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説教日:2014年12月14日 |
このことと関連してもう一つのことを見ておきましょう。 ローマ人への手紙8章31節ー39節には、 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、 死に定められている。 私たちは、ほふられる羊とみなされた。」 と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 という、パウロのイエス・キリストにある確信が記されています。 どうして、このような確信をもつことができるのでしょうか。その確信の根拠は、私たちのうちにはありません。ただ、ご自身の御子であられるイエス・キリストをも私たちのために惜しまずに死に渡された父なる神さまの愛と、私たちをのためにご自身のいのちをお捨てになったイエス・キリストの愛にあります。 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、33節に記されています、 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 というみことばです。 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。 というのは、修辞疑問に当たるもので、この問いかけを聞く私たちが、その答えをよく知っていることを踏まえての問いかけです。ですから、その答えは私たちの中から自然と出てきます。「神に選ばれた人々を訴えるのは」サタンです。「サタン」ということばは、もともとは「敵対する者」、法的な文脈では「訴える者,」を表す普通の名詞でしたが、それが、冠詞がついて「その訴える者」として「サタン」を表す専門用語のようになり、さらに冠詞が取れて固有名詞となりました。ここでは「訴える」と言われていまように、法的なことが問題となっています。黙示録12章10節では、サタンのことが、 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者 と言われています。 ローマ人への手紙8章33節では、サタンが訴えるのは「神に選ばれた人々」であると言われています。 聖書は一貫して、神さまはこの世で取るに足りない者たちを、ただご自身の一方的な愛によってお選びになったことを示しています。たとえば、申命記7章7節ー8節には、 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 と記されていますし、コリント人への手紙第一・1章26節ー28節には、 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。 と記されています。また、エペソ人への手紙1章4節には、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 と記されています。ここで、 神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、 と言われているときの「彼」はイエス・キリストのことです。そして、 御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 と言われていることは、私たちが罪によって汚れてしまっていることを踏まえています。神さまはそのように罪によって汚れてしまっている私たちをイエス・キリストにあってお選びになり、「御前で聖く、傷のない者にしようとされました」。 このように、神さまが私たちをお選びくださったのは、私たちのよさを評価されてのことではありません。ただ神さまの一方的な愛とイエス・キリストにある恵みによることです。 サタンはそのように罪によって汚れてしまっていて、実際に罪を犯してしまう私たちを告発して、神さまの御前に訴えます。ローマ人への手紙8章33節では、サタンの訴えに対して、 神が義と認めてくださるのです。 と言われています。もちろん、それはイエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださったことと、新しい契約のかしらとして十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、私たちのために神さまの御前に義を立ててくださったことに基づいてのことです。 神が義と認めてくださるのです。 と言われていますが、それは神さまの御前におけること、すなわち、天の法廷における最終的な判決です。だれもこれを覆すことはできません。 先ほど、この世のいかなる主権も、大牧者であるイエス・キリストを、私たちご自身の民から切り離すことはできないということをお話ししました。そればかりでなく、暗やみの主権者であるサタンでさえも、私たちを愛してくださっているイエス・キリストと父なる神さまから、私たちを引き離すことはできないのです。 ローマ人への手紙8章31節ー39節に記されていることで、もう一つ注目したいのは、35節において、 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 と言われていることです。 ここでも、先ほどお話ししたのと同じような、 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。 という問いかけがなされています。そして、その候補として考えられることが、 患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか というように、列挙されています。 これらについて簡単に説明しておきますと、「患難」(スリプシス)は「強い圧迫」を表すことばで、ここから、「患難」、「迫害」、「苦難」、「苦しみ」などを意味するようになりました。このことば(スリプシス)は、イエス・キリストがスミルナにある教会へのみことばにおいて、 わたしは、あなたの苦しみと貧しさと・・・のしられていることを知っている と言われたときの、「苦しみ」と訳されたことばです。 「苦しみ」(ステノコーリア)ということばは、「狭い」を表すステノスと、「空間」、「場所」を表すコーロスからなることばで、「窮地」、「窮すること」、「行き詰まり」、さらには「苦悩」などを意味しています。このような意味合いからでしょうか、この「苦しみ」は内面的な苦しみを表し、先ほどの「患難」は外側の苦しみ、外からやって来る苦しみを表すという見方があります。このような区別には反対論もあります。そのような区別はできないとしても、「患難」とこの「苦しみ」という二つのことばを連ねることによって、あらゆる種類の苦しみを示していると考えられます。 「迫害」(ディオーグモス)は、初代教会の信徒たちが現実のこととして経験していたことでした。スミルナにある教会も「迫害」で苦しんでいましたが、スミルナにある教会へのみことばでは「迫害」ということばが用いられないで、「苦しみと貧しさと・・・のしられていること」によって、より具体的なことが示されています。