黙示録講解

(第188回)


説教日:2014年12月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(17)


 先主日は2014年の降誕節の主日でしたので、降誕節にかかわるみことばを取り上げてお話ししました。今日は、黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話に戻ります。
 9節には、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

と記されています。
 前回は、ここでイエス・キリストが「わたしは知っている」(オイダ)と語り始めておられることについてお話ししました。イエス・キリストはアジアにある七つの教会のそれぞれに語りかけられるときに、まず、ご自身がどのような方として語っておられるかをお示しになりました。そして、それに続いて、「わたしは知っている」と語り始めておられます。
 イエス・キリストはまことの神として、ご自身がお造りになったすべてのものを完全に知っておられます。それで、イエス・キリストは、スミルナにある教会を含めて、アジアにある七つの教会のそれぞれの実情を完全に知っておられます。けれども、ここでイエス・キリストが、
  わたしはあなたの苦しみと貧しさと・・・ののしられていることを知っている。
と言っておられるのは、そのことではありません。そのことは当然のこととして踏まえられているのですが、その上で、さらに、イエス・キリストがアジアにある七つの教会のそれぞれを、ご自身の民として知ってくださっているということを意味しています。
 より具体的には、1章5節後半ー6節に、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

と記されていますように、イエス・キリストはアジアにある七つの教会とその信徒たちひとりひとりを愛してくださり、十字架におかかりになって、彼らを死と滅びから贖い出し、ご自身の民としてくださいました。
 さらに、イエス・キリストがヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったときのことを記している1章10節ー13節には、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されています。イエス・キリストはご自身の栄光の御姿そのものをお示しになる前に、ご自身がアジアにある七つの教会を心にかけておられること、そして、ご自身が栄光の主としてアジアにある七つの教会の真ん中にご臨在してくださっていることをお示しになりました。このようにして、アジアにある七つの教会の中心的な指導者であり牧会者であったヨハネが、ローマ帝国からの迫害を受けてパトモスという島に流刑になっていても、栄光の主であるイエス・キリストがまことの牧会者、大牧者として、アジアにある七つの教会を養い育て、導き支え、守ってくださっていることが示されています。イエス・キリストはアジアにある七つの教会のまことの牧会者、大牧者として、アジアにある七つの教会の一つ一つの実情をつぶさに知ってくださっています。


 このように、イエス・キリストは、アジアにある七つの教会を愛して、そのためにご自身のいのちをお捨てになられました。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえられて、天に上って、父なる神さまの右の座に着座された後にも、アジアにある七つの教会のまことの牧会者としてお働きになっておられます。
 このことと関連して思い出されるのは、ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節です。そこには、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されています。
 ここには、まず、イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従って、天地創造の御業を遂行され、ご自身がお造りになったすべてのものを真実に保っておられる方であることが示されています。その意味で、御子は「万物の相続者」であられ、すべてのものを所有され、治めておられますが、それはすべてのものを真実に保ち続けてくださっていることに現れています。御子はご自身が所有しておられるものを搾取されるのではなく、そのすべてを真実に保ち、支え、生かしておられます。
 ここでは、それとともに、
  また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
と言われていますように、御子は、ご自身の民の罪の贖いの御業を遂行されてから、「すぐれて高い所の大能者の右の座」、すなわち、父なる神さまの右の座に着座された方であることが示されています。このことが、先ほどお話ししました、イエス・キリストがアジアにある七つの教会を愛して、そのためにご自身のいのちをお捨てになられてから、栄光を受けて、父なる神さまの右の座に着座されて、アジアにある七つの教会のまことの牧会者としてお働きになっておられることに符合しています。
 ヘブル人への手紙1章3節では、父なる神さまの右の座に着座された御子イエス・キリストが何をなさっておられるかということには触れられてはいません。けれども、4章14節ー16節には、

