黙示録講解

(第194回)


説教日:2015年2月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(23)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストのスミルナにある教会へのみことばについてのお話を続けます。今お話ししているのは9節に記されています、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

というみばの最後に、
  またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
と記されているみことばについてです。
 先主日は、ここで、
  ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たち
と言われている人たちが、民族としては「ユダヤ人」であるけれども、「実はそうではない」と言われていることについて、ヨハネの福音書 8章31節ー47節に記されているイエス・キリストとユダヤ人たちのやり取りの中で、イエス・キリストが語っておられることに基づいてお話ししました。この場合の「ユダヤ人」とはアブラハムの子孫であるということを意味しています。ただ聖書はアブラハムの子孫には二つの意味があることを示しています。一つはアブラハムの血肉の子孫であり、もう一つはアブラハムの霊的な子孫、信仰によるアブラハムの子孫です。聖書はまた、アブラハムの血肉の子孫が、必ずしも、アブラハムの霊的な子孫、信仰によるアブラハムの子孫とは限らないことを示しています。
 先主日も一部引用しましたが、ガラテヤ人への手紙3章6節ー9節には、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されています。
 今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、先主日に引用しました、7節に記されている、
  ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
という教えです。アブラハムの子孫は、アブラハムと本質的に同じ信仰をもっている人々のことです。

          *
 ではアブラハムの信仰はどういうものであったのでしょうか。今日はこのことについてお話しします。アブラハムの信仰につきましては、以前お話ししたことがあります。その信仰の本質的なことは同じですが、その時とは少し違った観点からも、お話ししたいと思います。
 先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙3章6節には、
  アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。
と記されています。
 これは創世記15章6節に、アブラハムのことが、
  彼はを信じた。主はそれを彼の義と認められた。
と記されていることを指しています。この場合の、「」は新改訳で太字になっていますように、契約の神である主、ヤハウェです。
そして、アブラハムが「を信じた」と言われているのは、具体的には、その前の1節ー5節に、

これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
 「アブラムよ。恐れるな。
 わたしはあなたの盾である。
 あなたの受ける報いは非常に大きい。」
そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。すると、のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

と記されている、主、ヤハウェとアブラハムとのやり取りの中で、主がアブラハムに与えてくださった、
  あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。
という約束[注]と、
  さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。
と記されている約束を信じたということです。

[注]新改訳はこの主のみことばを戒めの形に訳していますが、将来のこととして、
  あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継ぐようになる
と訳すこともできます。いずれにしましても、これは主、ヤハウェの約束になります。

 これには、さらなる背景があります。11章30節には、
  サライは不妊の女で、子どもがなかった。
と記されていて、アブラハムの妻サラが「不妊の女」であったことが示されています。そして、12章4節には、アブラハムが主、ヤハウェの召しを受けて約束の地へと旅立ったのは、アブラハムが75歳の時であったと言われています。また、15章3節に記されていますように、アブラハムは主に、
  ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう
と申し上げています。この時まで、アブラハムには、相続人としての子がありませんでした。主、ヤハウェは、そのアブラハムに、
  あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない/継ぐようになる
という約束を与えてくださいました。アブラハムはこの約束を与えてくださった契約の神である主、ヤハウェとその約束を信じたのです。これが、
  アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。
と記されているアブラハムの信仰です。

          *
 このアブラハムの信仰も、主から与えられた試練をとおしての訓練を経て生み出されたものであることを、この時に至るまでのアブラハムの歩みについて記しているみことばから汲み取ることができます。そのことを見てみましょう。
 12章1節ー3節には、
  主はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」
と記されています。契約の神である主、ヤハウェは、アブラハムに祝福の約束をお与えになって、アブラハムを召してくださいました。続く4節には、
  アブラムはがお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
と記されています。この時も、「がお告げになったとおりに」ということばに示されていますように、アブラハムは自分を召してくださった主、ヤハウェと、主の約束を信じて、主に従っています。
 1節には、主がアブラハムに、
  わたしが示す地へ行きなさい。
と言われたことが記されていますが、アブラハムは行き先を告げられてはいなかったようです。ヘブル人への手紙11章8節には、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

と記されています。創世記11章31節に、

テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。

と記されていますように、もともと、アブラハムの父テラがアブラハムとその妻サラ、そして、テラの孫でアブラハムの甥のロトとともに、「カナンの地に行くために、カルデヤ人のウル」を出たのですが、途中のハランに住みつきました。アブラハムは主からの召しを受けたときに、もともと目指していた「カナンの地」に向かって旅立ったと考えられます。
 先ほど引用しました12章4節には、
  アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
と記されています。そして、11章32節には、
  テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。
と記されています。ですから、アブラハムがハランを出たときには、テラはまだ存命中で、その後130年、そこで生きたことになります。アブラハムは「父の家を出て」行ったのです。
 そして、アブラハムが「カナンの地」に来た時のことを記している7節に、

