黙示録講解

(第198回)


説教日:2015年3月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(27)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストのスミルナにある教会へのみことばのお話を続けます。
 今お話ししているのは、9節に記されています、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

というみことばについてです。
 これまでは、

 ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たち

と言われていることについてお話ししてきました。この人たちは「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでない」と言われています。これは、この人たちが血肉のつながりから言えば、アブラハムの子孫であり、ユダヤ人であるけれども、ガラテヤ人への手紙3章7節に記されています、

 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

という基準から言いうと、アブラハムの子孫ではなく、霊的なユダヤ人、すなわち、神さまの御前において認められているユダヤ人ではないということを意味しています。ここでは、この人たちについてさらに、この人たちが、

 かえってサタンの会衆である人たち

と言われています。
 この「サタンの会衆」ということばは、旧約聖書に出てくる「の会衆」(アダト・ヤハウェ 民数記27章17節、31章16節、ヨシュア記22章17節)や「の集会」(ケハル・ヤハウェ 民数記16章3節、20章4節、申命記23章1節、2節、3節、8節、歴代誌第一・28章8節、ミカ書2章5節)と対比されます。
 「サタン」ということばは、ここでは、また、今日では、固有名詞として用いられていますが、もともとは「敵」、「敵対する者」を表す一般的なことば(サーターン)でした。興味深い事例ですが、このことばは民数記22章22節では、「の使い」に当てはめられて用いられています。そこでは、

しかし、しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。

と記されています。ここで「彼が出かけると」と言われているときの「」は、その後に訳し出されている「バラム」のことです。バラムは異教の預言者です。モアブの王バラクは彼にイスラエルの民をのろうように要請しました。この前の21章に記されていますように、イスラエルの民はこの時までに、いくつかの民の王たちを打ち破って、モアブに迫ってきていました。ここにはその時のことが記されています。バラムのことは、黙示録2章14節にも出てきます。民数記22章22節で、

 の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。

と言われているときの「彼に敵対して」ということは直訳調には「彼に敵対する者(サーターン)として」となります。このように「敵」、「敵対する者」を表す一般的なことばが固有名詞化して「サタン」を表すようになりました。


 サタンは「敵対する者」ですが、だれに敵対するのでしょうか。世間一般では、サタンは人に悪いことをするが、神は人によいことをしてくれるというように考えられています。けれども、この理解は一面的なものです。神さまのみことばは、サタンが敵対しているのは契約の神である主、ヤハウェと主の民であることを示しています。それをさらに突き詰めていきますと、サタンは神である主に敵対しています。
 サタンが神である主に敵対している理由は、サタンの堕落の経緯から汲み取ることができます。聖書はサタンの堕落の経緯を直接的に示してはいません。けれども、それをある程度、推察することができるみことばが二つあります。
 聖書に出てくる順序は逆になりますが、一つはエゼキエル書28章12節ー19節に記されています、ツロの王の堕落を記しているみことばです。12節ー17節までを引用しますと、そこには、

 人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。
 神である主はこう仰せられる。
 あなたは全きものの典型であった。
 知恵に満ち、美の極みであった。
 あなたは神の園、エデンにいて、
 あらゆる宝石があなたをおおっていた。
 赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、
 緑柱石、しまめのう、碧玉、
 サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。
 あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、
 これらはあなたが造られた日に整えられていた。
 わたしはあなたを
 油そそがれた守護者ケルブとともに、
 神の聖なる山に置いた。
 あなたは火の石の間を歩いていた。
 あなたの行いは、
 あなたが造られた日から
 あなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
 あなたの商いが繁盛すると、
 あなたのうちに暴虐が満ち、
 あなたは罪を犯した。
 そこで、わたしはあなたを汚れたものとして
 神の山から追い出し、
 守護者ケルブが
 火の石の間からあなたを消えうせさせた。
 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、
 その輝きのために自分の知恵を腐らせた。
 そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、
 王たちの前に見せものとした。

