黙示録講解

(第181回)


説教日:2014年11月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(10)


 黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。ここでイエス・キリストは、ご自身のことを、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
として示しておられます。この前半の、
  初めであり、終わりである方
というみことばは、1章17節後半に記されています、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を黙示録の著者であるヨハネに示してくださった時に、ヨハネに語りかけられた、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばを受けています。
 イエス・キリストがヨハネに語られた、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばは、イエス・キリストが出エジプト記3章14節に記されている、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。出エジプト記3章14節ー15節には、

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

と記されています。14節では、まず、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名が啓示されています。ここでは、この御名が「わたしはある」に短縮されています。ここで、
  わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた
と言われているときの「わたしはあるという方」と訳されていることばは一つのことばで、直訳すれば「わたしはある」です。そして、この「わたしはある」が、15節では、さらに3人称化されて、「ヤハウェ」(新改訳では太字の「」)となっていると考えられます。15節の新改訳で、
  あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、
と訳されていることばは、ヘブル語の順序では、太字の「」すなわち「ヤハウェ」が最初に出てきます。この「ヤハウェ」が神さまの固有名詞としての御名です。そして、この「ヤハウェ」を説明する、
  あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
が続いています。このことは、「ヤハウェ」という御名が、神さまの契約にかかわっていることを示しています。この時、神さまはエジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放してくださる御業を遂行してくださるために、モーセをエジプトの王パロの許に遣わしてくださろうとしておられます。その際に、この御名を啓示してくださり、ご自身がどなたであられるかを示してくださったのです。それで、この、
  あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、
という御名は、エジプトという強大な帝国の奴隷となっていて、自分たちの力ではどうすることもできない状態にあるイスラエルの民を、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づいて、エジプトの奴隷の状態から解放してくださるということを意味しています。
 15節の最後では、
  これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。
と言われています。前半の、
  これが永遠にわたしの名・・・である
ということは、文字通り「」が神さまの固有名詞としての御名であることを意味しています。後半の、
  これが代々にわたってわたしの呼び名である。
と言われているときの「呼び名」と訳されていることば(ゼーケル)は、「覚えること」、「思い起こすこと」、「記憶すること」などを意味することばで、しばしば、主がご自身の契約を覚えてくださることや、主の民が主の御業や契約を覚え、思い起こすことを表すことば(動詞・ザーカル)に関連する名詞です。新改訳が「呼び名」と訳しているのは、このことばが、神の御名を「呼んで」、神を「呼び出すこと」を表すことによっています。このことば自体は、神を「呼び出すこと」を表していますが、これが、
  あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、
という御名とのかかわりで用いられていることは、主の契約を覚え、主の契約に基づいて、「」ヤハウェの御名を「呼び求めること」を意味しています。
 それで、
  これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。
と言われていることは、ただ神さまの固有名詞としての御名が「」ヤハウェであるということを示しているだけではなく、主の契約の民が、主の契約を覚え、主の契約に基づいて、この御名を呼び求めるべきことを示しています。そして、主の契約の民が「」ヤハウェの御名を呼び求めると、主はご自身の契約を覚えてくださり、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主として、ご自身の契約において約束してくださっていることを、必ず、実現してくださるということを示しています。
 「」はこのことを、単にことばにおいて示してくださっただけでなく、実際に、エジプトという強大な帝国の奴隷となっていて、自分たちの力ではどうすることもできない状態にあるイスラエルの民を、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださることによって示してくださいました。
 エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民が、主の力強い御手によって贖い出されたことは、古い契約の下における「地上的なひな型」としての意味をもっています。それは、やがて来たるべき「最終的な出エジプト」、約束の贖い主による最終的な贖いの御業を指し示すものでした。
 この「最終的な出エジプト」は、先主日にお話ししましたように、最初の人アダムが神である主に対して、罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、人を罪へと誘った「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣言において示された「最初の福音」にまでさかのぼって与えられた主の契約の約束をすべて実現するものです。「最初の福音」は創世記3章15節に記されています、
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。
という、「蛇」の背後にあって働いていた暗やみの主権者であるサタンに対するさばきの宣言において示されています。
 神である主に対して罪を犯して、御前に堕落し、罪によってサタンと一つとなってしまい、、自らの罪に対する刑罰としての死と滅びに服してしまっている人は、自分の力で自分を解放することはできません。また、堕落の後は、神である主を神とすることもなく、かえって、神である主に背を向け、罪を犯してしまうものとなってしまっていますので、神である主の聖なる御怒りを積み上げるだけで、救いを獲得する功績を積み上げることは、決してできない状態にあります。
 「最初の福音」はそのような絶望的な状態にある主の契約の民に与えられています。主が一方的な愛と恵みによって、「」と「女の子孫」を暗やみの主権者であるサタンの主権の下から解放してくださり、サタンとその霊的な子孫に敵対して立つものとしてくださること、それによって、物理的な武器によって戦う血肉の戦いではなく、福音の真理をめぐる霊的な戦いにおいて、神である主の側に立つものとしてくださることが示されました。そして、最終的には、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。
と言われているとおり「女の子孫」のかしらとして来てくださる「贖い主」によって、サタンとその霊的な子孫たちに対する最終的なさばきを執行されるというみこころをお示しになりました。
 言うまでもなく、この「女の子孫」のかしらとして来てくださる「贖い主」とは御子イエス・キリストのことです。コロサイ人への手紙1章13節ー14節には、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されています。また、ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。
 このように、イエス・キリストは「最終的な出エジプト」の御業を実現してくださった契約の神である主、ヤハウェであられます。


