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説教日:2015年3月15日 |
創世記1章1節ー2章3節には、神さまの創造の御業のことが記されています。天地創造の御業の6日間にわたる創造の御業の最後のことを記しています1章31節には、 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。 と記されています。このみことばが示しているとおり、神さまが最初に造り出された世界には「敵」、神さまに「敵対する者」はありませんでした。すべては、造り主である神さまのみこころにかなった良いものとして造り出されています。 このこととの関連で、一つの問題に触れておきます。 それは創世記1章2節に、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 と記されているときの、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われている状態鋸とです。この状態について、これは神さまのみこころにかなっていない状態なのではないかと問われることがあります。 これについてはいくつかの見方がありますが、今お話ししていることとのかかわりで一つの見方を取り上げます。 イザヤ書45章18節には、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てた方、 これを茫漠としたものに創造せず、 人の住みかにこれを形造った方、 と記されています。 ここでは、神さまがこの「地」を「人の住みか」に形造られたと言われています。[注] [注]この「人の住みかに」と訳されていることば(ラーシェベト)には「人の」ということばがありません。これは文字通りには「住まうことのために」ということです。とはいえ、これは「ヤーシャブ」という動詞の不定詞(の合成形)ですが、この動詞(ヤーシャブ)が表している「住む」という意味の主語が基本的に「人」であることから、新改訳は「人の住みかに」と訳していると考えられます。[私が調べたかぎりでのことですが、いくつかの個所で、生き物たちが地に住まうことが記されていますが、それらの個所では、「ヤーシャブ」とは別のことばが用いられています。ただし、私が見つけられなかった個所があるかもしれません。] 創世記1章21節ー22節から分かりますが、いのちあるものたちの創造は創造の御業の新しい段階を示していますし、いのちあるものたちは造り主である神さまの祝福を受けています。また、これが創造の御業の記事の中では、神さまがお造りになったものを祝福された最初の事例です。それで、創造の御業の記事に則して見ますと、「地」が生き物たちの棲みかとしても形造られている、と考えることもできます。 このイザヤ書45章18節では、「人の住みか」は、その前に出てくる「茫漠としたもの」と対比されています。そして、この「茫漠としたもの」ということば(トーフー)は、創世記1章2節で、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われているときの「茫漠として」と同じことばです。それで、イザヤ書45章18節に記されていることに照らして見ると、創世記1章2節で、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われている状態は、「地」を「人の住みか」に形造ろうとされた神さまのみこころにかなっていない状態であるという見方があるのです。そして、このように考える人々は、1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われていることは、神さまが完全な「天と地」を創造したことを示していて、2節で、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われているのは、その完全な状態に造られた「地」が、サタンの堕落によって、荒廃してしまったことを示していると主張しています。 この考え方には、多くの問題がありますが、三つほど取り上げておきます。 第一に、1章1節に記されています、 初めに、神が天と地を創造した。 というみことばは、独立した文で、1章1節ー2章3節に記されています天地創造の御業の記事全体の「見出し」に当たります。 創世記の全体的な構成から言いますと、創世記は1章1節に記されています、 初めに、神が天と地を創造した。 というみことばによって導入される部分(1章1節ー2章3節)と、それに続く、「・・・の歴史」とか「・・・の経緯」というように訳されていることば(トーレードート)を中心とする導入のことばから始まる11の部分から構成されています。 ですから、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われていることは、1章2節ー2章3節に記されている御業をまとめているのであって、その御業に先立って、別の創造の御業を遂行されたということを示しているのではありません。 第二に、確かに、聖書は、神さまによって造られたこの被造物世界が虚無に服してしまっているということを教えています。 そのことを示している創世記3章17節ー19節やローマ人への手紙8章19節ー22節では、それは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによっていると教えています。つまり、神さまが創造の御業において、神のかたちに造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになり、それによって、この被造物世界が人と一つに結ばれているのです。それで、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、その罪ののろいが人だけでなく、人と一つに結ばれている被造物世界にも及んでいるということです。またそれで、ローマ人への手紙8章19節ー22節では、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が罪を贖われて、栄光ある状態に回復されるなら、被造物世界もその栄光にあずかるようになることも示されています。 