黙示録講解

(第195回)


説教日:2015年2月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(24)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節には、イエス・キリストのスミルナにある教会へのみことばが記されています。
 今お話ししているのは9節の最後に出てくる、
  またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
というみことばについてです。
 これまで、ここで、
  ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たち
と言われている人たちが、民族としては「ユダヤ人」であるけれども、「実はそうではない」と言われていることについてお話ししてきました。
 「ユダヤ人」とはアブラハムの子孫のことですが、聖書はアブラハムの子孫には二つの意味があることを示しています。一つは、アブラハムの血肉の子孫であり、もう一つは、ガラテヤ人への手紙3章7節に、
  ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
と記されていますように、信仰によるアブラハムの子孫、アブラハムの霊的な子孫です。そして、聖書は、アブラハムの血肉の子孫が、必ずしも、信仰によるアブラハムの子孫、アブラハムの霊的な子孫とは限らないことを示しています。もちろん、使徒たちを初めとして、イエス・キリストの弟子たちがユダヤ人であったように、アブラハムの血肉の子孫がアブラハムの霊的な子孫でもありえます。
 ローマ人への手紙2章28節ー29節には、

外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

と記されています。


 先ほど引用しました、ガラテヤ人への手紙3章7節の、
  ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
というみことばは、「ですから」という接続詞があることから分かりますが、その前の5節ー6節に記されていることを受けています。そのつながりを見ますと、

とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

となっています。
 5節には、

とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。

という問いかけがあります。2節にも、
  ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
と記されていて、これと同じ問いかけがなされています。このことは、この、ガラテヤにある教会の信徒たちが御霊を受けたのは、「律法を行ったから」なのか、それとも、「信仰をもって聞いたから」なのか、という問いかけがとても大切なことを問いかけていることを示しています。
 事実、それはガラテヤにある教会の信徒たちにとって、とても深刻な問題となっていることを踏まえての問いかけです。そのことは、1節に記されている、

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

という、パウロの嘆きのことばに表されています。
 さらに、このパウロの嘆きのことばは、これに先立つ2章20節ー21節に記されている、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

ということを受けています。21節で、
  もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。
と言われているときの、
  キリストの死は無意味です。
と訳されている部分は、文字通りには、
  キリストは空しく死んだということになります。
となります。このパウロの教えでは、「もし義が律法によって得られるとしたら」、そもそもイエス・キリストが十字架にかかって死ぬ必要はなかったということが示されています。逆に言いますと、義は律法の行いによっては得られないので、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったということです。

 このように、パウロは、ガラテヤ人への手紙2章16節のみことばを用いますと、
  人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを2章において明確に示しています。パウロはこのことを、この手紙で初めてガラテヤにある教会の信徒たちに教えているのではありません。このことは、すでにパウロがガラテヤにある教会の信徒たちに教えていたことです。
 それで、パウロは3章1節で、

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

と言って嘆いています。つまり、ガラテヤにある教会の信徒たちを「迷わせた」者たちがいたのです。その人たちは、人は「律法の行いによって義と認められる」と教えています。より具体的には、人は義と認められ、神に受け入れられるためには、割礼を受けて、ユダヤ人共同体に加えられ、モーセ律法を守り行わなければならないと教えていました。このような教えを説く人々を「ユダヤ主義者」と呼びます。その教えの出発点が、割礼を受けることなので、5章2節ー4節で、パウロは、

よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

と教えています。
 また、その出発点が、割礼を受けることなので、先ほど引用しました、ローマ人への手紙2章28節ー29節に記されている、

外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

という教えでは、「ユダヤ人」であることと「割礼」(を受けること)が密接に結びつけられています。そして、ここでは、「外見上のからだの割礼」と「御霊による、心の割礼」が対比されていて、「御霊による、心の割礼」こそがまことの割礼であり、この「御霊による、心の割礼」を受けている人々が、まことのユダヤ人、信仰によるアブラハムの子孫であるとされています。
 ここで注目したいのは、まことの割礼は「御霊による」ものであるということです。このこととの関連で、「外見上のからだの割礼」と言われているときの「からだの」と訳されていることばは、文字通りには「肉による」ということで、「御霊による、心の割礼」の「御霊による」と対比されている可能性があります。確かに、ここでは「文字ではなく、御霊による、心の割礼」と言われていていて、御霊による」は「文字による」(直訳)と対比されています。「文字による」ということは、モーセ律法の規定に従ってなされることを意味しています。そのことは、コリント人への手紙第2・3章6ー8節に、

