黙示録講解

(第180回)


説教日:2014年10月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(9)


 先主日は秋の特別集会がありましたので、黙示録からのお話はお休みとなりました。今日は黙示録のお話を続けます。
 黙示録2章8節ー11節には、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばが記されています。このみことばにおいて、イエス・キリストは、まず、ご自身のことを、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
として示しておられます。これまでこの前半の、
  初めであり、終わりである方
というみことばにおいて示されていることについて、その背景となっていることをお話ししてきました。これまでお話ししたことを振り返りつつさらにお話を進めたいと思います。
 この、
  初めであり、終わりである方
というイエス・キリストのみことばは、1章17節後半に記されていますが、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を黙示録の著者であるヨハネにお示しになった時に、ヨハネに語りかけられたみことばの最初の部分である、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばを受けています。それで、
  初めであり、終わりである方
がどのような方であるかを理解するためには、1章17節後半の、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばを理解する必要があります。
 イエス・キリストがヨハネに語られた、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばは、イエス・キリストが出エジプト記3章14節に記されている、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しているということをお話ししました。
 出エジプト記3章14節ー15節では、この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名が、「わたしはある」に短縮され、さらに3人称化されて、「ヤハウェ」となっています。この「ヤハウェ」が神さまの固有名詞としての御名です。新改訳では、この御名が太字の「」で表されています。
 この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名、そして、固有名詞としての「ヤハウェ」という御名が啓示されたことは、出エジプト記3章に記されています。出エジプト記3章に記されているのは、契約の神である主、ヤハウェがご自身の民であるイスラエルをエジプトの奴隷の状態から解放してくださるために、モーセをパロの許にお遣わしになったことです。それで、この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名は、神さまが出エジプトの贖いの御業を遂行されることにかかわる御名であると理解することができます。神さまはご自身の一方的な恵みによってアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約に基づいて、それゆえに、一方的な恵みによって、アブラハムの子孫であるイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放してくださるに当たって、この御名をモーセに、そして、モーセをとおしてイスラエルの民に啓示してくださいました。


 けれども、この御名は創造の御業の遂行ともかかわっています。そのことは、創世記2章4節ー4章26節に記されている記事において「」ヤハウェの御名が用いられていることから分かります。特に、2章4節ー25節には、神である主が人をどのようにお造りになり、どのように人と関わってくださっていたかが記されていますが、そこでは「神である」という御名が用いられていて、「」が、1章1節ー2章3節に記されています創造の御業を遂行された神であられることが示されています。このように、「」ヤハウェの御名は創造の御業の遂行とかかわっています。
 そして、3章においては、人とその妻、すなわちアダムとエバがこの「神である」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことが示されています。そればかりでなく、そのように「神である」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、もはや自分の力で「神である」の御許に立ち返ることができなくなってしまっていることが明らかにされます。8節ー13節に、

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神であるは、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神であるは女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

と記されていますように、「神である」の働きかけにもかかわらず、アダムとエバは自分の罪を認めて悔い改めることはありませんでした。そのことが明らかになったときに、「神である」は続く14節ー15節に記されている、
  おまえが、こんな事をしたので、
  おまえは、あらゆる家畜、
  あらゆる野の獣よりものろわれる。
  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。
という「蛇」(の背後にあって働いていたサタン)へのさばきの宣言のことばをとおして「最初の福音」を示してくださいました。このことは、「神である」が贖いの御業の遂行にかかわっていることを示しています。
 このように、「」ヤハウェという御名は、創造の御業の遂行と贖いの御業の遂行の両方にかかわる御名です。けれども、もし人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかったなら、贖いの御業がなされる必要はありませんでした。それで、「」ヤハウェという御名は、基本的には、創造の御業の遂行と関わっていると考えられます。
 これが具体的にどのようなことであるかにつきましては、すでに詳しくお話ししましたので、繰り返すことはしないで、今日は、これと関連することをお話しします。

 創世記2章と3章に記されている記事からは、アダムとエバが「」ヤハウェという御名を知っていたかどうかは、はっきりとは分かりません。けれども、4章1節には、
 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、によってひとりの男子を得た」と言った。
と記されています。この時すでに、エバは「」ヤハウェという御名を知っていたことを示しています。それはこの時に初めて啓示されて知ったということではありません。というのは、
  私は、によってひとりの男子を得た
ということばは、3章14節ー15節に記されています「最初の福音」と、16節に記されています、
  わたしは、あなたのうめきと苦しみを
  大いに増す。
  あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
という、エバ(「」)へのさばきのことばを踏まえているからです。このエバへのさばきのことばは、同時に、「最初の福音」とのかかわりで理解しますと、「女の子孫」が生まれてくることの保証となっています。
 いずれにしましても、
  私は、によってひとりの男子を得た
というエバのことばは、エバがすでに「」ヤハウェという御名を知っていたことを示しています。そして、3章9節ー10節に、

