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説教日:2015年3月1日 |
「主」が、ご自身の契約を、代々にわたって、アブラハムの子孫に受け継がせてくださり、アブラハムの子孫がアブラハムへの契約において約束されている祝福にあずかるようにしてくださることは、また、アブラハムに与えられた契約そのものが示しているところです。「主」(ヤハウェ)がアブラハムに与えてくださった契約を記している創世記17章7節ー8節には、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 と記されています。 ここでは、「主」がアブラハムと契約を結んでくださったのですが、その契約はアブラハムだけでなく、アブラハムの子孫たちとも、「代々にわたる永遠の契約として」結ばれました。 そして、その目的は、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 と言われていますように、「主」がアブラハムとアブラハムの子孫たちの神となってくださるためであると言われています。 これは、先主日にお話ししました「主」の契約の基本的な祝福の二つの面の一つに当たります。「主」の契約の基本的な祝福の二つの面は、レビ記26章11節ー12節に記されています、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 というみことばに示されています。その一つの面は、11節ー12節前半に記されている、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。 というみことばに示されています。これは、「主」がご自身の契約に基づいて、ご自身の民の間にご臨在してくださるということです。そして、もう一つの面は、12節後半に記されている、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 というみことばに示されています。これは、「主」と「主」の契約の民の関係性を確立してくださることです。 これがどのようなことか分かりにくいかも知れませんので、少し説明させていただきます。 聖書では、「主」の契約に基づく「主」とその民の関係が、結婚による夫と妻の関係にたとえられています。そのたとえを用いますと、二人の男女が結婚における誓約によって、「夫」と「妻」になることによって、法的に、夫婦の関係が生まれます。その誓約においては、司式者が仲介するのですが、男性からしますと「私はあなたの夫となり、あなたは私の妻となる」(女性からしますと、その逆になります)ということを誓約しています。このようにして夫と妻の関係(夫婦関係)が確立されます。これが、「主」の契約において、「主」が、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と言われることに当たります。 ここで一つのことに注意しておきますと、「私はあなたの夫です」ということは「あなたは私の妻です」ということをも意味しています。それと同じように、「主」が、 わたしはあなたがたの神となる とだけ言われるとしても、それは、 あなたがたはわたしの民となる とも言っておられることを意味しています。また、 あなたがたはわたしの民となる とだけ言われるとしても、それは、 わたしはあなたがたの神となる とも言っておられることを意味しています。そのどちらも、必ず、もう一方のことを意味しています。 さらに、夫と妻の関係のたとえを用いますと、夫と妻の関係は誓約に基づく法的な関係でありつつ、愛の関係です。そして結婚において確立された夫と妻の関係に基づいて、二人はともに住み、愛において心もからだも一つとなって、ともに生きるようになります。これが、「主」の契約の基本的な祝福のもう一つの面の、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。 ということに当たります。「主」が私たちとともに住んでくださり、私たちとともに歩んでくださいます。それで、私たちは「主」の御臨在の御許に住まい、「主」とともに歩む(生きる)ようになります。 本来、結婚において夫と妻の関係が確立されているのに、二人の心とからだが愛において一つに結ばれることなく、二人がともに住むことも、ともに歩むこともないということはありえません(あくまでもこれは結婚関係の本来のあり方のことです)。それで、二人の男女が夫と妻となることと、二人が愛において一つに結ばれて、ともに住み、ともに生きることは結婚における祝福の二つの面であり、一つの祝福の裏表であって、決して切り離すことはできません。これと同じように、「主」の契約において「主」が、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と言われるように、「主」が、その一方的で主権的な愛と恵みによって、私たちの神となってくださり、私たちが「主」の民となっているなら、「主」は、必ず、その愛と恵みによって、私たちの間にご臨在してくださり、私たちとともに歩んでくださいます。これが「主」の契約の基本的な祝福であり、これには二つの面があり、その二つは一つの祝福の裏表です。それで、「主」の契約の基本的な祝福の一つの面があれば、必ず、もう一つの面があります。 「主」がアブラハムとアブラハムの子孫たちと「代々にわたる永遠の契約として」結んでくださった契約の目的は、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 ということでした。これは先ほどお話ししました、「主」の契約の基本的な祝福の一つの面を実現してくださることを意味しています。そうしますと、これには、必ず、「主」が一方的で主権的な愛をもって、アブラハムとアブラハムの子孫たちの間にご臨在してくださり、アブラハムとアブラハムの子孫たちとともに歩んでくださるという、「主」の契約の基本的な祝福のもう一つの面が伴っています。 「主」がアブラハムとアブラハムの子孫たちの間にご臨在してくださり、アブラハムとアブラハムの子孫たちとともに歩んでくださることは、主の一方的で主権的な愛と恵みに基づくことです。