黙示録講解

(第228回)


説教日:2015年12月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(9)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 きょうは、話が戻ってしまいますが、以前お話ししたことを補足するお話をします。
 イエス・キリストは12節で、ご自身のことを「鋭い、両刃の剣を持つ方」として示しておられます。これによってイエス・キリストは、ご自身が旧約聖書にしばしば出てきます「神であられる戦士」として霊的な戦いをとおして救いとさばきの御業を遂行されるる方、特に、さばきを執行される方であられることを示しておられます。
 このことは、イエス・キリストが最終的にさばきを執行されるために終わりの日に再臨されれることを記している、19章11節ー16節において、イエス・キリストのことが「白い馬」に乗った方で、「義をもってさばきをし、戦いをされる」方として示され、

 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。

と言われていることから分かります。
 イエス・キリストがご自身をこのような意味をもっている「鋭い、両刃の剣を持つ方」としてお示しになったのは、地上にあるすべての教会がそうなのですが、特に、ペルガモにある教会が厳しい霊的な戦いの状況に置かれていたからです。
 ペルガモにある教会が厳しい霊的な戦いの状態にあったことは、2章13節ー15節に記されていますイエス・キリストのみことばから汲み取ることができます。
 13節では、ペルガモには「サタンの王座がある」と言われています。これは、ペルガモがローマの属州であるアジアにおいて最初に存命中の皇帝を礼拝するための神殿を建設して、皇帝礼拝をしていた町であったことによっていると考えられます。
 その当時のローマの社会には、ギリシアとローマのさまざまな神々のための神殿がありました。人々がその中のどの神を拝むかということは、それぞれの人がどのように考えるか、どのような信仰をもっているかによって違っていました。人々は自分たちが信じる神々を拝んでいたのです。
 けれども、皇帝礼拝はこれとは違っていました。皇帝礼拝も礼拝ですので宗教的なことですが、その当時の考え方としては、ローマへの忠誠を示すためのものとして、政治的な意味合いがより強く意識されていました。それで、ローマの属州であるアジアのようにローマとのつながりを大切にしている地方の町では、進んで皇帝礼拝を取り入れて、ローマへの忠誠を示すことに力を注いでいました。皇帝礼拝がそのような意味合いをもっていましたので、皇帝礼拝をしない人々はローマへの忠誠を現すことを否定する者として警戒され、社会的な制裁を受けことになりました。
 もちろん、ペルガモにある教会の信徒たちも、そのほかのクリスチャンたちも、皇帝礼拝がローマへの忠誠を示すものであるからということでそれを拒否していたわけではありません。それが偶像礼拝であるので、そこで香をたいて「カイザルは主である」と告白することを拒否したのです。それで、クリスチャンたちは皇帝を礼拝することだけでなく、そのほかのギリシアやローマの神々を礼拝することもありませんでした。
 また、クリスチャンたちが迫害を受けた原因は皇帝礼拝を拒否したことだけによっていたわけではありません。クリスチャンたちはギリシアやローマの神々を礼拝しなかったために、「無神論者」というレッテルを貼られて非難されました。そして、そのように、自分たちの神々を軽んじる者たちには、神々による制裁としての災いが下されることになるし、そのような者たちがいる町にも神々の怒りによる災いが下されることになると考えられて、クリスチャンたちへの迫害がなされました。
 さらには、ギリシアやローマの神々が敬われていた社会においては、それらの神々にかかわることを避けるために、不利な立場に立たされることがありました。たとえば、それらの神々の像を刻むこと、それらの像を売ること、偶像礼拝に関連する商品を扱うことがない仕事に就こうとしますと、いろいろな困難が生じたと考えられます。

          *
 このような状況が生み出されていることに関して、黙示録の中に示されていることを見てみましょう。
 12章7節ー9節には、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されています。
 ここには「巨大な竜」と呼ばれているサタンが天における霊的な戦いに敗北して地に投げ落とされたことが記されています。サタンが地に投げ落とされたことについて、12節には、

 悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこ[地]に下った

と記されています。
 そして、続く13節ー18節には、

 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

と記されています。
 13節では、地に投げ落とされた「」が、

 男の子を産んだ女を追いかけた

と言われています。この「男の子を産んだ女」は、1節ー2節において、

また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。

と記されており、5節に、

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。

と記されている「」です。1節で、

 巨大なしるしが天に現れた。

と言われていますように、この「」は天に属しています。それで、この「」は古い契約と新しい契約の時代をとおして存在する主の契約の民の共同体としての「教会」(広い意味での教会)を指しています。これには、古い契約の時代も含めて、すでに主の御許に召された主の民も、また、これから生まれてくるであろう主の民も含まれています。
 4節では、

竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。

と記されていますが、先ほどの5節で、

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。

と言われています。
 ですから、13節で「」が、

 男の子を産んだ女を追いかけた

と言われているときの「」が産んだ「男の子」は、古い契約の書である旧約聖書において約束されていたメシヤ、すなわち、イエス・キリストを指しています。
 また、この「」は、すでに「男の子」すなわちイエス・キリストを産んでいます。そればかりでなく、彼女が産んだイエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民のための贖いの御業を成し遂げられ、父なる神さまの右の座に着座されて、すべてのものを治めておられます。そして、「」すなわちサタンは天における霊的な戦いに敗北し、地に投げ落とされています。それで、13節で「」に追いかけられたと言われている「」は、新しい契約の共同体としての教会を指しています。これにもすでに主の御許に召された主の民も、また、これから生まれてくるであろう主の民も含まれています。
 この「」は「」に追いかけられます。しかし、14節ー16節に、

しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。

と記されていますように、神である主のさまざまな備えによって守られます。14節で、

女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

と言われていることは、神である主による出エジプトの御業を思い起こさせます。エジプトの奴隷の状態から贖い出されて、シナイの荒野にまで導かれて来て、シナイ山の麓に宿営していたイスラエルの民に主が語られたみことばを記している出エジプト記19章4節には、

 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

と記されています。ここでは、古い契約の下にあった出エジプトの贖いの御業においては、主がイスラエルの民を「鷲の翼に載せ」て、主の御臨在の御許に連れて来てくださったと言われています。これに対して黙示録12章14節では、主が「」すなわち新しい契約の共同体としての教会自身に「大鷲の翼を二つ与えられた」と言われています。彼女が自分で荒野に行くことができるようにしてくださったのです。これは、古い契約の下での出エジプトの贖いの御業が、その本体としてのまことの出エジプトとしての贖いの御業において発展していることを示していると考えられます。
 出エジプトの時代に、神である主はシナイ山にご臨在されて、イスラエルの民と契約を結んでくださり、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための聖所を与えてくださいました。そして、主の御臨在の御許に住まい、御前を歩む主の契約の民のあり方を示す律法であるモーセ律法を与えてくださいました。
 さらに主はイスラエルの民の間にご臨在してくださり、民が約束の地に入るまで荒野の旅路を導いてくださいました。また主は、荒野を旅するイスラエルの民のためにマナを降らせてくださって彼らを養い続けてくださいました。主が最初にマナを与えてくださったときのことを記している出エジプト記16章35節に、

 イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。

と記されているとおりです。
 その一方で、荒野の「四十年間」はイスラエルの民にとっては試練のときであり、不信仰に陥ったイスラエルの民が繰り返し主を試みたときでした。しかし、主はイスラエルの民を滅ぼしてしまうことはなさいませんでした。イスラエルの民の第一世代は度重なる不信仰のために荒野で滅びましたが、主はその子どもたちである第二世代の民を訓練してくださいました。申命記8章2節ー5節には、

あなたの神、が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人はの口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、があなたを訓練されることを、知らなければならない。

と記されています。
 黙示録12章では、このような意味をもっている「荒野」が「」すなわち新しい契約の共同体である教会のある場所であると言われています。「荒野」は霊的な戦いの状況にある主の契約の民が、「」の働きかけなどによってもたらされる試練を受ける所ですが、そこには、神である主の御臨在が常に主の契約の民とともにあって、恵みによる備えをしてくださるとともに、それらの試練をもお用いになって、主の契約の民を訓練してくださる場所です。
 そして、この「荒野」は主の契約の民が定住する所ではなく、約束の地に向かって歩んで行くために備えられた所です。
 また、14節には、

