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説教日:2014年11月30日 |
今お話ししている、 わたしは・・・生きている者である。 というみことばの旧約聖書の背景となっていることをまとめておきましょう。 その一つは、旧約聖書にしばしば出てくる、 主は生きておられる。 ということばです。このことばは誓いをするときや、それと同じように、そのことが確かなことを表すために用いられます。 その典型的な例の一つは、列王記第一・1章29節ー30節に記されている、ダビデがバテ・シェバに、その子ソロモンを王位に就けることを誓ったことです。そこには、 王は誓って言った。「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。私がイスラエルの神、主にかけて、『必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に着く』と言ってあなたに誓ったとおり、きょう、必ずそのとおりにしよう。」 と記されています。このダビデの誓いは、ダビデが自分の考えに なしたことではなく、主がダビデに示してくださったみこころに従ってなしたことです。その主のみこころは、歴代誌第一・22章8節ー10節に記されている、主がダビデに語られた、 あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。見よ。あなたにひとりの子が生まれる。彼は穏やかな人になり、わたしは、彼に安息を与えて、回りのすべての敵に煩わされないようにする。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与えよう。彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしにとって子となり、わたしは彼にとって父となる。わたしはイスラエルの上に彼の王座をとこしえまでも堅く立てる。 というみことばに示されています。列王記第一・1章29節で、ダビデは、 私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。 と言っています。ダビデは自分に対して真実を尽くしてくださった主が、自分に示してくださったみこころに従ってこの誓いをしています。 これが、 主は生きておられる。 ということばの本来の使い方ですが、実際には、これが必ずしも主のみこころに従っているための確かさを表すものとして用いられたわけではなく、一種の決まり文句のように用いられることもありました。 これとともに、 わたしは・・・生きている者である。 というみことばの旧約聖書の背景となっているのは、主、ヤハウェがご自身のことを生きておられると語られたことがあります。 すでに先々主日にお話ししましたように、旧約聖書に出てくる、 わたしは生きている。 という主のみことばは、ほとんどが[例外としては、シオンの回復の預言を記しているイザヤ書49章18節があります]、主がさばきを執行されることに関連して語られています。そして、そのさばきは、主とその民の敵に対するさばきだけでなく、主に背き続けたイスラエルの民へのさばきでもあります。 その典型的な例の一つは、申命記32章40節ー42節に記されている主、ヤハウェのみことばです。そこには、 まことに、わたしは誓って言う。 「わたしは永遠に生きる。 わたしがきらめく剣をとぎ、 手にさばきを握るとき、 わたしは仇に復讐をし、 わたしを憎む者たちに報いよう。 わたしの矢を血に酔わせ、 わたしの剣に肉を食わせよう。 刺し殺された者や捕らわれた者の血を飲ませ、 髪を乱している敵の頭を食わせよう。」 と記されています。 これは、申命記32章1節ー43節に記されている、一般に「モーセの歌」として知られているみことばのうち、43節を残した、最後の部分です。 ここでは、 まことに、わたしは誓って言う。 という主のみことばに続いて、主が、 わたしは永遠に生きる。 と言われたことが記されています。それで、この、 わたしは永遠に生きる。 という主のみことばは、主ご自身が誓われたこと、そのゆえに、かならす成し遂げられることを意味しています。 そして、これに続いて、 わたしがきらめく剣をとぎ、 手にさばきを握るとき、 わたしは仇に復讐をし、 わたしを憎む者たちに報いよう。 わたしの矢を血に酔わせ、 わたしの剣に肉を食わせよう。 刺し殺された者や捕らわれた者の血を飲ませ、 髪を乱している敵の頭を食わせよう。 と記されていますように、主がご自身と主の民の敵に対するさばきを執行されるということです。 そして、これに続く43節が「モーセの歌」の最後の節ですが、そこには、 諸国の民よ。 御民のために喜び歌え。 主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、 ご自分の仇に復讐をなし、 ご自分の民の地の贖いをされるから。 と記されていて「モーセの歌」が締めくくられています。 この43節のみことばは、 主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、 ご自分の仇に復讐をなし、 と言われていること、すなわち、主が、主と主の民の敵へのさばきを執行されることが、 ご自分の民の地の贖いをされる と言われていること、すなわち、主が主の民の間にご臨在される「地の贖いをされ」て、主の民とのいのちの交わりを回復してくださることにつながっていることを示しています。 「モーセの歌」は預言としての意味をもっていて、イスラエルの民がやがて主への不信仰のために背教していくこと、それに対して主がさばきを執行されること、そして、それにもかかわらず、主がご自身の民をあわれみ、贖いをもって回復してくださることが示されています。 これが「モーセの歌」の大筋なのですが、これにはもう一つの要素があります。それは、主と主の民に敵対している民の存在です。そのことは、たとえば、26節ー27節に記されている、 わたしは彼らを粉々にし、 人々から彼らの記憶を消してしまおうと 考えたであろう。 もし、わたしが敵のののしりを 気づかっていないのだったら。 ――彼らの仇が誤解して、 「われわれの手で勝ったのだ。 これはみな主がしたのではない」 と言うといけない。 という、主のみことばに示されています。 ここで、 わたしは彼らを粉々にし、 人々から彼らの記憶を消してしまおうと 考えたであろう。 と言われているときの「彼ら」は主に対する不信をつのらせ、主に背き続けたイスラエルの民のことです。ここでは、イスラエルの民の罪は「彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしま」うほどのさばき、すなわち、彼らを滅ぼしてしまうさばきに価するものであることが示されています。 さらに、 彼らの仇が誤解して、 「われわれの手で勝ったのだ。 これはみな主がしたのではない」 と言うといけない。 という、主のみことば、主がイスラエルの民の敵をお用いになって、イスラエルの民へのさばきを執行されることを示しています。 その一方で、主は、 彼らの仇が誤解して、 「われわれの手で勝ったのだ。 これはみな主がしたのではない」 と言って、ご自身をあなどるようになることがないようにするために、イスラエルの民を滅ぼしてしまうことはなさらないと言われました。このことに、主のご自身の民へのあわれみが示されています。 主は、主に対する不信を募らせて、背教してしまうイスラエルの民をおさばきになるのに、国々の王たちを用いられました。イスラエルはソロモンの次の王位継承をめぐって南北に分裂してしまいますが、北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、南王国ユダはバビロンによって滅ぼされてしまいました。アッシリヤの王も、バビロンの王も、自分たちの野望にしたがって国々を征服しています。歴史の主であられるヤハウェは、そのような彼らの野望をお用いになって、北王国イスラエルと南王国ユダをおさばきになりました、 主がお用いになったからといって、アッシリヤやバビロンが主を恐れて、主のみこころを行おうとしたのではありません。彼らは自らの野望にしたがって、多くの血を流し、国々を征服して、人々を搾取したのです。主が彼らをお用いになったということで、このことが正当化されることはありません。彼らは神のかたちに造られている人のおびただしい血を流し、神のかたちの栄光と尊厳性を踏みにじりました。そして、主の契約の民にもそのようなことをしました。主はそのために、アッシリヤやバビロンを、ご自身の敵としておさばきになりました。栄華を誇ったアッシリヤもバビロンも、歴史の過去へと押し流されてしまい、今はもう廃虚となってしまっています。 これらのこと、すなわち、ご自身の契約の民へのあわれみと、ご自身に敵対している民へのさばきが相まって、先ほど引用しました34節の、 諸国の民よ。 御民のために喜び歌え。 主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、 ご自分の仇に復讐をなし、 ご自分の民の地の贖いをされるから。 というみことばが記されています。 改めて考えて見ますと、これらのことには一つの問題が残っています。それは、主の義にかかわる問題です。先ほど引用しました26節ー27節に記されている、 わたしは彼らを粉々にし、 人々から彼らの記憶を消してしまおうと 考えたであろう。 もし、わたしが敵のののしりを 気づかっていないのだったら。 ――彼らの仇が誤解して、 「われわれの手で勝ったのだ。 これはみな主がしたのではない」 と言うといけない。 という、主のみことばにおいては、主に対する不信をつのらせ、主に背き続けたイスラエルの民の罪が、彼らを滅ぼしてしまうさばきに価するものであることが示されていました。それと同時に、主と主の民であるイスラエルの民に敵対している民が、 われわれの手で勝ったのだ。 これはみな主がしたのではない と言って、主、ヤハウェをあなどるようになることがないようにするために、主はイスラエルの民を滅ぼしてしまうことはなさらないと言われました。そのようにして、主のあわれみが示されているのですが、それでは、主の義はどうなってしまうのかという問題が残ります。主に背き続けたイスラエルの民の罪は、彼らを滅ぼしてしまうさばきに価するものであるのに、その罪がきっちりと清算されないで終わってしまうのではないかという問題です。 この問題は、「モーセの歌」の中では取り上げられてはいません。けれども、主は後に、この問題にお答えになっておられます。その答えは、何度か取り上げてきました、イザヤ書40章ー55章に記されています、4つの「主のしもべの歌」、特に、52章13節ー53章12節に記されています、「主のしもべの第4の歌」において示されています。 「主のしもべの第4の歌」は、52章13節の、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 ということばで始まっています。すでにお話ししていることですので結論的なことだけをお話ししますが、これは、ここで「わたしのしもべ」と言われている方が、同じイザヤ書の6章1節に、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と記されています、「高くあげられた王座に座しておられる主」に当たる方、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを示しています。 主によって「わたしのしもべ」と呼ばれている方が、主、ヤハウェであられるということは、ここでは解けないなぞです。これは、この「主のしもべの第4の歌」において預言されている主のしもべが、永遠の神の御子イエス・キリストであられることが明らかになって初めて解けるようになります。黙示録では、父なる神さまが契約の神である主、ヤハウェであられることが示されているとともに、御子イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることも示されています。 そして、イザヤ書53章4節ー6節には、この方のことが、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を 彼に負わせた。 