

 何も恐れてはいけない

と命じられているのです。


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