そうであるとしますと、もし、創世記1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われていることが2節以下に記されている創造の御業とは別の創造の御業のことを示していて、その御業によって造り出された世界がサタンの堕落によって虚無に服してしまったと言うのであれば、その世界は御使いであったときのサタンにユダ委ねられていたということになります。けれども、聖書には、神さまがお造りになったこの世界が、もともとは、御使いであったときのサタンに委ねられていたというような教えはありません。 第三に、この考え方は、創世記1章2節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事が示している重大なことを見落としています。それは、神さまは創造の御業の6つの日にわたって、創造の御業を遂行されたということです。 無限、永遠、不変の知恵と力に満ちておられる神さまは、一瞬のうちに、先ほどの1章31節に、 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。 と記されていた状態の世界をお造りになることができます。それなのに、神さまは創造の御業の6つの日にわたって、創造の御業を遂行されたのです。これによって、この世界を造り出された神さまの創造の御業そのものが歴史的な御業であったことが示されています。天地創造の御業が歴史的な御業であったということは、それが時間的に進展する御業であったということだけでなく、神さまのみこころによって定められた目的に向かって進展していって、その目的を実現する御業であったということを意味しています。そして、その目的こそが、先ほどのイザヤ書45章18節に記されていましたように、この「地」を「人の住みか」に形造られたということです。 ですから、イザヤ書45章18節で、神さまはこの「地」を「人の住みか」に形造られたと言われているのは、この「地」にかかわる創造の御業の目的とその目的が実現していることを示しているのです。その意味で、これは創造の御業の最終段階におけることを示しています。ですから、イザヤ書45章18節に記されていますみことばに基づいて、創世記1章2節で、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われている、創造の御業によって造り出されたこの世界の最初の状態が神さまのみこころにかなっていない状態であったと論じることはできません。イザヤ書45章18節に記されているみことばに基づいて、論じることができるのは、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われている状態は、この段階の「地」は、まだ、とても「人の住みか」とは言えない状態であるということです。 ほかにもありますが、これらのことから、創世記1章1節に、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されていることと、2節に、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と記されていることの間に、サタンの堕落があったという考え方にはみことばの根拠がないばかりか、みことばの教えを歪めるものであると言わなければなりません。 創世記1章2節で、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われている状態は神さまが、ご自身のみこころに基づいて、最初に造り出された状態です。その意味で、これは神さまのみこころにかなった状態です。また、先ほどお話ししましたように、無限、永遠、不変の知恵と力に満ちておられる神さまは、一瞬のうちに、この世界を完成したものとしてお造りになることができます。それで、神さまが、最初に、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われている状態の「地」を造り出されたのは、神さまに十分な力がなかったから、まず、このような状態の「地」を造り出されたということではありません。 しかも、2節では、これに続いて、 神の霊が水の上を動いていた。 とも言われています。このことにつきましては先主日にお話ししましたので、説明は省きますが、これは、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われている状態のときに、すでに、神さまの御霊がそこにご臨在してくださっていたことを示しています。言い換えますと、神さまが御霊によって、そこにご臨在してくださっていたということです。ですから、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり と言われている状態は、そこにご臨在しておられる神さまの御霊が深くかかわってくださっている状態で、ある人々が考えているような、無秩序で渾沌とした状態であったのではありません。 確かに、ここには、 やみが大水の上にあり と言われていますように、「やみ」と「大水」が出てきます。聖書の中では「やみ」が悪を現すことがあります。また、「大水」も、その当時の文化、古代オリエントの文化の中では、神々に逆らう勢力を表していたという事実もあります。けれども、これらのことを、この創造の御業の記事に読み込むことはできません。というのは、創造の御業の記事の中では、1章5節に、 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。 と記されていますように、「やみ」は人や生き物たちが休息する「夜」として意味づけられていて、そこには悪の要素がありません。また、1章9節ー10節には、 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。 と記されています。これは「大水」が「一所に」集められて、「海」としての意味が与えられるようになっていくことを示しています。そして、1章22節では、海の生き物たちがこの「海」に満ちるように祝福されています。 ですから、創造の御業において神さまが造り出された「やみ」と「大水」には、神さまのみこころにかなった意味があるのであって、神さまのみこころに反するものではありません。 これらのことから分かりますように、神さまが最初に造り出された世界には「敵」、すなわち、神さまに「敵対する者」はありませんでした。