黙示録講解

(第183回)


説教日:2014年11月16日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(12)


 黙示録2章8節ー11節には、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばが記されています。このみことばにおいて、イエス・キリストは、まず、ご自身のことを、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
として示しておられます。これまで、このみことばの前半の、
  初めであり、終わりである方
というみことばについてお話ししてきました。今日は、後半の、
  死んで、また生きた方
というみことばについてお話しします。
 すでにお話ししましたように、この、イエス・キリストの、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
というみことばは、1章17節後半ー18節に記されています、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに、ご自身の栄光の御姿を示された時に、ヨハネに語りかけられた、
 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
というみことばを受けています。今取り上げています、イエス・キリストがスミルナにある教会に対してご自身のことを示された、
  死んで、また生きた方
というみことばは、イエス・キリストがヨハネに語られた、
  わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
というみことばを受けています。
 それで、まず、イエス・キリストがヨハネに語られた、
  わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
というみことばについてお話ししたいと思います。
 このみことばにおいては、
  わたしは死んだ
は不定過去時制で表されていて、イエス・キリストが十字架におかかりになって死なれたことが示されています。けれども、これに続く、
  見よ、いつまでも生きている
は現在時制で表されていて、それが常に変わることのない状態であることが示されています。もちろん、この場合は、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられてからのことです。イエス・キリストは栄光を受けて死者の中からよみがえられた方として「いつまでも生きて」おられます。
 ただ、ここでは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、それとして語られないで、それを踏まえた上で、
  見よ、いつまでも生きている
と言われています。このことには理由があります。それは、イエス・キリストがヨハネに語られたみことばにおいては、これに先立つ部分で、イエス・キリストがご自身のことを、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
と言ってあかししておられるからです。イエス・キリストは、この際後に、ご自身のことを「生きている者」として示しておられますので、それをさらに説明して、
  わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
と言われたのです。
 イエス・キリストがヨハネに語られた、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
というみことばは、この全体が一つの文で表されていて、ひとまとまりとなっています。
 このイエス・キリストのみことばは、いくつかのことを示しています。
 第一に、このみことばは、
  エゴー・エイミ・・・
というように、強調形の現在時制によって表されています。これは、これまでお話ししてきましたように、イエス・キリストが、出エジプト記3章14節ー15節に記されています、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを示しています。この御名は、出エジプトの時代に、神さまが、エジプトの奴隷の状態になっていたイスラエルの民を贖い出してくださるためにモーセをエジプトの王パロの許にお遣わしになるに当たって、モーセをとおして、イスラエルの民にお示しになった御名です。ですから、出エジプトの贖いの御業は、神さまが、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主として遂行された御業です。そして、先主日にお話ししましたように、イエス・キリストは、この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主として「最終的な出エジプト」の贖いの御業、すなわち、ご自身の十字架の死によって私たちご自身の民の罪を贖い、私たちを死と滅びから救い出してくださった御業を遂行された主です。
