黙示録講解

(第227回)


説教日:2015年11月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(8)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 ペルガモはアジアにある七つの教会があった、ローマの属州アジアの政治的、文化的、宗教的な中心地で、特に、存命中の皇帝を礼拝するための神殿を最初に建設した町でした。その当時、皇帝礼拝は宗教的なことではありますが、それよりは政治的なことであって、ローマ帝国への忠誠を表すためのことと考えられていました。それで、アジアの属州であった町は、ローマ帝国への忠誠を示そうとして、進んで皇帝礼拝を取り入れていました。このことを背景としてイエス・キリストは、13節に記されていますように、ペルガモにある教会に、

わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と語りかけておられると考えられます。
 ペルガモにある教会の信徒たちは皇帝礼拝を拒否していたために、社会的に非難されたり、不利な立場に立たされたりして苦しんでいが、なおも、イエス・キリストの御名を堅く保っていました。そのペルガモにある教会の信徒たちをさらに試練に陥れる出来事が起こりました。イエス・キリストが「わたしの忠実な証人」とあかししておられるアンテパスが、その信仰のために殺害されたのです。それでも、ペルガモにある教会の信徒たちはイエス・キリストに対する信仰を捨てることはありませんでした。
 その一方で、ペルガモにある教会には、もう一つの問題が生じていました。14節において、イエス・キリストは、

しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。

と述べておられます。ペルガモにある教会の信徒たちの一部の人々が「ニコライ派の教えを奉じている」というのです。
 ここでイエス・キリストが「ニコライ派の教え」について、それが民数記に記されている「バラムの教え」に当たるものであると教えてくださっています。そのように「ニコライ派の教え」について丁寧に教えられているのは、ペルガモにある教会の信徒たちが「ニコライ派の教え」について、特に、それがどんなに危険なものであるかについて、気づいていなかったからであると考えられます。
 その原因は、やはり、ペルガモにある教会の信徒たちが皇帝礼拝を拒否していたために受けたさまざまな迫害に耐えることに精一杯であったからであると考えられます。
 おそらく、これが実情だったのではないかと思われますが、このこととのかかわりで一つの疑問がわいてきます。その疑問は「ニコライ派の教え」がどのような教えであったかということにかかわっていますので、そのことを振り返っておきましょう。
 イエス・キリストは、

 バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。

と教えておられます。このことから、「ニコライ派の教え」は皇帝礼拝を拒否して迫害に会い、その苦しみに耐えているペルガモにある教会の信徒たちに、皇帝礼拝にかかわる行事に加わることは許されると教えていたと考えられます。具体的には、先ほど触れましたように、皇帝礼拝は宗教的なことというよりは政治的なことであって、自分たちの住んでいる町がローマ帝国への忠誠を示すためのものであるということを理由として、そのように教えられていた可能性があります。
 それは一つの可能性であって決定的なことは言えませんが、何らかの理由が示されて、そのように教えられていたはずです。そして、さまざまな迫害に会って苦しんでいるペルガモにある教会の信徒たちの間に、何らかの言い分をもって、皇帝礼拝にかかわる行事に加わることは許されると教える「ニコライ派の教え」に従う人々が出てくることは、十分考えられることですし、実際に、そのような人々がいました。ことに、彼らの間で模範的な存在であったアンテパスが殺害されたことがもたらす恐怖にさらされるようになったことを考えますと、そのことが理解できます。
 けれども、そのように「ニコライ派の教え」に従う人々は、ペルガモにある教会の信徒たちの一部でした。大部分の信徒たちは迫害の苦しみの中であってもなお皇帝礼拝を拒否して、イエス・キリストへの信仰をもち続けていました。そのペルガモにある教会の信徒たちが、どうして、皇帝礼拝にかかわる行事に加わることは許されると教えていた「ニコライ派の教え」、自分たちが最も大切なこととして守り続けていたことを否定するような教えに対して十分な注意を払うことができなかったのかという疑問が生じてきます。この疑問には、彼らが迫害の苦しみに耐えることで精一杯であったということだけでは説明がつきません。
 おそらく、それは、迫害に会って苦しみながら、ともにそれに耐えてきたペルガモにある教会の信徒たちが、そのようにして「ニコライ派の教え」に従って皇帝礼拝にかかわってしまうようになっている人々に対して同情するようになっていたからではないでしょうか。こんな苦しみの中にあれば、それから逃れられるものなら逃れたいと思う気持ちは察してあまりあるということでしょう。そのようなことから、「ニコライ派の教え」に走ってしまった人々に対して厳しい態度を取ることができなかったために、「ニコライ派の教え」にも目を閉じてしまうことになってしまったのではないか、と考えられるのです。それは、今日の私たちの間にも見られる傾向です。


