黙示録講解

(第230回)


説教日:2015年12月27日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(11)


 先主日は降誕節の礼拝となりましたので、ヨハネの黙示録からのお話はお休みしました。きょうは黙示録に戻って、2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 前回から、最後の17節に記されています、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

というイエス・キリストのみことばについてのお話を始めました。
 前回は、ここに出てくる「勝利を得る者」であるということについて、それがペルガモにある教会の置かれている状況にあっては、どのようなことであるかについてお話ししました。
 この場合の「勝利を得る」ということは、霊的な戦いにおいて「勝利を得る」ということで、軍事的、経済的、政治的な血肉の戦いや競争に勝利することではありません。
 ペルガモはローマの属州であるアジアにおける政治的、文化的、宗教的な中心地でした。特に、アジアにおいて、存命中のローマ皇帝のための神殿を建てた最初の町で、皇帝礼拝の中心地であり、皇帝礼拝に熱心な町でした。それで、13節では、

 わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。

と言われています。そのペルガモの町にあった教会の信徒たちは、さまざまな偶像礼拝、特に、皇帝礼拝を拒否したために迫害を受けて、社会的にも経済的にも貧しく、苦しい状況にありました。この世の尺度で見ますと、とても勝利者とは言えません。今日のことばで言いますと「負け組」に分類されます。
 けれども、契約の神である主の御前においてはそうではないのです。13節では続いて、

しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と記されています。迫害のために貧しさと苦しみの中にあっても、イエス・キリストの御名を堅く保っていたペルガモにある教会の信徒たちを揺るがすようなことが起こりました。彼らの模範とも言うべき立場にあり、イエス・キリストが「わたしの忠実な証人」とあかししておられるアンテパスが殺害されたのです。それでも、ペルガモにある教会の信徒たちはイエス・キリストに対する信仰を捨てることはありませんでした。その点で、ペルガモにある教会の信徒たちは霊的な戦いにおいて勝利していました。
 けれども、サタンは別の手を打っていました。14節ー15節には、

しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。

と記されています。イエス・キリストは、ペルガモにある教会の信徒たちのある人々が「ニコライ派の教えを奉じている」ことを指摘しておられます。ここでイエス・キリストは「ニコライ派の教え」が旧約聖書の民数記に出てくる「バラムの教え」に相当するものであることを示してくださっています。「ニコライ派の教え」は「バラムの教え」の「現代版」であるというのです。このように、イエス・キリストが「ニコライ派の教え」について教えておられることは、ペルガモにある教会の信徒たちが「ニコライ派の教え」がどのようなものであるかについて、また、その教えの危険性についてよく理解できていなかったからであると考えられます。
 イエス・キリストは「バラムの教え」について、

バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。

と教えておられます。このことは、「ニコライ派の教え」が「偶像の神にささげた物」を食べ、「不品行」、とりわけ偶像礼拝に関連して行われる「不品行」を行うことには問題がないとしていたことを意味しています。
 このような教えは、偶像礼拝、特に、皇帝礼拝を拒否していたために苦しみと貧しさの中にあった上に、模範的な信徒であったアンテパスが殺されてしまうという状況にあったペルガモにある教会の信徒たちにとっては、大変な誘惑であったことでしょう。その当時、それぞれの職業には組合があって、その組合の会合においては、それぞれの職業の守護神にちなんだ会食がなされていたようです。もしクリスチャンがそのような会食に参加することをよしとしないで、組合から離れるとしたら、商売上、大変不利な立場に立つことになりました。
 地から上ってきた獣すなわちにせ預言者が、人々に海から上ってきた獣の像を拝ませるように働いたことを記している13章15節ー17節には、

それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

と記されています。にせ預言者が拝ませようとしていた海から上ってきた獣とは、終わりの日に現れてくる反キリストの国(17章ー18章に記されている「大バビロン」)を頂点とするこの世の国ですが、黙示録が記された当時の人々にとってはローマ帝国です。
 ここに出てくる「刻印」が「右の手」か「」に押されることの背景としてはいくつかのことが考えられますが、最も重要な背景は、その当時の奴隷が、その所有者の「焼き印」を押されたということと、兵士たちが忠誠を表すものとしてその手に焼き印を受けたということです。ここでは、階級の違いを越えてすべての者が、海から上ってきた獣のものとなり、獣に忠実に従うものとなったことを意味しています。このような状況では、偶像礼拝、特に皇帝礼拝を拒否することは、

