黙示録講解

(第186回)


説教日:2014年12月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(15)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語りかけられたみことばについてのお話を続けます。
 これまで、イエス・キリストがご自身のことを、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
としてお示しになったことについてお話ししました。これは、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっていたヨハネに、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を示してくださった時に、ヨハネに語りかけてくださった、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
というみことばを受けています。
 1章9節には、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されています。
 ここで「あなたがた」と言われているのは4節に出てきます「アジヤにある七つの教会」です。それで、9節に記されているヨハネのことばは、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」とイエス・キリストにあって一つに結ばれていることを伝えるものです。
 ここでヨハネは、自らのことを、
  あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者
と述べていますが、「イエスにある苦難と御国と忍耐」の最初に出てくる「苦難」ということば(スリプスィス)は、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちに、
  わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。
と言われたときの「苦しみ」と訳されていることばと同じことばです。このことは、スミルナにある教会の信徒たちとヨハネがこの「苦しみ」(「苦難」)において、よりいっそう深くつながっていることを暗示しています。
 ここで、ヨハネは、
  神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた
と言っています。この場合の、
  神のことばとイエスのあかしとのゆえに
ということばは、ヨハネがローマ帝国からの迫害を受けて「パトモスという島」に流刑になっていたことを意味しています。これにつきましては、これと違った理解の仕方がいくつかありますが、それについては、この個所を取り上げた時にお話ししました。結論的には、黙示録の中にこれと同じような言い方がいくつか出てきますが、それらが、迫害を受けていることを示していますので、この場合も、ヨハネが迫害を受けていることを示していると考えられます。具体的には、このことばに最も近いことばが出てきます20章4節には、

また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。

と記されています。ここでは「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たち」と言われています。
 また、6章9節には、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

と記されています。ここでは「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」と言われています。
 さらに、12章17節ー18節には、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

と記されています。
 簡単に説明しておきますと、ここに出てくる「」は、この前の7節ー9節に、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されている、暗やみの主権者であるサタンのことです。「」すなわちサタンは、イエス・キリストが十字架にかかってご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられて、ご自身の民をご自身のよみがえりにあずからせてくださったことによって、そして、天に上られて父なる神さまの右の座に着座されたことによって、その権威を打ち砕かれてしまいました。「」は天における戦いに敗れて、天から投げ落とされてしまいました。
 また先ほどの17節に出てくる、「女の子孫の残りの者」と言われているのはイエス・キリストの民のことです。
 ここ17節ー18節が12章の最後の部分ですが、これに続く13章1節ー2節には、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と記されています。黙示録では、海から上ってきた獣によって象徴的に表されている、ローマ帝国を典型的な例とするこの世の国々によるイエス・キリストの民すなわち「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」への迫害が始まっていきます。その獣の出現は「」すなわちサタンの働きによることです。
 このように、20章4節と6章9節、そして、12章17節ー18節に記されているみことばに照らして見ますと、ヨハネが、
  神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた
と言われているのは、ローマ帝国からの迫害を受けてのことであると考えられます。


 今お話ししているスミルナにある教会へのイエス・キリストのみことばと関連していますので、13章に記されていることをもう少しお話ししたいと思います。
 13章では「」すなわちサタンが、海から上ってきた獣だけでなく、もう一つの獣を地から上らせたことが記されています。11節ー13節には、

また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に・・・最初の獣を拝ませた。また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。

と記されています。
 黙示録では、この後、この地から上ってきた獣のことは「にせ預言者」と呼ばれており、海から上ってきた獣のことが「獣」と呼ばれています。サタンは、この世の権力者たちによる迫害によって、イエス・キリストの民を苦しめ、「にせ預言者」たちの巧みなことばによって、イエス・キリストの民を惑わします。
 それに対してイエス・キリストの民はどのように対処すると言われているのでしょうか。
 12章10節ー11節には、

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。
 ここで、
  私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者
と言われているのは、「」すなわちサタンです。私たちイエス・キリストの民は、この世の権力者たちによる迫害と「にせ預言者」たちの惑わしにさらされながらも、
  小羊の血と、自分たちのあかしのことば
によって、霊的な戦いにおいて、サタンに勝利するのです。
 この場合、
  彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
と言われていますように、迫害によっていのちを失うこともあります。この世の尺度から言いますと、それは悲惨な敗北と言われることでしょう。しかし、それは、イエス・キリストの民が「小羊の血」すなわちイエス・キリストがご自身の十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いを頼みとし続け、「自分たちのあかしのことば」を保ち続けたために受けた迫害による死です。
 言うまでもなく、「自分たちのあかしのことば」とは、自分たち自身のことをあかしすること、自分の業績を誇ることではありません。栄光の主であられるイエス・キリストが、自分たちのためにいのちをお捨てになって、自分たちを死と滅びの中から贖い出してくださり、暗やみの主権者の主権の下から解放して、ご自身の民としてくださったということをあかしすることです。
 イエス・キリストの民を死に追いやったサタンと獣とにせ預言者たちの勝利は地上的なことで、一時的なものです。けれども、イエス・キリストの民が、
  小羊の血と、自分たちのあかしのことば
によってサタンに勝利したと言われているのは、霊的な戦いにおける勝利であり、彼らが「小羊の血」によって永遠のいのちのうちに生かされていることの現れです。

