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説教日:2015年12月13日 |
これに対して、暗やみの主権者であるサタンは、迫害という外からやって来る試練に耐えているペルガモにある教会の信徒たちを、それとは別の試練によって試して、彼らの信仰をねじ曲げて、実質的に、イエス・キリストへの信仰を空しいものとしてしまおうとして働いていました。それが、ペルガモにある教会が霊的な戦いにあったことのもう一つの現れで、14節ー16節に記されている、 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 というみことばに示されています。 ここでイエス・キリストは、ペルガモにある教会の信徒たちのある人々が「ニコライ派の教え」を受け入れ、それに従って歩んでいるということを指摘しておられます。その際にイエス・キリストは、「ニコライ派の教え」は、出エジプトの後、荒野を旅していたイスラエルの民に「偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた」「バラムの教え」に当たるもの、「バラムの教え」の「現代版」であることを示しておられます。このことは、ペルガモにある教会の信徒たちが「ニコライ派の教え」に、あるいはまた、その危険性に気づいていなかったことを意味しています。 この「ニコライ派の教え」のことは、すでに、1節ー7節に記されています、エペソにある教会へのみことばの中にも触れられています。また、18節ー29節に記されています、テアテラにある教会へのみことばにおいても、「ニコライ派」ということばは出てきませんが、「預言者だと自称している」「イゼベルという女」の教えとして取り上げられています。20節で、イエス・キリストは、 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。 と述べておられます。これは「イゼベルという女」の教えが「ニコライ派の教え」であることを意味しています。さらに、24節では、この教えを受け入れていない人々のことが、 この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていない 状態にあると言われています。ここに出てくる「サタンの深いところ」についてはこの個所を取り上げるときにお話ししますが、このイエス・キリストのみことばは、「イゼベルという女」の教えがサタンから出ていることを示しています。 これらのことは、「ニコライ派の教え」は、アジアにある七つの教会を内側から崩壊させようとしているサタンに用いられているものであったことを意味しています。それがエペソにある教会では退けられていましたが、テアテラにある教会では、先ほど引用しました20節に記されているみことばで、イエス・キリストが、 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。 と述べておられるように、深刻な影響を与えていました。ペルガモにある教会では一部の信徒たちの間に入り込んできていましたが、ペルガモにある教会の信徒たちはその教えの危険性に気づいて、対処することができていませんでした。この点では、ペルガモにある教会の信徒たちは霊的な戦いにおいて勝利しているとは言えない状態にありました。 これに対してイエス・キリストは、その教えの本質を示してくださるとともに、 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 と言われて、それはすぐにでも取り除かなければならない教えであることを示してくださっています。 ここでは「ニコライ派の教え」が問題となっていますが、「ニコライ派の教え」にかぎらず、異端的な教えは、福音のみことばを自分たちの時代や文化の発想に従って解釈し、自分たちが受け入れやすいよいようにねじ曲げてしまうものです。それで、そのような教えは、キリスト教的な装いをもっています。また、そのような教えを受け入れている人々は、自らがその教えに欺かれてしまっていますので、自分たちこそが真に目覚めた信仰者であり、自由な者であると主張します。けれども、そのような教えは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業を空しいものとしてしまいます。そして、そのために、人々をイエス・キリストから引き離してしまいます。 イエス・キリストは、ペルガモにある教会がこのような教えの侵入を許してしまったことを悔い改めるよう促しておられます。その悔い改めは、ペルガモにある教会の信徒たちすべてが、改めて、福音のみことばの真理に堅く立つことによって初めてできることです。福音のみことばについての正しい理解がないなら、異端的な教えの誤りを見分けることができません。同時に、そのようにして異端的な教えの誤りと危険性を見分けることができたときには、より自覚的に、福音のみことばの真理に立つことができるようになります。 そうしますと、ペルガモにある教会の信徒たちは霊的な戦いにおいて敗北してしまったということになるのでしょうか。そうではありません。ペルガモにある教会の信徒たちは、 だから、悔い改めなさい。 というイエス・キリストのみことばに聞き従って、悔い改めて福音のみことばに堅く立つようになることによって、霊的な戦いにおいて勝利するようになるのです。 私たち主の民は父なる神さまの一方的な愛と恵みによって、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかる者としていただいています。そのイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いは、私たちがイエス・キリストを信じるようになる前の罪をすべて贖ってくださっただけではありません。イエス・キリストの十字架の死は、私たちがイエス・キリストを信じて神の子どもとしていただいた後に犯した罪も、また、これから犯すであろう罪もすべて、完全に贖ってくださるものです。 