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説教日:2015年3月22日 |
「いのちの木」は、神のかたちに造られている人のいのちの本質が、この「地」にご臨在してくださっている神である主との愛の交わりにあることとかかわっています。神である主はご自身の契約に基づいてエデンの園にご臨在してくださっています。けれども、人は神である主を見ることはできません。それで、神である主、ヤハウェは、神のかたちに造られている人が、この「いのちの木」から取って食べることをとおして、自分が契約の神である主、ヤハウェとの愛にあるいのちの交わりにあずかって生きていることを現実的に確かめることができるようにしてくださったと考えられます。その意味で、「いのちの木」は、神である主がそこにご臨在してくださっていることと、神のかたちに造られた人をご自身との愛の交わりに生きる者としてくださっていることを指し示しつつ保証してくださるために、神である主ご自身が生えさせてくださったものであると考えられます。 エデンの園においては、人が神である主が備えてくださった食べ物をいただくことは、そこの生えている木から取って食べることでした。それは、後の時代においては、主がご自身の民のために祝宴を開いて、ご自身との愛の交わりの機会を与えてくださることへと発展していきます。神のかたちに造られた人が「いのちの木」から取って食べることは、そのような、神である主との交わりの機会に当たる備えを用いて、神である主との愛の交わりの祝福を示してくださった「恵みの手段」であったと考えられます。 このように、「いのちの木」は、神のかたちに造られている人のいのちの本質にかかわる意味をもっています。そして、人のいのちの本質がこの「地」にご臨在してくださっている神である主との愛の交わりにあることは、人が人である限り変わることはありません。それで、終わりの日における、新しい天と新しい地の実現を記している黙示録22章1章ー2節には、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 と記されていて、そこには「神と小羊」がご臨在される「御座から」流れ出ている「いのちの水の川」の両岸に「いのちの木」が生えていること、しかも、両岸にですから、1本ではなく何本も生えていることが示されています。これによって、神である主の御臨在の御許における、主との愛にあるいのちの交わりが、エデンの園における交わりよりもさらに豊かなものとなることが示されています。 「善悪の知識の木」は、創世記2章16節ー17節に、 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 と記されていますように、ほかのどの木からでも取って食べてよいけれど、その「善悪の知識の木」からだけは、取って食べてはならないと命じられた木です。これは、人が罪を犯して堕落する前には、人に与えられた唯一の禁止の命令です。しかも、「善悪の知識の木」そのものには、たとえば、その木に毒があるというように、食べてはならない理由はありませんでした。あるいは、その木に関わる外的な状況からも、たとえば、その木から取って食べないことによって、ほかの人の飢えがいやされるというような、理由はありませんでした。つまり、「善悪の知識の木」から取って食べないこと自体には、特別な意味はなかったのです。ですから、それは、神である主がその木からだけは取って食べてはならないと命じられたので、ただそれだけの理由によって、食べてはならなかったのです。 このことによって、人は契約の神である主、ヤハウェが主であられ、自分はそのしもべであることを絶えず心に刻むことができました。 神のかたちに造られている人は、「いのちの木」が表示している祝福にあずかり、エデンの園にご臨在してくださっている神である主との愛にあるいのちの交わりに生きていました。その交わりを妨げるものはありませんでした。主との愛の交わりにあずかることは、人にとってもっとも自然なことであり、そのために何らかの努力をしなければならなかったわけではありません。そのことに慣れてきますと、なんとなく、神である主も自分たちとあまり変わらない方ではないかというような感じ方が生じてこないとも限りません。神さまと人との間の「絶対的な区別」が見失われてしまう危険性があったのです。 その上、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、その使命に従って、地を耕し、生き物たちのいのちを育むように働いていくと、すべてのことがうまくいき、豊かな実を結ぶようになります。気をつけていませんと、人のうちに、なんとなく、自分に与えられている使命の尊さと、それを果たすための賜物として与えられているさまざまな能力の高さに高ぶって、サタンと同じ罪を犯してしまうかも知れません。 そのような危険が潜んでいるのですが、神である主は、「善悪の知識の木」に関する戒めを与えてくださることによって、人が、神である主が自分の主であられ、自分は神である主のしもべであることを絶えず思い起こし、心に刻むことができるようにしてくださっていました。それは、神のかたちに造られて、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きる祝福にあずかっている人、さらに、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である主との関係において、自分が何ものであるかを常に心に刻んでいくことができるようにしてくださった「恵みの手段」です。 このように、「善悪の知識の木」は、神のかたちに造られている人が「いのちの木」が表示している祝福にあずかり、神である主を神として礼拝することを中心として、神である主を愛し敬いつつ、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにかかわっています。その意味で、「善悪の知識の木」は「いのちの木」と切り離し難く結び合っている「恵みの手段」です。 また、その木が「善悪の知識の木」であったことにも意味があります。詳しい議論は省きますが、「善悪を知るということ」は、「神のようになる」という意味を伝えています。それは、サタンが言うようにその木から取って食べることによってではなく、神である主を主として愛し、主の戒めに従いとおすことによって与えられる、より栄光ある状態です。人が神である主を神として礼拝することを中心として、神である主を愛し敬いつつ、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに従いとおしたときに、そのことへの報いとして、最初に造られたときの神のかたちとしての栄光にまさる栄光を与えられることを指し示していたと考えられます。 この「善悪の知識の木」に関する戒めの意味していることは、人としての性質を取って来てくださって、その生涯のすべてにおいて、父なる神さまのみこころに従い通されたイエス・キリストにおいて成就しています。