黙示録講解

(第191回)


説教日:2015年1月18日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(20)


 黙示録2章8節ー11節には、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばが記されています。今取り上げているのは、9節に記されています、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

というみことばです。
 ここでイエス・キリストは、スミルナにある教会の信徒たちの「苦しみと貧しさと・・・ののしられていること」を知っていると語りかけておられます。先主日には、スミルナにある教会の信徒たちが受けていた「苦しみ」についてお話ししました。これはローマ帝国からの迫害による苦しみのことです。
 今日は、これに続いて出てくる「貧しさ」についてお話しします。


 ギリシャ語には「貧しさ」を表すことばが二つあります。一つはペネースということばで、その日暮らしの状態を表します。生きていくために必要なものは得られるけれど、それ以上の余裕がない状態のことです。もう一つはプトーケイアということばで、必要なものさえもない状態を表します。この状態にある人々は、物ごいなど、人々のあわれみにすがって生きていかなければなりません。
 ここでスミルナにある教会の信徒たちの状態は、後の方のプトーケイアということばで表されています。それでは、スミルナにある教会の信徒たちが物ごいなど、人々のあわれみにすがって生きていたかというと、必ずしも、そうであったとは言えません。
 どういうことかと言いますと、新約聖書には、必要なものはあるけれど、それ以上の余裕がないということを表すペネースということばは、一個所、コリント人への手紙第二・9章9節に、
  この人は散らして、貧しい人々に与えた。
  その義は永遠にとどまる。
と記されている中に出てくるだけです。しかも、この、
  この人は散らして、貧しい人々に与えた。
  その義は永遠にとどまる。
というみことばは、旧約聖書の詩篇112篇9節(七十人訳では111篇9節)からの引用です。七十人訳が「貧しい人々」をペネースで訳していますので、ここにこのことばが出てきます。
 このことことから、新約聖書では「貧しさ」を表すときには、もう一つの、とても貧しいことを表すプトーケイアということばを用いていると考えることができます。ただし、このプトーケイアということばも、新約聖書の中では、スミルナにある教会の信徒たちのことを記している黙示録2章9節の他には、コリント人への手紙第二・8章2節と9節にしか出てきません。実際には、新約聖書が貧しいことを表すために用いているのは、このプトーケイア(「貧しさ」)ということば(名詞)の形容詞の形であるプトーコス(「貧しい」)です。これは新約聖書に34回出てきます。そのうち24回が福音書に出てきます。これは、イエス・キリストが貧しい人々と深くかかわっておられたことを反映しています。
 このようなことから、新約聖書では、それが必要なものはあるけれどもそれ以上の余裕がない貧しい状態にあることも、必要なものさえもない貧しい状態にあることも、プトーケイア(「貧しさ」)、あるいは、その形容詞の形であるプトーコス(「貧しい」)で表されていると考えられます。
 このようなわけで、スミルナにある教会の信徒たちが「貧しさ」(プトーケイア)の中にあったと言われているからといって、物ごいなど、人々のあわれみにすがって生きていたとは言えません。実際にどうであったと考えられるかということは、最後にお話しします。

 まず、先ほど引用しましたコリント人への手紙第二・9章9節に記されていることが、今日お話しすることと関わっていますので、そのみことばを取り上げたいと思います。
 前後の文脈も見るために8節ー11節を引用しますと、そこには、

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。
 その義は永遠にとどまる。」
と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。

と記されています。
 ここでは、神さまが私たちを「すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方」であり、実際にそのようにしてくださるので、私たちは貧しい人々に、
  惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
と言われています。
 このみことばを読みますと、なんとなく、神さまが私たちを「すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方」であり、実際にそのようにしてくださるので、私たちは裕福になって、「惜しみなく与えるように」なるのだというように考えてしまいがちです。しかし、ここで言われていることは、基本的には、そのようなことではありません。
 このことを考えるために、やはり、先ほど触れましたプトーケイア(「貧しさ」)ということばが出てくる、コリント人への手紙第二・8章2節を見てみましょう。前後の文脈を見るために1節ー5節を引用しますと、そこには、

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

と記されています。
 ここでパウロは「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵み」のことをあかししています。その恵みがどのようなものであったかについて、パウロは2節で、