私たち主の民は地上にある間、自分たちのうちに罪の性質を宿しています。それで実際に罪を犯してしまいます。父なる神さまはそのような私たちのために、イエス・キリストによって、十分な備えをしてくださっています。ヨハネの手紙第一・1章8節ー10節に、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 と記されているとおりです。 イエス・キリストは今から2千年前に、私たちご自身の民のために十字架におかかりになって、私たちのすべての罪を完全に贖ってくださいました。それで、その御業に付け加えるべきものは何もありません。そのイエス・キリストは今、父なる神さまの右の座に着座されて、私たちのあわれみ深い大祭司として、また、私たちのためのまことの羊飼いなる王として働いておられます。 ヘブル人への手紙2章17節ー18節には、 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 と記されています。 また、ペテロの手紙第一・2章25節には、 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。 と記されています。そして、終わりの日に実現される救いの完成にあずかる主の民のことが黙示録7章16節ー17節に、 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。 と記されています。 このようにして、イエス・キリストは世の終わりまで、あらゆる時代において、地上を歩むご自身の民を、ご自身が成し遂げられた贖いの御業にあずからせてくださり、御霊によって導いてくださっています。私たちがイエス・キリストを信じることができるようになったのも、このイエス・キリストのお働きによっています。また、私たちが罪を犯しても、その罪を悔い改めることができるのも、このイエス・キリストのお働きによっています。 このことと関連して心に刻んでおきたいのは、イエス・キリストが、テアテラにある教会において異端的な教えを説いていた「イゼベルという女」にさえも繰り返し、悔い改めの機会を与えておられたということです。イエス・キリストは罪を犯してさまよう私たちに対しても忍耐深くあられます。ペテロの手紙第二・3章15節には、 私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。 と記されています。これは、主が罪を犯してさまよってしまっている私たちをただちに断罪してしまわれるのではなく、私たちがその罪を悔い改めて、主の御許に立ち返って生きるようになるために、私たちに対して忍耐深くあられることを意味しています。 ペテロの手紙第二・3章では、これに先立つ13節ー14節に、 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。 という戒めが記されています。そして、これに続いて、 私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。 と記されています。ですからこれは、私たちが、 しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。 という戒めに従って励んでいくときにも、罪を犯してさまよってしまうことがあることを踏まえて、主がそのような私たちに対して忍耐深く接してくださるということを示してくださっているものです。 私たちはこのようなイエス・キリストのお働きにあずかって、霊的な戦いにおいて勝利者となるのです。 霊的な戦いにおいて勝利者となることとのかかわりで思い出されるのは、ローマ人への手紙8章31節ー39節に記されているみことばです。そこには、 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、 死に定められている。 私たちは、ほふられる羊とみなされた。」 と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 と記されています。 イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださったことは、私たちを地上にあっても天にあっても、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者、永遠のいのちに生きる神の子どもとしてくださったことです。それで、霊的な戦いにおいて、暗やみの主権者であるサタンがさまざまな策略を用いて、最終的に実現しようとしていることは、 私たちをキリストの愛から引き離す ことであり、 私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すこと です。 パウロは、 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、 死に定められている。 私たちは、ほふられる羊とみなされた。」 と書いてあるとおりです。 と述べています。 ここでパウロは「私たちをキリストの愛から引き離す」可能性があるものとして考えられるものとして、「患難」、「苦しみ」、「迫害」、「飢え」、「裸」、「危険」、「剣」を列挙しています。この場合、 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。 というように、それが「人」であるかのように言われているのは、ここで列挙されているものが、ギリシア語で男性形か女性形であるために、代表的に男性形[「だれ」(ティス)]で表していることによっていると考えられます。 「患難」は強い圧迫を表すことばで、「患難」、「迫害」、「苦難」などを意味しています。 「苦しみ」は窮することや行き詰まりなどを表すことばで、「苦悩」を意味しています。ここでは、これら二つのことばを重ねることによって、あらゆる苦しみを示しています。 「迫害」は、すでにアジアにある七つの教会のいくつかの教会に加えられていたものです。