と記されています。
 これはツロの王のもともとの状態と、そこからの堕落のことを記していますが、実際のツロの王の描写を越えています。それで、これはサタンをモデルとしてツロの王のことを記していると考えられます。
 これに対して、これは、サタンをモデルにしているのではなく、最初の人アダムをモデルにしてツロの王のことを記しているという主張もあります。しかし、ここに記されていることは、創世記2章ー3章に記されています、アダムの描写とは違っているところがあります。
 三つのことに触れておきますと、第一に、14節で、

 わたしはあなたを
 油そそがれた守護者ケルブとともに、
 神の聖なる山に置いた。

と言われていることと、16節後半で、

 守護者ケルブが
 火の石の間からあなたを消えうせさせた。

と言われていることは、新改訳の欄外注に記されていますように、旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳によるものです。「マソラ本文」と呼ばれるヘブル語本文は、新改訳欄外にその訳があります。14節の該当する部分は、

 あなたは油そそがれた守護者ケルブ。
 わたしはあなたに与えた。
 あなたは神の山にいて、

と訳されています[2行目の「わたしはあなたに与えた」の「与えた」と訳されていることば(ナータン)は意味が広いことばですので、たとえば、新国際訳(NIV)のように訳したほうがいいのではないかと思います]。また、16節後半は、

 守護者ケルブよ。
 わたしは火の石の間からあなたを消えうせさせた。

と訳されています。
 これらの個所では、ツロの王が「守護者ケルブ」であるとされています。「ケルブ」は、そこに神である主の栄光の御臨在があることを表示しつつ、その聖さを守る生き物である「ケルビム」の単数形です。七十人訳はツロの王が「守護者ケルブ」であるというのはおかしいと考えて、訳している可能性があります。
 第二に、七十人訳のほうを採用するとしても、14節で、

 わたしはあなたを
 油そそがれた守護者ケルブとともに、
 神の聖なる山に置いた。

と記されていることは、最初の人アダムには当てはまりません。アダムが置かれた、地上のエデンの園は「神の聖なる山」ではありません。
 第三に、ツロの王の堕落のことを記している、17節では、

 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、
 その輝きのために自分の知恵を腐らせた。

と言われています。これは、創世記3章6節に、

 それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

と記されています、最初の人アダムが罪を犯した経緯とは違っています。もちろん、人の罪も「高ぶり」を生み出しますから、これはアダムの堕落後の姿を描いているとする見方もあるでしょう。けれども、創世記3章に記されています、堕落後のアダムの姿はそれとはかなり違っていて、そのような「高ぶり」は見られません。8節ー10節に記されていますように、アダムは神である主を非常に恐れています。また、これは詳しく論じなければならないのですが、結論だけを述べますと、20節に記されていますように、アダムは15節に記されています「最初の福音」を信じて、真の意味で「生きているもの」が自分からではなく、「」から出てくることを認めて、彼女を「エバ」と名付けています。
 ですから、

 あなたの心は自分の美しさに高ぶり

と言われていることは、むしろ、長老の資質について記しているテモテへの手紙第一・3章6節に、

 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。

と記されていることから分かりますが、サタンの特質が「高慢」にあることを映し出していると考えられます。
 このようなことから、エゼキエル書28章12節ー19節に記されています、ツロの王の堕落の描写は、ツロの王が、もともとすぐれた御使いとして造られているのに、神さまの御前に「高ぶり」、堕落してしまったサタンを映し出すものであることを示していると考えられます。

 サタンの堕落の経緯を推測することができる、もう一つのみことばは、イザヤ書14章12節ー15節です。
 これは、これに先立って4節ー6節に、

 あなたは、バビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌って言う。
 「しいたげる者はどのようにして果てたのか。
 横暴はどのようにして終わったのか。
 主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。
 彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、
 怒って、国々を容赦なくしいたげて
 支配したのだが。

と記されていますように、多くの国々を征服し、「容赦なくしいたげて支配した」「バビロンの王」を「」おさばきになることを預言することばの中に出てきます。
 その12節ー15節には、

