黙示録講解

(第189回)


説教日:2015年1月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(18)


 黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。今お話ししているのは、9節に記されています、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

というみことばです。
 これまで、この9節の冒頭に出てくる「わたしは知っている」ということばが意味していることについてお話ししました。これは、アジアにある七つの教会のそれぞれに対するみことばに出てくることばです。そして、これは、イエス・キリストがまことの神として、すべてのものとすべてのことを完全に知っておられるということを当然のこととして踏まえつつ、それ以上のことを意味しています。それは、私たち主の民を愛して、私たちの罪を贖ってくださるために、十字架にかかって死んでくださり、私たちを永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストが、アジアにある七つの教会のまことの牧者として、七つの教会の真ん中にご臨在してくださって、それぞれの群れの実情をつぶさに知っていてくださるということです。
 スミルナにある教会へのみことばにおいては、イエス・キリストはご自身のことを、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
として表しておられます。このことについては、すでに詳しくお話ししたことですが、今日はすでにお話ししたこととは少し別の観点からこのことを取り上げて、お話を続けていきたいと思います。
  初めであり、終わりである方
とは、イエス・キリストが、この歴史的な世界の初めとともにある方でありつつ、同時に、終わりとともにある方であること、すなわち、この歴史的な世界を越えた永遠の存在であられることを意味しています。そして、イエス・キリストが、この歴史的な世界の歴史を始められた方であり、その歴史を終わらせる方であることを意味しています。それとともに、「初め」は、イエス・キリストがこの歴史的な世界の「根源」であり「根拠」であることを意味しており、「終わり」は、イエス・キリストが歴史の目的であることを意味しています。さらに、この場合の「初め」と「終わり」は(メリスムスで)その間に起こるすべてのもの、すべてのことをも含んでいます。イエス・キリストはこの歴史的な世界のすべてのもの、すべてのことを、父なる神さまのみこころに従って支え、導いておられる方であることを意味しています。
 イエス・キリストはこのような方として、特に、スミルナにある教会とその信徒たちの実情を、つぶさに知ってくださっておられます。
 イエス・キリストがこのような方であることは、先主日に取り上げました、ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節に記されています、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

というみことばに示されています。
 このことはまた、コロサイ人への手紙1章15節ー17節に記されています、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

というみことばに、より明確に示されています。
 これらのことが、イエス・キリストが、
  初めであり、終わりである方
であられることの基本的な意味ですが、このようなことを土台としまして、イエス・キリストが、
  初めであり、終わりである方
であられることは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェとして、ご自身の契約において約束してくださっていることを必ず実現してくださり、それによって、父なる神さまのみこころを成し遂げられる方であることを意味しています。
 この場合、契約の神である主、ヤハウェがご自身の契約において約束してくださっていることとは、特に、ご自身の契約の民の罪を贖うことによって、彼らを暗やみの主権のもとから解放してくださり、ご自身の御国の民としてくださることです。


 このことと関連して、先ほど引用しましたコロサイ人への手紙1章15節ー17節に先立つ13節ー14節を見てみましょう。そこには、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されています。
 ここに出てくる「暗やみの圧制」は少し説明を帯びた訳で、直訳調に訳しますと、「暗やみの主権」あるいは「暗やみの支配」です。「暗やみの主権」あるいは「暗やみの支配」は、そのもとにある者たちを抑圧し奴隷化しますから、新改訳は「暗やみの圧制」と訳しています。また、「御子のご支配」は、一般に「神の国」と訳されていることばの「神」が「御子」になっている言い方です、それで、それに沿って訳しますと、「御子の国」となります。ギリシャ語では、この「王国」を表すことば(バシレイア)は、「王の支配」をも表しますので、新改訳は「御子のご支配」と訳しています。
 ここで注目したいのは、この13節ー14節に記されていることと、先ほど引用しました15節ー17節に記されていることのつながりです。
 文法の上でのつながりに注目しますと、13節で、
  神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
と言われている中に「御子」ということばが出てきます。そして、14節で、
  この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
と言われていることは、13節に出てくる「御子」を受けている関係代名詞句(「この方にあって」)によって導入されています。それで、13節と14節に記されていることがつながっていて、14節では、13節に出てくる「御子」にかかわる説明をしています。このつながりは、関係代名詞が分からなくても、内容の上から理解できます。ここでは、神さまが、すでに、
  私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました
ので、私たちは、今、
  この御子のうちにあって・・・贖い、すなわち罪の赦しを得ています
と言われています。
 「御子」についての説明はこれで終わってはいません。15節ー(最後の部分を除く)16節で、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、御子にあって造られたからです。

