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説教日:2015年2月22日 |
ここで個人的なことに触れさせていただきたいと思います。私自身の経験を振り返ってみますと、私は半世紀以上前に、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じて、義と認められ、神の子どもとしていただきました。けれども、このことが、契約の神である主、ヤハウェが、その一方的な愛と恵みによってアブラハムに与えてくださった祝福と約束に基づいているということを理解するようになったのは、ずっと後のことです。それはどうでもよいことではなく、そのことを理解するようになったことによって、私は、旧約と新約が深くつながっていて、旧約を理解することが新約の理解を深めることを知るようになりました。 それがいつからかということを思い出すことはできませんが、少なくとも、このようなことを理解するようになったのは、神である主の贖いの御業には、その歴史(贖いの御業の歴史)をとおして一貫した祝福があり、それはご自身の契約(一般的には「恵みの契約」と呼ばれる契約で、私たちは「救済の契約」と呼んでいます)を通して、ご自身の民に約束されていたことを理解するようになってからのことです。[注] [注]今日は取り上げることができませんが、神さまは創造の御業において、お造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちに造られている人にお委ねになりました。人が神さまを礼拝することを中心として神さまとの愛の交わりに生きることの中で歴史と文化を造る使命を果たすことによって、愛といつくしみに満ちた神さまのご栄光がより豊かに現されるようになります。これが、神さまが創造の御業においてお示しになったみこころです。けれども、人が暗やみの主権者であるサタンに誘惑されて、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、この神さまのみこころの実現が妨げられてしまいました。それにもかかわらず、神である主は創造の御業においてお示しになったみこころを実現し、完成へと至らせてくださるために、贖いの御業を遂行されました。このすべてのことをとおして、神である主はご自身の民に対する一貫した祝福を備えてくださり、それをご自身の契約、一般的には「わざの契約」と呼ばれる「創造の契約」と「救済の契約」をとおして示してくださっています。 この神である主の契約の祝福はとても豊かなものであるために、人は一度にすべてを理解することはできません。しかも、それは哲学的な理論のように、机の上での講義によって伝えられたものではありません。それで、神である主は実際の人類の歴史の中で遂行された贖いの御業の進展とともに、新たに契約を結んでくださいました。それはそれまでの契約を破棄したり変更したりするものではなく、ご自身の契約の祝福の新しい面をお示しになったものです。 今日は、具体的にそれらがどのような契約であり、約束であったかを、それらが与えられた歴史的順序に従って、ごくかいつまんでお話しします。これによって、主の贖いの御業の一貫性が明らかになって、契約の主の真実さが汲み取れればと思います。 今日取り上げるのは一般的には「恵みの契約」と呼ばれる「救済の契約」ですが、それは五つの古い契約と、そのすべてを成就している一つの新しい契約から成り立っています。 (1)「最初の福音」 最初に与えられたのは、神のかたちに造られている人がエデンの園で、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に与えられた、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という、「最初の福音」です。 これは人とその妻を偽りによって欺いて、神である主に背かせた暗やみの主権者、サタンに対するさばきの宣告です。この宣告に示された「敵意」によって「女の子孫」の共同体がサタンとその子孫たちの共同体から切り離されて、サタンとその子孫たちの共同体との霊的な戦いを展開するようになることと、「女の子孫」のかしらなる方によってサタンへの最終的なさばきが執行されることが約束されています。それは、また、「女の子孫」の共同体に属する者たちが、霊的な戦いにおいて、神である主のものとなることを意味しています。これが「最初の福音」において示された主の民の救いです。 このように、「最初の福音」はサタンとその子孫たちとの霊的な戦いの状況において与えられています。これ以後、カインがアベルを殺害することから始まって、サタンとその子孫たちは武力や経済力などの血肉の力によって「女の子孫」たちと「女の子孫」のかしらなる方を亡き者としようとして働くようになりました。これが最終的には父なる神さまが遣わしてくださった「女の子孫」のかしらなる方を十字架につけて殺してしまうことにおいて実現しました。しかし、それはサタンの思いを越えた結果をもたらします。それによって主の契約の民の罪の贖いが成し遂げられ、サタンとその子孫たちへの最終的なさばきがいつでも執行できる状態になったのです。このような状況になったことを知ったサタンは、最後のあがきとして、「女の子孫の残りの者」(黙示録12章17節)たちへの迫害を加速させています。 それが今お話ししているスミルナにある教会の信徒たちへの迫害となって現れています。黙示録2章9節において、彼らをののしっている「ユダヤ人だと自称している」人々が「サタンの会衆である」と言われていることは、さかのぼっていきますと、最終的には「最初の福音」に行き着きます。 (2)ノアとの契約 次に、ノアの時代に、神さまがノアと結んでくださった契約があります。 神さまは歴史の中で一度だけ、人の罪がその罪深さをそのまま現すようになることを許容されました。それが、創世記6章5節の、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 というみことばと、11節の、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 というみことばに示されています。ノアの時代に、人の罪の腐敗が極まってしまい、その結果、人に委ねられた「地」が暴虐で満ちてしまいました。これによって、人の罪がどのようなものであるかが、実際の歴史の現実によって示されました。 それで、神さまは大洪水によって、それまでの人類の歴史を最終的におさばきになりました。これによって、神さまが人を神のかたちにお造りになって、人にご自身がお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化造る使命をめぐって、最終的なさばきが執行されることがあることが示されています。 神さまはそのような「終末的なさばき」を執行されるに当たって、ノアと契約を結んでくださり、その終末的なさばきからの救いの手段として箱舟を与えてくださり、ノアとその家族と、ノアとともにいるようにしてくださった生き物たちを、救ってくださいました。さらに、洪水後に、箱舟を出てきたノアとその息子たちと契約を結んでくださって、再び洪水によって全人類を滅ぼすことはなさらないという約束を与えてくださり、神のかたちに造られている人が洪水後の歴史と文化を造る使命を果たすために必要な祝福と備えをしてくださいました。これによって、人類の歴史は、世の終わりのさばきの時まで続くことが保証されました。 (3)アブラハムとの契約 神さまが人類の歴史が保たれるために備えてくださったことの一つが、創世記11章1節ー9節に記されている、バベルにおけるさばきの執行によって、人類が地の面に散らされたことです。これは、人類が洪水後に強大な権力者、10章8節ー19節に出てくるニムロデによって一つにまとめられ、再び主に背く道を進み始めたときに、罪が極まってしまうことがないようにしてくださった神さまの措置でした。 このように、神さまのさばきによって人類が地の面に散らされてしまったことを受けて、神さまはアブラハムを召してくださいました。12章3節に記されている、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という、アブラハムに与えられた祝福の約束は、バベルにおけるさばきの執行によって、地の面に散らされた人類が再び一つになること、しかも、アブラハムの子孫として、契約の神である主、ヤハウェの御臨在の御許に近づいて、主とのいのちの交わりに生きるようになるという点で一つとなるという祝福を約束してくださったものです。そして、そのことが実現するのは、主の御臨在のある「約束の地」においてであることが示されました。 アブラハムへの契約は、この約束の地を相続するアブラハムの子孫を約束してくださったものです。繰り返しになりますが、約束の地とは、アブラハムの子孫たちが、そこにご臨在される神である主の御臨在の御前に近づき、主とのいのちの交わりの祝福にあずかるようになる地のことです。 バベルにおけるさばきの執行によって、地の面に散らされた人類がアブラハムの子孫として一つに集められ、主、ヤハウェの御臨在の御許に近づけられるようになることは、イエス・キリストが十字架の死によってご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、ご自身の民を復活のいのちで新しく生まれさせてくださるための基盤を築いてくださった後、父なる神さまの右の座に着座されて、そこから約束の聖霊を注いでくださったときから歴史の現実になっています。地上に散らされていたさまざまな民族、言語の人々が、御霊によって心が開かれて、福音のみことばにあかしされている御子イエス・キリストとその贖いの御業を信じて、栄光のキリストと一つに結び合わされて、キリストのからだである教会を形成し、御霊に導かれて主の御臨在の御許に近づいて、主を礼拝することにおいて一つに結ばれています。 (4)シナイ契約 神である主はアブラハムに与えてくださった契約を、その子イサク、さらにその子ヤコブに受け継がせてくださいました。これは、アブラハムに与えられた契約がアブラハムの子孫に関する約束にかかわっていることによっていると考えられます。 そして、出エジプトの時代に、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいて、その奴隷の状態から贖い出し、ご自分の民としてくださいました。その際に、エジプトの地にあるすべての初子に対するさばきを執行されましたが、イスラエルの民には、過越の小羊を備えてくださり、その血が流された家においては、さばきがすでに執行されているとみなされて、さばきは執行されることはありませんでした。このようにして、イスラエルの民は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に基づき、神である主の一方的な恵みによって備えられた罪の贖いにあずかって、主の契約の民とされています。決して、彼らのよさや行いによってはいません。 主はそのようにしてエジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民をご自身がご臨在されるシナイ山のふもとに宿営させてくださり、契約を結んでくださいました。