 このことと関連していますが、先ほど取り上げました、「」ヤハウェという御名について神さまが、
  これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。
と言われたことも、イエス・キリストに当てはまります。ローマ人への手紙10章9節ー13節には、

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

と記されています。
 ここではいろいろなことが示されていますが、いまお話ししていることと関連していることだけを取り上げたいと思います。注目したいのは、最後の13節で、パウロが引用している、
  主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる
というみことばです。これは、旧約聖書のヨエル書2章32節に記されています、
  しかし、の名を呼ぶ者はみな救われる。
というみことばの引用です。
 ヨエル書2章32節では、この「」は、新改訳で太字になっていますように、契約の神である主、ヤハウェです。それで、ここで、
  しかし、の名を呼ぶ者はみな救われる。
と言われていることは、先ほど取り上げました、「」ヤハウェという御名が(神さまの固有名詞としての御名であるとともに)、神さまの「呼び名」であると言われていることの具体的な事例です。
 ローマ人への手紙10章13節では、この「」すなわち「ヤハウェ」はイエス・キリストであるとされています。というのは、ローマ人への手紙10章9節ー13節では「」(キュリオス)ということばは、途中でそのことばが表している方が変わったことを示すものがありませんので、同じ方を指しています。その方とは9節で、

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

と言われているときの「」すなわちイエス・キリストです。
 ここでパウロは、9節で、

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

と述べたことが、二つの旧約聖書のみことばに基づいていることであると論じています。11節では、イザヤ書28章16節のみことばを引用しており、最後の13節で引用しているのが、ヨエル書2章32節に記されている、
  しかし、の名を呼ぶ者はみな救われる。
というみことばです。

 イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられ、「最終的な出エジプト」の贖いの御業を遂行された方であられることとの関連で、もう一つのことを取り上げておきたいと思います。
 この「」すなわち「ヤハウェ」という御名は、神さまが出エジプトの贖いの御業を典型的な例として、ご自身の一方的な恵みによって、贖いの御業を遂行してくださることにかかわる御名であると考えることができます。
 主の一方的な恵みによって、出エジプトの贖いの御業にあずかって、エジプトの奴隷の状態から解放されたイスラエルの民は、その後の歴史においても、神である主、ヤハウェの契約に基づく一方的な恵みを受けていくのですが、主に背き続けていきます。このことは、すでに取り上げました申命記32章1節ー43節に記されている「モーセの歌」に預言的に記されていたことです。
 その後の歴史において、ダビデをとおして王国が確立されました。そして、ダビデに与えられた契約に基づいて、ダビデの子であるソロモンがシオンの丘に主の神殿、すなわち、エルサレム神殿を建てました。すべて、主の一方的な恵みによることでした。
 しかし、その王国も、その子ソロモンの晩年の罪のために、ソロモンの次の世代において、南王国ユダと北王国イスラエルに分裂してしまいます。その後の二つの王国の歴史においても、主に対する不信に基づく背教は止むことがありませんでした。そのことは、特に、北王国イスラエルにおいて顕著でした。ダビデの子たちが治めた南王国ユダにおいては、主に立ち返る王たちも登場しますが、背教の流れを止めることはできませんでした。
 もちろん、主は手をこまねいておられたのではなく、預言者たちをお遣わしになって、ご自身のみこころをお示しになり、主の契約に違反して、主に背き、主を捨て背教して行く王たちを、契約違反の廉で糾弾し、警告をお与えになりました。けれども、王たちを初めとする民の指導者たちは、自分たちに都合のよいことを言ってくれる、にせ預言者たちの声に耳を傾けて、主がお遣わしになった預言者たちを退け、迫害しました。
 その結果、二つの王国は主が与えてくださった契約に違反して、主に背いたことへのさばきを受けて滅亡しました。主が預言者たちをとおして、警告し続けてこられたとおりです。年代に関しては学者たちによって数年の違いがありますが、北王国イスラエルは前722/721年にアッシリヤによって滅ぼされました。南王国ユダは前587/586年にバビロンによって滅ぼされ、主の神殿も破壊されてしまいます。
 けれども、契約の神である主、ヤハウェは、ご自身に背き続けて、さばきを招くに至ったイスラエルの民を、なおも、一方的な恵みによってアブラハムに与えてくださった契約に基づいて、覚えてくださることを、預言者たちをとおして示してくださっていました。そのこともまた、すでに、「モーセの歌」において示されていたことです。
 そして、実際に、主、ヤハウェはご自身の契約に基づいて、バビロンの捕囚にあって約束の地カナンから遠く離れたバビロンの地で苦役に服していたユダヤ人たちを、ペルシャの王クロスをとおして、再び約束の地カナンへと帰還し、主の神殿を再建することができるようにしてくださいました。
 主が遣わしてくださった預言者たちは、このバビロンからの帰還
と主の神殿の再建のことを、出エジプトの贖いの御業になぞらえて預言しています。その典型的な例はイザヤ書40章ー55章に見られます。いくつもの事例がありますが、最初の事例である40章1節ー5節に記されていることを見てみましょう。そこには、
  「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と
  あなたがたの神は仰せられる。
  「エルサレムに優しく語りかけよ。
  これに呼びかけよ。
  その労苦は終わり、その咎は償われた。
  そのすべての罪に引き替え、
  二倍のものをの手から受けたと。」
  荒野に呼ばわる者の声がする。
  「主の道を整えよ。
  荒地で、私たちの神のために、
  大路を平らにせよ。
  すべての谷は埋め立てられ、
  すべての山や丘は低くなる。
  盛り上がった地は平地に、
  険しい地は平野となる。
  このようにして、の栄光が現されると、
  すべての者が共にこれを見る。
  主の御口が語られたからだ。」
と記されています。
 これはバビロンの捕囚に遭って、バビロンに捕らえ移され、苦役に服していたユダ王国の民に解放の時があることを預言的に語っているものです。そして、この預言のみことばは、苦役からの解放のことや、「荒野」を通って導き出されることなど、出エジプトの贖いの御業を思い出させることば遣いで記されています。その意味で、広く、バビロンからの解放と約束の地への帰還のことが「第二の出エジプト」と呼ばれます。
 2節に記されています、
  エルサレムに優しく語りかけよ。
  これに呼びかけよ。
  その労苦は終わり、その咎は償われた。
  そのすべての罪に引き替え、
  二倍のものをの手から受けたと。
というみことばについて少し注釈をしておきますと、これが完了時制によって、過去のこととして記されているのは「預言的過去」と呼ばれることです。すでに過去のこととなっていることは、すでに確定していて、変えることができません。主の預言のみことばは確かなことですので、そのように過去のことであるかのように述べることがあるのです。
 ここに述べられていることは、ユダ王国の民がバビロンにおいて苦役に服したことが、民の罪を贖って、
  そのすべての罪に引き替え、
  二倍のものをの手から受けた
という意味ではありません。どうしてそうではないかと言いますと、それは二つのことから考えられます。