と言われていること(新改訳の順序を変えました)も、13節に出てくる「御子」を受けている関係代名詞(「この方は」)によって導入されています。それで、これらのみことばも、13節で、
  神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
と言われている中に出てくる「御子」を説明しています。
 このつながりに注目しますと、父なる神さまは「私たちを暗やみの圧制から救い出して」、「見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方」であられる、ご自身の「愛する御子のご支配の中に移して」くださったということが示されていることが分かります。
 そして、これに続いて、
  なぜなら、万物は、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、御子にあって造られたからです。
と言われていて、御子が「造られたすべてのものより先に生まれた方」であられることの理由が示されています。
 ここで、「造られたすべてのものより先に生まれた方」と訳されていることばは、直訳しますと「造られたすべてのものの長子」です。この「長子」ということば(プロートトコス)は、文字通りには、「最初に生まれた子」を意味していますが、ここでは比喩的な意味で用いられていて、御子が「造られたすべてのもの」の上にある方、「造られたすべてのもの」の主権者であられることを示しています。そのことは、先ほどの、
  なぜなら、万物は、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、御子にあって造られたからです。
という、理由を表すみことばから分かります。さらに、16節の最後の部分ー17節で、
  万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
と言われていることも、「御子」を指している代名詞によって、御子が「造られたすべてのものより先に生まれた方(プロートトコス)」であられることをさらに説明しています。

 13節で、
  神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
と言われている中に出てくる「御子」の説明は、これで終わってはいません。さらに、18節ー20節には、

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。
 15節ー17節では、創造の御業における御子の立場が記されていましたが、ここでは、贖いの御業、あるいは、贖いの御業に基づく新しい創造における御子の立場が記されています。そして、この二つの個所には対応することばがいくつか出てきます。そのおもなものを挙げますと、18節後半で、
  御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。
と言われているときの「死者の中から最初に生まれた方」と訳されていることばは、直訳しますと「死者たちからの長子」です。これは、先ほどの15節後半に出てきた「造られたすべてのものの長子」に対応しています。それで、この「死者たちからの長子」は時間的に「死者の中から最初に生まれた方」、死者の中から最初によみがえられた方であるということとともに、その権威において、死者たちにの中から生まれた者たちの上にある方であることをも意味しています。イエス・キリストは「死者たちの中から最初に生まれた方」であり、死者たちをよみがえらせる権威をもっておられる方ですし、よみがえった者たち、すなわち、ご自身の民を治めておられ、支え、導いておられる方です。その意味で、イエス・キリストは、最初の創造の御業を遂行されて、すべての造られたものを治めておられる方であるとともに、新しい創造の御業を遂行されて、新しく造られるすべてのものを治めておられる方です。
 そのことは、18節後半において、
  こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
と言われていることに示されています。
 さらに、19節ー20節には、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。ここでは、
  神は・・・御子によって万物を、御子のために和解させてくださった
と言われています。これは、16節後半で、
  万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
と言われていたことに対応しています。
 さらに、ここで、
  地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
と言われている中に、
  地にあるものも天にあるものも
ということばが出てきます。これは16節前半で、

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。

と言われている中に出てきた、
  天にあるもの、地にあるもの
ということばと対応しています。
 このようにして、15節ー17節に記されています、創造の御業における御子の立場の描写と、18節ー20節に記されています、贖いの御業、あるいは贖いの御業に基づく新しい創造における御子の立場の描写が、対応することばによって相互に結びつけられています。そして、そのすべてが、1章13節に記されています、
  神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
ということにつながっています。