迫害はこの国に生きている私たちには身近に感じられないかも知れませんが、今日の社会では、イエス・キリストを主として信じるために、迫害を受けている主の民がとても多くいます。 「飢え」(リモス)も私たちには、なかなか実感できないことですが、この時代にも、戦乱などの人為的な災害や干ばつなどの自然災害によって「飢え」に苦しむ方々がたくさんいます。その当時の社会でも、戦乱や干ばつなどとともに、イナゴの大群、害虫の発生などによって生み出される飢饉は現実的なことでした。 「裸」(グムノテース)は単なる「裸」ではなく、あまりの貧しさのために、着る物も手に入らない状態を指しています。先ほどの「飢え」と、この「裸」の組み合せによって、極度の貧しさを表しています。 「危険」(キンデュノス)は、その当時の社会では、私たちの社会における「危険」とは異なった「危険」が感じられたことでしょう。その当時では、治安の悪さ、自然災害の予測の難しさ、飢饉、戦争、犯罪、伝染病などがもたらす、さまざまな危険がありました。 「剣」(マカイラ)は、同じローマ人への手紙の13章4節で、社会的な権力者が剣を帯びていると言われているときに出てきます。それで、これは権力者による処刑を意味していて、信仰のための迫害の行き着くところを指していると考えられています。 これらのことから、ここでパウロが挙げているこれらのことは、は、スミルナにある教会の信徒たちの現実にこそ当てはまることが分かります。 パウロは、 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 と問いかけていますが、それに対する私たち主の民の答えは、37節ー39節に、 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 と記されています。それらのどれも、また、それ以外の「どんな被造物も」「私たちをキリストの愛から引き離す」ことはないということです。もちろん、それはイエス・キリストが、どのような時にも、また、どのような状態にあっても、私たちをご自身の愛をもって包み続けてくださるからです。 ローマ帝国からの迫害にさらされていたスミルナにある教会の信徒たちを支えていたのは、彼らのためにいのちをお捨てになった栄光の主であられるイエス・キリストの愛です。そのイエス・キリストが、 わたしは、あなたの苦しみと貧しさと・・・のしられていることを知っている と言われました。ただ単に、まことの神としてすべてのことを知っておられるというだけのことではありません。ご自身がスミルナにある教会の信徒たちをはるかに越える苦しみと貧しさ、そして、ののしりを受けられた方として、スミルナにある教会の信徒たちと一つとなってくださっておられるということです。 マルコの福音書15章16節ー20節には、 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。 と記されています。これは、ローマの兵士たちのことです。さらに、十字架につけられたイエス・キリストを見にきたユダヤ人たちのことが、29節ー32節に、 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。 と記されています。 無限、永遠、不変の栄光の主が限りなく貧しくなって来られ、父なる神さまのみこころに従って、ご自身の民の罪を贖うために、いのちを注ぎ出そうとしておられるときに、あらゆる人々がその方を、にせメシヤであると言って、あざけり、ののしっていました。この方は、このようにののしりとあざけりをもって、人々から捨てられたばかりか、神さまから「のろわれたもの」として、私たちの想像を絶する、地獄の刑罰の苦しみを受けて死なれました。 私たちも、御霊によって心が開かれて、この方の十字架の死においてこそ、神さまの恵みとまことに満ちた栄光が最も豊かに現されているということを悟ることができていなかったとしたら、同じように、この方をののしり、あざけっていたことでしょう。 けれどもこの方、私たちの主イエス・キリストは、このような苦しみと屈辱と悲しみを経験された方として、苦しみの中にあるご自身の民に対して、 わたしは、あなたの苦しみと貧しさと・・・のしられていることを知っている と言ってくださいます。それは決して口先だけのことではありません。この方が、ご自身が経験された苦しみと悲しみや辱めに基づいて、私たちと一つになってくださるので、私たちはこの方の民であることができます。 スミルナにある教会の信徒たちの場合には、ローマ帝国からの迫害による苦しみにおいて、イエス・キリストがその方々と一つになってくださり、その方々をご自身に結びつけてくださっていました。 けれども、イエス・キリストが私たちと一つとなってくださるのは、必ずしも迫害による苦しみをとおしてであるだけではません。それは、失業や倒産などによる経済的な苦しみかも知れません。なんらかの病気による苦しみかも知れません。また、愛する方を失った苦しみかも知れません。人間関係がうまくいかなくなってしまったための苦しみかも知れません。さらには、自分自身の罪の深さにおののくというような、内面的な苦しみであるかも知れません。それがどのような苦しみであったとしても、イエス・キリストがご存知でない苦しみはありません。確かに、イエス・キリストは罪を犯されませんでしたが、罪に苦しむ人々の苦しみをご存知でしたし、そのような人々のために、十字架におかかりになって罪の贖いを成し遂げてくださいました。イエス・キリストは私たちの苦しみをお用いになって私たちをご自身に近づけてくださいます。 皆さんもご存知のことと思いますが、一昔前に、教会学校の子どもたち向けのお話として聞いたお話があります。かなり前のことで、物忘れがひどくなっている私には、細かいことは、正確には思い出せませんが、本筋は次のようなことです。 ある女の子がいました。その子のお母さんは顔がやけどで引きつっていたために、その子は、お友達から「あなたのお母さんはお化けのようだ」と言われました。その子はそんなお母さんのことを恥ずかしく思って、お母さんといっしょに出かけることもしないようにしていました。ある時、その子は恥ずかしい思いをしたときに、泣きながら、お母さんに、どうしてお母さんの顔はこんなに醜いのかと尋ねました。お母さんが「みじめな思いをさせてごめんね」と謝りながら話してくれたのは、その子が小さかったときに家が火事になってしまい、お母さんはその子を守るためにその子を抱え込んで火の中をくぐって出てきたときに自分がひどいやけどを負ってしまったということでした。それを聞いた女の子は、それまで醜いと思っていたお母さんの顔が、自分への愛のしるしであることを知りました。それは恥であるどころが、その子の誇りとなりました。 パウロはガラテヤ人への手紙6章14節で、 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。 と述べています。人々のののしりとあざけりの的である十字架につけられたイエス・キリストこそが私たちの誇りとなりました。 |
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