黙示録講解

(第184回)


説教日:2014年11月23日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会に対するみことば(13)


 黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばにおいて、イエス・キリストは、ご自身のことを、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
として示しておられます。この、イエス・キリストのみことばは、1章17節後半ー18節に記されています、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
という、イエス・キリストのみことばを受けています。これは、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに、ご自身の栄光の御姿を示された時に、ヨハネに語りかけられたみことばです。
 このみことばが語られた状況を振り返って見てみますと、1章9節ー20節には、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

と記されています。
 今日は、このことから、一つのことを考えてみたいと思います。
 ヨハネはエペソにある教会の牧会者でしたが、同時に、ローマ帝国の属州であるアジアにある教会の中心的な指導者であり、その意味でアジアにある諸教会の牧会者でした。そのヨハネはローマ帝国からの迫害を受けて「パトモスという島」に流刑となっていました。そのヨハネに、イエス・キリストが栄光の御姿を現してくださいました。それは、11節に記されていますように、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

と、ヨハネに語りかけてくださることから始まっています。ここでイエス・キリストは、ヨハネにご自身が啓示されることを書き記して、アジアにある「七つの教会」に送るように命じられました。その上で、ご自身の栄光の御姿をヨハネにお示しになられました。このようにしてヨハネは黙示録を書き記しました。
 この「七つの教会」の「」は完全数で、その当時の、アジア州にあった教会を代表的に表すとともに、ローマ帝国にあった教会、さらには、歴史をとおして、すべての国々、民族の間に存在するようになる教会を代表的に表していると考えられます。
 実際、19節に記されています、
  そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
という、イエス・キリストのみことばに出てくる「あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事」は、ローマ帝国にあった教会が置かれている時代状況を示しつつ、さらに、それを越えて終わりの日に至るまでの教会が置かれている状況を示しています。


 アジアにある「七つの教会」は、すべての時代のすべての教会を代表的、また、象徴的に表しています。そして、そのアジアにある「七つの教会」の指導者であり、その意味での牧会者であるヨハネが、ローマ帝国からの迫害によって「パトモスという島」に流刑となっていたことは、アジアにある「七つの教会」、ひいては、初代教会から世の終わりに至るまでのすべての時代のすべての教会が置かれている状況を物語っています。このことによって、初代教会から世の終わりに至るまでのすべての時代のすべての教会がこの世に属するものではなく、この時、ご自身の栄光の御姿をヨハネにお示しになったイエス・キリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて治めておられる御国、すなわち、神の国に属していることが示されています。ヨハネの福音書15章19節に、

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

と記されているとおりです。
 この時、ヨハネは自分が指導し牧会しているアジアにある「七つの教会」から引き離されて、「パトモスという島」に流刑となっていました。そのヨハネにイエス・キリストがご自身の栄光の御姿を現してくださいました。そして、アジアにある「七つの教会」に対するご自身のみこころを啓示してくださり、それが、アジアにある「七つの教会」に伝えられるようにしてくださいました。これが9節ー11節と19節に記されています、黙示録が記されるようになった経緯です。イエス・キリストはなおもヨハネをとおして、アジアにある「七つの教会」にみことばによる導きを与えてくださり、みことばによって養い育ててくださっています。
 そればかりではありません。9節ー11節に続く12節ー13節には、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されています。
 12節に、
  振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
と記されていますように、ヨハネが最初に見たのは「七つの金の燭台」です。これは幻の中で示されたことですので、ヨハネが最初に見たものは、イエス・キリストがヨハネに最初に示してくださったものです。この「七つの金の燭台」については、20節に記されていますが、イエス・キリストが、
  七つの燭台は七つの教会である。
と説明してくださっています。
 イエス・キリストはヨハネにまず「七つの金の燭台」によって象徴的に表されている「七つの教会」を示してくださいました。しかも、続いて、
  それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
と記されていますように、「七つの教会」の真ん中に「人の子のような方」、すなわち、栄光のキリストがご臨在しておられることが示されました。ちなみに、12節の「振り向くと」以下、13節までが一つの文です。それを生かして訳しますと、

振り向くと、七つの金の燭台が、そして、それらの燭台の真ん中に、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

