今日も、黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。今取り上げています9節には、
わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
と記されています。
ここでイエス・キリストは、スミルナにある教会の信徒たちの「苦しみと貧しさと・・・ののしられていること」を知っておられると語りかけておられます。最初に出てくる「苦しみ」は、1章9節において、ヨハネが、
私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
と述べている中に出てくる「苦難」と同じことば(スリプシス)です。ヨハネが、
あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている
と述べているときの「あなたがた」とはアジアにある七つの教会の信徒たちのことです。ヨハネはこの時、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島に」流刑になっていました。それはヨハネ個人に起こったことでしたが、ヨハネは、アジアにある七つの教会の信徒たちとともに「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている」ことであると理解していました。それは、ヨハネがアジアにある七つの教会の中心的な指導者という立場にあったことにもよっていますが、それ以上に、というより、その根底には、イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれている神の子どもたちが、イエス・キリストにあって一つに結ばれていて、神の家族を形成しているという理解と確信があったことによっています。
みことばが一貫して教えているように、私たちがこの世にあって、苦しみを受けることは、イエス・キリストと一つに結ばれていることの現れであって、決して、イエス・キリストから切り離されたり、見捨てられたりしていることの現れではないからです。
この世の一般的な考え方では、人が苦しみに会うのは神から見捨てられたことの現れであるとされます。しかし、福音のみことばが示しているのは、その逆です。ヨハネの福音書15章18節ー20節には、
もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
と記されています。私たちがこの世で迫害を受けて苦しむことは、私たちがイエス・キリストによって世から選び出されていることによっています。このように教えられたイエス・キリストは、スミルナにある教会の信徒たちに、
わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
と語られました。すでにお話ししてきましたように、これはイエス・キリストがスミルナにある教会にある信徒たちが経験している「苦しみと貧しさと・・・ののしられていること」をご自身のこととして知っていてくださるということです。スミルナにある教会の信徒たちが経験している「苦しみと貧しさと・・・ののしられていること」においてイエス・キリストは彼らと一つとなってくださっているということです。
マタイの福音書5章10節ー12節には、
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
と記されています。これは、イエス・キリストが山上の説教の初めに語られた祝福のみことばの最後に出てくる教えです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
という教えは、先ほど引用しました、ヨハネの福音書15章18節ー20節に記されているイエス・キリストの教えと実質的に同じことを示しています。イエス・キリストを主として、イエス・キリストに従う人たちがこの世において迫害を受けるのは、イエス・キリストがその人たちをこの世から選び出してくださって、ご自身の民としてくださったからです。その人たちは「天の御国」、すなわち、イエス・キリストが贖いの恵みをもって治めてくださる御国に入れていただいています。先主日に引用しました、コロサイ人への手紙1章13節ー14節には、
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
と記されていました。私たちは罪によってこの世を支配している暗やみの主権のもとから贖い出されて、父なる神さまが愛しておられる御子の御国へと移していただいています。そして、そのことが意味している祝福、すなわち、御子イエス・キリストにあって父なる神さまとの愛の交わりにあずかるという、永遠のいのちの祝福にあずかっています。それこそが、イエス・キリストが、
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。
と教えておられることの中心にあることでしょう。
この天における「報い」の最終的な完成は、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが私たちご自身の民の救いを完全に実現してくださるときにもたらされます。けれども、私たちはすでにこの世から、また、この世を支配している暗やみの主権のもとから贖い出されて、父なる神さまが愛しておられる御子の御国へと移されていますし、その祝福にあずかっています。
また、この「報い」は、私たちが迫害を耐え忍んだことが功績となって与えられるものではありません。というのは、私たちが迫害の中にあってもなお主のものとして歩むことができるとしたら、それは、イエス・キリストご自身がその迫害の中にある私たちとともにいてくださって、御霊によって私たちを支え、導いてくださるからです。
信仰のための試練の中にあった人々に当てられたペテロの手紙第一・1章3節ー9節には、
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
と記されています。