 ここで、
  彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
と言われているときの「惜しまなかった」と訳されていることば(ウーク・エーガペーサン)は、文字通りには、「愛さなかった」です。それを生かして訳しますと、これは、
  彼らは死に至るまでも、自分のいのちを愛さなかった。
となります。この場合の「死に至るまでも」ということは、ことばとしては、時間的に「人生の最後まで」(「自分のいのちを愛さなかった」)という意味にも取れますが、前後の流れ(文脈)からは、「迫害による死に直面してさえも」(「自分のいのちを愛さなかった」)という意味でしょう。
 いずれにしましても、この、
  彼らは死に至るまでも、自分のいのちを愛さなかった。
ということは、ヨハネの福音書12章25節に記されています、
  自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
というイエス・キリストの教えを思い起こさせます。[ほかにも、関連する教えがありますが、それは、この個所に来たときに取り上げることにします。]
 このイエス・キリストの教えは、この前の23節ー24節に記されています、

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

という教えを受けて語られています。これはイエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださったことに触れるものです。イエス・キリストは、
  人の子が栄光を受けるその時が来ました。
と言われました。これは、イエス・キリストが私たちご自身の民を永遠のいのちに生かしてくださるために、ご自分のいのちをお捨てになった結果、そのことへの報いとして、イエス・キリストが栄光をお受けになるということを意味しているだけはありません。この場合に限らず、イエス・キリストの教えでは、そのようにして、私たちご自身の民を永遠のいのち、すなわち、父なる神さまとご自身との愛の交わりに生かしてくださるために、ご自分のいのちをお捨てになることにおいてこそ、イエス・キリストの栄光が現されているということを意味しています。
 この教えを受けて、イエス・キリストは、25節で、
  自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
と教えておられます。それで、これは、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

というイエス・キリストご自身の十字架の死についての教えを、私たちご自身の民に適用してくださったものです。そうしますと、
  自分のいのちを愛する
ということは、イエス・キリストが私たちご自身の民を愛してくださって、ご自分のいのちを捨ててくださったことと相容れないことを意味していることが分かります。それで、
  自分のいのちを愛する
ということは、私たちが自分の健康に気を使って、からだを大切にして生きるというようなことではなく、罪の自己中心性によって縛られ、それに突き動かされて、自分を神の地位に据えて神さまを否定し、自分が人の上に立って、人を自分が思うように動かし、自分を肥やそうとするような価値観であり、それに基づく生き方のことです。
 このことから、
  自分のいのちを愛する
ということは、罪の自己中心性に縛られて、神さまへの愛と隣人への愛を否定することであることが分かります。そして、そのような価値観とそれに基づく生き方は、罪によって霊的に、すなわち、神さまの御前に死んでいる人の価値観であり、生き方あり、罪によって霊的に死んでいる人々によって構成されているこの世の価値観であり、生き方です。言うまでもなく、私たちはかつて、そのような価値観をもち、それに従って生きていました。
 ヨハネの福音書15章12節ー13節には、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
  人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
という教えは、その前の戒めで、
  わたしがあなたがたを愛したように、
と言われていることとの関連では、イエス・キリストが私たちを愛して、ご自分のいのちを捨ててくださったことを指しています。同時に、その前の戒めで、
  あなたがたも互いに愛し合うこと
と言われていることとの関連では、私たちが互いに愛し合う中で、自分のいのちを捨てることを指しています。
 これと同じことは、ヨハネの手紙第一・3章16節に記されています、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

という、ヨハネの教えにも示されています。
 罪の自己中心性に縛られ、それに突き動かされて、自らを神の位置に据え、神さまを否定し、人を支配し、利用して、自分を肥やそうとするという意味での「自分のいのちを愛する」ことは、ヨハネが、
  キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。
とあかししている真の愛を否定することです。その行き着く先は、罪がもたらす死であり滅びです。

 ここには考えておかなければならない一つの問題があります。それは、先ほどのヨハネの福音書12章25節に記されています、
  自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
というイエス・キリストの教えは、一般的な教えであって、迫害の中でのことではないので、黙示録12章11節に、
  彼らは死に至るまでも、自分のいのちを愛さなかった。
と記されていることは、「迫害による死に直面してさえも」「自分のいのちを愛さなかった」ということを意味しているのとは違うのではないかということです。
 これにつきましては、二つのことが考えられます。
 一つは、迫害による死に直面してさえも「自分のいのちを愛さなかった」ということと、より一般的なことである、人生の最後まで「自分のいのちを愛さなかった」ということは、必ずしも、矛盾したり、対立したりするものではありません。
 迫害による死に直面してさえも「自分のいのちを愛さなかった」人は、そのような危機に直面した時だけでなく、常日ごろから、「自分のいのちを愛さなかった」ことでしょう。それで、その人が迫害に直面しなかったら、その人は人生の最後まで「自分のいのちを愛さなかった」とあかしされることになったでしょう。
 また、人生の最後まで「自分のいのちを愛さなかった」人は、迫害の危機に直面しても、「自分のいのちを愛さなかった」ことでしょう。
 ですから、常日ごろから、どのような時であっても、どのような状況にあっても、「自分のいのちを愛さない」で、神である主と兄弟姉妹たちを愛して「自分のいのちを捨てる」生き方をしている人が、迫害の危機に直面しても、「自分のいのちを愛さない」で、神である主と兄弟姉妹たちを愛して「自分のいのちを捨てる」ようになります。
 もちろん、このすべては、先ほど引用しました、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