となります。
 イエス・キリストはご自身の栄光の御姿をヨハネにお示しになった時、ご自身の栄光の御姿そのものより前に、ヨハネが指導し、牧会していたアジアにある「七つの教会」を示してくださり、それらの教会の「真ん中に」ご自身がご臨在しておられることをお示しくださったのです。
 イエス・キリストはご自身の栄光の御姿をヨハネにお示しになった時、ご自身を「人の子のような方」としてお示しになりました。
 この「人の子のような方」は、旧約聖書のダニエル書7章13節ー14節に、
  私がまた、夜の幻を見ていると、
   見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
   年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
   この方に、主権と光栄と国が与えられ、
   諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
   彼に仕えることになった。
   その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
   その国は滅びることがない。
と記されていることを背景としています。ここでは、
  人の子のような方が天の雲に乗って来られた
と言われています。この「天の雲」は自然現象の雨を降らす雲ではありません。契約の神である主の栄光の御臨在に伴い、その御臨在を表示する雲です。それで、
  人の子のような方が天の雲に乗って来られた
ということは、「人の子のような方」が栄光のうちにご臨在されることを述べています。
 ここでは、その「人の子のような方」が「年を経た方」として示されている父なる神さまから「主権と光栄と国」を与えられることと、そして、その「永遠の主権」をもって永遠に治められることが預言されています。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。
と記されているとおりです。
 このことに基づいて、イエス・キリストは地上の生涯において贖いの御業を遂行されたとき、ご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。イエス・キリストは、特に、ご自身が十字架にかかって私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられることと、終わりの日に再び来てくださって、最終的なさばきを執行されるとともに、ご自身の民の救いを完全に実現してくださることをお示しになるときに、この「人の子」という称号をお用いになりました。
 黙示録1章13節では、この「人の子のような方」がアジアにある「七つの教会」、ひいては、初代教会から世の終わりに至るまでのすべての時代のすべての教会の真ん中にご臨在してくださっていることが示されています。また、このことによって、アジアにある「七つの教会」、ひいては、初代教会から世の終わりに至るまでのすべての時代のすべての教会が、
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。
とあかしされている「人の子のような方」の御国に属していることが示されています。また、「人の子のような方」が「永遠の主権」をもって初代教会から世の終わりに至るまでのすべての時代のすべての教会を治めてくださることが示されています。