神であるは、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

と記されていることは、この時より前に、神である主と人との間にお互いを「あなた」と呼び合う、親しい人格的な関係があったことを示しています。このことは、人がすでに「」ヤハウェという御名を知っていたことを確証することではありませんが、少なくとも、暗示しています。
 けれども、これについては、考えておかなくてはならない問題があります。
 一つは、4章25節ー26節には、

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々はの御名によって祈ることを始めた。

と記されています。
 この場合、「の御名によって祈ること」と言われていることは、「」ヤハウェの御名による礼拝のことです。
 ここに記されていることから、「の御名」による礼拝は、エノシュの誕生の頃に始まっていて、それ以前には見られなかったと主張されることがあります。しかし、これはこの頃に、ヤハウェ礼拝者の存在が「社会現象」となるようになったということで、この時に初めて「」ヤハウェという御名が啓示されたということではありません。
 これらのことから、「」ヤハウェという御名は人が神のかたちに造られたその時から、人に啓示されていた可能性が高いと考えられます。

 これと関連していますが、「」ヤハウェという御名が啓示された時がいつであるかということには、もう少し難しい問題があります。
 出エジプト記6章2節ー3節には、

わたしはである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

という「」ヤハウェがモーセに語られたみことばが記されています。ここに記されている主のみことばは、アブラハム、イサク、ヤコブには「」ヤハウェという御名は啓示されていなかったことを示しているように思われます。
 ところが、創世記12章7節ー8節には、

そのころ、がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼はのため、そこに祭壇を築き、の御名によって祈った。

と記されています。
 「」ヤハウェはアブラハムにご自身を現してくださり、アブラハムは、その「」のために祭壇を築き、「」ヤハウェを礼拝しています。同じこと(「の御名によって祈った。」)は、13章4節、21章33節(以上、アブラハム)、26章25節(イサク)にも出てきます。
 さらに、創世記15章7節には、「」がアブラハムに語られた、
  わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出したである。
というみことばが記されています。
 ヘブル語では、
  わたしはである
ということば(アニー・ヤハウェ)が先に出てきて、関係代名詞で導入される、
 この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した
ということばが続いています。これは先ほど引用しました出エジプト記6章2節に記されています、
  わたしはである。
ということばと同じです。
 また、この、
  わたしはである。
ということばは創世記28章13節に記されています、

わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

という「」がヤコブに語られたみことばにも出てきます。
 そうしますと、出エジプト記6章2節ー3節に記されています、

わたしはである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

という「」のみことばをどのように理解したらいいのでしょうか。これにつきましては、いろいろな考え方がありますが、私の理解していることをお話しします。

 アブラハム、イサク、ヤコブのことは創世記に記されています。この「」がモーセに語られた、
  わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
というみことばからは、創世記には「全能の神」(エール・シャダイ)ということばがたくさん出てくるのではないかと思われます。けれども、実際には、「全能の神」ということばは5回(17章1節、28章3節、35章11節、43章14節、48章3節)出てくるだけです。そして「全能者」(シャダイ)が1回(49章25節)出てきます。
 「全能の神」ということばが出てくるこれら5つの個所で、特に、出エジプト記6章2節ー3節に記されています「」のみことばとのかかわりで注目すべきみことばがありますので、それを見てみましょう。
 まず、主がアブラハムと契約を結んでくださったときのことを記している創世記17章1節ー2節には、

アブラムが九十九歳になったときはアブラムに現れ、こう仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
 「わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。
 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

という主の契約のみことばが記されています。
 また、神さまがヤコブと契約を結んでくださったことを記している35章9節ー12節には、

こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。神は彼に仰せられた。
 「あなたの名はヤコブであるが、
 あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。
 あなたの名はイスラエルでなければならない。」
それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 生めよ。ふえよ。
 一つの国民、諸国の民のつどいが、
 あなたから出て、
 王たちがあなたの腰から出る。
 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、
 あなたに与え、
 あなたの後の子孫にも
 その地を与えよう。」

と記されています。
 これら二つの個所では、神さまがアブラハムとヤコブに契約を与えてくださった時に、「アブラム」には「アブラハム」、「ヤコブ」には「イスラエル」というように、2人に新しい名を与えてくださっています。このことは、神さまがアブラハムとヤコブの契約の主として、2人と2人に与えられた契約に特別な意味でかかわってくださっていることを意味しています。その意味で、この二つの記事に記されていることは、神さまがアブラハムとヤコブとに契約を与えてくださったことの中心にあることです。そして、この時に、神さまはご自身のことを、