というイエス・キリストの教えや、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

という、ヨハネの教えに示されていますように、まず、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださったことに現されている、イエス・キリストの私たちへの愛があります。私たちはその愛に包まれて初めて、また、イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、罪を贖っていただいて、罪の自己中心性から解放されていて初めて、「自分のいのちを愛さない」で、神である主と兄弟姉妹たちを愛して「自分のいのちを捨てる」ことができます。
 もう一つのことですが、確かに、
  自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
というイエス・キリストの教えは、迫害のことを取り上げる中で語られたものではありません。けれども、先ほどお話ししましたように、この教えは、それに先立って語られている、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

というイエス・キリストが十字架においてご自身のいのちをお捨てになることについての教えを受けています。そのイエス・キリストの十字架の死は、人々からの迫害によってもたらされたものです。ルカの福音書9章22節には、

人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。

というイエス・キリストの教えが記されていますし、18章32節ー33節には、

人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。

と記されています。
 また、先ほど引用しました、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

というイエス・キリストの教えはヨハネの福音書15章12節ー13節に記されていますが、そのすぐ後の、17節ー19節には、

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

という教えが記されています。 やはり、イエス・キリストの民が、イエス・キリストが自分たちを愛してくださって、そのいのちをお捨てになったように、互いに愛し合うということは、この世から迫害を受けることと無関係ではないのです。

 これには、より根本的なこと、より深い霊的な事実がかかわっています。
 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが私たちご自身の民のためにいのちを捨ててくださったことにおいてこそ、イエス・キリストの栄光が現されています。そして、そのイエス・キリストの栄光は、そのまま、父なる神さまのご栄光の現れです。この父なる神さまと御子イエス・キリストの栄光は、この世の主権者たちの栄光と真っ向からぶつかるものです。
 マルコの福音書10章42節ー45節には、

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 これはイエス・キリストの御国における栄光を、この世の権力構造の最高位にあるものであると誤解した、ヤコブとヨハネが、自分たちをその権力構造の序列で、メシヤであるイエス・キリストの次の位に就けてほしいと願い出たことを受けての教えです。
 これに対して、イエス・キリストは、ご自身の御国の主権とその栄光は、その王であられ、主であられるイエス・キリストが、私たちご自身の民のための「贖いの代価として」ご自分のいのちを与えてくださったことに現されているということを教えておられます。これは、イエス・キリストが、
  異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
と指摘しておられるこの世の主権とその栄光とは、本質的に違っています。それで、この世にあっては、イエス・キリストはこの世の権力者たちからの迫害を受けて十字架につけられましたし、イエス・キリストの民としてイエス・キリストの御足の跡を踏み行く者たちも、この世からの迫害を受けて、苦しむことになります。
 このことには、もう一つ大切なことがあります。
 ヨハネの福音書12章23節ー25節に記されています、

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

というイエス・キリストの教えは、主であられるイエス・キリストが私たちご自身の民を愛していのちを捨ててくださったことが、私たちイエス・キリストの民の生き方にも映し出されるようになることを示しています。それで「自分のいのちを愛さない」ことにおいて、私たちをとおしてイエス・キリストのいのちが現れるようになります。その意味で、私たちイエス・キリストの民は主であられるイエス・キリストと一つに結ばれています。そのことは、ヨハネの福音書15章12節ー13節に記されています、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

という、イエス・キリストの教えや、ヨハネの手紙第一・3章16節に記されています、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

という、ヨハネの教えにも、そのまま当てはまることです。
 このことから、黙示録12章11節において、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでも、自分のいのちを愛さなかった。

と言われている「兄弟たち」すなわちイエス・キリストの民は、迫害のさ中にあって「自分のいのちを愛さなかった」ことにおいて、主であられるイエス・キリストと特別な意味で深く結ばれていたことを意味しています。
 そうであるとしますと、イエス・キリストが、スミルナにある教会の信徒たちに、
  あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。
と言われたことは、イエス・キリストが、迫害を受けて苦しみの中にあるスミルナにある教会の信徒たちを外から指導しているのではなく、彼らと特別な意味で一つとなってくださることを意味しています。
 最初にお話ししましたように、スミルナにある教会の信徒たちは迫害による「苦しみ」(「苦難」)において、ヨハネと深くつながっていましたが、そのヨハネとスミルナにある教会の信徒たちはともに、やはり、迫害による苦しみにおいて、栄光の主であられるイエス・キリストと一つに結ばれていたのです。


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