ここでは、私たちが新しく生まれ、「生ける望み」を持つようにしてくださったことも、「天にたくわえられている」「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにして」くださったことも、父なる神さまの「大きなあわれみ」によることであり、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」によっているということが示されています。すべて、父なる神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださったことです。この場合、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」が私たちのために「天にたくわえられている」ということは、神さまがすでにそれを蓄えてくださっているということを示しています。
そして、今のこととして、
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。
と言われています。この場合の「終わりのときに現されるように用意されている救い」もその救いがもうすでに用意されていることを意味しています。そして、ちょうどすべてが用意され整えられている祝宴の会場に案内されるように、私たちは「信仰により、神の御力によって守られて」救いの完成の時に向かって歩んでいるというのです。やはり、私たちが自分の力で歩んでそこに至るのではありません。
このように、神さまが御子イエス・キリストによってすでに成し遂げてくださったことと、今も、なしてくださっていることを踏まえて、
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
と言われています。神さまが御子イエス・キリストによってすでに成し遂げてくださったことと、今も、なしてくださっていることが試練の中で喜ぶことができることの土台となっています。
このように、イエス・キリストが迫害を受けている人たちに、
喜びなさい。喜びおどりなさい。
とおっしゃったことの理由の一つは、
天ではあなたがたの報いは大きいから。
ということですが、もう一つの理由は、
あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
ということです。預言者たちのことは、彼らのことが神さまのみことばである旧約聖書に記されていますので、契約の神である主、ヤハウェの真のしもべであったと認められています。けれども、その預言者たちも、彼らの生きた時代においては、人々からの迫害を受けたのです。その時代の人々は預言者たちが自分たちのメガネにかなわないとして、排斥し、迫害しました。イエス・キリストは、このようなことがいつの時代にも起こることであることを示しておられます。そして、イエス・キリストを主として告白し、その告白に沿って生きるために迫害を受けている人々が、預言者たちと一つとなっているということを示しておられます。
ここには示されてはいませんが、イエス・キリストはこれらの預言者たちの主であられ、苦しみにおいても、預言者たちの苦しみのすべてを越えて深い苦しみをお受けになりました。先ほど引用しましたペテロの手紙第一・1章3節ー9節は、9節の、
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
というみことばをもって終わっています。これに続く10節ー11節には、
この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
と記されています。預言者たちは「キリストの御霊」のあかしによって「キリストの苦難とそれに続く栄光」を知るようになって、それについて調べたと言われています。このように預言者たちを御霊によって導いておられたのはイエス・キリストでした。
また、預言者たちの主であられるイエス・キリストは、その苦難において、ご自身を預言者たちと一つにしておられます。ルカの福音書13章33節には、
だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。
というイエス・キリストのみことばが記されています。預言者たちの主であられるイエス・キリストは、この世で受ける苦しみはしもべたちが受けて、ご自身はそれとは隔絶されたところに立っておられるのではありません。むしろ、預言者たちの苦しみのすべてを越えて深い苦しみをお受けになりました。
イエス・キリストが、迫害を受けている人たちに、
喜びなさい。喜びおどりなさい。
とおっしゃった二つ目の理由は、
あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
ということでした。イエス・キリストは、迫害を受けている人たちがその預言者たちと一つとなっていることを示しておられます。しかし、だれよりもイエス・キリストご自身が預言者たちの主として、迫害を受けた預言者たちと一つとなってくださっていました。迫害を受けている人たちと預言者たちは、主であられるイエス・キリストにあって一つになっているのです。
このことは、ローマ帝国からの迫害を受けて、「パトモスという島」に流刑となっていたヨハネと、同じくローマ帝国のもとにあるスミルナの町にあって迫害にさらされていたスミルナにある教会の信徒たちが、イエス・キリストにあって一つに結ばれていることに対応しています。ヨハネとスミルナにある教会の信徒たちは、人々から捨てられ、侮辱され、あざけられ、ついには、私たちご自身の民の罪に対する刑罰を受けて地獄の死の苦しみを味わわれたイエス・キリストにあって一つに結ばれています。
このようなことから、ローマ帝国からの迫害を受けて苦しんでいるスミルナにある教会の信徒たちに対して、イエス・キリストが、
わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
と語りかけてくださっているとき、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちと、その苦難において一つとなってくださっていることを信じることができます。このことは、そのまま、いつの時代の主の民にとっても当てはまることです。
このこととのかかわりで、もう一つのことを考えておきたいと思います。