 第二に、これもまた、先主日にお話ししましたが、この、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
というイエス・キリストのみことばの、
  わたしは、最初であり、最後である
ということばは、イザヤ書41章ー48章に出てくる契約の神である主、ヤハウェの三つのみことばを背景として語られています。その三つのみことばとは、具体的には、イザヤ書41章4節に出てくる、契約の神である主、ヤハウェの、
  わたし、こそ初めであり、
  また終わりとともにある。わたしがそれだ。
というみことば、44章6節に出てくる、
  わたしは初めであり、
  わたしは終わりである。
というみことば、そして、48章12節に出てくる、
  わたしは初めであり、また、終わりである。
というみことばです。
 これら三つのみことばでは、主、ヤハウェが常に、また同時に、この歴史的な世界の「初め」と「終わり」とともにある方であることが示されています。このことは、主、ヤハウェがこの歴史的な世界の中にあって時間とともに経過して行く方ではなく、この歴史的な世界を越えた方、すなわち永遠の存在であられることを示しています。
 そればかりでなく、というより、これがこれら三つのみことばの主旨ですが、これらすべてのみことばは、主、ヤハウェがこの歴史的な世界の主として、この世界の歴史を始められた方であられるとともに、その歴史を終わらせる方、すなわち、この世界の歴史をご自身のみこころに従って完成へと至らせてくださる方であることを示しています。そして、この場合の「初め」と「終わり」は(メリスムスという表現方法によるもので)、その間にあるすべてをも含んでいます。契約の神である主、ヤハウェは、ご自身のみこころに従って、この歴史的な世界を創造された方、すなわち、この歴史的な世界の歴史を始められた方ですが、その後この世界から手を引かれたのではなく、すべての時代のあらゆるもの、あらゆることをご自身のみこころに従って支え、導いてくださっています。そして、最終的には、この歴史的な世界の歴史を終わらせる方、すなわち、ご自身のみこころを実現される方です。
 もう一つ大切なことは、神である主は、これらすべてにかかわるみこころを、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人に、また、人類の堕落の後には、「最初の福音」において約束されている贖い主を信じるようになるご自身の民に、ご自身の契約をとおして、啓示してくださっているということです。主の契約の民はそのようにして啓示してくださった主のみこころを信じて、主に信頼するように招かれています。
 神である主のみこころとは、イザヤ書に出てくる主、ヤハウェの三つのみことばでは、自分たちの罪のためにさばきを受けてバビロンの捕囚となるユダ王国の民のために、主がペルシアの王クロスを立てて、バビロンをおさばきになり、ユダ王国の民を再び約束の地に帰還させてくださり、主の御臨在のための神殿を再建させてくださるということです。
 先主日にお話ししましたように、これは「第二の出エジプト」と呼ばれる契約の神である主、ヤハウェによる贖いの御業です。これと「最初の出エジプト」の贖いの御業とが相まって、イザヤ書の中では「主のしもべ」として示されている、やがて来たるべき贖い主による「最終的な出エジプト」の贖いの御業を指し示しています。
 第三に、イザヤ書イザヤ書41章ー48章に出てくる主、ヤハウェの三つのみことばには、イエス・キリストがヨハネに語られた、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばに当たることばが出てきますが、それに続く、
  わたしは・・・生きている者である
というみことばに当たることばは出てきません。このことから、イエス・キリストがヨハネに語られた、
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である
というみことばは、一つの文で表されていて、ひとまとまりとなっていますが、内容の上では、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばが、それとして独立した意味をもっていると考えることができます。
 このことは、さらに、黙示録の著者であるヨハネにご自身の栄光の御姿を示されたイエス・キリストは、預言者イザヤを通して啓示されたみことばを背景として語られた、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばで終わらないで、さらにそれに加えて、
  わたしは・・・生きている者である
というみことばを語られたということを意味しています。
 この、
  わたしは・・・生きている者である
というイエス・キリストのみことばにも、旧約聖書の背景がいくつかあります。ここでは、それらの背景の中心と考えられることだけに触れておきます。旧約聖書には神さまのことがしばしば「生ける神」と呼ばれています。
 たとえば、ヨシュア記3章10節ー13節には、

ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。全地の主であるの箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

と記されています。
 これは、主がモーセの後継者であるヨシュアをとおして、イスラエルの民を約束の地であるカナンへと導き入れてくださるに当たってヨシュアに命じられたことを受けて、ヨシュアがイスラエルの民に語ったことです。ここでは、ヨルダン川の「水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」と言われています。これは、出エジプトの時代に、主がモーセをとおしてイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださった時に、紅海の水を分けて、イスラエルの民を通らせてくださり、その水を戻してエジプトの軍隊を滅ぼされたことを思い起こさせることです。7節に、

はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。」

と記されていますように、主はヨシュアをモーセの後継者として立てておられること、それゆえに、主がヨシュアとともにいてくださることをイスラエルの民の前で示してくださいました。
 10節で、ヨシュアは、

生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われる

と言っています。
 このことは、主がアブラハムに約束されたことが成就することを意味しています。創世記15章18節ー21節には、
 その日、はアブラムと契約を結んで仰せられた。
  「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。
  エジプトの川から、
  あの大川、ユーフラテス川まで。
  ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
  ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、
  エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」
と記されています。
 これはアブラハムの生涯に関する記事に出てくる年代を考え合わせてみますと、アブラハムが85歳の少し前のことで、紀元前1915年頃のことであると考えられます。そして、出エジプトの年代に関しては早期説と後期説がありますが、早期説の1445年を取りますと、ヨシュアとともにイスラエルの民がヨルダン川を渡ったのは、1405年となります。それはアブラハムに約束が与えられてから、約510年後ということになります。出エジプトの年代の後期接を取りますと(後期説にはばらつきがあります)、さらに200年ほどの差が出てきて、約7百年後となります。
 ヨシュア記3章10節でヨシュアが述べていることは、「生ける神」が父祖アブラハムに約束してくださったことを、500年ほどの時の流れを越えて成就してくださろうとしておられることについてです。
 このように、主、ヤハウェは「生ける神」として、ご自身の契約の民とともにいてくださって、ご自身の契約においてお示しになったみこころを実現され、約束してくださっていることを、必ず実現してくださいます。


 このこととの関連で、「生ける神」ということばの意味合いを汲み取るために、一つのことを取り上げておきましょう。
 創世記15章19節ー21節とヨシュア記3章10節には、カナンの地に住んでいる民の名が挙げられています。聖書には、この他にも、カナンの地に住んでいる民のリストが出てきますが、どれも、すべての民の名を記しているわけではありません。通常は、ヨシュア記3章のように、七つの民の名が記されていますが、創世記15章では10の民の名が記されています。
 いずれにしましても、これらの民はすでにカナンの地に住んでいた民です。イスラエルの民はこれらの民をカナンの地から追い払う形でカナンの地を所有するというのです。そのようなことが許されるのかという問題があります。これについての基本的な答えは、創世記15章13節ー16節に記されています、

そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」

というみことば、特に、最後の16節に記されています、
 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。
という主のみことばに示されています。
 この場合の「エモリ人」は、カナンの地の住民全体を代表的に表すために用いられています。この他、「カナン人」がカナンの地の住民全体を代表的に表すために用いられることもあります。16節に記されている主のみことばは、イスラエルの民がカナンの地に侵入してその地に住んでいる民を追い払うのは、それらの民の罪が深くなり、咎が満ちるようになるからであるということです。これは主がカナンの住民の罪をおさばきになるためにイスラエルの民を用いられるということです。
 これには、もう一つ重要な点があります。それは、先ほどのヨシュア記3章10節に、

生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われる

と記されていますように、「生ける神」がイスラエルの民とともにおられることです。このことは、神である主が「生ける神」であられるので、その御力を発揮して、カナンの地の住民たちをその地から追い払われるということであるかのように思われます。それは間違ってはいないのですが、それ以上に大切なことがあります。それは、罪を極まらせて、咎を満たしてしまったカナンの地の住民たちは、主の栄光の御臨在の御前に立つことができないものとして、追い払われるということです。
 このことは、イスラエルの民にも、そのまま当てはまります。出エジプト記32章1節ー6節には、主がご臨在されるシナイ山のふもとに宿営していたイスラエルの民が、主の召しによりシナイ山に上って行ったモーセの帰りが遅いと感じて、自分たちのために金の子牛を造って、それをヤハウェと呼んで礼拝したことが記されています。これは主から与えられたばかりの十戒の第二戒、すなわち、契約の神である主、ヤハウェを表す像を造ってはならないし、それを拝んではならないという戒めに背くことです。主は、そのようにして重大な罪を犯したイスラエルの民を御前から滅ぼしてしまうとモーセに告げられました。この時は、モーセのとりなしによって、このさばきは回避されました。けれども、その世代の民、エジプトを出たイスラエルの民の第一世代は、その後も主に対する不信をつのらせて、主に背き続け、最後には、約束の地に入ることが許されませんでした。それは見方を変えれば、イスラエルの民の第一世代が、主の栄光の御臨在があるカナンの地から追い払われたということです。主はイスラエルの民に対して忍耐深くあられましたが、最後まで主に背き続けたイスラエルの民を御前から退けてしまわれました。主はご自身の民だけをえこひいきされることはありませんでした。
 このようにして、「生ける神」であられる主、ヤハウェはご自身の契約において示された約束を実現してくださるために、救いとさばきの御業を遂行されます。そして、「生ける神」ということばは、基本的に、神である主がご自身の契約の民のために、救いとさばきの御業を遂行されることと関連して用いられています。
 このこととの関連で注目したいのですが、神である主が、ご自身を指して、
  わたしは生きている
と言われることがあります。これは一種の誓いのことばで、神である主が、これに続いて言われること、あるいは、これに先立って言われたことを、必ず実行されるるということを示しています。旧約聖書で私が見つけられた限りでは16回ほど出てきますが、ほとんどが、主のさばきが執行されること、主がその人を退けられることにかかわって用いられています。

