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説教日:2014年11月9日 |
黙示録1章17節後半において、イエス・キリストは、強調形の現在時制による、 わたしは・・・である(エゴー・エイミ・・・) という言い方で、ご自身のことを、 わたしは、最初であり、最後である。 と示しておられます。これによってイエス・キリストはご自身のことを、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主であられることを示しておられます。 そして、このことを受けて、スミルナにある教会へのみことばにおいては、ご自身のことを、 初めであり、終わりである方 として示しておられます。このみことば、そして、その元となっています1章17節後半の、 わたしは、最初であり、最後である というみことばには、イザヤ書41章ー48章に出てくる、契約の神である主、ヤハウェの三つのみことばがあります。これらのみことばは、これまでに取り上げました申命記32章1節ー43節に記されています「モーセの歌」よりも、より直接的な背景となっています。 そのイザヤ書41章ー48節に出てくる三つのみことばのうち、最初に出てくるのは41章4節に記されています、 だれが、これを成し遂げたのか。 初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。 わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。わたしがそれだ。 というみことばの後半に出てくる わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。わたしがそれだ。 というみことばです。 このみことばについてはすでにお話ししたことがありますが、すでにお話ししたことを振り返りつつ、さらに、補足することをお話しします。 ここでは、 だれが、これを成し遂げたのか。 と言われていますが、それがどのようなことかは、これに先立つ2節ー3節に記されています、 だれが、ひとりの者を東から起こし、 彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。 彼の前に国々を渡し、 王たちを踏みにじらせ、 その剣で彼らをちりのようにし、 その弓でわらのように吹き払う。 彼は彼らを追い、 まだ歩いて行ったことのない道を 安全に通って行く。 ということです。 結論的なことだけを言いますと、ここに出てくる「ひとりの者」とはペルシアの王クロスです。それは、イザヤ書40章ー55章には、バビロンの捕囚となっていたユダの民が、やがて[注]、主のあわれみを受け、捕囚から帰還することが預言的に記されていますので、そのことにかかわる王のことだと考えられるからです。クロスのことは、この後も、44章26節ー45章7節、11節ー13節、46章9節ー11節、48章14節ー15節に記されています。 [注] 捕囚の期間については、エレミヤ書25章11節ー12節、29章10節等に預言的に記されています。エレミヤはユダ王国の滅亡の直前に預言活動をした預言者です。また、ダニエル書9章2節も参照してください。 クロスについて預言しているこれらのみことばを見てみますと、これらのみことばは、私たちの目をクロスにではなく、クロスをお用いになって、ご自身の契約において約束してくださったことを実現してくださる主、ヤハウェに向けさせ、主、ヤハウェに信頼するように導いています。その際に、41章2節では、 だれが、ひとりの者を東から起こし、 彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。 という修辞疑問的な問いかけがなされています。そして、4節では、 だれが、これを成し遂げたのか。 初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。 という答えに当たることが記されています。[注] [注]「成し遂げた」と訳されたことばは、原文のヘブル語では二つの同義語が用いられています。一つは「行う」あるいは「なす」を意味することば(パーアル)で、もう一つは「行う」あるいは「造る」を意味することば(アーサー)です。後者には「(成し)遂げる」という意味合いもありますので、新改訳はこの二つのことばの組み合せを「成し遂げた」と訳しています。 けれども、これは単に、2節に記されている、 だれが、ひとりの者を東から起こし、 彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。 という問いかけに答えるだけのものではありません。4節の冒頭は新改訳では、 だれが、これを成し遂げたのか。 となっていますが、「これを」ということばは原文にはありません。2節からの文脈に照らしてみますと新改訳が「これを」ということばを補っていることは正当なことであると考えられます。 同時に、ここでは、「これを」ということばがないことにも意味があると考えられます。これによって、「主」ヤハウェはクロスを起こしてバビロンへのさばきを執行され、ユダの民を約束の地へと帰還させてくださることだけにかかわっておられる方ではなく、この歴史的な世界のあらゆることにかかわっておられ、すべてのことをなさる方であり、すべてのことを実現される方、成し遂げられる方であることが示されています。そして、そのような方であられる「主」が、クロスを起こしてバビロンへのさばきを執行され、ユダの民を約束の地へと帰還させてくださるというのです。 またここでは、「主」が、 初めから代々の人々に呼びかけた者 として示されています。この、 初めから代々の人々に呼びかけた者 と訳されていることばは、直訳調に訳しますと、 初めから代々に呼びかける者 となります。 