と記されています。 栄光の主であられる方がしもべとなられて、私たちご自身の民の罪の咎を負ってくださり、「刺し通され」「砕かれ」るというのです。8節に、 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、 生ける者の地から絶たれたことを。 と記されていますように、この方は、私たちの「そむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれ」ます。そして、10節に、 もし彼が、自分のいのちを 罪過のためのいけにえとするなら、 彼は末長く、子孫を見ることができ、 主のみこころは彼によって成し遂げられる。 と記されていますように、この方はご自身の「いのちを罪過のためのいけにえ」とされて、「主のみこころ」を成し遂げられます。この方がご自身の「いのちを罪過のためのいけにえ」とされたことによって、私たちご自身の民の罪は完全に清算され、贖われます。これによって、神である主の義はうやむやにされることなく、主が義なる方であられることが明らかにされます。 そればかりではありません。この方はご自身のいのちを私たちの「罪過のためのいけにえ」として死なれますが、それで終わるのではありません。 もし彼が、自分のいのちを 罪過のためのいけにえとするなら、 彼は末長く、子孫を見ることができる と言われていますように、「末長く」生きるようになります。そのことはさらに12節に、 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 と記されているみことばに示されています。ここでは、この方が栄光を受けて死者の中からよみがえることが示されています。 これらのことは、栄光の主であられるイエス・キリストがまことの人の性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべてお受けになって死んでくださったことによって成就しています。 イエス・キリストは、ヨハネにご自身のことを、 わたしは・・・生きている者である。 とあかしされました。これは、これまでお話ししてきましたように、二つのことを示しています。一つは、これが、 エゴー・エイミ・・・ という強調形の現在時制で表されていて、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられるということです。もう一つは、イエス・キリストが救いとさばきの御業、特に、さばきを遂行される主であられるということです。 イエス・キリストはそのように、 わたしは・・・生きている者である。 とあかしされる方として、ご自身に逆らって罪を犯す者の罪を厳正におさばきになる方です。そして、このことをさらに説明して、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。 とあかししておられます。これは、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、私たちを栄光あるいのち、すなわち永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことに触れるものです。すべての人の罪を厳正におさばきになる栄光の主ご自身が十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださって、私たちの罪をすべて清算してくださったというのです。このようなことは、まったく、人が思いつかないことです。 このことを受けて、イエス・キリストはスミルナにある教会に、ご自身を、 死んで、また生きた方 としてお示しになりました。イエス・キリストは「死んで、また生きた方」として、迫害の苦しみにさらされて、死をも覚悟し受け入れようとしていたスミルナにある教会の信徒たちと一つであられることをお示しになったのです。 黙示録2章9節では、スミルナにある教会の信徒たちが、 ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられている と言われています。ルカの福音書18章32節ー33節に記されていますように、イエス・キリストもご自身が十字架につけられて殺されることを予告されたとき、 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。 と言われました。実際に、このことを経験されたイエス・キリストは、人々からののしられているスミルナにある教会の信徒たちと一つとなってくださっていたはずです。 さらに、スミルナにある教会の信徒たちの中には、投獄されて死ぬことになる方々もいました。けれども、それは主に見放されたことの現れではありませんでした。むしろ、特別な意味で、 死んで、また生きた方 また、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。 とあかししておられるイエス・キリストと一つに結ばれていることの現れでした。 このようにして、イエス・キリストと一つに結ばれていることに基づいて、2章10節に記されています、 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 という約束が与えられています。 これは「死に至るまで忠実であ」ったことへの報いとして「いのちの冠」が与えられるということです。しかし、その根底には、スミルナにある教会の信徒たちが、主の一方的な愛と恵みによって、イエス・キリストと一つに結ばれて、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっているということがあります。そのようにイエス・キリストと一つに結ばれていてはじめて「死に至るまで忠実であ」ることができます。「死に至るまで忠実であ」ることができるのは、主の恵みによることです。それで、主の民は、自分は「死に至るまで忠実であ」ったと誇ることはできません。ただ主とその愛と恵みだけがあかしされ、讚えられるべきです。 |
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