これによって、アブラハムとアブラハムの子孫たちは、「主」の御臨在の御許に住まい、「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きるようになります。 このようにして、「主」の契約に基づいて、「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きることが、神のかたちに造られている人のいのちの本質です。 「主」がアブラハムを召してくださったときのことを記している創世記12章1節ー3節には、 あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という「主」の召しと約束のことばが記されています。そして、5節後半ー8節には、 こうして彼らはカナンの地に入った。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。 と記されています。 アブラハムがカナンの地に入ったときに、「主」がアブラハムに現れてくださいました。それがどのような形であったかは分かりませんが、アブラハムは「主」の栄光の顕現(セオファニー)に接しました。それだけではありません、アブラハムに栄光の御臨在を現してくださった「主」は、 あなたの子孫に、わたしはこの地を与える と約束してくださいました。それで、アブラハムは、「主」が、 わたしが示す地へ行きなさい。 と言われたのは、このカナンの地のことであったことを知りました。また、これによって、カナンの地は「約束の地」となりました。 このようにして「主」の栄光の顕現に接したアブラハムは、そこに「主」のための祭壇を築きました。それはアブラハムがそこで「主」を礼拝したということを意味しています。アブラハムはその祭壇において、いけにえをささげた可能性がありますが、そのことは記されてはいません。 「主」がアブラハムに現れてくださった所は、 シェケムの場、モレの樫の木のところ であったと記されています。シェケムは主要な都市で、カナン人の聖所があったところです。「シェケムの場」の「場」と訳されていることば(マーコーム)は聖所を指している可能性があります。また「モレの樫の木」の「モレ」は「教師」を意味することばで、そこで託宣などが与えられていた可能性があります。「主」はそのようなカナン人の聖所があった(と考えられる)所でご自身の栄光の御臨在を現してくださり、そこを「主」の御臨在の場として聖別され、アブラハムがそこで「主」を礼拝するようにしてくださいました。そこに「主」の栄光の顕現(セオファニー)があったことによって、カナン人の聖所に何かが起こったかもしれませんが、確かなことは分かりません。 このように、アブラハムが、 あなたの子孫に、わたしはこの地を与える という「主」の約束を与えられてしたことは、その地に「主」のための祭壇を築いて「主」を礼拝することでした。それはシェケムでなされただけでなく、先ほど引用しました8節に、 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。 と記されていますように、アブラハムは自分が移動して住むようになった所で、「主」のための祭壇を築いて「主」を礼拝しました。アブラハムが甥のロトと別れたときのことを記している13章18節にも、 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。 と記されています。 このことは、約束の地としてのカナンが「主」を礼拝することと深く結びついていることを示しています。その地が、アブラハムの子孫に与えられるのは、そこに「主」がご自身の栄光の御臨在があるようにしてくださり、アブラハムの子孫が「主」を神として礼拝するようになるためであることが示唆されています。 先ほど引用しました、「主」がアブラハムと結んでくださった契約の後半を記している17章8節には、 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 という「主」のみことばが記されています。 ここでは、「主」が「約束の地」であるカナンの地をアブラハムの子孫に「永遠の所有として」与えてくださることによって、 わたしは、彼らの神となる。 という「主」の契約の祝福が実現することが示されています。このことも、カナンの地がアブラハムの子孫に与えられるのは、そこに「主」がご自身の栄光の御臨在があるようにしてくださり、アブラハムの子孫が「主」を神として礼拝するようになるためであることを示しています。 先ほど引用しました12章1節ー3節に記されている「主」がアブラハムを召してくださったときのみことばの最後には、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束が示されています。このことと、「主」がアブラハムに与えてくださった契約を考え合わせますと、「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福されるのは、「地上のすべての民族」が、「主」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかるようになることによっているということが分かります。それはまた、「地上のすべての民族」がアブラハムの子孫となって、「主」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかるようになるということを意味しています。事実、17章4節ー5節には、「主」がアブラハムと契約を結んでくださるに際して、アブラハムに語られた、 わたしは、この、わたしの契約を あなたと結ぶ。 あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、 もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の 父とするからである。 というみことばが記されています。「アブラハム」という名は、「主」がアブラハムを「多くの国民の父」としてくださることを約束してくださったことにちなんで与えられた名です。これは、言い換えますと、「多くの国民」がアブラハムの子孫となるということでもあります。 