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と記されています。ここでは、御子イエス・キリストのことが、
  もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエス
と言われています。これは、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座された大祭司であることを意味しています。そして、そのイエス・キリストについては、
  私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
と言われています。栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたからといって、超然としておられるのではなく、「私たちの弱さ」を本当に分かってくださる方であると言われています。ただ「私たちの弱さ」を分かってくださるというだけではありません。これに先立って、2章17節ー18節には、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と記されています。ここで注目したいのは、イエス・キリストが、
  神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じように
なられたのは、
  民の罪のために、なだめがなされるため
であったと言われていることです。イエス・キリストはただ私たちの弱さを分かってくださるだけではありません。その弱さの根本的な原因が私たちの罪であることをご存知であられて、そのために、ご自身のいのちをお捨てになって、私たちの罪を贖ってくださった方なのです。
 この2章17節ー18節に記されていることは、イエス・キリストが私たちと一つになってくださるために人としての性質を取って来てくださって、私たちが地上の生涯において経験する弱さや痛みや悲しみをご自身のこととして経験されたことによって、私たちのための「あわれみ深い、忠実な大祭司」となられたことを示しています。そして、4章14節ー16節では、イエス・キリストがその私たちのための「あわれみ深い、忠実な大祭司」として、栄光をお受けになり、父なる神さまの右の座に着座されたことが示されています。
 御子イエス・キリストは、地上の生涯においても、父なる神さまの右の座に着座されてからも、私たちご自身の民のために大祭司としてのお働きをなさってくださることにおいて、一貫して変わることがありません。その地上の生涯においては、私たちと一つになられて、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださり、私たちをご自身の栄光にあずからせてくださり、父なる神さまの栄光の御臨在の御前において、父なる神さまを礼拝する民としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。そして、父なる神さまの右の座に着座されてからは、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちを父なる神さまの御臨在の御前に近づくことができるように、導き支え、助けてくださるお働きをしておられます。それで、4章16節では、
  ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
と勧められています。ここで「恵みの御座」と言われているのは、契約の神である主、ヤハウェの御臨在のあるところです。そこには、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づく贖いの恵みが備えられています。そして、私たちのためのあわれみ深い大祭司となられた御子イエス・キリストが、その贖いの恵みを私たちに注いでくださり、父なる神さまの御臨在の御前に近づくことができるようにしてくださいます。10章19節には、
  こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
と記されています。
 1章3節で、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と言われているときの、
  罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
ということは、このように、御子イエス・キリストが私たちのためのあわれみ深い大祭司となられたことのあかしにつながっていきます。

 少し込み入ったことになりますが、文法的には、この3節全体が、先ほどは引用しませんでしたが、2節の前半で、
  この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。
と言われている中に出てくる「御子」を受けている関係代名詞によって導入されています。そして、
  御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり
と言われているときの、「・・・であり」と、
  その力あるみことばによって万物を保っておられます
と言われているときの、「保っておられます」は現在分詞で表されています。また、
  罪のきよめを成し遂げて
と言われているときの、「成し遂げて」は不定過去分詞で表されています。そして、定動詞は「着かれました」です。御子イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことが中心になっています。
 ここで、
  御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり
と言われていることは、父なる神さまと御子イエス・キリストの永遠に変わることがない関係がどのようなものであるかを示しています。これによって、父なる神さまと御子イエス・キリストが一つであられ、御子イエス・キリストがまことの神であられることが示されています。
 また、
  その力あるみことばによって万物を保っておられます
と言われていることは、先ほどお話ししましたように、御子イエス・キリストが創造の御業によって造り出されたすべてのものを真実に支えておられることを示しています。これは創造の御業以来、ずっとなされている御業で、御子イエス・キリストとこの造られた世界の関係を示しています。この前で、
  御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり
と言われていることとのかかわりで言いますと、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れで」あられる御子イエス・キリストが、
  その力あるみことばによって万物を保っておられます
と言われていることになります。
 そして、
  罪のきよめを成し遂げて
と言われていることは、御子イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられたことを示しています。このことを、この前に記されている二つのこととのかかわりで見てみますと、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れで」あられ、「その力あるみことばによって万物を保っておられ」る御子イエス・キリストが「罪のきよめを成し遂げ」られたということになります。
 問題は、これら三つのことが互いに、また、定動詞とどのような関係にあるかということです。このことについては、私の手元にあるいくつかの注解書では、ほとんど取り上げられていませんので、一般に、どのように理解されているのかはよく分かりません。一つの理解は、ウイリアム・レインのすぐれた注解書に出てくる訳に表されています。そこでは、

この御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであるけれども、また、その力あるみことばによって宇宙を保っておられるけれども、罪のきよめを成し遂げられた。そして、そのうえで、いと高き所で神なる主権者の右の座に着座された。

と訳されています。
 このことをお話ししますと、先主日の降誕節の主日礼拝においてお話ししたことを思い出されることと思います。先主日には、ピリピ人への手紙2章6節ー8節に記されている、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

というみことばの最初に出てくる、新改訳で、
  キリストは神の御姿である方なのに、
と訳されているみことばについてお話ししました。そして、イエス・キリストが「神の御姿である方なのに」私たちのために無限に身を低くされたのではなく、「神の御姿であられるので」私たちのために無限に身を低くされたということをお話ししました。
 この場合、「神の御姿である方なのに」と訳すことも、「神の御姿であられるので」と訳すこともできるのは、「・・・である」という動詞が分詞形であることによっています。新改訳はその分詞を「譲歩」を表すものと理解しています。これに対しまして、私はその分詞が「理由」を表していると考えられるということをお話ししました。このことは、今日お話ししていますヘブル人への手紙1章3節のみことばにも当てはまります。それで、先ほどのレインの訳が示しているように、最初の二つの分詞を「譲歩」を示すものと理解することができますし、「理由」を表していると理解することもできます。
 これにつきましては、先主日にお話ししたことと同じように考えることができます。そうしますと、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであられるので、また、その力あるみことばによって万物を保っておられるので、罪のきよめを成し遂げてから、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