この場合の「呼びかける」ということば(カーラー)はいくつかの意味に理解することができます。たとえば、このことばを「告げ知らせる」という意味にとって、「主」が初めからすべての時代のことを「告げ知らせて」おられる方であられ、実際に、そのすべてを治め、導いて、実現される方であられることを示していると考えることができます。また、このことばを「呼び出す」、「召喚する」という意味にとって、「主」が始めから終わりまで、すべての時代の人々、特に、支配者たちを「呼び出し」て、ご自身のみこころを行わせる方であられることを示していると考えることもできます。いずれにしましても、この場合も、「主」はクロスを起こしてバビロンへのさばきを執行され、ユダの民を約束の地へと帰還させてくださることだけにかかわっておられる方ではなく、歴史の初めから、すべての時代にかかわってくださっておられる方であられることが示されています。これによって「主」は歴史の主であられ、ご自身の契約において約束してくださっているみこころを実現されるためには、国々の王たちを起こしたり倒したりされるということを示しておられます。 このことを受けて、「主」は、 わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。わたしがそれだ。 とあかししておられます。 わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。 ということは、「主」は、常に、また、同時に、「初め」でありつつ、「終わりとともにある」方であられることを意味しています。いわば、「主」にとっては、この歴史的な世界の「初め」と「終わり」が同時にあるということです。「主」はこの歴史的な世界を越えた方であられ、この歴史的な世界の歴史を始められた方でありつつ、終わらせる方であられます。これは、「主」がこの歴史的な世界の「初め」と「終わり」だけでなく、その間にあるすべてのことを治めておられる歴史の主であられることを意味しています。初め」と「終わり」はメリスムスで、その間にあるすべてをも表しているわけです。 また、 わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。わたしがそれだ。 という「主」のみことばの最後の、 わたしがそれだ。 というみことば(アニー・フー)は、直訳調に訳しますと、 わたしがその者だ。 となります。 このことばも、これの前の、 わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。 というみことばと同じように、神である主がどなたであるかを啓示しておられるみことばで、ただ単に「それは、わたしである」というように、2節や4節の冒頭の問いかけに対する答えを示すだけのものではありません。そのことを支持しているのは、七十人訳がこの、 わたしがそれだ。 というみことば(アニー・フー)を「エゴー・エイミ」すなわち「わたしはある」と訳していることです。このことからも分かりますが、この、 わたしがそれだ。 ということばは、出エジプト記3章14節に記されています、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という神さまの御名に相当します。 このように、ここイザヤ書41章2節ー4節では、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主が、この歴史的な世界の歴史の主であられ、すべてのことを始められた方でありつつ、すべてのことを終わらせる方であられることが示されています。そして、この方が、ご自身の民を回復してくださるために、すべての国々の王たちを起こしたり倒したりされる方であるということが示されています。 そして、イザヤがかかわる時代のこととして、このような歴史の主であられる「主」ヤハウェが、ペルシアの王クロスを起こして、ご自身の契約の民を捕囚の民として苦役に服させたバビロンへのさばきを執行され、ご自身の契約の民を約束の地へと帰還させてくださることが示されています。 このことを、イエス・キリストがご自身のことを、 初めであり、終わりである方 として示された、スミルナにある教会の信徒たちや、イエス・キリストが、 わたしは、最初であり、最後である と語りかけてくださったヨハネに当てはめるとどうなるでしょうか。ヨハネは、黙示録1章9節に、 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。 と記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受けて「パトモスという島」に流刑となっていました。また、スミルナにある教会の信徒たちは、スミルナという繁栄している港湾都市にありながら、イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、物質的には貧しさに甘んじていましたし、迫害を受けて苦しんでいました。 そうしますと、イエス・キリストが、イザヤ書に記されています「主」のみことばを背景として、ご自身のことを、 初めであり、終わりである方 として示されたことは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主として、ローマ帝国をもおさばきになって、ヨハネやスミルナにある教会の信徒たちを解放してくださるということなのでしょうか。 確かに、黙示録には、イエス・キリストが歴史の主としてローマ帝国をもおさばきになることが記されています。そして、それは実現しています。しかし黙示録ではローマ帝国の背後にあって働いているサタンへのさばきと、主の契約の民がサタンの主権の下から開放されること、さらには、12章11節に、 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 と記されていますように、霊的な戦いにおいてサタンに勝利することが、より究極的なこととして示されています。 