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって・・・・・。

と記されていること、特に、二つの石の板に刻まれた十戒を指す「[複数]に刻まれた文字」と言われていることからも分かります。
 同時に、ローマ人への手紙2章では、28節で、
  外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの[肉による]割礼が割礼なのではありません。
と言われていることと、29節で、
  かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
と言われていることが対比されていることから、29節の「御霊による」は28節の「肉による」とも対比されていると考えられるのです。
 さらに、ピリピ人への手紙3章2節ー3節には、

どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

と記されています。
 ここでは「ユダヤ主義者」に気をつけるようにと警告されています。2節で、
  どうか犬に気をつけてください。
と言われているときの「」は、ユダヤ人が異邦人を指すときの呼び方でした。パウロはここで、「ユダヤ主義者」こそが「」であるという、一種の皮肉を込めた言い方をしています。また、「肉体だけの割礼の者」と訳されていることば(カタトメー)は「(からだの一部を)切断すること」を表すことばで、3節で、
  私たちのほうこそ、割礼の者なのです
と言われている中に出てくる「割礼」を表す通常のことば(ペリトメー)とは異なっています。これによって、「ユダヤ主義者」が受けているからだの割礼が、まことの割礼ではないことを伝えています。それで、新改訳は「切断すること」を表すことば(カタトメー)を「肉体だけの割礼」と訳しています。
 ここで注目したいのは、
  神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
と言われていることです。ここでは、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り」としている私たちは、「人間的なものを頼みに」していないと言われていて、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り」とすることと、「人間的なものを頼みに」することが相容れないこととして対比されています。ここで「人間的なもの」と訳されていることば(サルクス)は、文字通りには「」です。それでここには、相容れないものとしての「御霊」と「」の対比があります。
 このように、まことのユダヤ人、すなわち、まことのアブラハムの子孫であることは、御霊によること、御霊のお働きによることであることが分かります。そして、この御霊は肉と対立しています。ローマ人への手紙8章5節ー8節に、

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。

と記されているとおりです。
 ローマ人への手紙8章では、これに続く9節ー11節に、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と記されています。
 ここでは、私たちのうちに「神の御霊が・・・住んでおられる」ことと、私たちが「キリストの御霊を持」つことが同じこととされています。さらに、それが、私たちのうちに「キリストが・・・おられる」ことや、私たちのうちに「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が・・・住んでおられる」ことと同じこととされています。つまり、御霊は「神の御霊」、「キリストの御霊」、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」として私たちのうちに住んでくださいます。ここでは、ここで論じられていることとのかかわりで、御霊は「神の御霊」、「キリストの御霊」、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と呼ばれていますが、後ほど触れますガラテヤ人への手紙4章6節に出てくる「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」のように、その他の呼び方もあります。
 御霊にこのような豊かな意味と多様なお働きがあるのは、御霊が、御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きに基づいてお働きになるからです。イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業がもたらす贖いの恵みの祝福がとても豊かで、多様なものであるので、それに基づいておはたきになる御霊のお働きにも、豊かな意味と多様なお働きがあるのです。御霊はそのすべてを主の契約の民の一人ひとりに当てはめてくださいます。
 そして、このような豊かな意味をもち、多様なお働きをされる御霊が私たちのうちに住んでくださっているなら、私たちは「肉の中にではなく、御霊の中にいる」と言われています。もし御霊が住んでくださっていなければ、その人は、肉の中にいて肉に支配されて生きることになります。