 イエス・キリストがヨハネに語られた
  わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
というみことばでは、まず、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることが示されています。そして、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばにおいて、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、この歴史的な世界の歴史を始められた方であり、終わらせる方であること、つまり、この世界のあらゆる時代のあらゆることを支え導いておられる歴史の主であることが示されています。さらに、これに付け加えられた、
  わたしは・・・生きている者である
というみことばは、イエス・キリストが「生ける神」として、救いとさばきの御業を遂行され、私たちご自身の民をご自身の御臨在の御前に生きる者としてくださるという、ご自身の契約において示してくださっている約束を実現してくださることを示しています。
 そして、このことを受けて、イエス・キリストはヨハネに、
  わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
と言われました。このイエス・キリストのみことばは、イエス・キリストが「生ける神」として、救いとさばきの御業を遂行される契約の神である主、ヤハウェであられることを、さらに説明しています。
 これは、先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって死んでくださったことと、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった後、いつまでも生きておられることを示しています。
 契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストは、この歴史的な世界の主として、すべての時代のあらゆることを支え導いておられます。そして、ご自身の民を奴隷の苦役の下から解放してくださるために贖いの御業を遂行され、それに基づいて、救いとさばきの御業を遂行される「生ける神」であられます。
 先ほどお話ししましたように、旧約聖書においては、契約の神である主、ヤハウェはご自身の民をも、その罪をおさばきになることが示されています。それがご自身の契約の民が犯した罪であれ、すべての罪は、主、ヤハウェの御臨在の御前で、清算されなければならないのです。そうであれば、すべての人が主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていますので、まったく、絶望的な状態にあります。そのような状態の中にある中で、福音のみことばが聞こえてきたのです。契約の神である主、ヤハウェであられる御子イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために、人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、ご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださったというのです。それが、イエス・キリストが、ヨハネに語られた、
  わたしは死んだ
ということの意味していることです。
 この歴史的な世界の時の流れを越えておられる永遠の主にして、すべての時代のあらゆることを治めておられる主、ヤハウェであられる御子イエス・キリストは、超然とした高き所からさばきを執行されることによって人の罪を清算されるだけでなく、ご自身が私たちご自身の民の罪に対するさばきを、私たちに代わってお受けになって、私たちの罪を完全に清算してくださった方です。イエス・キリストが、
  わたしは死んだ
と(不定過去時制で)言われるように、それはすでに成し遂げられた贖いの御業です。
 イエス・キリストはご自身の十字架の死によって、この世の知恵が愚かなものであることを明確に示されました。コリント人への手紙第一・1章18節ー20節に、

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。・・・(中略)・・・知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

と記されているとおりです。自らの罪を自覚し、主の栄光の御臨在の御前にまったく絶望的な状態にあることを悟り、ただ主が備えてくださった贖いの御業を頼みとすることこそが真の知恵の始まりです。
 また、主は自らの野望のために人々を搾取し、痛めつけるこの世の主権者たちをおさばきになるだけではありません。それ以上に、人を罪の暗やみに閉じ込め、死の恐怖によって縛りつけてしまっている暗やみの主権者をおさばきになります。それもご自身の十字架の死に基づいてのことです。ヘブル人への手紙ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されているとおりです。


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