その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

と言われていますように、商売を続けていくことが困難な状態に追い込まれていくことになりました。そのようなことは、黙示録が記された時代より後の時代、すなわち、迫害が組織的に行われるようになった時代により明白なものとなりますが、すでに、黙示録が記された時代にも見られたことであると言われています。
 そのような事情によって貧しさと苦しみのうちにあったペルガモにある教会の信徒たちにとって、「偶像の神にささげた物」を食べ、「不品行」、とりわけ偶像礼拝に関連して行われる「不品行」を行うことには問題がないと主張する「ニコライ派の教え」は大きな誘惑でしたし、実際に、「背に腹は代えられない」として、その教えに活路を見出し、それを受け入れている人々がいました。
 しかし、イエス・キリストは、そのような教えが、出エジプトの時代のイスラエルの民を堕落させ、主の聖なる御怒りによるさばきを招くこととなった「バラムの教え」と本質的に同じものであることをお示しになり、ペルガモにある教会の信徒たちすべてが、悔い改めることをお求めになりました。ペルガモにある教会の信徒たちはこのことを悔い改めることによって、すでに、迫害の中で堅く保ち続けてきたイエス・キリストへの信仰を、さらに確かなものとすることになります。そのようにして、霊的な戦いにおいて勝利する者となるのです。


 17節には、

わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

という祝福の約束が記されています。
 イエス・キリストは、まず

 わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。

と約束してくださっています。きょうは、このマナについてお話しします。それが「隠れた」ものであることについては、来主日にお話しします。
 マナは出エジプトの時代に、神である主が約束の地に向かって荒野を旅するイスラエルの民を養ってくださるために備えてくださった食べ物です。出エジプト記16章1節ー5節には、

ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちはの手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」

と記されています。そして、13節ー18節には、

それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これはがあなたがたに食物として与えてくださったパンです。が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。

と記されています。
 ただ、これには例外がありました。ある者たちはモーセをとおして語られた戒めに背いて、次の日の分まで集めました。すると、次の日になるとマナに虫がわき悪臭を放ったと言われています。ところが、主の戒めに従って、6日目に次の安息日のための分も合わせて、2倍のマナを集めますと、そのマナは次の日(安息日)になっても臭くならず、虫がわくこともありませんでした。また、ある者たちが7日目にもマナを集めに出かけましたが、何も見つかりませんでした。
 主はその日に必要なマナを、しかも、その日に必要な分を与えてくださっています。イスラエルの民は、日ごとに、主が与えてくださるマナによって養われていました。これによって、イスラエルの民は日ごとに主を信頼して、主の恵みを待ち望むべきことを教えられました。これは、主イエス・キリストが教えてくださった祈りにおいて、私たちが日ごとに、主を信じて待ち望みつつ、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈ることに通じています。
 しかも、出エジプト記16章35節には、

 イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。

と記されています。また、荒野を旅したイスラエルの民の第二世代が、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったときのことを記しているヨシュア記5章10節ー12節にも、

イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。

と記されています。
 主は「四十年」もの間、荒野を旅するイスラエルの民を、真実に、マナをもって養い続けてくださいました。
 「マナ」はヘブル語では「マーン」です。旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳は、この出エジプト記16章では「マン」と訳していますが、それ以外の個所では、これを「マンナ」と訳しています。また、新約聖書のギリシア語もこれを「マンナ」で表しています。「マナ」はこの「マンナ」を音訳したものです。
 この「マーン」ということばは、先ほど引用しました出エジプト記16章15節で、

 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。

と言われているときの「何(だろう)」と訳されていることば、英語のwhatに当たる疑問詞です。旧約聖書の中では、疑問詞としてはここに出てくるだけで、その他はマナを表しています。この15節では、