 このように、新約聖書、特にパウロの手紙において、このような豊かな意味をもち、多様なお働きをされる「御霊」と対比されている「」には特別な意味があります。この「」はこの世、この時代を動かし、形成している動因です。またその意味で、「」はこの世、この時代を特徴づけています。この世、この時代が終わりの日に再臨される栄光のキリストの御臨在の御前に焼き尽くされ、滅び去ってしまうのは、それが「御霊」と対立している「」、それゆえに、神さまと対立している「」によって動かされ、形成されているものであり、「」によって特徴づけられているものであるからです。
 これに対して、「御霊」はこの世、この時代と対比される、来たるべき世、来たるべき時代(あるいは、新しい世、新しい時代)をを動かし、形成している動因です。またその意味で、「御霊」は、来たるべき世、来たるべき時代を特徴づけています。それで、この来たるべき世、来たるべき時代は、終わりの日に再臨される栄光のキリストの御臨在の御前に滅び去ることはありません。むしろ、栄光のキリストがご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地へとつながっていき、そこで完成します。
 このように、「」にある人々と、「御霊」にある人々は、まったく別の領域に住んでいます。それで、「」によって動かされているこの世に属する人々は、血肉の力を頼みとしていますので、「御霊」によって導かれている新しい時代に属する人々を迫害します。これに対して、新しい時代に属する人々は、「御霊」の導きに従って、この世に属している人々のためにとりなし祈りつつ、福音のみことばをもって、「十字架につけられたイエス・キリスト」をあかしします。
 先ほどお話ししましたように、この「御霊」は、御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになります。それで、先ほど引用しました、ローマ人への手紙8章9節ー11節では、「御霊」は「神の御霊」とも「キリストの御霊」とも「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」とも呼ばれていますし、その「御霊」が私たちのうちに住んでくださると言われています。
 御霊は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになり、父なる神さまと御子イエス・キリストのみこころに従い、私たちを十字架の上で死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストと一つに結び合わせてくださいました。そして、私たちをイエス・キリストの復活にあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。すると、私たちは「十字架につけられたイエス・キリスト」をあかししている福音のみことばを理解することができるようになりました。そして、自らの罪を悔い改め、イエス・キリストを信じるようになりました。ここから、私たちの自覚が始まります。私たちは自分が福音のみことばを理解し、罪を悔い改めて、「十字架につけられたイエス・キリスト」を信じるようになったことを自覚するようになりました。すると、神さまは私たちをイエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことによって確立された義にあずからせてくださって、私たちを義と認めてくださいました。そして、義と認めてくださった私たちを、ご自身の子としてくださいました。
 これらのことは、すでに、私たちそれぞれに起こったことです。とはいえ、これらの順序は、論理的な順序で、時間的には同時に起こっていると考えられます。
 そして、今は、私たちは神の子どもとして御霊によって導いていただき、父なる神さまを礼拝することを中心として、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きています。

 長い説明になりましたが、これらのことを考え合わせますと、ガラテヤ人への手紙3章において、1節の、

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

という嘆きとともに、2節で、
  ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
と問いかけていることには重大な意味があることが分かります。
  あなたがたが御霊を受けたのは
と言われていることは、ガラテヤにある教会の信徒たちが、すでに「御霊を受けた」ことを意味しています。それは、1節で、
  十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示された
と言われていますように、パウロの宣教によって語られた福音のみことばを通して、「十字架につけられたイエス・キリスト」がはっきりと示されて、ガラテヤにある教会の信徒たちが「十字架につけられたイエス・キリスト」を信じたことによっています。ですから、ガラテヤにある教会の信徒たちが「御霊を受けた」のは、「律法を行ったから」ではなく、「信仰をもって聞いたから」です。けれども、そのガラテヤにある教会の信徒たちが「ユダヤ主義者」の教えに惑わされてしまったのです。
 これを受けて、パウロは、7節で、
  アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
と述べています。パウロは、ガラテヤにある教会の信徒たちが御霊を受けたのは、「信仰をもって聞いたから」であるということを、旧約聖書に記されているアブラハムの信仰とのかかわりで示しています。おそらく、ガラテヤにある教会の信徒たちを惑わしている「ユダヤ主義者」たちが旧約聖書とのつながり、特に、モーセ律法とのかかわりを強調しているので、ユダヤ人の父祖であるアブラハムのことを取り上げていると考えられます。
 そして、続く8節ー10節には、

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

と記されています。ここでは、
  信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
という、まことのアブラハムの子孫が受ける祝福とともに、
  律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。
という、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしているすべての人に当てはまるのろいが明らかにされています。この祝福とのろいは相容れないものです。そして、すべての人はこののろいの下にあります。
 このような状況にあって、御子イエス・キリストがまことのアブラハムの子孫のかしらとして来られました。13節ー14節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。
ここに出てくる、
  木にかけられる者はすべてのろわれたものである
ということは、申命記21章23節の規定からの引用です。イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪のためにのろわれたものとなってくださり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださり、「私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」。これによって、

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

ということが、私たちの間に実現しています。大切なことは、「私たちが信仰によって約束の御霊を受ける」ことこそが、アブラハムへの祝福にあずかることであるということです。
 これがどのようなことであるかは、さらに、4章4節ー6節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されています。
 私たちは、今、「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」に導いていただき、神さまを礼拝することを中心として、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きています。このことにおいて、アブラハムへの約束が、3800年ほど後のこの時代において、私たちの間に実現しています。


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