ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。今お話ししているのは、9節に記されています、
わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
というみばについてです。
ここでイエス・キリストはスミルナにある教会の実情について、特に、三つのことを知っていると言っておられます。
一つは、スミルナにある教会の信徒たちが経験している「苦しみ」で、これはローマ帝国からの迫害による苦しみのことです。
もう一つは、スミルナにある教会の信徒たちの「貧しさ」です。これはその前に出てくる「苦しみ」、すなわち、ローマ帝国からの迫害を受けていることに伴う「貧しさ」です。
先主日にお話ししましたように、スミルナはローマ帝国との特別な関係にあり、皇帝礼拝に積極的な町でした。そのような町にあって、皇帝礼拝を拒否して生きることは、宗教的、政治的、経済的にさまざまな制裁を受けることを意味していました。
そのことは、黙示録13章に記されています海からの獣と地からの獣の働きから分かります。後ほどお話しすることともかかわっていますので、それを見てみましょう。
13章1節ー8節には、海からの獣のことが、
また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう」と言った。この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
と記されています。
今お話ししていることと関連していることだけを取り上げますが、この海からの獣は、旧約聖書のダニエル書7章に出てくる四つの獣を背景としていて、それらの獣を総合するような存在です。ここでは黙示録が記された時代のローマ帝国を表象的に表しつつ、ローマ帝国を典型として、終わりの日に至るまでの歴史に現れてくる、この世の国を表しています。海からの獣は、黙示録では、この後、「獣」と呼ばれています。
2節最後には、
竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
と記されています。この「竜」は12章9節で、
こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
と言われているサタンのことです。ここ13章では、皇帝礼拝がサタンから出ていて、サタンを礼拝することにつながっていることが示されています。
スミルナにある教会の信徒たちの苦難と貧しさとのかかわりで注目されるのは、13章11節ー17節に記されている、地からの獣の働きです。そこには、
また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
と記されています。
この地からの獣は、黙示録の中では、この後、「にせ緒言者」と呼ばれています。この獣は「竜」すなわちサタンから与えられた権威をもって「大きなしるし」を行って、人々を惑わし、最初の海からの獣を拝ませました。このように、地からの獣は「にせ緒言者」として皇帝礼拝を推進し、それを拒む者たちを殺させたり、売り買いができないようにしました。これがスミルナにある教会の信徒たちの苦難と貧しさを生み出していました。
* * *
スミルナにある教会の信徒たちについて、イエス・キリストが知っておられると言われる、三つ目のことは、「ののしられていること」です。9節後半に、
またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
と記されていますように、そのののしりは「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから」のののしりでした。
このことも先主日にお話ししましたが、スミルナは地中海交易における港湾都市として繁栄していました。そのこともあって、スミルナにはかなりの数のユダヤ人が居住していて、ユダヤ人共同体を形成していました。スミルナにある教会の信徒たちは、そのユダヤ人共同体からののしられていたのです。
ここでは、スミルナにある教会の信徒たちをののしっていたのは、
ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たち
であると言われています。けれども、これはこの人々がユダヤ人ではないという意味ではありません。民族としてはこの人々はユダヤ人です。
ここでイエス・キリストが言っておられることを理解する鍵は、ヨハネの福音書8章31節ー47節に記されているイエス・キリストの教えにあります。全体を引用するのは長すぎますので、いくつか部分的に引用します。
まず、31節ー34節には、
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」
という、イエス・キリストとユダヤ人たちのやり取りが記されています。
32節で、イエス・キリストが、
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
と言われるときの「真理」は福音の真理のことです。福音のみことばがあかししているイエス・キリストにかかわる真理のことです。そして、その真理を知り、真の自由を得るためには、イエス・キリストが、
まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
と教えておられるように、自分たちが罪の奴隷の状態にあることを知らなければなりません。
ところが、ユダヤ人たちは、
私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。
と言い張ります。義人「アブラハムの子孫」であるということが彼らの誇り、拠り所となって、自分たちが罪の奴隷であり、罪がもたらす死の力に捕らえられてしまっていることに気づくことができません。これは先主日にお話ししました「貧しい人」とまったく違います。「貧しい人々」とは、自分の罪のために神さまとの関係が損なわれてしまっているけれども、自分の力ではそれをどうすることもできないことを自覚し、ひたすら神さまのあわれみにすがる他はないとして、神さまのあわれみにすがっている人々です。もちろん、自らの罪の深刻さを本当に自覚することも、自分の力ではできません。神さまが御霊によって心を開いてくださって初めて自覚的に悟ることができることです。そして、そのようにして、自らの罪の深刻さを本当に自覚し、ひたすら神さまのあわれみにすがっている「貧しい人」であれば、神さまが遣わしてくださった贖い主が、自分たちを「罪の奴隷」の状態から解放してくださり、真の自由を与えてくださるという福音のみことば、真理のみことばのあかしを信じることができたでしょう。
しかし、アブラハムの子孫であることを誇りとし、頼みとしているユダヤ人たち.は、それを信じることができませんでした。それどころか、父なる神さまがご自身の民を「罪の奴隷」の状態から解放してくださり、真の自由を与えてくださるために遣わしてくださった贖い主であるイエス・キリストを退け、殺してしまうようになります。37節には、
