黙示録講解

(第192回)


説教日:2015年1月25日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(21)


 黙示録2章8節ー11節には、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばが記されています。今お話ししているのは、9節に記されています、
わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

というみばについてです。
 これまで、イエス・キリストが知っておられると言われる、スミルナにある教会の信徒たちの「苦しみ」についてお話しし、続いて出てくる、スミルナにある教会の信徒たちの「貧しさ」についてお話ししています。
 スミルナにある教会へのみことばについてのお話の第1回においてお話ししましたが、スミルナは地中海交易における港湾都市として繁栄していました。それは、スミルナが肥沃なヘルモ低地につながっていて、その地の産物の流通において重要な役割を果たしていたことにもよっていました。そのように繁栄していた都市にあったスミルナにある教会の信徒たちが貧しかったのは、一般的に、クリスチャンたちは貧しい階層の人々が多かったということだけにはよっていなかったと考えられます。というのは、黙示録2章ー3章に記されています、イエス・キリストのアジアにある七つの教会に対するみことばの中では、貧しいと言われているのはスミルナにある教会だけだからです。
 その「貧しさ」は、その前に出てくる「苦しみ」すなわち、スミルナにある教会の信徒たちがさらされている迫害によってもたらされたものであると考えられます。
 このことも第1回目のお話の中で取り上げたことですが、スミルナは歴史的、伝統的にローマに忠誠を尽くしてきました。まだローマがカルタゴと覇権を争っていたとき(前265年ー146年頃)に、スミルナはローマ側につき、前195年にローマを人格化したとされる女神ローマのための神殿を建設した最初の都市となりました。そして、前23年にアジアのほかの10都市に先駆けて皇帝ティベリウスのための神殿を建設する許可を得ました。
 このように、スミルナはローマ帝国との特別な関係にあり、皇帝礼拝に積極的な町でした。
 9節後半に、
  またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
と記されていることは、スミルナにはかなりの数のユダヤ人が居住していて、ユダヤ人共同体があったことを反映しています。ローマ帝国において、ユダヤ人は皇帝を神として礼拝することは免除されていて、神としてではなく、支配者としての皇帝への崇敬の意を表すためのいけにえをささげることが認められていました。クリスチャンたちも最初のうちは、ユダヤ教の枠の中にあるものと見なされていましたが、だんだんとユダヤ教の一派とは見なされなくなっていきました。クリスチャンたちも、神として礼拝するのではなく、崇敬の意を表すためのいけにえをささげるというような曖昧な姿勢を退けて、皇帝礼拝には加わらない姿勢を貫いていました。そのような状況にあって、スミルナにある教会の信徒たちが、ただ、社会的に貧しい階層の出身者であるということを越えて、特に貧しかったのは、迫害を受けていたことによっていたと考えられます。