 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。

と言われていますが、「マナ」[マーン・「マナ」「何(だろう)」]は、まさに、イスラエルの民がそれまでまったく知らなかった食べ物でした。それは人の経験と思いを越えた食べ物であり、ただ契約の神である主、ヤハウェがその一方的な恵みと御力によって備えてくださったものでした。
 それで、申命記8章2節ー3節には、

あなたの神、が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人はの口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

と記されています。
 主はエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を力強い御手をもって、エジプトの地から贖い出してくださり、荒野へと導かれました。荒野は不毛の地ですから、普通に考えますと、そこで一つの民が生きていくということは不可能なことでした。実際、イスラエルの民は荒野で飢えたり乾いたりするたびに、自分たちを荒野に導き入れた主に対する不信をつのらせて、主は自分たちを荒野で滅ぼすためにエジプトから連れ出したとつぶやきました。先ほど引用しました出エジプト記16章3節には、イスラエルの民がモーセとアロンに向かって、

エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちはの手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。

とつぶやいたと記されています。
 けれども、それはイスラエルの民が飢えてつぶやいた最初の事例であるということもあって、主は忍耐をもってそのつぶやきをお聞きくださり、人の思いを越えたマナという食べ物を与えてくださいました。これによって、イスラエルの民に、どのような時にも、それが人の目から見て如何ともし難い状況にあったとしても、自分たちを導いてくださっている主に信頼すべきことを教えてくださったのです。
 ただ、エジプトを出たイスラエルの民の第一世代は、そのような主の訓練を無にしてしまい、ことあるごとに主への不信を募らせていきました。その結果、主のさばきを招き、「四十年の間」荒野をさまようことになりました。そして、その間に、第一世代の者は、主を信じたヨシュアとカレブを除いて、すべて荒野で死に絶えてしまい、約束の地に入ることはできませんでした。

 私たちの主であられるイエス・キリストはこの荒野のイスラエルの民と同じ試練をお受けになりました。マタイの福音書4章1節ー4節には、

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

と記されています。
 イエス・キリストはメシヤとしてのお働きを始められるに当たって、まず、「悪魔の試み」をお受けになりました。それは、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている「最初の福音」が、ここで直接的に語りかけられている「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対する神である主のさばきの宣言のことばとして与えられていることによっています。すでにいろいろな機会にお話ししていますので、詳しい説明は省きますが、この「最初の福音」においては、「」と「女の子孫」の共同体のかしらとして来られる「」と呼ばれている方が、「おまえ」と呼ばれているサタンの頭を踏み砕くことによって、サタンに対する最終的なさばきを執行されるということが示されています。
 福音は霊的な戦いの状況において与えられていますし、イエス・キリストは霊的な戦いの状況において、贖いの御業を遂行されました。ヨハネの手紙第一・3章8節に、

 神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

と記されているとおりです。それで、イエス・キリストは人々の間でお働きになる前に、荒野においてサタンとの霊的な戦いを戦われました。
 その第一に記されている試みは、イエス・キリストが荒野で「四十日四十夜」断食された後に「空腹を覚えられた」時になされました。その時、サタンは、

 あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。

と言って、イエス・キリストを誘惑しました。
 これがなぜ誘惑になるのか、分かりにくい気がします。実際に、イエス・キリストは神の御子であり、創造の御業を遂行された全能の主ですから、石をパンに変えることはおできになります。また、荒野にいくらでもある石をパンに変えたとしても、誰かに害を与えることにはなりません。ですから、これはイエス・キリストの御力を試すものではありませんし、道徳的な罪を犯すようにと誘惑するものでもありません。これは、霊的な戦いの根本的なことにかかわる誘惑です。
 ここでのポイントは、マタイの福音書4章1節に記されているように、イエス・キリストが荒野に来られたのは「御霊に導かれて」のことであったということです。また、「悪魔の試みを受ける」ことも、「最初の福音」に示されているように、父なる神さまのみこころに沿ったことであったということです。
 イエス・キリストはその荒野という不毛な所で、「四十日四十夜」断食されました。それは断食すること自体が目的であったのではなく、メシヤとしてのお働きを開始するに当たって、文字通り、寝食を忘れて、父なる神さまとの交わりの時をもたれたということです。それが「四十日四十夜」にわたる断食であったために、それが終わったときには、大変な飢えが襲ってきました。これに対してサタンは、このような不毛な荒野においては食べる物がないから、神の御子としての力を働かせて、石がパンになるように命じるよう提案しました。
 これに対して、イエス・キリストは、先ほど引用しました申命記8章3節に記されている、みことばを引用して、