 女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

と記されています。新しい契約の共同体である教会がその荒野で過ごす期間は「一時と二時と半時」であると言われています。これは、6節に、

 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

と記されているときの「千二百六十日」と同じ期間です。「一時」を1年(360日)として「一時と二時と半時」は3年半で「千二百六十日」となります。
 「一時と二時と半時」はダニエル書7章25節と12章7節に出てくることばです。
 ダニエル書7章には、ダニエルが幻の中で、海から上ってきた「四頭の大きな獣」のことを見たことが記されています。そのうちの第4の獣のことを記している7章25節ー27節には、

  彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、
  いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。
  彼は時と法則を変えようとし、
  聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、
  彼の手にゆだねられる。
  しかし、さばきが行われ、
  彼の主権は奪われて、
  彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。
  国と、主権と、天下の国々の権威とは、
  いと高き方の聖徒である民に与えられる。
  その御国は永遠の国。
  すべての主権は彼らに仕え、服従する。

と記されています。
 また、終わりの日のことを預言的に記している12章7節には、

すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」

と記されています。最後に、

 聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。

と言われていることは11章2節ー12章3節に記されていることです。それはアレクサンダー大王の帝国とその後に帝国が四つに分裂すること、そのうちのシリアのセレウコス朝とエジプトのプトレマイオス朝の戦い、セレウコス朝から出てきたアンティオコス4世エピファネスによるユダヤ人への迫害、さらに、エピファネスをひな形として終わりの日に登場する「反キリスト」、そして、主の民の最終的な救いのことです。
 このように、7章25節と12章7節に出てくる「ひと時とふた時と半時」は霊的な戦いにおいて、主の民が迫害を受けて苦しむ期間を示していますが、同時に、その期間が終わると主によるさばきが行われて、主の御国が確立され、主の民の救いが完成することが示されています。それで、この「一時と二時と半時」は、また、終わりの日に主の民の救いが完成するまでの期間を指しています。これを受けている黙示録12章14節では、「一時と二時と半時」の始まりは、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられて父なる神さまの右の座に着座されて、すべてのことを父なる神さまのみこころに従って治められるようになった時です。そして、イエス・キリストが終わりの日に再臨されて、最終的なさばきを執行され、ご自身の民の救いを完全に実現してくださるまでの期間を示していることになります。しかも、この期間において、「」あるいは「」と呼ばれているサタンは天における霊的な戦いに破れて、地に投げ落とされてしまっている状態にあります。
 さらに、このように、「一時と二時と半時」と言われていることによって、その霊的な戦いにおいて、主の民が迫害を受けて苦しむ期間は際限なく続くのではなく、主によって定められた期間であることが示されています。主はその期間に起こり来るすべてのことを治めておられます。そして、サタンの働きをも含めて、すべてのことをお用いになって、「荒野」を旅する私たちご自身の民を、父なる神さまのみこころに従って養い育ててくださり、訓練してくださいます。ヘブル人への手紙12章2節ー11節には、途中を省略しますが、

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
 「わが子よ。
 主の懲らしめを軽んじてはならない。
 主に責められて弱り果ててはならない。
 主はその愛する者を懲らしめ、
 受け入れるすべての子に、
 むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。・・・(中略)・・・肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

と記されています。

          *
 このように、黙示録12章14節ー16節では、新しい契約の共同体としての教会が「荒野」にあってさまざまな試練に会いながら、ご自身の民の間にご臨在される主によって養い育てられ、訓練を受けていることが示されています。しかし、「」はさらなる霊的な戦いを展開していきます。17節ー18節には、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

と記されています。
 ここでは「」と「女の子孫の残りの者」の関係をどのように理解するかという問題があります。これにつきましてはいくつかの主張がありますが、結論的なことをお話しします。
 12章1節に、

また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。

と記されていますように、「」は天に属しています。そして、これは、古い契約と新しい契約の時代をとおして存在する主の契約の民の共同体の総体としての(広い意味での)教会を指しています。これに対して、14節ー16節に出てくる「」は「一時と二時と半時」の間、特に迫害による試練にさらされるようになる新しい契約の共同体の総体としての教会です。それはイエス・キリストの血による新しい契約の下にある教会です。このように、「」ということばは主の契約の共同体としての教会を表していますが、その文脈によって、その広がりが違っています。
 17節では、「女の子孫の残りの者」のことが、