となります。この場合、内容の上から、
  御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであられる
という永遠に変わらない事実が最も根本的なことで、御子はこのような方であるので、
  その力あるみことばによって万物を保っておられる
ということがあります。御子がご自身のお造りになったすべてのものを牛耳っておられるのではなく、すべてのものを真実に支えておられることに、父なる神さまの栄光と本質が現れているということです。また、そのように、御子が、ご自身のお造りになったすべてのものを真実に支えておられる方であるので、私たち罪ある者たちのために、
  罪のきよめを成し遂げてから、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
ということです。そして、このことのうちにも、また、御子が父なる神さまの右の座に着座されて、私たちのためのあわれみ深い大祭司としてお働きになっておられることにも、父なる神さまの栄光と本質がさらに豊かに現されているということになります。

 黙示録1章ー3章においては、アジアにある七つの教会とその信徒たちを愛して、十字架におかかりになって罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、アジアにある七つの教会のまことの牧会者、大牧者として、アジアにある七つの教会の真ん中にご臨在してくださっています。そして、アジアにある七つの教会の一つ一つの群れの実情をつぶさに知っていてくださいます。
 それは、アジアにある七つの教会とその信徒たちを、支え、導き、いのちの道を歩ませてくださるためです。具体的には、ご自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、七つの教会とその信徒たちを御国の祭司として、父なる神さまの御臨在の御前に近づけてくださり、礼拝を中心とした神さまとの愛の交わりに生きる者としてくださるとともに、終わりの日に再臨されて実現してくださる救いの完成にあずかるようにしてくださるためです。そのことは、アジアにある七つの教会のそれぞれに語りかけてくださったみことばの最後に語られている祝福の約束に示されています。
 この場合、アジアにある七つの教会は、その当時、ローマの属州であったアジアにあった教会ですが、それとともに、その「7」という数字はは完全数で、アジアにある七つの教会は、歴史をとおしてこの世界に存在するすべての教会を象徴的に表しています。それで、イエス・キリストがアジアにある七つの教会に語りかけられたみことばは、歴史をとおしてこの世界に存在するすべての教会に適用されます。
 このように、黙示録では、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、アジアにある七つの教会の真ん中にご臨在してくださっていることが示されています。これに対しまして、ヘブル人への手紙では、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、私たちご自身の民を父なる神さまの御臨在の御許に近づけてくださることが示されています。もちろん、これは矛盾したことではありません。いわば、一つのことを別の面から見ているのです。イエス・キリストは栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されてから、そこを離れられたことはありません。そのイエス・キリストが私たちご自身の民の間にご臨在してくださるのは、御霊によって、私たちの間にご臨在してくださるということです。そして、イエス・キリストが御霊によって私たちの間にご臨在してくださるときには、父なる神さまもご臨在してくださいます。ヨハネの福音書14章23節には、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

というイエス・キリストのみことばが記されています。また、コリント人への手紙第一・3章16節には、
  あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
と記されています。ここでは、私たち主の契約の共同体である教会が「神の神殿」であり、「神の御霊」が宿っておられると言われています。それは神さまが私たちの間にご臨在してくださっておられるということです。そして、6章19節には、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

と記されています。ここでは、私たちそれぞれのからだ(単数形)が「聖霊の宮」であると言われています。
 その一方で、今は地上にあって生きている私たちを天にご臨在しておられる父なる神さまの御許に近づけてくださるということも、御霊によることです。御霊が地にある私たちを、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わせてくださっているので、私たちはイエス・キリストにあって、父なる神さまの御臨在の御許に近づくことができます。私たちは地上にありますが、この御霊のお働きによって、またそれゆえに、イエス・キリストにあって、天にある「まことの聖所」(9章8節、12節、10章19節、参照・9章24節)に連なる礼拝をささげているのです。
 ヘブル人への手紙との関連性をお話ししましたので、最後にもう一つのことに触れておきます。
 今お話ししましたように、ヘブル人への手紙では、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、私たちご自身の民を父なる神さまの御臨在の御許に近づけてくださることが示されています。このことと調和して、ヘブル人への手紙では、私たち主の民が天に属していることが繰り返し示されています。古い契約の時代の主の民のことを記している11章の13節ー16節には、

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

と記されています。
 そして、主の民がこの世に属していないために迫害を受けることも示されています。35節ー38節には、

またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。

と記されています。
 これらのことを受けて、12章2節には、

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

という戒めが記されています。イエス・キリストは、その十字架の死に至るまでの地上の生涯において、人が経験するあらゆる苦しみと悲しみと辱めを、ご自身のこととして経験されただけではなく、十字架において、私たちご自身の民の罪に対する刑罰を、私たちに変わって受けてくださって、人がいまだ経験していないし、私たちご自身の民がもはや経験することがない、罪の最終的な刑罰の苦しみを味わわれました。主イエス・キリストの民は、地上でどのような苦しみと悲しみと辱めを経験しようとも、イエス・キリストはご自身がそれを経験しておられ、さらに、それをはるかに越える苦しみと悲しみを経験された方です。それで、私たちの前には、常に、イエス・キリストの御足の跡があるのです。


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