 先主日には、スミルナにある教会の信徒たちの「貧しさ」を表すことばである「プトーケイア」についてお話ししました。少し補足しながら振り返っておきますと、このプトーケイアということばは「乞食の状態」あるいは「乞食をすること」を意味していて、「とても貧しいこと」を表していました。それは物ごいをして生活しなければならないほどの貧しさです。
 新約聖書の中では、このことばはコリント人への手紙第二・8章2節と9節、そして、ここ黙示録2章9節に出てくるだけです。その他では、このことばの形容詞形の「プトーコス(「貧しい」)」が34回、そして、動詞形の「プトーケウオー(「貧しくなる」)」が1回(コリント人への手紙第二・8章9節で)用いられています。
 ギリシャ語には「貧しさ」を表すもう一つのことばである「ペネース」があります。これは日雇い労務者のように、その日暮らしをしている状態を表しています。新約聖書には、このことばばは旧約聖書の詩篇112篇9節の七十人訳(旧約聖書のギリシャ語訳、七十人訳では111篇9節)を引用しているコリント人への手紙第二・9章9節に出てくるだけです。そして、その形容詞形のペニクロスがルカの福音書21章2節に出てくるだけです。
 ですから、新約聖書では、貧しいことを表すのに、プトーコス(形容詞「貧しい」)とプトーケイア(名詞「貧しさ」)とプトーケウオー(動詞「貧しくなる」)が用いられていて、ペネース(名詞「貧しさ」)とペニクロス(形容詞「貧しい」)はそれぞれ唯一の例外であるということになります。さらに言いますと、ペネース(名詞「貧しさ」)は詩篇112篇9節の七十人訳からの引用の中に出てきますので、その語をそのまま使うことになります。それで、これを除外しますと、ペニクロス(形容詞「貧しい」)が唯一の例外ということになります。
 また、七十人訳では、貧しいことを表すのに、ペネースとその関連語が約100回ほど用いられています(そのうちペネースが約80回)。そして、プトーケイアとその関連語が約150回ほど用いられています(そのうちプトーコスが120回以上)。この点では、1、2の例外を除いて、プトーケイアとその関連語を用いている新約聖書とは違っています。
 新約聖書が貧しいことを表すのに、プトーケイアとその関連語を用いていることには理由があると思われます。つまり、物ごいをして生活しなければならないほどの貧しさを表しているプトーケイアとその関連語のほうを選んで、これによって大切なことを伝えようとしているということです。
 ペネースとその関連語は、その日暮らしではあっても、自分で何とかやっていけるという貧しさを表しています。これに対して、プトーケイアとその関連語は、他の人のあわれみにすがって生きていかなければならない状態にあることを示しています。新約聖書はプトーケイアとその関連語のこの意味合いを生かして、これを霊的な意味に転用し、「貧しい人々」が神さまの御前においては、あるいは、神さまとの関係においては、自分の力では何もできなくて、ただ神さまのあわれみと恵みにすがって生きるほかはないことを自覚している、ということを伝えようとしていると考えられます。

 このことには旧約聖書の背景があります。
 出エジプト記21章21節ー27節には、

在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。

と記されています。
 ここには、契約の神である主、ヤハウェが「在留異国人」、「やもめ」、「みなしご」など、社会的な立場の弱い人々、貧しい人々に深く心を注いでおられることが示されています。
 注目すべきことに、「在留異国人」を苦しめたり虐げたりしてはならないという戒めには、
  あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。
という理由が示されています。同じ戒めは、23章9節に、

あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。

と記されています。さらに、レビ記19章33節ー34節には、

もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、である。

と記されています。
 ここでは、

あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。

という戒めが記されていて、「在留異国人」への愛が求められています。そして、その理由も、
  あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、である。
というものです。ここまでくれば、主がエジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民を愛してくださって、その奴隷の状態から贖い出してくださったことが、この戒めの根底にあることに気づきます。その主の愛については、申命記7章6節ー8節に、

あなたは、あなたの神、の聖なる民だからである。あなたの神、は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

と記されています。
 もう一つ注目すべきことは、先ほどの出エジプト記22章22節ー24節に記されています、「やもめ」や「みなしご」についての戒めで、主は、ただ、
  すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。
と戒めておられるだけではないということです。この短い戒めに続いて、

もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。

という長い警告がなされています。
 このような警告とともに戒めが与えられていることは、これに続いて、25節ー27節に記されている、主の民の貧しい人々にお金を貸すことや着物を質に取ることについて戒めにも見られます。それらの戒めの後(27節の最後)には、
  彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。
という警告が与えられています。この警告は短いものですが、それは、これに先立つ22節ー24節に記されている戒めにおいて、長い警告がなされていることを受けています。
  彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。
ということばは、これの前の23節ー24節に記されている、

もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。

という長い警告を踏まえています。
 主が貧しい者たちの叫びを聞かれる方であることは詩篇にも繰り返し出てきます。詩篇9篇12節には、
  血に報いる方は、彼らを心に留め、
  貧しい者の叫びをお忘れにならない。
と記されています。10篇17節ー18節には、
  よ。あなたは貧しい者の願いを
  聞いてくださいました。
  あなたは彼らの心を強くしてくださいます。
  耳を傾けて、
  みなしごと、しいたげられた者を
  かばってくださいます。
  地から生まれた人間が
  もはや、脅かすことができないように。
と記されています。12篇5節には、
  は仰せられる。
  「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、
  今、わたしは立ち上がる。
  わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」
と記されています。69篇33節には、
  は、貧しい者に耳を傾け、
  その捕らわれ人らをさげすみなさらないのだから。
と記されています。
 主の律法の戒めに戻りますが、申命記10章17節ー19節には、