このように、「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福されるのは、「地上のすべての民族」がアブラハムの子孫となって、「主」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかるようになることによっています。それは、具体的には、「地上のすべての民族」がアブラハムの子孫に約束された地において、そこにご臨在される「主」とともに住まい、「主」とともに歩むようになることによっています。 けれども、これには、根本的な問題があります。それは、人は神さまの創造の御業によって神のかたちに造られていながら、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているということです。そのために、人は「主」の栄光の御臨在の御前には近づくことができませんし、その罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて、永遠の滅びに入るほかはありません。それはアブラハムの子孫であっても同じです。このような根本的な問題がある限り、「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福されるということは不可能なことです。 契約の神である「主」はこの根本的な問題に対しても備えをなしてくださいました。そのことが古い契約のもとでは、出エジプトの贖いの御業において示されています。出エジプトの贖いの御業は、出エジプト記2章23節後半ー24節に、 イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 と記されていることから始まっています。エジプトという強大な帝国の奴隷となっていたイスラエルの民は、自分からは何もすることができず、ただ、主に向かってうめき、叫んだだけです。けれども、「主」はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださいました。それは、イスラエルの民のよさによるのではありません。ただ、「主」の一方的な愛と、アブラハムに与えられた契約への真実さによっていました。申命記7章7節ー8節に、 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 と記されているとおりです。 さらに、「主」はイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださるために、エジプトをおさばきになり、エジプトの地にいるすべての初子を打たれました。それについては、イスラエルの民も例外ではありませんでした。けれども、「主」はイスラエルの民のために、過越の小羊を備えてくださり、その血を家の2本の門柱とかもいに塗るように命じられました。「主」のさばきを執行する御使いは、門柱とかもいに血が塗られている家では、すでにさばきが執行されているとみなして、その家を過ぎ越していきました。 「主」はこのようにして、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったイスラエルの民をご自身の契約の民としてくださり、イスラエルの民の間に住んでくださるために、幕屋を与えてくださいました。幕屋はケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られており、そこに主の栄光の御臨在があることと、罪ある者は主の栄光の御臨在の御前に近づいてはならないということを示していました。けれども、それと同時に、幕屋の入口の前に設けられた祭壇において、いけにえをほふり、その血によって罪を贖うことによって、そこにご臨在される「主」を礼拝することができるということが示されていました。 これらのことは、「地上のすべての民族」がアブラハムの子孫となって、「主」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかるようになることは、ただ「主」の愛による選びと、主が備えてくださるいけにえの血による罪の贖いにあずかることによっているということを、古い契約の下での「地上的なひな型」として示しています。 そして、これらのことは、まことのアブラハムの子孫として来てくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださったイエス・キリストによって成就しています。「地上のすべての民族」がアブラハムの子孫となって、「主」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかるようになるのは、ただイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかることによっています。それで、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリスト、十字架におかかりになったイエス・キリストを信じて、罪を贖っていただいた人々こそが、「主」がアブラハムに与えてくださった契約に基づくアブラハムの子孫です。 そして、主が与えてくださる約束の地は、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地にあります。その完成の日のことを記している黙示録21章1節ー4節には、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されています。 ここでは、 神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。 と言われています。 神は彼らとともに住み ということは、そこに神さまの栄光の御臨在があることを示しています。そして、 彼らはその民となる ということは、先ほどお話ししましたように、 主は彼らの神となり、彼らはその民となる ということの後半部分です。これら二つのことは、主の契約の基本的な祝福の二つの面を示しています。これによって、終わりの日に再創造される新しい天と新しい地においては、「主」の契約の祝福がまったきものとなることが示されています。 |
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