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

とあかししています。
 マケドニアの諸教会の信徒たちは「極度の貧しさ」の中にありました。この「極度の貧しさ」ということばは、貧しいことを表すプトーケイアに、「極度の」ということばを加えて、その「貧しさ」を強調しています。この場合、「極度の」と訳されていることば(カタ・バスース)は、「深み」を表すことば(バソス)に「・・・に下って」という意味の前置詞(カタ)をつけたもので、深みの底、身近なことばでは、どん底まで落ちてしまっていることを表します。このようなわけで、新改訳はマケドニアの諸教会の信徒たちの貧しさを表すこのことばを「極度の貧しさ」と訳しています。
 その当時のマケドニアの人々の生活は、一般的に、貧しいものであったと言われています。その中にあって、マケドニアの諸教会の信徒たちは、その貧しさのどん底にあったのです。
 そのように、マケドニアの諸教会の信徒たちを貧しさのどん底に陥らせた原因は、その信徒たちが「苦しみゆえの激しい試練の中に」あったことでした。ここで「苦しみゆえの激しい試練」と言われているときの「苦しみ」は、先主日にお話ししました、黙示録2章9節で、イエス・キリストが、スミルナにある教会の信徒たちの「苦しみと貧しさと・・・ののしられていること」を知っていると語りかけておられる中に出てくる「苦しみ」と同じことば(スリプシス)です。ですから、マケドニアの諸教会の信徒たちも、スミルナにある教会の信徒たちと同じように迫害を受けていました。また、「激しい試練」の「試練」(ドキメー)は、マケドニアの諸教会の信徒たちとその信仰の真価を試して明らかにするものです。そして、実際に、その信仰は「苦しみゆえの激しい試練」をとおして、本物であることが明らかにされました。
 これらのことから、ここでパウロがあかししている「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵み」は、「極度の貧しさ」のうちにあったマケドニアの諸教会の信徒たちが裕福になったということにあるのではありません。マケドニアの諸教会の信徒たちは激しい迫害にあって、「極度の貧しさ」のうちにありました。「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵み」は、マケドニアの諸教会の信徒たちが、そのようなとても厳しい状態にあったにもかかわらず、
  彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
とあかしされていることにありました。
 「極度の貧しさ」のうちにあったマケドニアの諸教会の信徒たちが、自分たちのことで精一杯で、とても他人のことは構っていられないと言ったとしても、私たちは、それはもっともなことであると考えます。でも、マケドニアの諸教会の信徒たちはそのようには言いませんでした。それどころか、主にある喜びをもって「惜しみなく施す」ようになっていました。
 このことは、マケドニアの諸教会の信徒たちが、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪の自己中心性から解放され、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれている者として、ほかの兄弟姉妹たちの窮状を自分たちのことのように受け止めていたことを意味しています。

 それが具体的にどのようなことであったかは、3節ー5節に、

私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

と記されています。
 この場合の「聖徒たち」は「エルサレムの聖徒たち」のことです。ローマ人への手紙15章25節ー27節には、

ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。

と記されています。ここに出てくる「アカヤ」はアテネやスパルタ、コリントなどがあったギリシアに当たり、「マケドニヤ」はその北にあり、そこにはピリピやテサロニケなどがありました。
 マケドニアの諸教会の信徒たちは「極度の貧しさ」のうちにありましたが、ここでは、
  喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにした
と言われています。
 ではどうして、マケドニアの諸教会の信徒たちが「エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために」献げたのでしょうか。それについてパウロは、27節で、

彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。

と述べています。これはローマ人への手紙に記されていますので、パウロはこのことをローマにある教会の信徒たちに伝えています。けれども、このことはまた、パウロが、すでに、「マケドニヤ」や「アカヤ」の諸教会の信徒たちにも教えていたことであったと考えられます。そうであっても、マケドニアの諸教会の信徒たちは「極度の貧しさ」のうちにあって、単なる義務感から、仕方なく献げたのではなく、「喜んで」献げたと言われています。これによって、彼らが、「異邦人」クリスチャンがユダヤ人クリスチャンに対して負っている義務について心から納得していたことが分かります。
 けれども、それだけではなかったことでしょう。
 コリント人への手紙第二・8章2節ー4節において、パウロは、特に、マケドニアの諸教会の信徒たちのことを、

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

とあかししています。迫害の中にあって「極度の貧しさ」のうちにあったマケドニアの諸教会の信徒たちは、同じく、迫害の中にあって「極度の貧しさ」のうちにあった「エルサレムの聖徒たち」のことを、自分たちのことのように受け止めることができたのだと考えられます。そうでなければ、このことにおけるマケドニアの諸教会の信徒たちの喜びと、
  聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
とあかしされている熱心さは説明できません。
 そしてこのことこそが、パウロがあかししている「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵み」です。
 パウロは、

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

とあかししています。
 ここでは、あふれ出る豊かさがあかしされています。このことから、マケドニアの諸教会の信徒たちはどれくらい献げたのだろうかという、不謹慎な想像をしてみたいと思います。もちろん、その金額がどれくらいであったかということは分かりません。けれども、マケドニアの諸教会の信徒たちが「極度の貧しさ」のうちにあったのであれば、いくら「力以上に」献げたといっても、献げることができる金額は限られていたはずです。それでも、その献げものは、パウロがあかししているとおり、あふれるばかりに豊かなものでした。これに当てはまる事例が思い出されます。マルコの福音書12章41節ー44節には、

それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

と記されています。新改訳欄外注には、「一レプタは一デナリの一二八分の一に相当する最小単位の銅貨」と記されています。1デナリは労働者の1日分の賃金です。
 イエス・キリストは、
  多くの金持ちが大金を投げ入れていた
ことの華々しさの陰で、
  レプタ銅貨を二つ投げ入れた
女性に目を留めておられました。イエス・キリストは彼女が「やもめ」であることも、その貧しさもご存知でした。そして、彼女が、
  あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れた
ことをご存知でした。その徹底的な貧しさをとおして表されている豊かさを認めておられました。イエス・キリストはマケドニアの諸教会の信徒たちの献げものをこのようにご覧になっておられたはずです。
 もしイエス・キリストが、厳しい迫害のために苦しみ、「極度の貧しさ」のうちにあるマケドニアの諸教会の信徒たちに語りかけられるとしたら、どのようにおっしゃるでしょうか。スミルナにある教会の信徒たちに語りかけられたのと同じように、
  わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――
と語りかけられるに違いありません。

 先に引用しましたコリント人への手紙第二・9章8節ー11節には、

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。
 その義は永遠にとどまる。」
と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。

と記されていました。
 先ほどは、このみことばから、神さまが私たちを「すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方」であり、実際にそのようにしてくださるので、私たちは裕福になって、「惜しみなく与えるように」なるというように考えてしまいがちであるということをお話ししました。けれども、ここで言われていることは、そのようなことではありません。
 これはコリントにある教会の信徒たちへの教えですが、それは、すでにコリントにある教会の間で始められている、「エルサレムの聖徒たち」を支えるための献金を全うするようにという勧めの中に出てくることばです。実は、それは、これまでお話ししてきました、8章1節ー5節に記されている、

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

というパウロのあかしのことばから始まっています。
 そうであるとしますと、9章8節で、

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

と言われているときの「あらゆる恵み」(単数形)は、8章1節ー5節においてパウロがあかししている「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵み」に通じるものであると考えられます。「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵み」は、迫害を受けて、「極度の貧しさ」のうちににあるマケドニアの諸教会の信徒たちが、同じく迫害を受けて貧困にあえいでいる「エルサレムの聖徒たち」を自分のことのように思いやり、「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に」願い、喜びをもって、豊かに献げるようになったことにありました。
 それとともに、9章8節では「あらゆる恵み」と言われていて、あらゆる種類の恵みのことが示唆されています。それで、この恵みには、物質的な備えも含まれていると考えられます。確かに、コリントにある教会の信徒たちは、マケドニアの諸教会の信徒たちほどの貧しさの中にあったわけではありません。とはいえ、コリント人への手紙第一・1章26節ー29節には、

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

と記されています。その当時、イエス・キリストを主として告白して、クリスチャンになった人々は、概して、貧しい人々でした。
 ですから、コリント人への手紙第二・9章8節で、

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

と言われていることから、神さまが私たちを裕福にしてくださって、「惜しみなく与えるように」してくださると主張することはできません。けれども、神さまは私たちが愛をもって仕え合うために必要なものを豊かに備えてくださいます。そのことは、コリントにある教会においてばかりでなく、マケドニアの諸教会においても当てはまることでした。

 マケドニアの諸教会においては、その「極度の貧しさ」の中で、「エルサレムの聖徒たち」を自分のことのように思いやり、「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に」願い、喜びをもって、豊かに献げるようになったことに現れている豊かな恵みが与えられていました。
 それとともに、パウロがあかししている「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵み」は、マケドニアの諸教会の信徒たちが「エルサレムの聖徒たち」を自分のことのように思いやっていたことに現れていただけではないと考えられます。その「極度の貧しさ」の中で、「エルサレムの聖徒たち」を自分のことのように思いやっていたマケドニアの諸教会の信徒たちは、また、お互いのことを自分のことのように思いやっていたに違いありません。
 そのことは、迫害を受けて苦しみ、貧しさにあえいでいたスミルナにある教会の信徒たちにも当てはまると考えられます。これまでお話ししてきたことを踏まえて、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られた、
  わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――
というみことばを読みますと、スミルナにある教会の信徒たちは、迫害の苦しみと貧しさの中にあって、愛をもって、お互いを思いやり、支え合っていたであろうこと、そしてそれが、彼らが「富んでいる」ことの現れであったであろうことを汲み取ることができます。このことはまた、イエス・キリストがスミルナにある教会に対しては、「非難すべきこと」を指摘しておられないことからも支持されます。
 そのようなわけで、スミルナにある教会の信徒たちはほかの人のあわれみにすがって生きていたというよりは、愛をもって、お互いを思いやり、支え合って生きていたと考えられます。主もスミルナにある教会の信徒たち貧しさの中にあって、なおも、お互いを支え合うのに必要なものを与えてくださっていたと考えられます。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第190回)へ戻る

「黙示録講解」
(第192回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church