その迫害は黙示録が記されたときにはまだ組織的なものではありませんでしたが、この後、ローマ帝国ではクリスチャンたちへの組織的な迫害が加えられていくことになります。 「飢え」は今日でも大きな問題となっていますが、その当時は、日照りや害虫による飢饉がしばしば起こっていました。そのような状態にあって、特に、「飢え」る人々は貧しい人々です。同じように、「裸」はあまりにも貧しくて着る物も手に入らない状態にあることを意味しています。ここでは、「飢え」と「裸」の組み合せによって極度の貧しさを示しています。 「危険」はその当時は、今日とは違った危険がありました。治安の悪さによる犯罪、自然災害の予測が難しくて大きな被害を被ること、衛生状態が劣悪なために伝染病が蔓延すること、「ローマの平和」による安定した時代にありましたが、なお、反乱などによる争いに巻き込まれることなど、さまざまな危険がありました。 「剣」は権力者による処刑を意味しています。ここでは、特に、信仰のために迫害を受けて処刑されることを意味しています。 パウロがこれらのことを列挙しているのは、これらのことが、遠い世界のことではなく、それが自分たちにとって現実的なことであったからです。そうではあっても、この、 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。 という問いかけは、いわゆる修辞疑問で、その答えは「そのようなものは何もない」です。 パウロはこのような問いかけに続いて、 「あなたのために、私たちは一日中、 死に定められている。 私たちは、ほふられる羊とみなされた。」 と書いてあるとおりです。 と述べています。ここでは、詩篇44篇22節のみことばを引用しています。これがどのような意味で引用されているかを理解するために、詩篇44篇22節をその前の17節から見てみましょう。そこには、 これらのことすべてが私たちを襲いました。 しかし私たちはあなたを忘れませんでした。 また、あなたの契約を無にしませんでした。 私たちの心はたじろがず、 私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。 しかも、あなたはジャッカルの住む所で 私たちを砕き、 死の陰で私たちをおおわれたのです。 もし、私たちが私たちの神の名を忘れ、 ほかの神に私たちの手を差し伸ばしたなら、 神はこれを探り出されないでしょうか。 神は心の秘密を知っておられるからです。 だが、あなたのために、 私たちは一日中、殺されています。 私たちは、ほふられる羊とみなされています。 と記されています。 17節で、 これらのことすべてが私たちを襲いました。 と言われているときの「これらのことすべて」は、9節ー16節に記されていることで、「私たち」すなわち主の契約の民が敵の手に落ちて、さまざまなそしりとあざけりと辱めを受けたことです。しかも、それは、さらにこれに先立つ5節ー8節に、 あなたによって私たちは、敵を押し返し、 御名によって私たちに立ち向かう者どもを 踏みつけましょう。 私は私の弓にたよりません。 私の剣も私を救いません。 しかしあなたは、敵から私たちを救い、 私たちを憎む者らをはずかしめなさいました。 私たちはいつも神によって誇りました。 また、あなたの御名をとこしえにほめたたえます。 と記されていますように、「私たち」が自らの力に頼ることなく、主を信頼し、主だけを頼みとしていたときのことでした。 そして、17節ー18節では、 これらのことすべてが私たちを襲いました。 ということばに続いて、 しかし私たちはあなたを忘れませんでした。 また、あなたの契約を無にしませんでした。 私たちの心はたじろがず、 私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。 と言われています。敵の手に落ちたとしても、なおも、主を信じ、主の契約を守って歩んでいるということです。 ところが、この後の19節には、 しかも、あなたはジャッカルの住む所で 私たちを砕き、 死の陰で私たちをおおわれたのです。 と記されていて、そのような「私たち」に、さらなる災いがやって来たと言われています。そのことを受けて、22節で、 だが、あなたのために、 私たちは一日中、殺されています。 私たちは、ほふられる羊とみなされています。 と言われています。 これらのことによって、私たち主の民の苦しみは、私たちが主を信じ主に従っているために、この世から受けるものであるということが示されています。主の民がこの世から受ける苦しみは、主が私たちをこの世から贖い出してくださって、ご自身の民としてくださったことの現れです。ヨハネの福音書15章19節に記されているとおり、イエス・キリストも、 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。 と教えておられます。それで、主の民がこの世から受ける苦しみは主の愛と恵みに満ちた栄光が現されるための苦しみであって、決して、無意味で空しいものではありません。 パウロはこの詩篇のみことばを引用して、神の子どもたちが父なる神さまのみこころに従って歩むときにこの世から受ける苦しみのことを語っています。神の子どもたちがその苦しみの中で、なおも、イエス・キリストにある父なる神さまの愛と恵みに包まれて、また、その愛とめぐみを確信して歩むことによって、父なる神さまの愛と恵みに満ちた栄光が現され、あかしされるようになるというのです。 このように、私たちがこの世で受けるどのような苦しみも、「私たちをキリストの愛から引き離す」ものではありません。たとえそれが私たち自身の罪の結果もたらされた苦しみであったとしても、父なる神さまは、それをとおして、私たちを悔い改へと導いてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに導き入れてくださいます。そして、このことは、私たちが霊的な戦いにおいて「勝利を得る者」であることの現れでもあります。 |
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