 暁の子、明けの明星よ。
 どうしてあなたは天から落ちたのか。
 国々を打ち破った者よ。
 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
 あなたは心の中で言った。
 「私は天に上ろう。
 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
 北の果てにある会合の山にすわろう。
 密雲の頂に上り、
 いと高き方のようになろう。」
 しかし、あなたはよみに落とされ、
 穴の底に落とされる。

と記されています。
 ここでは、「バビロンの王」が神さまの御前に高ぶるようになることと、彼が「」のさばきを受けて、落とされるということが預言されています。ですから、これはも、先ほどのツロの王についての描写と同じく、直接的にサタンの堕落のことを示しているものではありません。
 しかし、ここに記されていますバビロンの王の高ぶりには、神さまの御前におけるサタンの高ぶりが映し出されていると考えることができます。というのは、その高ぶりは、神話的な表象によって記されていて、単なる人間の高ぶりを越えた、神的な次元のことであることをうかがわせるものであるからです。
 具体的に、いくつかのことを見てみましょう。
 12節では、バビロンの王のことが、

 暁の子、明けの明星よ。

と呼びかけられています。この「明けの明星」と訳されていることば(へーレール)には、カナン神話において、ヘラル(という神)が反乱を起こして失敗し、その地位を失ってしまうということが背景となっていると考えられます。
 また、バビロンの王が「心の中で言った」、

 私は天に上ろう。
 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
 北の果てにある会合の山にすわろう。
 密雲の頂に上り、
 いと高き方のようになろう。

ということばも、カナン神話を背景としています。
 そのいくつかを見て見ますと、

 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、

と言われていますが、「神の星々のはるか上」の「王座」はカナン神話の最高神とされているエールが座して、すべてを治めているとされているところです。
 また、

 北の果てにある会合の山にすわろう

と言われているときの「北の果てにある会合の山」は、カナン神話の中で神々が会合する山とされていた山のことで、その最も高い所にエールが座しているとされています。
 そして、

 いと高き方のようになろう。

と言われているときの「いと高き方」はエールの通称です。
 このような神話的な表象は聖書の中によく見られるものですが、だからといって、聖書が古代オリエントの神話が示している考え方を受け入れているわけではありません。
 ここに出てくる、このような神話的な表象を用いている描写は、単なる人間の王の描写としては、単なる人間の王の描写としては、あまりにも誇張されたものです。それで、ここではバビロンの王の高ぶりと堕落が、人間の王以上の存在の高ぶりと堕落をモデルとして描写されていると考えられるのです。
 このことと、先ほど引用しましたエゼキエル書28章12節ー19節に記されていることを合わせて見てみますと。エゼキエル書28章12節ー19節から、サタンはもともと非常に優れた御使いとして造られたのですが、自分に与えられた栄光のために高ぶって、堕落してしまったということを、そして、イザヤ書14章12節ー15節から、サタンは自らが神のようになろうとした罪を犯して、造り主である神さまの御前に堕落してしまったということを推察することができます。
 このことから、サタンが神さまに敵対していることの理由を汲み取ることができます。サタンは自分が「いと高き方」のようになろうとして、神さまに対して反乱を起こして堕落してしまった者です。サタンはもうあきらめてしまったのではなく、最後まで、神さまに対して対抗心を燃やし、敵対して働いています。

 けれども、サタンは神さまによって造られた者であり、神さまに支えられて初めて存在できる者です。ですから、サタンは神さまと直接的に戦うことはできません。サタンにできることは、神さまが天地創造の御業によって造り出されたこの世界と自分にかかわるみこころに背き、神さまのご計画が実現しないように働くことだけです。
 それでは、その神さまの創造の御業において示されたみこころとそれに基づくご計画とは、どのようなものなのでしょうか。
 いろいろな機会にお話ししていますが、神さまは天地創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。神さまがお造りになったこの世界が歴史的な世界であるということは、この世界が最初に造られた状態のままで存在し続けるということではなく、より高い目的に向かって進展する世界として造られているということを意味しています。
 けれどもそれは、最初に造り出されたこの世界が余りよくないもの、粗雑なものであって、それがよりよいものになって行くという意味ではありません。その意味では、一般的な「進化論者」が考ええている世界像とは違っています。
 創世記1章1節ー2章3節には、神さまの天地創造の御業が記されています。その創造の御業そのものが終わったことを記している1章31節には、