 これに対しまして、イエス・キリストは「ニコライ派の教え」は、古い契約の下での「バラムの教え」と本質的に同じものであることをお示しになりました。そして、15節で、

 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

と戒めておられます。ペルガモにある教会全体が、イエス・キリストが示してくださった「ニコライ派の教え」の本質と、それがもたらす危険を理解するとともに、そのような教えが入り込んでくることを許してしまったことを悔い改めて、そのような教えをただちに取り除くことを求めておられます。
 ここでイエス・キリストは、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にかかわる福音のみことばをねじ曲げてしまう異端的な教えの危険性を示しておられます。そして、そのような教えをすぐにでも取り除いてしまわなければならないことを示しておられます。
 この点において、イエス・キリストは一貫しておられます。マタイの福音書5章ー7章には「山上の説教」と呼ばれるイエス・キリストの教えが記されています。その締めくくりに当たる部分の一つである7章15節ー16節には、

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。

と記されています。ここでは、にせ預言者たちに気をつけるべきことが語られています。
 同じようなことは、パウロの教えにも繰り返し出てきます。
 パウロがエペソにある教会の長老たちに語ったことばを記している、使徒の働き20章27節ー31節には、

私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。

と記されています。
 パウロはまた、テモテへの手紙第二・4章1節ー4節において、テモテに対して、

神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

と教えています。
 同じような教えはヨハネの手紙にも繰り返し出てきます。その一例ですが、ヨハネの手紙第一・4章1節ー6節には、

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。

と記されています。
 このように、福音のみことばをねじ曲げてしまう教えに注意するようにという戒めは主のみことばの中に繰り返し出てきます。それが、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばにも出てきているわけです。

 ここで、もう一つの疑問がわいてきます。
 先ほどお話ししましたように、ペルガモにある教会の信徒たちが、ともに迫害の苦しみを耐えてきた人々で「ニコライ派の教え」に従って皇帝礼拝にかかわってしまうようになった人々に同情していた可能性があります。それでは、

 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

というイエス・キリストの戒めは、そのような同情心は不要なもの、あるいは、「ニコライ派の教え」に従って皇帝礼拝にかかわってしまうようになった人々に対して甘すぎるものであるという意味なのでしょうか。
 これにつきましては、まず、先主日お話ししたことを思い出したいと思います。先主日は、イエス・キリストのペルガモにある教会へのみことばに続いて記されています、テアテラにある教会へのみことばに注目しました。そこでイエス・キリストは、「預言者だと自称して」「ニコライ派の教え」と本質的に同じ教えを広めている「イゼベルという女」を糾弾しておられます。その中で、イエス・キリストは21節に記されていますように、

 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

と述べておられます。イエス・キリストは異端的な教えを広めている張本人にさえ「悔い改める機会」を与えてくださっています。これは、イエス・キリストが直接的に彼女に語りかけられたということではなく、黙示録の著者ヨハネか、その当時存在していた預言の賜物を受けていた人を通して、警告してくださったということだと考えられます。ただ「預言者だと自称して」いた彼女は、誰よりもまず自分自身を欺いてしまっていて、警告してくれた人に耳を貸すことができなかったと考えられます。
 そして、これに続いて、22節で語られている、

 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。

というイエス・キリストのみことばも、再度、彼女に悔い改めの機会を与えようとしておられる可能性があります。少なくとも、彼女が「病の床に」伏すようになったことによって悔い改めて、自らの教えを捨てて、イエス・キリストの恵みを信じるようになったとしたら、彼女はイエス・キリストの民に加えられていたことでしょう。けれども、彼女がそのようにして悔い改めたことを示すことばもヒントも見当たりませんので、彼女は最後まで悔い改めることはなかったと考えられます。
 ここで大切なことは、イエス・キリストが「イゼベルという女」に悔い改めの機会を与えてくださったことは、イエス・キリストのあわれみから出ていて、そのあわれみはポーズではなく、真のあわれみであったということです。
 先主日は、このような、イエス・キリストの忍耐に注目いたしました。それはイエス・キリストが、自分の罪がもたらす暗やみに閉ざされてしまっている人々に対して、どんなにかあわれみ深くあられるかということを示しています。
 このことも、福音のみことばが一貫して示していることです。
 マタイの福音書18章12節ー14節には、

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 そして、この教えに続く15節ー20節には、

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

と記されています。
 ここには、罪を犯した兄弟に気がついたときに、どのようにすべきかについての戒めが記されています。
 この戒めの冒頭の15節には、

 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

と記されています。これは「また」(デ)という接続詞によって、その前の「迷った一匹を捜しに出かける」という教えとつながっています。そして、

 行って、ふたりだけのところで責めなさい。

というイエス・キリストの命令は、イエス・キリストが私たちそれぞれを、私たちそれぞれが気づいている罪を犯している兄弟の元にお遣わしになっておられることを意味しています。そのことは、その教えの最後に、