その際に、十戒を中心とする主の律法、すなわちモーセ律法を与えてくださいました。けれども、これはその律法を守れば主の契約の民となることができるという意味ではありません。イスラエルの民はすでに、主の一方的な恵みによってエジプトの奴隷の状態から贖い出されて、主の民としていただいています。それで、主の律法はすでに恵みによって主の民としていただいているイスラエルが、どのように主の御臨在の御許に近づき、主を礼拝することを中心として、主との愛の交わりに生きるべきかを示してくださったものです。それで、その主の律法を要約すると、マタイの福音書22章37節ー40節に記されているイエス・キリストの教えに示されていますように、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ という第二の戒めになります。 さらに大切なことは、主との契約が結ばれた後に、主はモーセをご自身がご臨在されるシナイ山に登るように命じられて、シナイ山に登ったモーセに、ご自身がイスラエルの民の間にご臨在されるために、ご自身が示されるとおりの聖所を造るようにとお命じになりました。出エジプト記の後半は、間にイスラエルの民が金の子牛を造って背教したことと、モーセのとりなしによる回復の記事がありますが、この聖所の建設とそこで仕える祭司たちなどの規定と、聖所の完成に関わる記事です。このように、シナイで与えられた契約(シナイ契約)は、主の御臨在の御前に近づき、主を礼拝することを中心として、主との愛の交わりに生きる「祭司の国」を形成するための契約です。 この契約の中心主題は「律法」ですが、単なる律法の条文だけでなく、今お話ししました神である主の栄光の御臨在が主の聖所にあることと、その聖所に近づくために、主がいけにえの血による罪の贖いを備えてくださっていることなどが教えられています。これによって、アブラハムへの祝福がイスラエルの民の間に実現し、それが「地上のすべての民族」にあかしされるためです。言うまでもなく、それは主の一方的な愛によって成し遂げられる贖いの御業に基づいて、主との交わりにあずかるようになることと、主の御臨在の御許に近づくために、主がいのちの血による贖いを備えてくださっていることを、身をもってあかしすることです。 (5)ダビデ契約 そして、このような使命を委ねられたイスラエルの民が約束の地に入ったときに、王国が建設されるようになりました。それはシナイ契約において約束された主の栄光の御臨在を中心とした祭司の王国であり、王はそこにご臨在される主のしもべとして、主から委ねられた羊たちを養うことによって、主に仕えるように召されています。主はみこころにかなった王としてダビデを王位に就かせてくださり、平和を与えてくださいました。 これによって、イスラエルの民が約束の地に定着し、定住するようになりました。それで、ダビデが主の神殿の建設を志したとき、主は、ダビデに契約を与えてくださり、主がダビデのこの王座を永遠に堅く立ててくださることと、そのダビデの子が主の御名のための神殿を建設するようになると約束してくださいました。これが「ダビデ契約」と呼ばれる契約です。 地上的なひな形としてのダビデの子はソロモンでした。彼は壮大な神殿を建設しました。しかし、彼は「地上的なひな型」としての意味をもっているダビデの子でした。ソロモンは晩年に、外国から迎えた妻たちが持ち込んできた偶像を礼拝するようになり、まことのダビデの子ではなかったことを現すようになります。実際に、ソロモンの死後、ソロモンの罪のために、王国は南王国ユダと、北王国イスラエルに分裂してしまいます(列王記第一・11章11節ー13節)。 まことのダビデの子については、王たちの罪を糾弾した預言者たちによって後の日に来られる方として預言されています。たとえば、捕囚期にバビロンに捕囚となっていたユダの民の間で預言したエゼキエルは、その書の34章23節ー24節に、 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。 と記しています。また、約束の贖い主にかかわる「メシヤ詩篇」として知られている詩篇110篇1節には、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 と記されています。これは、契約の神である主、ヤハウェが約束のメシヤの敵をメシヤの足の下に屈服させてくださり、その敵を最終的におさばきになることを示しています。これは、「最初の福音」において約束されていた「女の子孫」のかしらなる方が、暗やみの主権者、サタンをその足の下に踏み砕くようになることの成就を指し示しています。このことは、ダビデ契約において約束されていたダビデの子が着座する永遠の王座は主、ヤハウェの「右の座」であることを示しています。これを受けて、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日の出来事について語っているペテロのあかしを記している使徒の働き2章29節ー35節には、 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。 「主は私の主に言われた。 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは わたしの右の座に着いていなさい。」 と記されています。 これらは古い契約の下で与えられた五つの契約で、それぞれが神である主の契約の祝福の多様な豊かさをあかししています。 (6)新しい契約 そして、時が満ちて、父なる神さまは御子イエス・キリストを遣わしてくださって、これらの契約をとおして示してくださった豊かで多様な祝福をすべて成就してくださいました。