 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と書いてある。

とお答えになりました。
 ここでイエス・キリストは人としての立場に立っておられます。先ほどの「最初の福音」のことばで言いますと、「」と「女の子孫」の共同体のかしらとしての立場に立っておられます。私たちと一つとなられて、人としての歩みにおいて、父なる神さまのみこころに従う立場に立たれたのです。
 その上で、ご自身をこの荒野に導かれたのは神の御霊であり、ご自身がこの荒野でサタンとの霊的な戦いを戦うことは父なる神さまのみこころであるので、このすべてのことにおいて、父なる神さまに信頼するということを明らかにされました。出エジプトの時代に、神である主がイスラエルの民を荒野に導き入れられたとき、そこに通常の食べ物がなかったけれども、主は人の思いを越えたマナをもってイスラエルの民を養ってくださいました。そのようにイエス・キリストは、父なる神さまがご自身のことを顧みてくださっていて、何らかの形で必ず養ってくださるということを信じて、父なる神さまを待ち望まれたのです。
 荒野の試みの記事を締めくくる11節には、

 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

と記されています。御使いたちがどのようにイエス・キリストに仕えたか、具体的には記されていません。けれども、この「仕えた」と訳されていることば(ディアコネオー)は、もともと食卓で給仕することを意味することばで、それが転じて、一般的に仕えることを表すようにもなりました。それで、御使いたちが何らかの食べ物、おそらく、詩篇78篇23節ー25節に、

 しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、
 食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、
 天の穀物を彼らに与えられた。
 それで人々は御使いのパンを食べた。

と記されている、マナをもってイエス・キリストにお仕えしたことを示していると考えられます。[注]

[注]ここで「御使いのパン」と言われているときの「御使い」と訳されたことば(アッビーリーム)は「力強い者たち」を表しています。それで、これは「御使い」を意味してはいないという見方があります。ただ、七十人訳はこれを「御使いたち」と訳しています。それで、これは「御使いたち」を意味している可能性があります。
 そうしますと、霊的な存在である御使いたちが物質的なマナを食べるのだろうかという疑問が湧いてきます。これについては、マナは単なる物質的なものではなく、神さまがご自身の民、ご自身に仕える存在を支え、養い育ててくださるために与えてくださるものであると考えられます。御使いたちは自分で自分の存在を支えているわけではありません。

 このように、マナはただ単に人のお腹を満たす食べ物であるだけではありません。ご自身の民を真実に支えてくださる契約の神である主、ヤハウェが与えてくださる、人の経験や思いを越えた備えを意味しています。そして、その本体は、私たちを永遠のいのちに生きる者としてくださるために、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストです。ヨハネの福音書6章35節には、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

というイエス・キリストのみことばが記されています。また、51節にも、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です

と記されています。
 これらのことは、父なる神さまが遣わしてくださったイエス・キリストを主であり救い主であると告白して、カイザルが主であると告白する皇帝礼拝を拒否したために迫害を受け、苦しみと貧しさのうちにあったペルガモにある教会の信徒たちにとって大切な意味をもっていました。ペルガモの状況からしますと、イエス・キリストのみを主として告白して、イエス・キリストに従って生きることは、生計が成り立たなくなるのではないかという不安をもたらすことでした。そのような状況にあって、なお、イエス・キリストに対する信仰を捨てることのないペルガモにある教会の信徒たちに、イエス・キリストは、古い契約の下で、荒野を旅したイスラエルの民を養ったマナの本体であるイエス・キリストご自身を与えてくださり、その復活のいのちで生きる者としてくださることを約束してくださっています。この約束が完全に実現するのは終わりの日に、私たち主の民が復活するときのことですが、私たちはすでにイエス・キリストの復活にあずかって、新しく生まれています。


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