 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

という約束を与えてくださってのことです。イエス・キリストは私たちをとおして「迷った一匹を」探し出そうとしておられるのです。
 そして、

 もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

という教えとのかかわりで、先主日も引用しました、ヤコブの手紙5章20節に記されています、

 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

という教えが思い起こされます。
 マタイの福音書一八章一五節ー二〇節に記されている戒めでは、三回にわたって罪を犯した兄弟が悔い改めて、その罪を離れるように説得することが示されています。もちろん、それはその兄弟への愛によって、忍耐深くなされることです。
 また、それは、最後の段階において、

 教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

と記されていますように、その罪をそのままにしておけば、その人が主の御前から失われ、滅びに至ってしまうような罪に対してなされることです。自分がその人を赦すことですむような罪の場合には、ペテロの手紙第一・四章八節に、

 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

と記されていますように、お互いに愛をもって赦し合うことが必要です。
 マタイの福音書一八章一五節ー二〇節に記されているイエス・キリストの教えはそれで終わっていません。さらに、21節ー22節には、

 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

と記されています。

 ペテロが「七度まででしょうか」と言っていることは、ラビたちの教えに見られます「3度」まで赦すということに比べますと、その2倍以上の数を示していることになります。けれども、イエス・キリストはそれをはるかに越えて「七度を七十倍するまで」と言われました。それは、限りなく赦すということを意味しています。
 そして、イエス・キリストは限りなく赦すべきであるということの理由を示してくださるために、一つのたとえを語られました。23節ー35節には、

このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。
王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ」と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから」と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。

と記されています。
 ここには、王から「一万タラントの借りのあるしもべ」が、王のあわれみによって借金を免除してもらったのに、同じ王のしもべで、自分に「百デナリの借りのある者」をあわれむことなく牢に投げ込んでしまったということが記されています。1デナリは、その当時の1日分の給料に当たりますから、「百デナリ」は相当の金額です。仮に今日の1日分の給料が1万円であるとしますと、百万円です。けれども、1タラントは6千デナリに当たります。このしもべはその1万倍の6千万デナリ、給料のすべてを返済に充てて1年に3百デナリずつ返したとしても20万年かかる借金を、王から、ただ、あわれみによって免除してもらっています。
 このたとえは、決して大げさなたとえではありません。父なる神さまは私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子、まことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストのいのちの価を支払われたのです。その価は有限な数では表すことはできません。父なる神さまが私たちの罪を贖ってくださるために御子イエス・キリストのいのちの価を支払われたのは、私たちの罪が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪であり、無限の重さをもっているからです。そのような罪を贖うためには、無限の価が支払われなければなりません。
 このようなたとえをもって弟子たちを戒められ、私たちを戒めておられるイエス・キリストは、ご自身を十字架につけてあざけっている人々のために、とりなしの祈りをしておられます。ルカの福音書23章33節ー34節に、

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

と記されているとおりです。
 このように、イエス・キリストのあわれみ、また、イエス・キリストにある父なる神さまのあわれみは、私たちの思いをはるかに超えています。そして、私たちはこの神さまのあわれみを自分たちの生き方をとおして映し出すように召されています。ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。また、4章9節ー11節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。
 このようなことを考えますと、イエス・キリストは、ペルガモにある教会の信徒たちがともに迫害の苦しみを耐えてきた人々で「ニコライ派の教え」に従って皇帝礼拝にかかわってしまうようになった人々に同情していたであろうことまでも否定しておられるわけではないと思われます。
 神学的に異端の教えの誤りを見分けて、その危険を察知することによって、その教えをきっぱりと退けることと、そのような教えに惑わされている人々に対して深い同情心をもちながら、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって示してくださった愛とあわれみをあかしして、忍耐深くとりなし祈りつつ、説得することは両立することです。そのことは、イエス・キリストが、異端的な教えを広めていっる張本人である「イゼベルという女」に悔い改めの機会を与えてくださったことにも現れています。

 最後に、このことと関連してもう一つのことに触れておきましょう。
 いまお話ししましたような教理的な正しさを盾に取って、誤った教えに惑わされてしまっている兄弟を性急にさばいてしまうとしたら、それは、サタンに倣うことになります。サタンは、黙示録12章10節で、

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者

と呼ばれています。このサタンの告発は、すべてをご存知であられる神さまの御前でなされていますから事実を述べているはずです。サタンは私たちが実際に犯した罪を数え上げて告発しています。ただ、私たちの罪が御子イエス・キリストの十字架の死によって贖われていることを無視して、空しく告発しているのです。
 これに対して、イエス・キリストは私たちのためにとりなしてくださっています。ローマ人への手紙8章33節ー34節に、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されているとおりです。
 私たちはこのイエス・キリストを大祭司として戴く、御国の祭司として召されています。その私たちの務めはイエス・キリストに倣ってすべての聖徒たちのためにとりなし祈ることです。霊的な戦いのことを記しているエペソ人への手紙6章18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と記されています。


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