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説教日:2016年1月3日 |
主がイスラエルの民にマナを与えてくださったことの背景には、出エジプトの贖いの御業があります。 出エジプト記2章23節ー25節には、 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。 と記されています。 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。 と言われているのは、その前の11節ー15節に記されていることを受けています。エジプトの王宮で育てられたモーセは同胞のイスラエル人が奴隷の苦役に服していることを見るようになります。あるとき、モーセはエジプト人がイスラエル人に暴行を加えているのを見て、だれも見ていないことを確かめた上で、エジプト人を殺害し、その死体を隠しました。おそらく、このままではイスラエル人が殺されてしまうと思ってのことでしょう。ところが、そのことが知れ渡ったために、パロが自分を殺そうとしていることを知って、パロの許を逃れて「ミデヤンの地」に住むようになりました。ここでは、そのパロが死んだということが記されています。 そして、このことを受けて、さらに、3章にかけて、二つのことが記されています。 一つは、そうではあっても、イスラエル人の苦役の生活は続いていたということです。23節ー24節には「うめいた」、「わめいた」という二つの動詞と、「叫び」、「嘆き」という二つの名詞が重ねられて、その苦役が酷いものであったことが強調されています。 それとともに、 彼らの労役の叫びは神に届いた。 と言われていていて、イスラエル人が神さまに向かって叫んでいたことと、その叫びが空しいものではなかったことが示されています。 そして、24節では、 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 と言われています。これは、神さまがそれまで「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」を忘れておられたという意味ではありません。いよいよ、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」に基づいて、ご自身のみこころを実行に移されるようになったということを意味しています。 もう一つのことは、モーセは自分を殺そうとして自分を探し求めていたパロが死んだからといって、もう一度、王宮での生活を求めて、エジプトに帰ることはなかったということです。確かに、モーセは再びエジプトの地に行くことになります。けれどもそれは、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」に基づいて、ご自身のみこころを実行に移される主、ヤハウェから遣わされてのことです。 このことを受けて、ヘブル人への手紙11章24節ー27節には、 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。 と記されています。 ここで、話がそれてしまいますが、間接的にではありますが、マナのことにもかかわっていますし、私たちの信仰のあり方に触れることでもありますので、一つの問題に触れておきましょう。 それは、最後の27節に、 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。 と記されていることです。 先ほど触れましたが、モーセはイスラエル人に暴行を加えていたエジプト人を殺して、その死体を隠しました。次の日に、モーセが争いをしているイスラエル人の悪い方をいさめたときのことを記している出エジプト記2章14節ー15節前半には、 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ と記されています。 この記述からは、モーセはパロの怒りを恐れてエジプトを立ち去ったのではないだろうかという疑問がわいてきます。それで、 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。 と記されていることは、出エジプトの出来事、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した時のことを述べているという見方もあります。けれども、この見方には問題があります。それは、ヘブル人への手紙11章では、この27節の後の28節に、 信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。 と記されているからです。ヘブル人への手紙11章23節ー31節に記されている出エジプトの時代のカナン侵入に至るまでの描写は時間的な順序を追っていますので、27節に記されていることは、過越の夜の出来事の前のことであり、モーセがパロの許を逃れて、ミデヤンの地に住むようになったことを指していると考えられます。 その時のことを記している出エジプト記2章11節ー15節の記述を注意深く読みますと、モーセは自分がいさめたイスラエル人が言い返したことばから、自分がエジプト人を殺したことが知れ渡っていることを知って、恐れたことがわかります。もちろん、それがどのようなことになっていくかを想像してのことです。 モーセはそこに他の人がいないことを確かめた上で、イスラエル人に暴行を加えていたエジプト人を殺し、その死体を隠しました。けれども、そのことは、少なくとも、その時に、モーセが助けたイスラエル人には知られていました。その人はそのことを、好意的にではありますが、仲間たちに話した可能性があります。けれども、争いをしていて自分が悪いことをいさめられたイスラエル人は、ある種の憤りをもって だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか と言い返しています。そこでモーセは、自分がしたことが知れ渡っていることを恐れました。 また、この時、モーセは、自分がしたことが必ずしもイスラエル人の間でも、好意的に受け止められているわけではないことにも、気づいたと思われます。エジプトの苦役の中でうめいているイスラエル人にとっては、しょせん、モーセはパロ娘によって、パロの宮殿で育てられた人物でした。 そして、モーセが、自分のことが知れ渡っていることを恐れたことを記している14節に続く15節に、 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。 と記されています。