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。
というイエス・キリストのみことばが記されています。また、39節後半ー40節には、
あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
と記されています。
この教えの中で、イエス・キリストはご自身が父なる神さまの御許から遣わされていることを繰り返し明らかにしておられます。38節には、
わたしは父のもとで見たことを話しています。
と記されていますし、40節には、
神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたし
と記されています。さらに、42節には、
神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
と記されています。
そればかりでなく、イエス・キリストは、最後には、ご自身がアブラハムの神である、主、ヤハウェであられることを明らかにしておられます。58節には、
まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。
というイエス・キリストの教えが記されています。ここで、
アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです
と言われているときの、
わたしはいるのです
ということばは、強調形の現在時制で表されている「エゴー・エイミ」で、イエス・キリストが、出エジプト記3章14節で神さまがモーセに啓示された、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主であられることを意味しています。それで、イエス・キリストがご自身を契約の神である主、ヤハウェであると主張しておられることを察知したユダヤ人たちは、イエス・キリストを神を冒 する者として、石打の刑にしようとしました。59節に、
すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
と記されているとおりです。
父なる神さまがご自身の民を「罪の奴隷」の状態から解放してくださり、真の自由を与えてくださるために遣わしてくださった贖い主は、罪は除いて、私たちと同じ人の性質を取って来てくださった、栄光の主、ヤハウェであられるということが、これらのイエス・キリストの教えによって示されています。私たちの罪が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪であれば、それをきっちりと償い、清算するためには、無限の償いがなされなければならないのです。これこそが、私たちの罪の深刻さです。そして、私たちの罪がこのように深刻なものであるので、神さまはご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。福音のみことばはこのことをあかししています。
イエス・キリストは栄光の主、ヤハウェであられますが、私たちご自身の民と一つとなってくださって、私たちの罪のために贖いの御業を遂行してくださるために、父なる神さまによって遣わされた方です。そして、実際に、十字架におかかりになって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになって、私たちの罪をすべて、完全に贖ってくださいました。このことが、福音の真理があかししていることの根底にあります。そして、このことに基づいて、イエス・キリストはその十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことへの報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえられました。それは、私たちがイエス・キリストの復活にあずかって、新しく生まれ、父なる神さまとの愛の交わりにあるいのち、すなわち、永遠のいのちに生きるようになるためです。
サタンは、この福音のみことばがあかししているイエス・キリストに関する真理を覆い隠そうとして、あらゆる欺きををもって働いています。ユダヤ人たちはこのサタンの働きによって欺かれ、自分たちがアブラハムの子孫であることを誇りとし、拠り所としているために、自らの罪の深刻さに気づくことができませんでした。もちろん、そのようにして、自らの罪の深刻さに気づくことができないことの原因は、自らの罪がもたらしている闇にあります。イエス・キリストは、そのようにサタンの巧妙な欺きによって、自らの罪の闇のうちに閉じ込められてしまっているユダヤ人の状態について、44節で、
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
と教えておられます。
ここでは、
悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。
と言われています。悪魔は「真理に立ってはいません」と言われていますように、あらゆる欺きをもって、人が福音のみことばにおいてあかしされている真理を悟ることがないように働いています。具体的には、父なる神さまによって遣わされた贖い主が、人の性質を取って来てくださった無限、永遠、不変の栄光の主であられること、そして、その無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が、十字架におかかりになって私たちの罪を完全に贖ってくださったことを信じないように働いています。それによって、人が罪の贖いにあずかることなく、自らの罪によって滅びてしまうように画策しているのです。
真のユダヤ人はアブラハムの信仰に倣う人です。56節に、
あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。
と記されているように、アブラハムは、神さまの一方的な愛と恵みによって贖い主が遣わされることを信じ、その日をはるかに仰ぎ見て、喜んでいました。
ガラテヤ人への手紙3章7節には、
ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
と記されています。血肉のつながりではアブラハムの子孫でありながら、信仰によるアブラハムの子孫ではない人々がいるのです。
また、ローマ人への手紙2章28節ー29節には、
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
と記されています。ここで「外見上のユダヤ人」と言われている人々が、黙示録2章9節で、
ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
と言われているときの、
ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく
と言われている人々に当たります。
ここで、
ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
と言われているときの「ののしられていること」と訳されていることば(ブラスフェーミア)は、「冒 」や「冒 的なことば」を意味する英語のblasphemyの語源となっていることばです。これが人に向けられれば「ののしり」となりますが、神さまに向けられれば「冒 的なことば」、「汚し言(ごと)」になります。
このことばは、先ほど引用しました13章1節ー8節に記されている海からの獣の描写にも出てきます。13章5節ー6節には、
この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
と記されています。5節で、
けがしごとを言う口を与えられ
と言われており、6節前半で、
神に対するけがしごとを言い始めた
と言われているときの「けがしごと」が、2章9節に出てくる「ののしり」と同じことば(ブラスフェーミア)です。そして、6節後半で、
神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった
と言われているときの「ののしった」は、その動詞(ブラスフェーメオーの不定詞)です。この場合は、「神の御名と、その幕屋」に対するものですので、「冒 的なことばを言った」あるいは「冒 した」と訳すことができます。ここには、
その幕屋、すなわち、天に住む者たち
が出てきます。「その幕屋」は文字通りには「彼の幕屋」です。これはその前の「神の御名」が文字通りには「彼の御名」であるのと同じで、「神の幕屋」のことです。そして、「天に住む者たち」の「住む」と訳されていることば(スケーノオー)は、その前の「神の幕屋」の「幕屋」ということば(スケーネー)の動詞形です。これによって、「神の幕屋」と「天に住む者たち」が切り離し難く結びつけられています。しかも、「神の幕屋」と「天に住む者たち」の間には、この二つを区別する接続詞(カイ)がありません。このようなことから、新改訳は、「天に住む者たち」は「神の幕屋」をさらに説明するものと理解して、
その幕屋、すなわち、天に住む者たち
と訳しています。
この理解は、黙示録の他の個所に記されていることからも支持されます。
たとえば、終わりの日の救いの完成のことを記している、7章14節後半ー15節には、主の契約の民のことが、
彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
と記されています。
また、21章1節ー4節には、終わりの日に、再臨されるイエス・キリストが、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、再創造される新しい天と新しい地のことが記されています。その中の3節には、
見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
と記されていて、その完全な実現が示されています。
さらに、これは新約聖書において、イエス・キリストの血による新しい契約の民、すなわち、イエス・キリストのからだである教会が主の宿りたもう神殿であるという教えに通じるものです。
コリント人への手紙第一・3章16節ー17節には、
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
と記されています。ここに出てくる「神殿」ということば(ナオス)は、基本的には、建物としての神殿の中心にあり、そこに主の栄光の御臨在がある「聖所」を表すことばです。
また、エペソ人への手紙では、1章23節に、
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
と記されています。この場合の、
いっさいのものをいっさいのものによって満たす方
とは栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストのことです。
また2章20節ー22節には、
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
と記されています。21節で、
この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる
と言われているときの「宮」と訳されていることばは、先ほどのコリント人への手紙第一・3章16節ー17節に出てきた「神殿」と同じことば(ナオス)です。
黙示録13章5節では、
この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられた
と言われていますが、それは、その前の4節で、
獣に権威を与えたのが竜だからである。
と言われていることからも分かりますが、「けがしごとを言う口」は「竜」すなわちサタンから与えられたものです。同じことは、2章9節で、スミルナにある教会の信徒たちが、
ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられている
と言われていることにも当てはまります。このイエス・キリストのみことばは、その「ののしり」が「竜」すなわちサタンの働きによって動かされたものであることを意味しています。「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たち」がスミルナにある教会の信徒たちをののしるのは、彼ら自身がサタンに欺かれて、自らの罪の深刻さを悟ることができないままに、罪の闇の中に閉じ込められてしまっているからです。
彼らからすれば、異邦人であるローマ兵の手によって十字架につけられて殺されてしまったナザレのイエス、しかも、申命記21章23節に記されている「木につるされた者は、神にのろわれた者」であるという規定によれば、「神にのろわれた者」がであるナザレのイエスが、約束のメシヤであるわけがないということになります。さらに、クリスチャンたちが、そのナザレのイエスが栄光の主、ヤハウェであると主張して、その前にひれ伏して礼拝することは、神を冒 することであるということになります。このことが彼らの「ののしり」を生み出していると考えられます。
しかし、十字架につけられて殺されたイエス・キリストこそが、父なる神さまの御許から遣わされた約束の贖い主であり、私たちを「罪の奴隷」の状態から解放してくださり、神の子どもとしての自由のうちに生きる者としてくださる方です。
コリント人への手紙第一・1章23節ー24節には、
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
と記されています。ここでは、
ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
と言われていていて、まず「ユダヤ人」が出てくることに注意したいと思います。福音のみことばは、まず、「ユダヤ人」に伝えられました。決して、「ユダヤ人」が除外されているのではありません。
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