父なる神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、最終的で完全な贖いの御業を遂行してくださいました。それによって、古い契約の時代に与えられ、積み上げられてきたこれら五つの契約の祝福の約束が、すべて、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業によって成就しています。 神さまがご自身の契約によって、ご自身の民に約束してくださっているさまざまな祝福には、すべての契約の祝福に共通する基本的な祝福があります。そして、その基本的な祝福から、さまざまな祝福があふれ出てきています。さらに、その基本的な祝福には二つの面があります。聖書の中には、この主の契約の基本的な祝福の二つの面がいろいろな個所に出てきますが、それが明確に示されているのは、レビ記26章11節ー12節です。そこには、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 という神である主の祝福の約束が記されています。これは、11節ー12節前半に記されている、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。 という約束と、12節後半に記されている、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 という約束に分けられます。そして、この二つの約束が、主の契約の基本的な祝福の二つの面を示しています。 最初の、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。 というみことばは、主がご自身の民の間にご臨在してくださって、ともに歩んでくださることを約束してくださっています。この「わたしの住まい」は、イスラエルの民が荒野を旅する時代には主の幕屋を表しています。これは、後の王国の時代には主の神殿として発展します。いずれも、主のご臨在の場所を表す地上的なひな型です。 これによって示され、約束されている主のご臨在は、ヨハネの福音書1章14節に、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されているイエス・キリストの受肉において成就しています。ここで「私たちの間に住まわれた」と言われているときの「住まわれた」と訳されていることば(スケーノオー)は「幕屋」(スケーネー)に関連することばで、「幕屋に宿る」という意味合いを伝えています。そして、イエス・キリストの「宮きよめ」として知られている出来事を記している、ヨハネの福音書2章18節ー22節には、 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。 と記されています。ここでは、栄光のキリストの復活ののからだがまことの神殿であるとあかしされていて、古い契約の下での「地上的なひな型」である建物としての神殿が、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって成就したことが示されています。この場合の「神殿」と訳されていることば(ナオス)は建物としての神殿の中心にあって、主の栄光の御臨在のある聖所を表すことばです。 このように、主の契約の基本的な祝福の一つの面は主がご自身の民の間にご臨在してくださることにあります。主の契約の基本的な祝福のもう一つを示しているレビ記26章12節後半には、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と記されています。 これは主の御前における主の民の身分を表しています。そして、「私」と「あなた」あるいは「あなたがた」という人格的な交わりの関係が主とその民の間にあることを示しています。そして、それは、主がご自身の契約において約束し、保証してくださっていることです。これが主と私たちの間の契約関係であり、愛にあるいのちの交わりの基盤です。 この主の契約に基づく「主」とその「民」の関係とその関係にある交わりは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を贖われ、御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって復活のいのちによって生かされている私たちの間では、「父」と「子」の関係とその関係にある交わりにまで深められ、高められています。ローマ人への手紙8章14節ー15節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。 と記されているとおりです。 このように、レビ記26章11節ー12節には、主の契約の基本的な祝福の二つの面が記されています。これは一つの祝福の二つの面です。それで、主がご自身の契約によって、私たちの間にご臨在してくださっているなら、必ず、私たちは主の民、父なる神さまの子どもとされています。 そして、この主の契約の基本的な祝福によって、主の契約の民とされ、父なる神さまの子どもとしていただいて、主の御臨在の御許に住まい、主との愛にある交わりに生きる祝福にあずかっている私たちには、主の御臨在の御許に備えられているイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づくあらゆる祝福が注がれています。そして、その祝福の豊かさと多様性は、古い契約の下での主の贖いの御業の歴史的な進展とともに、新たに与えられてきた契約のそれぞれをとおしてあかしされています。 |
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