 長い説明になってしまいましたが、コロサイ人への手紙1章13節ー20節においては、まず、13節で、私たち主の民の救いは、神さまが「私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して」くださったことであることが示されています。それで、イエス・キリストが私たちの主また王となってくださって、私たちを治めてくださっています。そして、それによって、私たちは今、御子イエス・キリストにあって「贖い、すなわち罪の赦しを得ています」。
 そして、私たちを王として治めてくださっている御子のことが、15節ー17節では、創造の御業を遂行された方であり、すべてのものを治めておられる方であること、また、すべてのものの存在の目的であられることが示されています。さらに、18節ー20節では、私たちを王として治めてくださっている御子のことが、ご自身の十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい創造の御業を遂行される方であり、新しく造られるすべてのものを治めておられる方であること、また、新しく造られるすべてのものの存在の目的であられることが示されています。
 これらのことを、聖書のみことばの全体的な啓示の光で見て、補足をしてみましょう。
 「万物の長子」であられる御子が最初の創造の御業において造られたすべてのものの存在の目的は御子です。それは、造られたすべてのものが、御子の愛といつくしみ、知恵と御力、義と聖さ、真実さなどの(属性の)輝きである、栄光を映し出すことを目的として存在しているということを意味しています。造られたすべてのものは「万物の長子」であられる御子のご栄光を現すときに、真の意味をもつものとなります。
 造られたすべてのものが「御子の栄光を」現すということは、私たちにはなじみのないことかも知れません。しかし、それはすなわち、父なる神さまの栄光を現すことに他なりません。
 私たちのように人格的な被造物が、生きておられる人格的な神さまの栄光を現すことの中心には、私たち自身の人格的なあり方があります。そして、人格的なあり方は機械的なものではなく、神さまがどのような方であるかを理解したうえで、自らの自由な意志に基づいて、そのあり方(考え方と生き方)を選び取ることによっています。ですから、私たちが神さまの栄光を現すためには、神さまを知らなければなりません。けれども、テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節に、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

と記されていますように、だれも父なる神さまを直接的に見ること、知ることはできません。そして、ヨハネの福音書1章18節に、
  いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
と記されていますように、御子イエス・キリストが父なる神さまがどなたであるかを啓示しておられます。ですから、私たちは御子イエス・キリストを知って、初めて、父なる神さまを知ることができます。それで、私たちにとって御子の栄光を現すことは、そのまま父なる神さまの栄光をあらわすことなのです。
 このことは、人格的な被造物について当てはまることですが、人格的ではない被造物にも同じことが当てはまります。というのは、無限、永遠、不変の栄光の神ご自身を代表し、その無限の栄光を表現しておられる父なる神さまが創造の御業を遂行されていたなら、造られたものはすべて、その無限の栄光に御前で、瞬時に、焼き尽くされていたはずだからです。それで、創造の御業を遂行されたのは、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を隠して造られたものにかかわってくださっている「御子」です。このように、すべてのものが「御子によって」また「御子にあって」造られたのであり、いまも「御子にあって」成り立っています。
 それで、御子の栄光を現すことが、そのまま、父なる神さまの栄光を現すことになります。そして、父なる神さまと御子のご栄光を現すために造られたすべてのものの中心にあるのは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。
 しかし、暗やみの主権者、すなわち、サタンの働きによって、神のかたちに造られている人が契約の神である主、ヤハウェに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、すべては一変してしまいました。神のかたちに造られている人の本性は腐敗してしまい、暗やみの主権者であるサタンの特質を現すようになってしまいました。人は自らの罪に対する刑罰としてののろいを受けて死の力に捕らえられ、神である主との愛にある交わりを本質とするいのちを失ってしまいました。
 それとともに、創造の御業において、神のかたちに造られた人に与えられた歴史と文化を造る使命によって人と一つに結ばれているすべての被造物も、人の罪ののろいを受けて、虚無に服してしまいました。このことは、ローマ人への手紙8章19節ー21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されていることから分かります。
 ですから、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことは、ただ、人自身が死の力に捕らえられてしまったということで終わってはいません。それは、全被造物にを虚無に服させてしまうことになった、深刻な問題でした。
 このような事情があって、コロサイ人への手紙1章13節に、
 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
と記されていることは、続く14節に、
  この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
と記されている、私たち主の民にかかわることだけを述べて終わってはいないのです。
 父なる神さまが私たちを「愛する御子の御国」に移してくださったので、私たちは御国の王として治めてくださっている御子のうちにある者となり、御子がその十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、罪を赦されています。そして、そのようにして、私たちを御子の御国の王としてくださった父なる神さまは、また、私たちの王であられる御子の、
  十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させて
くださいました。