 わたしは全能の神である。(アニー・エール・シャダイ)
として示しておられます。
 これら二つの個所に記されていることは基本的なことですが、これと関連していることも見てみましょう。
 イサクがその子ヤコブに語ったことばを記している28章3節ー4節には、

全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。

と記されています。また、ヤコブがその子ヨセフに語ったことばを記している48章3節ー4節には、

全能の神がカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、私に仰せられた。「わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。」

と記されています。
 これら二つの個所では、イサクとヤコブが自分の子どもに、神さまが与えてくださった契約の祝福のことを語っています。その際に、イサクとヤコブは「全能の神」という御名を用いています。
 これら4つの個所に、創世記で5回用いられている「全能の神」という御名が4回が出てきます。
 これらのことから、出エジプト記6章2節ー3節に記されています、

わたしはである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

という「」のみことばは、「」がアブラハム、イサク、ヤコブにご自身の契約を与えられたときに、ご自身のことを「全能の神」として示されことを指していると考えられます。そうであれば、「」がアブラハム、イサク、ヤコブに対して「」ヤハウェという御名をまったく啓示されなかったという意味ではなくなります。
 そのことは、出エジプト記6章の文脈からも支持されます。先に引用しました2節ー3節に続く4節ー8節には、

またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエル人に言え。
 わたしはである。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしはである。

と記されています。
 ここでは、2節に出てきました、
  わたしはである。(アニー・ヤハウェ)
というみことばが、さらに、6節、そして(新改訳では分かりにくいですが)7節、さらに8節に繰り返されて、強調されています。これは、主がアブラハムとヤコブに契約を与えられたときに示された、
  わたしは全能の神である。(アニー・エール・シャダイ)
というみことばと対比される形で対応しています。
 それで、出エジプト記6章2節ー3節に記されています、

わたしはである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

という「」のみことばは、その後に続く4節ー8節に記されていることとの関連で理解しなくてはなりません。
 そして、4節ー8節に記されていることとの関連で理解しますと、2節ー3節に記されている、

わたしはである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

という「」のみことばは、「」がアブラハム、イサク、ヤコブに契約を与えてくださったときのこと、具体的には、先ほど引用しました創世記17章1節ー8節と、35章9節ー12節に記されていることを述べておられるのであって、それ以外の時にも、「」ヤハウェの御名をまったく啓示されなかったということではないことが分かります。また、「」がアブラハム、イサク、ヤコブに契約を与えてくださったときに「全能の神として現れた」ことは、当然、アブラハムの子孫であるイスラエルの民も知っていたはずです。
 そうしますと、出エジプト6章2節ー8節に記されていることには、変わらない面と、新しい面の二つのことが示されていると考えられます。
 変わらない面は、「」がアブラハム、イサク、ヤコブに契約を与えられたときには、ご自身のことを「全能の神」として示され、出エジプトの時代にイスラエルの民にご自身のことを「」ヤハウェとして示しておられるけれど、そこに、神さまの御名の違いが示す断絶があるのではなく、「」ヤハウェはこの時、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に基づいて、イスラエルの民を覚えてくださっているということです。
 新しい面は、「」がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約では、アブラハムの子孫が主の契約の民となり、主が彼らの神となってくださることと、主が彼らに約束の地カナンを与えてくださるということが示されていました。これはアブラハムとその子孫たちへの祝福を約束してくださったものです。それが出エジプトの時代になると、その祝福されたはずのアブラハムの子孫たちは、なんと、エジプトという強大な帝国の奴隷になってしまっていました。けれども、「」はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいて、彼らをその奴隷の状態から贖い出してくださる御業を遂行される方として、ご自身のことを、
 わたしはである。
として、すなわち、ご自身の契約に対して真実であられ、どのような事態になっても、ご自身が契約において約束されたことを必ず実現してくださる「」ヤハウェとしてお示しになったということです。
 このように、「」ヤハウェはご自身の契約に対して真実であられ、どのような事態になっても、ご自身が契約において約束されたことを必ず実現してくださる方です。このことは、先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、自分の力では自分を救うことができないばかりか、自分の罪を認めて、主に立ち返ることもしなくなってしまった時にさえ、神である主がその一方的な恵みによって、「最初の福音」を啓示してくださった時から変わることなく示されていたことです。
 主がご自身の契約に真実な方であられることは、貧しさの中にあって、迫害にさらされていたスミルナにある教会にも当てはまることですし、今日の私たちにも当てはまることです。あらゆる時代の主の民が、この主の真実さに支えられて初めて、主の契約の民として歩むことができるのです。


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