 第一に、北王国イスラエルの場合には、アッシリアの民族混交政策によって、イスラエルとしてのアイデンティティは失われてしまいました。しかし、ユダ王国の民はバビロンの捕囚にあいつつも、ユダヤ人としてのアイデンティティは保たれました。このことはバビロンの政策によることであったのですが、その政策をも用いておられた、歴史の主であられるヤハウェのあわれみによることでした。
 第二に、いくらユダ王国の民がバビロンの捕囚による苦役に服したといっても、それは自らの罪が招いたさばきによることです。それが、
  そのすべての罪に引き替え、
  二倍のものをの手から受けた
という祝福をもたらす根拠とはなりえません。
 ですから、
  その労苦は終わり、その咎は償われた。
  そのすべての罪に引き替え、
  二倍のものをの手から受けた
と言われている祝福は、ユダ王国の民が成し遂げたことによっているのではなく、主の一方的な恵みによってもたらされることです。
 それはまた、この後の10節ー11節に、
  見よ。神である主は力をもって来られ、
  その御腕で統べ治める。
  見よ。その報いは主とともにあり、
  その報酬は主の前にある。
  主は羊飼いのように、その群れを飼い、
  御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、
  乳を飲ませる羊を優しく導く。
と記されていることにも当てはまります。
 その祝福が何によってもたらされるのかということは、ここでは示されてはいません。しかし、それは、この後の42章1ー4節、49章1節ー6節、50章4節ー9節、52章13節ー53章12節に記されています、4つの「主のしもべの歌」において預言的に示されている「主のしもべ」によってもたらされる祝福であると考えられます。そのことは特に、52章13節ー53章12節に記されている「主のしもべの第4の歌」において、明確に示されています。
 52章13節には、
  見よ。わたしのしもべは栄える。
  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
と記されています。すでにいろいろな機会にお話ししてきたことですが、ここでは、この主のしもべが栄光の主であられることが示されています。特に、
  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
と言われているときの「高められ、上げられ」ということばは、二つの動詞で表されていますが、6章1節で、
  ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。
と記されている中で主が座しておられる王座について「高くあげられた」と言われていることば(これも二つの動詞で表されています)と同じことばです。52章12節では、さらにこれに「非常に高くなる」ということばが重ねられて強調されています。それで、ここに記されている「主のしもべ」は6章1節でイザヤが見た「高くあげられた王座に座しておられる主」すなわち契約の神である主、ヤハウェ(6章3節)に当たる方であると考えられます。
 そして、53章4節ー6節には、
  まことに、彼は私たちの病を負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
  しかし、彼は、
  私たちのそむきの罪のために刺し通され、
  私たちの咎のために砕かれた。
  彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
  私たちはみな、羊のようにさまよい、
  おのおの、自分かってな道に向かって行った。
  しかし、は、私たちのすべての咎を
  彼に負わせた。
と記されています。ここでは、この栄光の主であられる方が、ご自身の民の罪のために打たれ、砕かれることによって、ご自身の民にいやしと平安がもたらされることが示されています。
 これはイザヤ書40章ー55章に見られる出エジプトの主題に合わせて言いますと、主がエジプトの地をおさばきになってすべての初子を打たれた時に、イスラエルの民の身代わりとしてほふられた「過越の小羊」の本体を指し示しています。
 そして、その本体は私たち主の契約の民の身代わりとなって十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべてお受けになった御子イエス・キリストです。コリント人への手紙第一・5章7節に、
  私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
と記されているとおりです。
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神としてご自身をモーセに示された「」ヤハウェは、ご自身の契約において約束してくださっていることを必ず実現してくださる方です。そのことは、御子イエス・キリストにおいて極みまで現されました。「」ヤハウェは、「最初の福音」において、ご自身の一方的な恵みによって「女の子孫」のかしらとして来られる方によって、私たちご自身の民のために贖いの御業を遂行してくださることを約束してくださいました。そして、その後に与えられた一連の契約において、贖いの御業によってもたらされる、さらに豊かな祝福を約束してくださいました。契約の神である主、ヤハウェは、そのすべてを実現してくださいましたが、そのために必要であれば、また、実際に必要であったので、ご自身「」ヤハウェであられる御子イエス・キリストが、「しもべ」となられ、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださることまでしてくださいました。


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