 黙示録1章では、アジアにある「七つの教会」の真ん中にご臨在しておられる「人の子のような方」すなわちイエス・キリストの栄光の御姿のことが、14節ー16節に、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。
 これにつきましては、この個所についてお話ししたときに詳しくお話ししましたので、結論的なことだけをまとめておきます。
 14節前半では、
  その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、
と言われています。ここでは、栄光のキリストの髪の毛の白さを表す表象として「羊毛」と「」が用いられています。この髪の毛の白さはこの方が知恵に満ちておられることを表象的に表しています。しかも、その白さを表すのに「羊毛」と「」が重ねられて強調されています。これによって、「人の子のような方」がこの上ない知恵、すなわち、無限、永遠、不変の知恵に満ちておられることが示されています。
 この方の知恵は、ご自身の十字架の死によって私たちご自身の民の罪を贖い、私たちを死と滅びの中から贖い出して、ご自身の民としてくださって、永遠のいのちに生きる者としてくださるとともに、その十字架の死によって、暗やみの主権者であるサタンの主権を打ち砕いてしまわれたこと(参照・ヘブル人への手紙2章14節ー15節)に、最も豊かに現されています。
 14節後半では、
  その目は、燃える炎のようであった。
と言われています。このことは、「人の子のような方」がすべてのもの、すべてのことを完全に見通しておられて、知っておられることを表しています。これは、その前で、
  その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く
と言われていること、すなわち「人の子のような方」の無限、永遠、不変の知恵と結びついています。すべてのもの、すべてのことを完全に見通しておられる「人の子のような方」が、無限の知恵をもってすべてのことを治めてくださっています。そして、ご自身が十字架の死をもって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、救いとさばきの御業を遂行されます。
 続く15節前半には、
  その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、
と記されています。ここに出てくることばにはとても難しいものがあります。ここで「しんちゅう」と訳されていることばは、一般には、「青銅」のことであると理解されています。また、「炉で精錬されて光り輝く」と訳されていることばは、精練するために炉の中で溶けている状態にあって光り輝いていることを示していて、完全なきよさや純粋さの輝きを表していると考えられています。
 これは「人の子のような方」の「」についての描写ですが、「」がしっかりしていることは、その人の力強さや安定して揺るがないことを表しています。これは、「人の子のような方」が救いとさばきの御業を遂行されるうえでの力強さと揺るぎなさのことであると考えられます。
 さらに、「」はその人の生涯の歩み方を表します。イエス・キリストの地上の生涯は、父なる神さまのみこころに従って進まれた歩みでした。それは罪を犯すことがなかった聖さと純粋さに特徴づけられる歩みでしたが、それ以上に、私たちご自身の契約の民の罪を贖って、私たちを死と滅びから救い出してくださるために、十字架に向かって揺るぎなく進まれた歩みです。
 15節後半では、
  その声は大水の音のようであった。
と言われています。
 このことの背景の一つとなっていると考えられる、エゼキエル書の43章2節では「大水のとどろき」が神の栄光の御臨在に伴う音として示されています。そして、詳しい説明は省きますが、主の栄光の御臨在に伴う「大水のとどろきのよう」な音は、ご自身に敵対している者たちへのさばきを執行されるとともに、そこにご自身の契約の民のために救いを実現し、完成してくださる契約の神である主、ヤハウェの御臨在があることを表示しています。
 このことを背景として、黙示録1章15節では「人の子のような方」の御声が「大水の音のようであった」と言われています。それで、このことは「人の子のような方」が、ご自身の契約の民の間にご臨在されて、贖いの御業を成し遂げられるとともに、最終的なさばきを執行される主であられることを示しています。
 16節には、「人の子のような方」のことが、
  また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
と記されています。
 ここに出てくる「七つの星」のことは、20節で、
  七つの星は七つの教会の御使いたち・・・である
とイエス・キリストご自身が説明しておられます。この場合の御使いたちは、。アジアにある「七つの教会」のあり方を表象的に表していると考えられます。アジアにある「七つの教会」は地にあり、かしらであられる栄光のキリストから非難すべきことがあると指摘され、悔い改めるようにと迫られることがあります。そうではありますが、アジアにある「七つの教会」の一つ一つは栄光のキリストのからだとして、天に属しています。この場合の御使いたちは、このような、キリストのからだである教会の一つ一つの群れが天に属しているという特質を表していると考えられます。
 ここでは「人の子のような方」がこの御使いたちを表象的に表す「七つの星」を「右手に」もっていると言われています。「右手」は利き手ということで、力や権威を表しています。旧約聖書では、「の右の手」が救いとさばきの御業、特にご自身の契約の民のための救いの御業を遂行される力強い御手として示されています。
 黙示録1章16節では、「人の子のような方」がアジアにある「七つの教会」を、その力強い御手をもって治めてくださり、守ってくださっていることを意味しています。特に、霊的な戦いにおいて、救いとさばきの御業を遂行して、私たちご自身の民の救いを完成へと導いてくださることを意味しています。
 16節では、「人の子のような方」のことが、さらに、
  口からは鋭い両刃の剣が出ており
と言われています。この場合の「」ということば(ロムファイア)は幅が広くて長い剣を意味しています。これは黙示録の中では、ここの他、5つの個所に出てきますが、すべて、さばきの執行にかかわっています。
 さらに、この「鋭い両刃の剣」は「口から」出ていたと言われていますが、これは、そのさばきがみことばによってなされることを意味しています。
 そうしますと、「人の子のような方」が、
  右手に七つの星を持ち
と言われていることは、この方がご自身の民のための救いを完全に実現してくださることにかかわり、
  口からは鋭い両刃の剣が出ており
ということは、それを阻止しようとして働く暗闇の主権者とその使いたちへのさばきを執行されることにかかわっています。
 16節では、最後に、
  顔は強く照り輝く太陽のようであった。
と言われています。
 このことは、「人の子のような方」がご自身の民のために救いの御業を遂行してくださることによって、ご自身の民にまことの光をもたらしてくださる方であること、また、ご自身の民がご自身の御臨在の光のうちを歩むようにしてくださる方であることを表していると考えられます。
 このように、イエス・キリストはヨハネに、「人の子のような方」としてご自身の栄光の御姿を現してくださいましたが、それは、この「人の子のような方」がアジアにある「七つの教会」の真ん中にご臨在しておられることを示してくださるためでした。