そのことが、ピリピ人への手紙2章6節ー11節には、 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 と記されています。 これらのことが、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人のいのちにかかわる神である主のみこころです。それは、創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことから始まって、最終的には、人がさらに豊かな栄光を受けている者として、神である主の栄光の御臨在の御前にさらに近く近づいて、さらに豊かな愛にあるいのちの交わりに生きる者となるというみこころです。そのために、神さまがお造りになった被造物世界も、さらに豊かな栄光にある神である主の御臨在にふさわしい世界として整えられます。このすべてのことによって、愛を本質的な特性とする神さまの栄光が、神さまがお造りになったこの世界において、さらに豊かに現されるようになります。 このように、神さまが創造の御業において、愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになって、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになった人のいのちは、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史全体に関わる豊かな意味をもっているいのちです。それは愛を本質的な特性とする神さまの栄光が、神さまがお造りになったこの世界において、さらに豊かに現されるようになることに深くかかわっています。これこそが、契約の神である主、ヤハウェに敵対している者であるサタンが、何としてでも、その実現を阻止しようとして働いてきたことであり、今も、働いていることです。 このようなことを考え合わせますと、先ほど引用しましたイエス・キリストの、 悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。 というみことばの意味の広がりと深さが了解されます。これにつきましては、四つほどのことに触れておきましょう。 第一に、悪魔は、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人を、偽りをもって誘惑し、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうように仕向けました。それによって、人が罪ののろいを受け、罪の刑罰として死に服してしまうようになりました。神のかたちとして造られて神である主の御臨在の御前において、神である主との愛にある交わりに生きることが人のいのちの本質であることからしますと、人はそのいのちの本質を失ってしまったもの、神である主の御臨在の御前から退けられ、罪への刑罰による死の力に捕らえられ、滅びるべき者となってしまいました。このようなことを企て実行した悪魔は、この意味で「人殺し」です。これは歴史の出発点において起こったこととして、「始原的」な意味における「人殺し」です。 第二に、先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人のいのちは、創造の御業において神のかたちとして造られたときの状態で続くものではありませんでした。契約の神である主、ヤハウェの御臨在の御前に出でて、神である主を神として礼拝することを中心とした、主との愛の交わりに生きることの中で、歴史と文化を造る使命を果たすことをとおして、神さまの栄光をより豊かに現すようになるいのちです。これは個人的には、その生涯の歩みをとおして人格的に成長し、成熟することです。また、全体的には、文化的な活動が歴史的に継承されて、神である主のみこころにしたがって、より発展していくことを意味しています。悪魔はこのような神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人の可能性をすべて無にしてしまいました。悪魔はこのような意味においても、「人殺し」です。その意味で、これは「歴史的」な意味における「人殺し」です。 第三に、神のかたちに造られている人が、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすことをとおして、神さまのみこころに従いとおしたなら、その従順に対する報いとして、人も、また人に委ねられた被造物世界も、神である主のさらに豊かな栄光に満ちた御臨在にふさわしい状態に造り変えられるはずでした。それによって、神さまの栄光がさらに豊かに現されるようになるはずでした。これは、先ほどの人格的な成長、成熟という歴史的な発展とは違う、一段と高い栄光の状態に至るという意味での栄光化です。悪魔は、このような、終わりの日における栄光化という、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人のいのちの可能性を無にしてしまいました。悪魔はこのような意味においても、「人殺し」です。これは「終末論的」な意味における「人殺し」です。 第四に、これまでお話ししてきた三つのことは、これら三つのことは、人のいのちの豊かさにかかわっていて悪魔はそれをすべて無にしてしまいました。より広い観点から見ますと、悪魔が、創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねられた神さまのみこころの実現を阻止してしまったということです。それで、これらのことをめぐる霊的な戦いにおいては、悪魔が勝利しているように見えます。 このような霊的な戦いの状況において、神である主はサタンの思いを越えたみこころを啓示されました。それが創世記3章15節に記されています「最初の福音」です。そこには、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されています。 これは最初の人アダムとその妻エバを偽りをもって、契約の神である主、ヤハウェの戒めに背いて、罪を犯すように誘惑した、サタンに対するさばきの宣告です。ここには、サタンは「蛇」を用いてエバを誘惑しましたが、その「蛇」は神である主がサタンに対するさばきを宣告されるためにうってつけのものであったという「皮肉」があります。このサタンに対するさばきの宣告においては、まず、神である主が「おまえ」と呼ばれているサタンとサタンが誘惑して罪を犯させたエバとの間に「敵意」を置かれることが示されています。そして、この「敵意」は一時的なものではなく、「おまえの子孫」と呼ばれているサタンの子孫と「女の子孫」たちの間に受け継がれていくことが示されています。ここに出てくる「子孫」ということば(ゼラ)は単数形ですが、集合名詞として共同体を表しています。そして、それぞれの共同体には「かしら」がいます。