それで、サタンも、すぐれた御使いとして造られていたと考えられます。また、これらのことから、サタンこそが最初の「敵」であり、最初に、神さまに「敵対する者」となったことも分かります。 先主日お話ししましたように、サタンは神である主に「敵対する者」です。けれども、サタンは神さまによって造られた者であり、神さまに支えられて初めて存在できる者です。一介の被造物であるサタンは造り主である神さまと直接的に戦うことはできません。サタンにできることは、神さまが天地創造の御業によって造り出されたこの世界と自分にかかわるみこころに背き、神さまのご計画が実現しないように働くことだけです。 先ほどお話ししましたように、神さまが遂行された天地創造の御業そのものが歴史的な御業でした。そして、このような歴史的な御業であった創造の御業によって、神さまが造り出されたこの世界も歴史的な世界です。そして、創世記1章26節ー28節に、 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されていますように、神さまは神のかたちに造られている人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。サタンとしては、このような使命を委ねられている人を誘惑して、神さまに背かせることによって、神さまがお造りになった歴史的な世界にかかわるみこころが実現しないようにすることができるようになったわけです。このようにして、神さまに敵対しているサタンが、具体的に攻撃しているのは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。 このことは先主日にお話ししたことですが、これには、もう一つ重要な面があります。 神さまは創造の御業において、ご自身が造り出されたこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちに造られている人にお委ねになりました。人が神さまのみこころにしたがって、歴史と文化を造る使命を果たすことには、神さまが創造の御業を遂行なさり、お造りになったすべてのものを真実に支え、導いておられる摂理の御業を遂行しておられることと類似しているところがあります。 ヨハネの福音書1章1節ー2節には、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 と記されています。 すでにいろいろな機会にお話ししたことですので、結論的なことだけをお話ししますが、1節において、 初めに、ことばがあった。 と言われていることは、「ことば」すなわち、人としての性質を取って来てくださる前のイエス・キリストが、永遠の存在であられることを示しています。そして、 ことばは神とともにあった。 と言われていることは、「ことば」が父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることを示しています。このことはとても大切なことなので、2節でも、 この方は、初めに神とともにおられた。 と繰り返し述べられています。ここでは、「ことば」が永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることが示されています。このように、父なる神さまと「ことば」と呼ばれている御子の間には無限、永遠、不変の愛の交わりがあり、神さまは永遠に、完全な愛の交わりのうちに充足しておられます。 そして、3節には、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。 これによって、父なる神さまとの完全な愛の交わりにあってまったく充足しておられる「ことば」が、父なる神さまのみこころに基づいて、この世界のすべてのものをお造りになったことが示されています。ですから、天地創造の御業は、無限、永遠、不変の愛において、まったく充足しておられる神さまが、その愛をご自身の外に向けて現された御業でした。また、その愛は創造の御業の完成とともになくなってしまったのではなく、神さまがお造りになったすべてのものを真実に支え、導いておられる摂理の御業においても表現されています。 そうしますと、造られた世界の中に神さまの愛をただ受けるだけでなく、その愛を自覚的に止めて、愛をもって応答するる人格的な存在がいることになります。それが神のかたちに造られている人です。創造の御業において、すべての植物や生き物たちは、それぞれの「種類にしたがって」造られたと言われています。けれども、人は「種類にしたがって」造られたと言われないで、「神のかたちとして」造られたと言われています。このことは、人が愛を本質的な特性とする神さまのかたちとして造られていることを意味していますし、人が神さまの愛を受け止め、神さまの愛に、愛をもって応答するものであることを意味しています。 このように、神のかたちに造られている人は、造り主である神さまとの愛にある交わりに生きる者として造られました。人は自由な意志をもつ人格的な存在として造られ、神さまの御前に立つために必要な義と聖さを与えられていました。そして、人のいのちの本質は神さまとの愛の交わりに生きることにあります。 創世記1章27節には、 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と記されています。 ここには、人が「神のかたち」に造られていることと、「男と女」も「神のかたち」に造られていることが示されています。このようにして、「神のかたち」に造られている人は、神さまとの愛の交わりのうちに生きている者としてお互いが出会います。そして、そのように出会った者同士が、愛の交わりのうちに充足しています。創造の御業において神さまが神のかたちに造られている人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命は、そのような愛の交わりのうちにあって充足している者が、その愛を、神さまから委ねられたものたちに向けて現していくという形で果たされていくのです。その点で、神さまの創造の御業と神さまがお造りになったすべてのものを真実に支え、導いてくださっている摂理の御業の遂行と類似しています。 そのことをうかがわせるみことばがありますので、それを見てみましょう。創世記2章18節ー25節には、 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。