そのころ、がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。

と記されていますように、そこで主、ヤハウェがアブラハムに現れてくださって、
  あなたの子孫に、わたしはこの地を与える
と語りかけてくださったので、アブラハムはそこが約束の地であることを知ったと考えられます。それで、7節後半に、
  アブラムは自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。
と記されていますし、続く8節に、

彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼はのため、そこに祭壇を築き、の御名によって祈った。

と記されていますように、アブラハムはその地に主、ヤハウェのための祭壇を築いていきます。そのようにして、その地が、主、ヤハウェを礼拝する場所として聖別されていきました。
 このようにして、アブラハムは約束の地であるカナンに入りました。けれども、その時から、15章6節に、
  アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。
と記されるようになるまでには、紆余曲折がありました。

          *
 12章10節ー20節には、カナンの地に飢饉があったために、アブラハムがエジプトに下っていった時のことが記されています。10節には、
  さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
と記されています。その時、アブラハムはサラが「見目麗しい女」であり「非常に美しい」ので、自分の妻であるということが知れると、エジプト人が自分を殺すだろうと恐れて、サラに、自分の妹であると言うように頼みました。そのために、サラは「パロの高官たち」の推奨により「パロの宮廷に召し入れられ」ました。そして、パロはアブラハムに多くの財産を与えました。しかし、主、ヤハウェは「パロと、その家をひどい災害で痛めつけ」ました。それで、パロはアブラハムが、サラは自分の妻であることを隠していたことを責めましたが、アブラハムをサラと、「彼のすべての所有物とともに送り出し」ました。
 この出来事においては、非はアブラハムにあります。個人的な次元においては、これによって、サラとパロに、姦淫の罪を犯させることになります。より広い、契約の神である主、ヤハウェのみこころとのかかわりでは、主がアブラハムを召してくださったときの祝福には、
  わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
という祝福がありましたし、アブラハムが主に従って約束の地であるカナンに来たときに、主は、アブラハムに現れてくださって、
  あなたの子孫に、わたしはこの地を与える
と約束してくださいました。これらの祝福と約束はアブラハムの子孫にかかわる祝福であり約束です。そして、後に明らかになる主の救いのご計画に関わるみこころは、アブラハムの子が「不妊の女」であるサラから生まれてくる「約束の子」であるということでした。この出来事は、このような主のアブラハムへの祝福と約束、そして、主のご計画に関わるみこころを損ないかねない危険をはらんでいました。
 その一方で、この出来事をとおして、主がご自身の一方的な恵みによってアブラハムとサラを守ってくださっていることを示してくださっています。本来でしたら、エジプトの王であるパロは、自分に対してこのように不誠実であった者、しかも、飢饉を逃れて自分の国に助けを求めてやって来た外国人を処刑して殺していたはずです。けれども、パロはそうしませんでした。それどころか、サラをアブラハムに返しただけでなく、財産さえももたせてさらせています。それは、パロがこのことをとおして、神がアブラハムを守っていることに気づいていたからであると考えられます。
 アブラハムはエジプト人を恐れましたが、それ以上に、アブラハムを召してくださり、祝福と約束を与えてくださっている主を信頼すべきであったことを学ぶことになったと考えられます。

          *
 さらに、13章には、アブラハムと甥のロトの財産が増えて、アブラハムの「家畜の牧者たち」とロトの「家畜の牧者たち」の間に争いが起こるようになったために、アブラハムはロトにお互いが別々の地域に住むことを提案したことが記されています。その際に、アブラハムはロトのおじであり、ロトはアブラハムの甥であることから、当然、アブラハムに優先権がありました。そればかりではありません。主、ヤハウェが、アブラハムに、
  あなたの子孫に、わたしはこの地を与える
と約束してくださっていました。アブラハムは、自分が「この地」カナンの地を委ねられていると主張することもできました。けれども、アブラハムは自分に優先権があることを主張しませんでした。8節ー9節には、

どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。

というアブラハムがロトに言ったことばが記されています。そして、10節ー11節には、

ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。

と記されています。これに続く12節には、
  アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
と記されていますが、これは、必ずしも、ロトがカナンの地から出ていってしまったということではありません。民数記34章12節には、カナンの地の東の境界線はヨルダン川とそれが注ぎ込む死海にあることが示されています。そうしますと、ロトはカナンの地の東の端の地方に住むようになったということになります。それでも、ここで、
  アブラムはカナンの地に住んだ
と言われていることには意味があると考えられます。アブラハムは主が自分に現れてくださり、約束してくださった地に住んだということです。もちろん、それは、ロトが潤ったヨルダンの低地をおじであるアブラハムに譲って、アブラハムがそこに住むようになったとしても、アブラハムは、そこを主が与えてくださった約束の地として、そこに住んだことでしょう。
 いずれにしましても、このことをとおして、アブラハムは主が与えてくださった地であれば、それがどこであっても、そこで主、ヤハウェを神として礼拝し、主を中心として歩もうとしていることが明らかになりました。13節ー18節には、