これまでお話ししてきたことは、イエス・キリストを主として告白し、その告白に従って歩む主の民が迫害を受けて苦しむことです。主はそのように迫害を受けているご自身の民と一つとなっておられ、その迫害のさ中で彼らを支えてくださいます。しかし、私たちがこの世で経験する苦しみや悲しみや痛みは、外から来る迫害によるものばかりではありません。私たち自身のうちにある罪が生み出す愚かさによって、自らを傷つけることがありますし、人を傷つけることもあります。あるいは、自然災害や事故に巻き込まれることもあります。そのようなときに、イエス・キリストは私たちと一つとなってくださっていないのでしょうか。それは自らの罪の結果を刈り取っているということ、自業自得であるということになるのでしょうか。
これにつきましては、言うまでもないことですが、福音のみことばはそのようには教えていません。
このことに関して、ここでは、二つのみことばを取り上げてお話ししましょう。
マタイの福音書8章16節ー17節には、
夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
と記されています。
ここには、悪霊につかれた人々や病気に冒されている人々のことが記されています。その人々は、イエス・キリストの御名のために迫害を受けているわけではありません。イエス・キリストはその人々から悪霊たちを追い出し、病気の人々をいやされました。ここではそのことが、
彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。
という預言者イザヤをとおして預言されていたことの成就であると言われています。イエス・キリストはただ単に医者が病人を治すように、人々の病をいやされたのではありません。まことの神の御子としての御力を働かせてくださって、悪霊につかれている人の悲惨さ、病気になっている人の苦しみや痛みをご自身のこととして汲み取られて、その意味で、そのひとりひとりと一つになってくださって、おいやしくださったというのです。ある人が悪霊につかれてしまったのは、その人が愚かにも、悪霊に心を開いてしまったからなのかも知れません。あるいはある人が病気になったのは、不摂生のせいかも知れません。そうであるからといって、イエス・キリストはある人々を除外されたのではありません。
私たちが地上の生涯において経験する、苦しみや痛みや悲しみは、その原因を突き詰めていきますと、神のかたちに造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていることに行き着きます。私たちの罪が死をもたらし、それに伴うさまざまな苦しみと痛みと悲しみを生み出しています。イエス・キリストはご自身の御許に来た人々の苦しみや痛みや悲しみをご自身のこととして汲み取られ、味わわれたことによって、少し人間的な言い方になりますが、これらの悲惨の根本原因である罪をどうしても贖わなければならないという思いを強くされたのだと考えられます。このことはヘブル人への手紙2章17節ー18節や4章14節ー16節、そして5章7節ー10節に記されていることから推察されます。その意味で、イエス・キリストが悪霊を追い出し、病気に苦しむ人々をおいやしになったことは、その生涯の最後に十字架におかかりになって、私たちご自身の罪を贖ってくださって、私たちを暗やみの主権のもとから解放してくださり、復活のいのちにあずかって、新しく生まれさせてくださったことへとつながっています。
また、長い引用になりますが、ルカの福音書15章11節ー24節には、
ある人に息子がふたりあった。弟が父に、「お父さん。私に財産の分け前を下さい」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』」こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」
そして彼らは祝宴を始めた。
と記されています。
今お話ししていることとのかかわりで簡単にお話ししますと、11節に、
ある人に息子がふたりあった。
と言われていますが、この「ある人」は神さまを指しています。それで、二人の息子はもともと神さまの家族です。そのうちの弟の求めに応じて、父は「身代をふたりに分けて」あげました。弟は、それを手にすると、父を見捨てて、「遠い国に」行ってしまい、「そこで放蕩して湯水のように財産を使って」しまいました。その後に、飢饉が起こり、弟は飢え死にしそうになりました。そのような状態になって初めて我に返って、父のところに帰って、罪を告白し、雇い人としてくださいと言おうと決心しました。そのようにして帰っていくと、父はまだ遠くにいる彼を見つけて走り寄って、彼を抱きしめ口づけしました。そして、弟が罪の告白をすると、その先は言わせないで、息子として迎え入れ、盛大なお祝いをしました。
普通に考えますと、この息子が財産を使い果たして飢えに苦しんだのは自業自得であると言いたくなります。それはそのとおりです。けれども、このたとえによって、イエス・キリストは父なる神さまがそのような者をも、限りない愛と恵みをもって迎え入れてくださる方であることを示しておられます。
また、私たちはこれは私たちが最初に救われたときに神さまが示してくださった愛と恵みであって、救われて主の民になった後に、これほどの罪を犯したなら、このような愛と恵みは示されないのではないかと考えるかも知れません。けれども、弟は父の子どもで、財産分与の特権にもあずかっていた者です。ですから、ここでは、基本的に、救われて主の民となった者に示されている主の愛と恵みが限りないものであることが示されています。神である主の私たち主の契約の民に対する愛と恵みは、初めから終わりまで変わることはありません。
ヨハネの手紙第一・1章9節に記されている、
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
という約束の根底には、どのような罪をも完全に贖う力がある、御子イエス・キリストの十字架の死があります。
イエス・キリストは私たちの苦しみや痛みや悲しみが、たとえ、それが私たち自身の罪や愚かさから生じたものであっても、その苦しみや痛みや悲しみをご自身のこととして汲み取ってくださり、深いあわれみをもって、私たちを恵みに満ちた御腕に抱き取ってくださり、ご自身の十字架の死と支社の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づく恵みによって、救いの完成の日に至るまで、真実に支えてくださいます。
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