また、イザヤ書41章ー48章に記されています「主」ヤハウェが語られた三つのみことばが記されている個所も含めて、40章ー55章に記されているみことばを見てみますと、「主」がご自身の契約の民を解放してくださるためにお用いになるのは、ペルシアの王クロスだけではないことが分かります。というより、クロスによる捕囚の民の解放と、バビロンからの帰還は、「第二の出エジプト」と呼ばれることで、「最終的な出エジプト」ではありません。神である主がモーセをとおしてイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださった「最初の出エジプト」も、さらには、クロスを通して、バビロンの捕囚の状態にあったユダの民を解放しくださった「第二の出エジプト」も、やがて来たるべき贖い主による「最終的な出エジプト」を指し示すものでした。 このことを示すために、イザヤ書40章ー55章の中では、ユダの民がクロスによって、バビロンの捕囚から解放されて帰還することとしての「第二の出エジプト」と、「主のしもべ」による罪の贖いに基づく「最終的な出エジプト」が交互に記されています。 先ほどお話ししましたように、41章2節ー7節には、「主」ヤハウェがクロスをお用いになって、ユダの民をバビロンの捕囚から解放してくださることが、預言として語られていました。その後の、42章1節ー9節には、 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、 わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、 彼は国々に公義をもたらす。 彼は叫ばず、声をあげず、 ちまたにその声を聞かせない。 彼はいたんだ葦を折ることもなく、 くすぶる燈心を消すこともなく、 まことをもって公義をもたらす。 彼は衰えず、くじけない。 ついには、地に公義を打ち立てる。 島々も、そのおしえを待ち望む。 天を造り出し、これを引き延べ、 地とその産物を押し広め、 その上の民に息を与え、 この上を歩む者に霊を授けた神なる主は こう仰せられる。 「わたし、主は、 義をもってあなたを召し、 あなたの手を握り、 あなたを見守り、 あなたを民の契約とし、国々の光とする。 こうして、見えない目を開き、 囚人を牢獄から、 やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。 わたしは主、これがわたしの名。 わたしの栄光を他の者に、 わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。 先の事は、見よ、すでに起こった。 新しい事を、わたしは告げよう。 それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。 と記されています。 これはイザヤ書40章ー55章に四つ出てくる「主のしもべの歌」の最初のものです。ここには「主のしもべ」による主の契約の民の解放が記されていますが、それは、クロスによるバビロンの捕囚からの解放と違って、武力など血肉の力による解放ではありません。 先ほど触れましたように、クロスによるバビロンの捕囚からの解放のことは、さらに、この後の44章26節ー45章7節、11節ー13節、46章9節ー11節、そして、48章14節ー15節に記されています。 さらに、その後の49章1節ー6節には「主のしもべの第二の歌」、50章4節ー9節には「主のしもべの第三の歌」、そして、先主日にお話ししました、52章13節ー53章12節には「主のしもべの第四の歌」が記されています。 先主日にお話ししましたように、この「主のしもべの第四の歌」では、栄光の主であられる方が、ご自身の民の罪と咎を贖ってくださるために。ご自身を「罪過のためのいけにえ」とされることが預言的に示されていました。 このように見ますと、イザヤ書40章ー55節においては、クロスによるバビロンの捕囚からの解放の後に、「主のしもべ」による贖いの御業に基づく主の契約の民の解放が記されており、さらにその後に、クロスによるバビロンの捕囚からの解放が記されていて、その後に、また、「主のしもべ」による贖いの御業に基づく主の契約の民の解放が記されています。このことから、クロスによるバビロンの捕囚からの解放は、その後に記されています、「主のしもべ」による贖いの御業に基づく主の契約の民の解放を指し示すものであったことを汲み取ることができます。 そうしますと、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちにご自身のことを、 初めであり、終わりである方 として示されたことを、クロスによるバビロンの捕囚からの解放に照らして、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主として、ローマ帝国をおさばきになって滅ぼされる方であると理解するだけで終わってはならないことが分かります。むしろ、その、 初めであり、終わりである方 というみことばは、まことの贖い主であられるイエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主として、ご自身の十字架の死によって私たち主の契約の民の罪を贖ってくださり、暗やみの主権者の圧制の下から、ご自身の恵みによる御国へと移してくださった「最終的な出エジプト」の御業を成し遂げてくださった方であることにかかわっていると理解しなければならないことが分かります。 |
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