 イエス・キリストの栄光の御姿に触れたヨハネのことが、17節前半に、
 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。
と記されています。罪によって本性が汚れてしまっている者が主の栄光の御臨在に触れるようなことがあれば、主の聖さを冒す者として滅ぼされてしまいます。ヨハネは栄光の主であられるイエス・キリストの御臨在に触れて、死者のようになってしまいました。
 けれども、ヨハネは滅ぼされませんでした。17節後半ー18節には、

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と記されています。
 栄光の主であられるイエス・キリストは、その「右手」をヨハネの上に置いてくださいました。先ほどお話ししましたように、「の右の手」は救いとさばきの御業、特にご自身の契約の民のための救いの御業を遂行される力強い御手です。
 ヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったイエス・キリストは、無限、永遠、不変の栄光の主、ヤハウェであられますが、ご自身の十字架の死によって、私たちご自身の民の罪をすべて、また、完全に贖ってくださった方です。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、私たちをその復活の栄光にあずからせてくださっている方です。それは、私たちをご自身の栄光の御臨在の御前に近づいて、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださるためです。
 イエス・キリストはそのように、恵みとまことに満ちた栄光の主として、ヨハネを御前に立たせてくださいました。そして、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
と語りかけてくださって、さらに、みことばのあかしをもって、ご自身がどなたであるかを示してくださいました。
 このイエス・キリストのみことばは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられ、ご自身の契約において約束してくださっていること、特に、ご自身民のための贖いの御業を必ず実現してくださる方であることを示しています。また、イエス・キリストが、この歴史的世界の歴史を始められた方でありつつ、終わらせる方であることを示しています。
 これは、今日これまでお話ししてきました、イエス・キリストがヨハネに現してくださったご自身の栄光の御姿をうけて語られたもので、ヨハネに現してくださった栄光の御姿を、みことばによって示してくださったものです。イエス・キリストがご自身の栄光の御姿によって示してくださったことと、みことばの語りかけによって示してくださったことは、相互に補足し合っています。
 このつながりを考えますと、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
とあかししてくださったイエス・キリストは、ご自身の栄光の御姿をとおして示されたように、アジアにある「七つの教会」の真ん中にご臨在してくださっている「人の子のような方」であるということが分かります。
 イエス・キリストは、このようにして、ヨハネに現された栄光の御姿と相まって、ご自身のことをあかしする、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
というみことばに基づいて、スミルナにある教会に対して、ご自身のことを、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
としてお示しになりました。
 ヨハネはイエス・キリストのみことばに従って、黙示録を書き記してアジアにある「七つの教会」に送りました。それを読んだスミルナにある教会の信徒たちは、ヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださり、ご自身のことを、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
とあかししてくださっておられるイエス・キリストが、ヨハネにご自身を現し、あかししてくださったのと同じように、自分たちにご自身を現し、あかししてくださっていることを知ることができました。
 イエス・キリストはアジアにある「七つの教会」の真ん中にご臨在してくださっておられ、ご自身がどなたであるかを、それぞれの群れにふさわしく示してくださっています。その中で、スミルナにある教会には、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
というあかしに基づいて、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
としてお示しになったのです。
 このことは、イエス・キリストの御名のために迫害を受けていたために、アジアにある「七つの教会」のうちで最も小さく、貧しい状態にあったスミルナにある教会においてこそ、ご自身のことを、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
とあかしされるイエス・キリストの栄光の御臨在が確かな現実的としてあったということを意味しています。
 人々の目には、迫害を受けて苦しんでいる小さな、貧しいスミルナにある教会は、主に顧みられることなく見捨てられていると写るかも知れません。しかし、スミルナにある教会においては、ヨハネに栄光の御姿を現してくださり、ご自身のことを、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
とあかしされるイエス・キリストの御臨在が確かな現実となっていたのです。
 このことが、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られた、
  わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――
というみことばの核心にあることです。


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