 このように、父なる神さまが「私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださ」ったことは、私たちが「この御子のうちにあって・・・贖い、すなわち罪の赦しを得て」いるということで、めでたしめでたしと言うことになってしまわないで、父なる神さまが、私たちの王であられる御子の「十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させて」くださったという、全被造物にかかわる贖いへと広がっています。
 このことを逆に見ますと、父なる神さまが、私たちの主であり、王であられる御子の「十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させて」くださったという、全被造物にかかわる贖いの御業の出発点と、中心は、父なる神さまが「私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださ」ったことにある、ということを意味しています。
 このことは、暗やみの主権者、サタンの目にはどう写っているでしょうか。サタンからしますと、父なる神さまが「私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださ」ったことこそが、大問題であるということになります。
 サタンは、最初の創造の御業において造り出されたすべてのものが御子のご栄光を現すことの中心に、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人があることから、人を神である主に背いて罪を犯すように誘惑して、成功しました。そのサタンとしては、父なる神さまが御子によって遂行しておられる新しい創造の御業においても、同じことをしようとしています。新しい創造の御業の中心には、父なる神さまが「私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださ」ったことがあります。それで、サタンは、父なる神さまが「愛する御子のご支配の中に移してくださ」った者たちを、「御子のご支配」を見限って、御子の御国から出て行くように仕向けることに全力を尽くしているのです。
 そのことが、黙示録では、サタンの働きによる主の御国の民への迫害として示されています。そのために、サタンはこの世の主権者たちを用いることが、典型的なこととして示されています。そのことは特に、12章ー13章に記されています。12章1節ー4節においては、旧約の時代と新約の時代をとおして存在する主の契約の民を象徴的に表している「」が産もうとしている「」を、サタンを象徴的に表している「大きな赤い竜」が食い尽くそうとしていることが記されています(このことの背景には、創世記3章15節に記されている「最初の福音」がありますが、そのことはおいておきましょう)。そして、5節には、この「」がメシヤとして約束されていた「男の子」を産み、「男の子」が神さまの御許の御座に引き上げられたことが記されています。これは、十字架にかかってご自身の民の罪の贖いを成し遂げられた後、栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことを示しています。
 そして、7節ー9節には、御子イエス・キリストがご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられたことに基づいて、天において、霊的な戦いが起こり、「」が天から投げ落とされたことが記されています。イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、サタンの権威は打ち砕かれているのです。
 天から投げ落とされた「」は「自分の時の短いことを知り、激しく怒って」地に下り(12節)、「男の子を産んだ女を追いかけ」ますが、彼女は守られます(13節ー16節)。最後の17節ー18節には、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

と記されています。そして、13章には、「」すなわちサタンが、ローマ帝国を典型的な例とする地上の権力者を象徴的に表す、海から上ってきた獣と、にせ預言者を象徴的に表す、地から上ってきた獣を用いて、「女の子孫の残りの者」、すなわち、キリストのからだである教会を迫害するようになることが記されています。
 これらのことが、アジアにある七つの教会では、スミルナにある教会とフィラデルフィヤにある教会に対する迫害となって現れてきています。
 2章9節では、スミルナにある教会の信徒たちが、
  ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていること
と言われています。聖書は人を悪魔呼ばわりしていると非難されそうですが、これは、これまでお話ししてきましたような、霊的な戦いにおける現実を示しています。これは霊的な戦いですので、逆に、ののしり返すことによっては敗北となります。ただ、私たちを愛して私たちのために十字架にかかって死んでくださった御子イエス・キリストの御国の民として、イエス・キリストの贖いの恵みに支えられて、御霊の実としての愛のうちを歩むことによってのみ、勝利を得ることができます。その愛は、神である主と兄弟姉妹たちを愛する愛であるとともに、主の民を迫害し、ののしる人々のためにも、とりなし、祈る愛(マタイの福音書5章44節、参照・ルカの福音書23章34節)でもあります。


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