それで、モーセはパロを恐れて、パロの許から逃亡したと感じてしまうわけです。 しかし、これらのことを受けて、ヘブル人への手紙11章27節には、 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。 と記されています。 ここで大切なことは、その時モーセがパロの許から逃れたことについて、 目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。 と言われていることです。 モーセは初めから何も恐れていなかったということではありません。自分が同胞であるイスラエル人を助けようとして、イスラエル人に暴行を加えていたエジプト人を殺してしまったことが知れ渡ってしまっていることを知ったときには恐れました。けれども、そうであるからこそと言ったらいいでしょうか、モーセは、このような危機の時に、 目に見えない方を見るようにして、忍び通した とあかしされています。それは、 目に見えない方を見るようにして と言われているほどに神である主の御許に近づき、当初の恐れを克服し、「目に見えない方を見るように」信頼して、ミデヤンの地に逃れて行って、その地に住むようになったということです。ここでは、 しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。 と言われていますように、モーセはただパロの許から逃亡したという慌ただしさだけでなく、 ミデヤンの地に住んだ というように、落ち着いた響きが感じられます。 民数記12章3節には、 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。 と記されています。また、出エジプト記3章11節に記されていますが、契約の神である主、ヤハウェがモーセに現れてくださって、モーセをエジプトの王パロの許にお遣わしになったときには、ただちに、 私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。 と答えています。その後、主がモーセにさまざまなしるしを行う力を与えてくださっていることを示してくださっても、また、ご自身がともにいてくださって、モーセがパロやイスラエル人たちに言うべきことを教えてくださることを約束してくださっても、モーセは4章13節で、 ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。 と答えています。 モーセはパロをも恐れないという豪胆な性格だったのではありませんし、何事にも恐れを感じないほど鈍感であったわけでもありません。また、後先も考えないために大胆であったわけでもありません。モーセは、恐ろしいことを恐ろしいと感じていたのです。けれども、それで終わりませんでした。最後には、 目に見えない方を見るようにして その方に信頼することによって恐れを乗り越え、困難な状況にあっても「忍び通した」のです。 モーセの信仰はそのような信仰でした。それはまた、私たちの信仰でもあります。主を信じるということは、恐ろしいことを恐ろしいと感じなくなるということではありません。恐ろしいことを恐ろしいと感じる状況の中で、 目に見えない方を見るようにして すなわち、私たちの間にご臨在してくださっている主に近づき、主を信頼して、みこころのうちを歩むようになることが信仰のあり方です。 契約の神である主、ヤハウェがイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださってから、荒野に導いてくださったことも、イスラエルの民にこのことを学ばせてくださるためでした。主は、荒野という、人の目から見れば、とても一つの民族が生存することができない所に、イスラエルの民を導き入れられました。それによって、イスラエルの民はさまざまな困難に直面することになります。そのような中で、人は恐れや不安に襲われます。その最も基本的なことは、生存にかかわることで、食べる物や飲む物がなくなることです。主の民も、そのような恐れや不安をもたらす状況の中で、恐れを感じ不安に襲われます。けれども、主はそのような時にこそ、ご自身の御名を呼び求め、主の約束のみことばを信じて、みこころに従って歩むことへと私たちを召しておられます。それが主がイスラエルの民が荒野の旅を続けた40年の間、マナをもってイスラエルの民を養い続けてくださったことの核心にあることです。先主日に引用しました申命記申命記8章2節ー3節をもう一度引用しますと、そこには、 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 と記されています。 人はあり余る食べ物に囲まれていても、そこで死ぬことがあります。肉体的ないのちにおいてであっても、人を生かしているのは食べ物ではなく、それらを用いて人を養い育ててくださる神である主です。そして、神のかたちとして造られた人にとってのいのちの本質は神である主との愛の交わりです。その愛の交わりも、神である主が一方的な恵みによって主の民の間にご臨在してくださって、主の民の現実としてくださるものです。マナは単にからだを支える食べ物ではなく、まことのいのちを支えてくださる主の恵みの備えをあかししているものです。 先ほど、主がイスラエルの民をマナをもって養い続けてくださったことの背景に出エジプトの贖いの御業があると言いました。そして、その出エジプトの贖いの御業は、エジプトの奴隷の状態にあるイスラエルの民が過酷な苦役の中で主に向かって叫んだときに、主がその叫びを聞いてくださり、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」を思い起こされたことから始まっているということをお話ししました。それは、出エジプトの贖いの御業は、主がアブラハムに与えられて、その子イサクとさらにその子ヤコブへと受け継がせてくださった契約に基づいてなされたということを意味しています。 主がアブラハムに与えてくださった契約は、主がアブラハムを召してくださったときの約束を実現してくださるためのものです。その約束は創世記12章1節ー3節に記されていますが、その中心は、3節に記されています、 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束です。いろいろな議論は省略して、結論的なことだけを言いますが、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 と言われているときの「祝福」は、神である主との関係が本来の関係に回復されることにあります。 