あなたがたの神、は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。

と記されています。
 ここに記されていますように、主が「みなしごや、やもめ」に心に留めてくださり、「在留異国人」を愛してくださっているので、イスラエルの民も「みなしごや、やもめ」に心に留め、「在留異国人」を愛するようにと戒められています。
 主が「みなしごや、やもめ」に心に留めてくださり、「在留異国人」を愛してくださっていることは、具体的な形で表されています。
 出エジプト記23章10節ー11節には、

六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。

と記されています。これは、7年目の安息年に土地を休ませることを戒めるものです。その年に自然に生えてくる作物は、貧しい人々や野の獣に与えるようにと戒められています。
 7年目には種まきも収穫もしないのであれば、その年の食べ物はどうなるのかということについては、レビ記25章20節ー22節に、

あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか』と言うなら、わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。

と記されています。
 主が「みなしごや、やもめ」に心に留めてくださり、「在留異国人」を愛してくださっていることについては、さらに、申命記24章14節ー15節に、

貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことをに訴え、あなたがとがめを受けることがないように。

と記されています。また、17節ー22節には、

在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。

と記されています。
 このように、主は貧しい人々を心に留めてくださり、貧しい人々のためにさまざまな備えをしてくださり、彼らの叫びをお聞きになられます。けれども、イスラエルの民の歴史においては、しばしば貧しい人々が虐げられていました。それで、主は預言者たちをとおして、そのことを糾弾しておられます。
 イザヤ書3章13節ー15節には、
  は論争するために立ち上がり、
  民をさばくために立つ。
  主は民の長老たちや、民のつかさたちと、
  さばきの座に入る。
  「あなたがたは、ぶどう畑を荒れすたらせ、
  貧しい者からかすめた物を、
  あなたがたの家に置いている。
  なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、
  貧しい者の顔をすりつぶすのか。
  ――万軍の神、主の御告げ――」
と記されています。
 エレミヤ書5章28節ー29節には、
  彼らは、肥えて、つややかになり、
  悪事に進み、
  さばきについては、
  みなしごのためにさばいて幸いを見させず、
  貧しい者たちの権利を弁護しない。
  これらに対して、
  わたしが罰しないだろうか。
  ――の御告げ――
  このような国に、
  わたしが復讐しないだろうか。
と記されています。
 エゼキエル書22章29節には、
  一般の人々も、しいたげを行い、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。
と記されています。「一般の人々」と訳されていることば(アム・ハーアーレツ)は文字どおりには「その地の民」で、その地に住んでいる人々を表しています。貧しい人々や在留異国人を苦しめていたのは権力者や有力者たちだけではなく、エゼキエルの時代には、「一般の人々」もそのようなことをしていました。
 これまで引用しました預言者の糾弾は、南王国ユダに対するものでしたが、北王国イスラエルに対する糾弾の例も見ておきましょう。アモス書5章11節には、
  あなたがたは貧しい者を踏みつけ、
  彼から小作料を取り立てている。
  それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、
  その中に住めない。
  美しいぶどう畑を作っても、
  その酒を飲めない。
と記されています。
 このように、主は貧しい人々を心に留めてくださり、貧しい人々のためにさまざまな備えをしてくださり、貧しい人々の叫びをお聞きになられ、彼らのためにさばきを執行され、彼らを救い出されます。
 イザヤ書61章1節ー3節には、
  神である主の霊が、わたしの上にある。
  はわたしに油をそそぎ、
  貧しい者に良い知らせを伝え、
  心の傷ついた者をいやすために、
  わたしを遣わされた。
  捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
  主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
  すべての悲しむ者を慰め、
  シオンの悲しむ者たちに、
  灰の代わりに頭の飾りを、
  悲しみの代わりに喜びの油を、
  憂いの心の代わりに賛美の外套を
  着けさせるためである。
  彼らは、義の樫の木、
  栄光を現すの植木と呼ばれよう。
と記されています。ここでは、約束の贖い主、メシヤが貧しい人々に福音を伝えてくださり、彼らを救い解放してくださるようになることが預言されています。
 このように、旧約聖書をとおして、主が自分の力では自分を救うことができない貧しい人々を心に留めてくださり、彼らの叫びをお聞きになり、彼らのために正しいさばきをしてくださり、彼らをお救いになる方であることがあかしされています。それで、貧しい人々は主を呼び求め、主のあわれみに頼るようになります。
 振り返ってみますと、これまで引用してきました主の律法の戒めに示されていたことも、旧約の贖いの御業の原点である出エジプトの贖いの御業が、貧しい人々、すなわち、エジプトの奴隷の状態にあって、自分の力では自分を救うことができないイスラエルの民を、主が愛してくださり、お心を留めてくださって、彼らを救い、解放してくださったことに基づくものでした。そして、自分の力では自分を救うことができないイスラエルの民を、主が愛してくださり、心を留めてくださって、彼らを救い、解放してくださったことをイスラエルの民が映し出し、あかしすることは、貧しい人々に心を留め、愛を注ぐことをとおして実現するということでした。