ロトがアブラムと別れて後、はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこにのための祭壇を築いた。

と記されています。

          *
 15章6節に、
  アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。
と記されるようになるまでに、アブラハムはもう一つの経験をしています。14章には、バビロニアの東にあった国であるエラムの王ケドルラオメルとその連合軍が、途上の民を打ち破りながら、カナンの地にまで遠征してきて、今は死海に沈んでしまっていると考えられている、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ツォアル(ベラ)の王たちと戦ったことが記されています。ケドルラオメルとその連合軍は、これら5人の王たちを打ち破りましたが、ソドムとゴモラの王たちはシディムの谷に散在していた「瀝青の穴」に落ちてしまいました。その結果、少なくとも、ソドムの王は助かりました。11節ー12節には、ケドルラオメルとその連合軍のことが、

そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。

と記されています。
 この知らせを聞いたアブラハムは、盟約を結んでいたマムレとエシュコルとアネルとともに、ケドルラオメルとその連合軍を追撃しました。14節ー16節には、

アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

と記されています。
 その当時の考え方では、これらの戦利品は、人も財産もすべて、それを勝ち取った者たちのものとなります。
 この時、アブラハムはシャレムの王であり「いと高き神の祭司であった」メルキゼデクと出会うことになります。19節ー20節には、メルキゼデクが、
  祝福を受けよ。アブラム。
  天と地を造られた方、いと高き神より。
  あなたの手に、あなたの敵を渡された
  いと高き神に、誉れあれ。
と言ってアブラハムを祝福したことと、
  アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた
ことが記されています。メルキゼデクとアブラハムは、「いと高き神」が強大なケドルラオメルとその連合軍をアブラハムの手に渡してくださったことを認めています。そして、アブラハムはメルキゼデクをとおして、「すべての物の十分の一を」「いと高き神」に献げています。
 さらに、21節ー24節には、やはりアブラハムを出迎えたソドムの王が、
  人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。
と(おそらく、この訳が示すよりはるかに尊大なことばと態度で)言ったときに、アブラハムは、

私は天と地を造られた方、いと高き神、に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。

と答えています。ここでも、アブラハムはこのことに関わる一切の栄光を「いと高き神、」ヤハウェに帰しています。それと同時に、
  ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。
と言って、アブラハムとともにケドルラオメルとその連合軍を追撃した「アネルとエシュコルとマムレ」の権利を守っています。


 そして、これに続いて、先ほど引用しました15章1節には、
これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
  「アブラムよ。恐れるな。
  わたしはあなたの盾である。
  あなたの受ける報いは非常に大きい。」
と記されています。
 冒頭の「これらの出来事の後」ということばが示していますように、契約の神である主、ヤハウェは、さまざまな試練をとおして、アブラハムを導いてくださり、その信仰を育ててくださいました。特に、「これらの出来事」を経験したアブラハムとしては、
  わたしはあなたの盾である。
ということを実感していたことでしょう。その上で、主、ヤハウェは、アブラハムの子孫に関して、
  あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない/継ぐようになる。
という約束と、
  さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。
という約束を与えてくださいました。このようなことがあって、6節には、
  彼はを信じた。主はそれを彼の義と認められた。
と記されています。
 一般に、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれていますが、その信仰は主がさまざまな試練をとおして育ててくださったものです。そうであれば、信仰によるアブラハムの子孫である私たちの信仰も、この世で私たちが経験するさまざまな試練をとおして、主が育ててくださるものです。
 そして、アブラハムが何を信じたのかと言いますと、主はご自身の契約において約束してくださったことを必ず実現してくださるということを信じたのです。
 ローマ人への手紙4章18節ー22節には、アブラハムのことが、

彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

と記されています。
 ここに記されていることだけを読みますと、私たちにはとてもこのような信仰は無理であると感じます。けれども、アブラハムのこの信仰も、神である主がさまざまな試練をとおして育ててくださったものです。
 また、アブラハムは「神さまは全能であるから何でもできる」というように信じたのではなく、神さまは全能であり、真実であり、恵みに満ちた方であるので、ご自身の契約において約束してくださったことを必ず実現してくださると信じたのです。これがアブラハムの信仰の本質です。


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