言うまでもなく、サタンとその子孫たちの共同体のかしらはサタンです。けれども、「女」と「女の子孫」の共同体のかしらは「女」ではなく、「女の子孫」の中にいます。 このサタンに対するさばきの宣告においては、神である主が置いてくださる「敵意」によって、「女」と「女の子孫」の共同体がサタンとその子孫たちの共同体から切り離されて、サタンとその子孫たちの共同体との霊的な戦いを展開するようになることが示されています。そして、最終的には、「女」と「女の子孫」の共同体のかしらなる方によって、サタンへの最終的なさばきが執行されることが示されています。 もし、最初の人アダムとその妻エバが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、サタンへの最終的なさばきが執行されていたとしたら、罪によってサタンと一つとなってしまっていたアダムとエバも最終的なさばきを受けて、滅ぼされてしまうほかありません。それでは、これまでお話ししてきました第一から第三のことだけが残り、霊的な戦いにおいては、サタンが神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに関わるみこころは実現しないままになってしまうことになります。それで、神である主は、後に来られる「女」と「女の子孫」の共同体のかしらなる方によって、サタンへの最終的なさばきが執行されることをお示しになりました。 このことは、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者たちが、霊的な戦いにおいて、神である主に敵対している者であるサタンとその共同体に敵対するようになるということを意味しています。霊的な戦いにおいて、神である主に敵対しているサタンに敵対するようになるということは、神である主の側に立つようになることを意味しています。そしてこれが、「女」と「女の子孫」の共同体の救いを意味しています。それで、このサタンに対するさばきの宣告が、「最初の福音」と呼ばれています。 このように、「最初の福音」は、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者たちが、サタンとその子孫たちの共同体との霊的な戦いを展開することとして示されています。この霊的な戦いにおいては、サタンとその子孫たちは武力や政治的、経済的な力などの血肉の力によって戦います。その最初の事例が、カインがアベルを殺害することです。そのように、サタンとその子孫たちは武力や政治的、経済的な力などの血肉の力によって、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者たちを迫害したり、偽りをもって惑わそうするようになりました。 そして、これが最終的には、「女の子孫」のかしらなる方、すなわち、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまうことにおいて実現しました。 サタンとしては、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主を殺害してしまったことによって、もはや自分に対する最終的なさばきを執行する者はいなくなったと思ったことでしょう。そればかりでなく、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者たちを救う者はいなくなり、神さまが創造の御業において、神のかたちにお造りになって歴史と文化を造る使命をお委ねになった人は、すべて、罪に対するさばきを受けて滅びてしまうことになったと思ったことでしょう。サタンはこの意味でも「人殺し」です。 このように、すべては「初めから人殺しである」と言われている悪魔の思惑どおりに進んだように見えました。しかし、それはサタンの思いを越えた結果をもたらしました。御子イエス・キリストが十字架において、ご自身の民、すなわち、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになったことによって、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者たちの罪の贖いが成し遂げられました。それによって、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者たちが罪の結果である死と滅びから贖い出されるようになりました。それと同時に、サタンとその子孫たちへの最終的なさばきがいつでも執行できる状態にななりました。 このようなことを踏まえて、先ほど引用しました、イエス・キリストがご自身を殺そうとしているユダヤ人たちに対して語られた、 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。 というみことばを見て見ますと、これが、サタンへのさばきの宣告において示されている「最初の福音」を背景として語られていることを汲み取ることができます。 イエス・キリストが、 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって と言われたことは、父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストを殺そうとしているユダヤ人たちが、「最初の福音」において、「おまえの子孫」と呼ばれているサタンの霊的な子孫の共同体に属していることを示しています。そして、 あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っている というイエス・キリストのみことばは、サタンが「女の子孫」のかしらとして来られる方を亡き者としようとしている「欲望を成し遂げ」ようとしていることに当たります。 これは、イエス・キリストが地上においてメシヤとしてのお働きをしておられるときのことですが、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民、すなわち、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者たちのために贖いの御業を成し遂げられた後にも、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者たちへの迫害が続いていきました。その現れの一つが、イエス・キリストが、スミルナにある教会の信徒たちに、 またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていること と述べておられることです。 ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たち が、そのかしらであるサタンの「欲望を成し遂げ」ようとしているのです。 |
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