 神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち

と呼ばれています。これは1章9節で、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた

と言われているヨハネ、6章9節で、

 神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々

と言われている人々、12章11節で、

 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と言われている人々、さらに、20章4節で、

 イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たち

と言われている人々などを指しています。それで、「女の子孫の残りの者」は、このような人々によって構成されている教会のことであると考えられます。それは、イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の下にある教会で、地上にある間、試練の中にありながら、イエス・キリストのあかしを立てている人々によって構成されている教会のことを指していると考えられます。これは、イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の下にある教会とは、地上にある間、試練の中にあって試されつつ、なおも、イエス・キリストのあかしを立てている教会であるという意味です。
 そして、サタンにとっては、このような「女の子孫の残りの者」が目障りであり、さらなる迫害による試練にさらそうとして働いていると考えられます。
 これはまた、サタンの限界にもよっています。あらゆる点において無限であられる神である主は、古い契約と新しい契約の時代をとおして存在する主の契約の民の共同体の総体としての(広い意味での)教会をご存知ですし、そののすべてを支えておられます。けれども、サタンには被造物としての限界があります。さらに、サタンは天における霊的な戦いに敗北して、血に投げ落とされてしまっています。それで、サタンは地上にいる主の契約の民に対してしか働き掛けることができません。
 このようにして、地上においては、天における霊的な戦いに破れて地に投げ落とされた「」すなわちサタンが、最後の力を振り絞って、

 女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち

に対して霊的な戦いを仕掛けています。

          *
 この「」が用いているのが、13章に記されています、海から上ってくる獣と地から上ってくる獣です。
 海から上ってくる獣のことは1節ー5節に、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう」と言った。この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。

と記されています。
 この獣は「」が生み出したもので、黙示録が記された時代のローマ帝国を典型的な例として、終わりの日に至るまで連綿と続く、帝国や国家など、さまざまな形で存在する地上の主権、権威のことです。これらは「」の働きによって欺かれて、悪魔化してしまうことによって、「女の子孫の残りの者」たちを、迫害を中心とするさまざまな試練に会わせるようになります。
 1節で、

 これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。

と言われているのは、この獣が12章3節に、

 また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。

と記されている「大きな赤い竜」すなわちサタンを映し出していることを示しています。
 13章2節で、

 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。

と言われているのは、この獣がダニエル書7章に出てくる四つの大きな獣を集約するような恐るべき獣であることを示しています。そして、これに続いて、

 竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と記されています。ここで「」(「自分の位」)と訳されていることば(スロノス)は、2章13節で、

 わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。

と言われているときの「王座」と同じことばです。ここではサタンがその「王座」に着いて暗やみの主権を振るっていることが示されていますが、それは、海から上ってきた「」、この場合はペルガモにおけることですので、ローマ帝国を用いてのことであると考えられます。
 地から上ってくる獣のことは、13章11節ー17節に、

また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

と記されています。
 この地から上ってくる獣のことは、黙示録では、この後「にせ預言者」と呼ばれています。この「にせ預言者」と呼ばれる獣はその名のとおり「竜のようにものを言った」と言われています。これは「にせ預言者」がサタンの口となって働いていることを示しています。このことが、ペルガモにある教会においては、バラムの教えの現代版であるニコライ派の教えが忍び込んできていて、信徒の一部を惑わして皇帝礼拝をさせていたことに現れてきています。
 さらに「にせ預言者」は、「大きなしるし」をもって人々を惑わし、海からの獣の像を造らせ、その像を拝ませ、「獣の像を拝まない者をみな殺させ」ました。これは、「にせ預言者」が人々に皇帝礼拝をさせたことを意味しています。そのことがペルガモにある教会において迫害を生み出し、イエス・キリストから「わたしの忠実な証人」と呼ばれているアンテパスが殺害されたことに現れてきています。
 そればかりでなく、「にせ預言者」はすべての人に獣の刻印を受けさせました。そして、

また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

と記されていますように、その刻印を受けていない者には経済的な活動ができないようにしてしまいました。ローマへの忠誠のあかしとしてなされている皇帝礼拝を拒否する人々が社会的に不利な立場に置かれ、貧しさと苦しみのうちに追い込まれていったことが示されています。


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