 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。

と記されています。最初に造り出された状態のこの世界は、神さまがご覧になっても、「非常に良かった」のです。そうではあっても、神さまのみこころはこの「非常に良かった」世界が、その状態で続くのではなく、より高い目的に向かって進展していくことにありました。
 そのみこころの中心にあることは、創世記1章1節ー2章3節に記されています、天地創造の御業の記事から汲み取ることができます。
 創世記1章1節には、

  初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。これは、神さまが、この世界のすべてのものを、その一つ一つの存在だけでなく、すべてのものの相互の関係なども含めて、秩序立てられたものとしてお造りになったということを示しています。
 これに続く2節には、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。この「地は」ということばの前には「さて」と訳すことができる接続詞があります。ですから、2節は「さて地は」と始まるわけです。これは、この2節からは視点を変えて、この天地創造の御業の記事が、もっぱら「」に焦点を合わせて記されているということを示しています。神さまの天地創造の御業は、同時進行的に、この宇宙全体において展開していたのですが、2節以下の創造の御業の記事の関心は、この「」に向けられているということです。
 イザヤ書45章18節では、神さまがこの「」を「人の住みか」に形造られたと言われています。神さまはこの「」を「人の住みか」にふさわしいものとするために、創造の御業を遂行されていかれました。
 2節に記されています「」の状態は、神さまが造り出されたものです。それは、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあった。

と言われていますように、とても「人の住みか」とは言えない状態でした。けれども、

 神の霊が水の上を動いていた。

とも言われています。ここで「動いていた」と訳されていることば(イェラヘーフ)は、(ラーハフの)強調形(ピエル語幹)です。このことば(ラーハフ)はこの他には、これと同じ強調形で申命記32章11節にしか出てきません。そこでは、鷲が未熟なひなを大切に守り導くさまを示すのにこのことばが用いられています。それと同じように、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあった。

という、いわば「未熟な状態」にあった「」を見守るように、

 神の霊が水の上を動いていた。

と言われています。もちろん、「神の霊」は無限の神さまの御霊で、この世界のどこにでもおられますから、鳥のようにあっちこっち動き回るわけではありません。この、

 神の霊が水の上を動いていた。

ということばは、これは擬態化された表現によって、生きておられる人格的な神さまの御霊が、親しくこの「」に関わっていてくださっておられるということを、生き生きと伝えています。
 このことは、この「」が「人の住みかに」形造られ、神のかたちに造られた人が住むようになる前に、神さまが御霊によって御臨在してくださっていたことを示しています。この「」は「人の住みか」として整えられていく前に、神さまがご臨在される所として、聖別されていたのです。それで、この「」は神さまの創造の御業によって、「人の住みか」として形造られていくだけではなく、造り主である神さまが、御霊によってご臨在しておられることを現す世界として整えられていくことにもなりました。
 それで、「」には愛と恵みといつくしみに満ちた神さまの御臨在を映し出すさまざまなしるしが満ちあふれています。光によってもたらされる明るさと暖かさ、神さまが整えられた大気の透明さと、適度の乾燥と「」が乾き過ぎないようにと時に応じて降り注ぐ雨とさわやかに吹く風。しかも、これらは単調なものではなく、4季の移り変わりとともに変化を見せています。これらの環境に支えられて生い茂る植物の多様さ。その間に生きる実に多様な生き物たちの生息。その驚くべき多様性を大きく包んでいる調和と自然の循環。すべては造り主にして、無限の知恵と御力に満ちた神さまの愛と恵みといつくしみの御臨在をあかしするものです。
 これは、今、この「」に住んでいます私たちが汲み取ることができる、この「」の状態です。けれども、今、私たちが住んでいるこの「」は、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、ローマ人への手紙8章20節のことばで言いますと、「虚無に服した」状態にあります。そうであるとしますと、創造の御業によって、最初に造られたときのこの「」には、愛と恵みといつくしみに満ちた神さまの御臨在を映し出すさまざまなしるしが、どれほど豊かに満ちあふれていたことでしょうか。
 目で見ることができない神さまは、創造の御業によって造り出されたこの世界に現わされている、さまざまな知恵と力と慈しみのしるしをとおして、ご自身を示してくださっています。神のかたちに造られている人は、この世界のどこにおいても、造り主である神さまの御臨在と御臨在のしるしに触れることができるのです。
 もちろん、これは神のかたちに造られた人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してう前の、本来のあり方です。御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を完全に贖われ、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれている私たちには、このことが現実となっています。
 先ほど引用しました、1章31節には、