 このようなことが背景となって、新約聖書では、自分の力では自分を支えることができず、人のあわれみにすがって生きていかなければならないような貧しさにあることを表すプトーケイアとその関連語が用いられて、貧しい人々が主を呼び求め、ひたすら主のあわれみにすがっていること、そして、主が貧しい人々を顧みてくださっておられることを示していると考えられます。
 マタイの福音書5章1節ー12節には、イエス・キリストが山上の説教の冒頭において語られた8つの祝福が記されています。その最初の祝福は、
  心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
というものです。ここで「心の貧しい者」と言われているときの「」と訳されていることば(プネウマ)は、基本的に、「霊」を表しています。これは神さまとの関係という面から見た心のあり方を示しています。「心の貧しい者」は神さまの御前において自分が「貧しい者」であることを自覚している人のことです。自分の罪のために神さまとの関係が壊れてしまっているけれども、自分の力ではそれをどうすることもできない者であることを自覚して、ただ神さまのあわれみにすがり、神さまが福音のみことばにおいて約束してくださっている贖い主とその恵みに信頼している人です。もちろん、人が「心の貧しい者」になることもイエス・キリストにある恵みによることであって、自分の力によることではありません。神さまは私たちを自らの貧しさを自覚して、ただイエス・キリストにある恵みに信頼するように、御霊によって造り変えてくださいました。そして、その上で、私たちが「天の御国」、すなわち、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて私たちを治めてくださっている御国の民であると宣言してくださっています。
 それとともに、8つの祝福の最後は、
  義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
というものです。ここでの、
  天の御国はその人たちのものだから。
ということは、最初の祝福においても示されていたことです。それで、ここには最初と最後が対応しているという、インクルーシオー(初めめと終わりが対応している表現形式)があります。それで、「心の貧しい者」であることと「義のために迫害されている者」であることが、その人が「天の御国」の民であることにおいてつながっています。このつながりは、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちに語られた、
  わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。
というみことばにおいても見られるものです。スミルナにある教会の信徒たちはイエス・キリストの贖いの恵みにあずかって、神の国の民としていただいているために、迫害を受け、貧しさのうちにありました。そうであれば、スミルナにある教会の信徒たちにおいてこそ、イエス・キリストが宣言された、
  心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
という祝福と、
  義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
という祝福が、紛れもない現実となっていたはずです。
 イエス・キリストはスミルナにある教会に、
  わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――
と言われました。スミルナにある教会の信徒たちが「実際は富んでいる」と言われていることの中心には、イエス・キリストが、
  天の御国はその人たちのものだから。
と言われたことがあります。スミルナにある教会の信徒たちは「苦しみと貧しさ」の中にあって、「天の御国」、すなわち、イエス・キリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて治めてくださっている神の国の祝福のすべてにあずかっているということがあるのです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第191回)へ戻る

「黙示録講解」
(第193回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church