そして、主がアブラハムに与えてくださった契約は、17章7節ー8節に、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」 と記されています。 ここで、この契約がアブラハムに与えられたことの目的については、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 ということばに示されています。これは、神である主がアブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださり、アブラハムとアブラハムの子孫が主の民となることを約束してくださったものです。これを先ほどの12章3節に記されている約束とのかかわりで言いますと、「地上のすべての民族」はアブラハムの子孫となることにおいて、神である主との本来の関係にある者として回復されるようになるということを意味しています。 そして、アブラハムの子孫が神である主との本来の関係の中にある者として回復されるということは、アブラハムの子孫が神である主の御臨在の御許に住まうようになり、神である主を礼拝することを中心として、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるということです。 また、約束の地としてアブラハムの子孫に与えられるカナンの地は、神である主との本来の関係の中にある者として回復されるようになるアブラハムの子孫が、神である主の御臨在を中心として生きるようになるための地を指し示す「地上的なひな型」です。 アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民はこのことを身をもって、また、実際の歴史の流れの中であかしするために召されていました。それで、主の摂理的な御手のお働きによって、その当時最強の帝国であったエジプトの奴隷の状態にあるものとされました。ヤコブの子どもたちのうち、ヨセフがエジプトに売られて行ったこと、そこでエジプトの宰相になったこと、その地方一帯に飢饉が起こり、ヤコブとその子らがエジプトに下ったこと、そして、王朝が代わり、イスラエルの民が奴隷とされてしまったことなどに、主の摂理の御手が働いていました。 イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態にあるものとなったことは、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、暗やみの主権者の主権と支配の下に奴隷化されてしまっているという霊的な現実を見える形で指し示す「地上的なひな型」でした。 出エジプトの贖いの御業は、罪を犯して自らの罪に縛られ、暗やみの主権者の主権と支配の下に奴隷化されてしまっている人を、贖い出して、主の民としてくださるという、霊的な出エジプトを指し示す「地上的なひな型」でした。 アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民は、このような意味をもっている「地上的なひな型」としての使命を果たすために召されていました。もちろん、それをとおして、「地上的なひな型」が指し示している霊的な出エジプトの贖いの御業にあずかるようになることが主のみこころでした。 しかも、これらのことは、神のかたちとして造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、この地がのろわれてしまっている中でなされることです。また、また人が罪の自己中心性に縛られてしまっているために、神である主を神とすることなく、自らを神の位置に据えてしまうような状態にある人の社会においてなされることです。荒野は、そのような人の罪がもたらした不毛な状態を典型的に現しているものです。 それで、主はイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださった後、彼らを荒野に導き入れられたのです。そこで、試練に会わせて、ご自身の御臨在の御許に近づき、主に信頼して週のみこころに従って、すなわち、主がイスラエルの民に与えてくださった召しに従って生きるようになることを実現してくださるためでした。そして、そのように歩む者たちのために、荒野にマナを備えてくださいました。人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったためにのろわれてしまった地にあっても、また、そのことが典型的に現れている荒野にあっても、神である主はその一方的な恵みによって、ご自身の民の間にご臨在してくださり、彼らをご自身との交わりのうちに生きることができるようにしてくださいました。マナはそのような神である主の恵みの備えでした。 先ほど、民数記11章7節ー8節にマナがどのような食べ物であるかが記されていることお話ししました。実は、そのマナについての記述は、イスラエルの民がマナを食べることに飽きてしまって、不満をぶちまけたときのことを記している中に出てきます。この7節ー8節の前の4節ー6節には、 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」 と記されています。もっと、みずみずしいもの、刺激のあるものを食べたいと言って、泣き叫んだというのです。 主がイスラエルの民に与えてくださったマナは、イスラエルの民が荒野を旅した40年の間、常に変わることなく、しかも、その40年の間に限って与えられた奇跡的な食べ物でした。そうではあっても、それが毎日欠かさず与えられたために、イスラエルの民にとっては、マナが天から降ってくる露とともに降ってくることが、当たり前のこととなってしまい、主がご自身の御許に住まうご自身の民を養ってくださるために、常に、真実に与えてくださっていることは見失われてしまっていたようです。もはや、イスラエルの民にとっては、マナは単なる食べ物、お腹を満たすだけの食べ物となってしまっています。その意味で、荒野のイスラエルは「目に見えるマナ」を食べていただけでした。信仰によって、この「地上的なひな型」としてのマナが指し示しているまことのマナ、黙示録2章17節に出てくることばで言いますと、「隠れたマナ」にあずかることがありませんでした。 最後に、ヨハネの福音書6章48節ー51節に記されている、イエス・キリストのみことばを引用します。 わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 |
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