 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。

と記されていました。ここでは神さまが「お造りになったすべてのもの」が「非常に良かった」と言われています。その中心にあるのが、無限の知恵と御力に満ちた神さまの愛と恵みといつくしみの御臨在のあかしに満ちている「」が「人の住みかに」として整えられていて、実際に、神のかたちに造られている人がそこに住むようになったことです。これによって、神のかたちに造られている人は、この世界にご臨在される神さまの御前に近づき、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりのうちに生きることができるようになりました。
 そればかりではありません。神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、1章28節に、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、愛を本質的な特性とする神さまは、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。神のかたちに造られている人は、この世界にご臨在される神さまの御前に近づき、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりのうちに生きることの中で、無限の知恵と御力に満ちた神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご栄光をさらに豊かに現していく使命を果たすように召されています。
 大切なことですが、それは神さまになんらかの必要があって、人がそれを満たしていくということではありません。神さまはすべてのことがおできになりますし、神さまがご自身でなさればすべてのことはうまくいきます。神さまが神のかたちに造られている人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったのは、人のためでもあります。神のかたちに造られている人が、愛を本質的な特性とする神さまの栄光をより豊かに現すようになるということは、人が愛を本質的な特性とする神のかたちとして、さらに成長し、より成熟した人格となるということを意味しています。
 人は、最初に成人として造られたアダムとエバを例外として、すべて赤ちゃんとして生まれてきて、両親の愛を受けて、小さいなりに愛をもって応答して成長していきます。それは、人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストにも当てはまります。そして、神さまと隣人への愛を具体的に現すことによって、初めは芽のように出ていた愛が育っていきます。人はこのように、神さまの本質的な特性である愛をより豊かに宿し、より豊かに現していくことにおいて、神のかたちとして成長していくように造られています。その点は、赤ちゃんとして生まれて、育っていくことがない御使いたちとは違います。御使いたちにはどのような成長もないという意味ではありませんが、御使いたちは、初めから、完成した存在として造られています。
 このように、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人は、この世界に生まれてきて、ルカの福音書2章52節のことばで言いますと、「神と人とに愛され」て成長し、人格的に成熟していくことによって、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご栄光をより豊かに現すようになります。それは、この歴史的な世界が、歴史の進展とともに、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご栄光をより豊かに現すようになるということと符合しています。このような意味でも、神のかたちに造られている人は、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられています。
 そうしますと、神さまと直接的に戦うことはできないサタンとしては、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史を造るうえでの鍵を握っている人に働きかけて、神さまのご計画が実現することを阻止することが可能であるということになります。実際、サタンはこのために知恵を尽くして、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうように仕向けて、成功しました。これが神さまに「敵対するもの」としてのサタンが目指していたことですし、今も目指していることです。
 もちろん、これに対して神さまは、「敵対するもの」としてのサタンの思いを越えたご計画をお示しになり、ご自身のみこころを実現されました。それにつきましては、すでにいろいろな機会にお話ししてきたことですが、また、日を改めてお話ししたいと思います。


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