人は言った。 「これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。」 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。 と記されています。 ここで、神のかたちに造られている人は、生き物たちの名をつけています。それにはいくつかの意味があります。 一つには、その当時の文化の中では、名をつける者が名をつけられたものに対して権威をもっていることの現れです。 もう一つのことは、名はその存在の本質を表すものであるということです。人が生き物たちに名をつけたということは、生き物たちに愛を注いで、生き物たちと触れ合うことをとおして、生き物たちを十分に観察し、その本質を見抜いて、それにふさわしい名をつけたということです。これは、人が生き物たちのことを十分に理解して知るようになったということを意味しています。 これら二つのことは、人が生き物たちの名をつけたことによって、生き物たちとの関係を確立して、生き物たちに愛といつくしみを注いでいくようになったことを意味しています。 そのことは、18節に記されていますように、人が生き物たちの名をつけたことが、神である主が、 人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。 と言われて、「ふさわしい助け手」の候補として、生き物たちを人の許に連れて来られたことから始まっている、ということから分かります。この「ふさわしい助け手」の「ふさわしい」(ネゲド)ということばは、この場合、「対応するもの」、「同等であって、十分なもの」を表わしています。 人は生き物たちに名をつけることによって、生き物たちに自分の愛といつくしみを注ぐようになりました。そして、生き物たちも人との親しい交わりに生きるようになりました。けれども、生き物たちは人の愛を十分に汲み取って、それと同じ愛をもって応答してくれる存在ではありませんでした。人にとって他の生き物たちもそれなりの助け手でしたが、完全な意味で人に「対応する助け手」ではなかったのです。 この場合の「助け手」は仕事の上での助けを与える「助け手」ではありません。仕事の上での「助け手」であれば、2章15節に記されていますように、人はエデンの園を耕していましたから、家畜たちが役に立つ「助け手」であったことでしょう。けれども、この「助け手」は、人が神のかたちであることの本質にかかわる「助け手」、すなわち、神のかたちの本質的な特性である愛にかかわる「助け手」です。2章22節、23節に記されていますように、人はこの「ふさわしい助け手」に出会って初めて、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 と言うことができました。人は完全に自分に対応する存在に出会って初めて、神のかたちの本質的な特性である愛を十分に表現することができました。「ふさわしい助け手」は、この意味での「助け手」です。 人が言った「これこそ、今や」ということばは、神のかたちの本質である愛を表現し、それを受け止め合う存在を、やっと見出したという思いを表わしています。また、 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 というときの「女」ということば(イッシャー)と「男」ということば(イーシュ)との間に語呂合わせがあって、二人が深く結び合っていることが示されています。 このように、人にとって「ふさわしい助け手」とは、人が自分の本質的な特性である愛を十分に表現することができる存在であり、人の愛を十分に受け止めて、それに対応する愛をもって答えてくれる存在のことです。 そうしますと、20節に、 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。 と記されているのは、人がそれらの生き物たちに向けて、自分の愛を投げかけたということを意味しています。人が生き物たちに自分の愛を投げかけた結果、生き物たちとの間にそれなりの親しい関係が築き上げられました。けれども、生き物たちからは、神のかたちに造られている人の愛に対して十分に対応する応答が得られなかったということです。 このように、人は、真実に自分の愛を、それらの生き物たちに現しました。つまり、人がすべての生き物たちに名をつけたということは、愛をもってそれらの生き物たちに接して、それらの本質を理解したということです。このことから、神のかたちに造られている人間に委ねられている歴史と文化を造る使命がどのようなものであったかを理解することができます。それは、生き物たちを治める使命ですが、具体的には、愛をもってその生き物たちを親しく知り、その生き物たちに仕えることを通して果たされる使命です。 そして、そのことの中心に、人とその妻のまったき一体における愛の通わし、愛の交わりがああります。人とその妻の間に通わされている愛の交わりにおける充足を中心として、その愛の交わりが、生き物たちとの交わりへと拡大していくのです。そのことに、神さまの創造の御業に、神さまの無限、永遠、不変の愛の交わりを、ご自身のかたちに造られた者にまで広げてくださったという面があるということとの類似性があります。 もちろん、神のかたちに造られている人は有限で、時間的な存在ですから、神さまはそのような者に合わせて、十分な愛を注いでくださいます。神のかたちに造られている人も、自分に委ねられた生き物たちに対して、それぞれにふさわしい愛を注いでいきます。 このことは、神さまに「敵対している者」であるサタンには、どのように写るでしょうか。サタンにとっては、神さまを映し出す者はすべて「敵」であるということになります。サタンにとって、神さまを映し出し、あかしすることは、すべて憎むべきことです。これが、サタンは人が歴史と文化を造る使命を果たすことを阻止しようとして知恵を尽くして働きかけたことの動機ともなっていたと考えられます。 またそれが、今日でも、神である主の一方的な愛と恵みによって主の民とされている人々が愛のうちを生きること、それによって神さまと神さまの愛を映し出すことを阻止しようとして働いていることの動機となっていると考えられます。 |
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