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説教日:2015年11月22日 |
イエス・キリストはその「ニコライ派の教え」を民数記に出てくる「バラムの教え」になぞらえて、「ニコライ派の教え」は「バラムの教え」の「現代版」だということを示しておられます。そして、その「バラムの教え」について、イエス・キリストは、 バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。 と教えておられます。 これによって「ニコライ派の教え」はペルガモにある教会の信徒たちに「偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせ」るものであったことがわかります。 「偶像の神にささげた物を食べさせ」るということは、パウロがコリント人への手紙第一・8章において取り上げている「偶像にささげた肉」を食べてもよいかどうかという問題について、「ニコライ派の教え」が食べてもよいと言っているという意味ではありません。 パウロは八章四節で、 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。 と述べて、「世の偶像の神は実際にはないものである」ので、その前に肉が置かれたとしても、実際に肉が汚れたものになるのではないということを教えています。そして、10章25節ー26節では、 市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。 と教えています。ここで「調べ上げることはしないで」と言われていることは、それが偶像に供えられたことがある肉かどうかを調べ上げることはしないでということです。 しかし、黙示録2章14節でイエス・キリストが、 バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。 と言われたことは、民数記25章1節ー3節に、 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。 と記されていることを指しています。ここでは、モアブの娘たちが「自分たちの神々にいけにえをささげるのに」イスラエルの「民を招いたので」、イスラエルの「民は食し、娘たちの神々を拝んだ」と記されています。それで、黙示録2章14節で、イエス・キリストがバラムがイスラエルの民に「偶像の神にささげた物を食べさせ」たと言っておられることは、偶像礼拝にかかわる食事におけることであると考えられます。 この場合は、「ニコライ派の教え」が、特に、皇帝礼拝にかかわる祭りの時に、神殿において提供される祝宴の食事にあずかることには問題がないと教えていたこと意味していると考えられます。そして、「ニコライ派の教えを奉じている人々」がそのように考えていたのは、以前(ペルガモにある教会へのみことばの第4回目のお話で、バークレーのことばを引用して)お話ししましたように、その当時、皇帝を礼拝することは「宗教的な礼拝というよりも、ローマに忠誠を示す政治的な行為」であると考えられていたことを受け入れていたことによっていると考えられます。つまり、その当時の人々の一般的な考え方に従って、皇帝礼拝は偶像礼拝ではないと主張されていたということです。 これは、戦前、戦中の日本において「神道は宗教にあらず」あるいは「神社は宗教にあらず」とされていたことを、教会がそのまま受け入れてしまったこと、そしてさまざまな形での偶像礼拝をしてしまったこと、さらには、近隣諸国の教会を説得したことなどを思い起こさせます。 もう一つの、バラムがイスラエルの民に「不品行を行わせた」ということにつきましては、これは比喩的な意味で、偶像礼拝を意味しているという主張と、文字通りの不品行を意味しているという主張があります。 黙示録の中でこの「不品行を行う」と訳されていることば(ポルネウオー)がどのように用いられているかを見ますと、比喩的な意味で用いられている場合(2章21節、14章8節、17章2節、18章3節、9節)も、文字通りの意味で用いられている場合(9章21節、21章8節、22章15節)もあります。それが用いられている回数の違いによって意味を決定するわけには行きませんので、これらの用例によってはどちらとも言えません。 ただ、すでに偶像礼拝のことが述べられていますし、先ほど引用しました民数記25章1節ー3節とそれに続く9節までに記されていることを見ますと、バラムの教えが生み出したのは文字通りの不品行ですので、これは文字通りの不品行のことであると考えられます。ただ、その場合も、民数記25章1節ー9節に記されていることに見られますように、特に、偶像礼拝がなされていたところで行われていた祝宴の場での飲み食いとともに行われていた不品行のことであると考えられます。 このように、「バラムの教え」の「現代版」である「ニコライ派の教え」は、皇帝礼拝を拒否していたために激しい迫害に会い、それに耐えてイエス・キリストへの信仰を全うしようとしているペルガモにある教会の信徒たちに、皇帝礼拝は偶像礼拝とは違って、宗教的な行為ではなく、ローマに忠誠を示す政治的な行為であるというようなことを教えて、人々を皇帝礼拝に誘うものであったと考えられます。 そうであるとしますと、ローマ帝国からの迫害に会って苦しんでいるペルガモにある教会の信徒たちの中から、「ニコライ派の教え」の論理に同調する人々が出てきてもおかしくはありません。 14節には、 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。 と記されていますし、15節には、 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 と記されています。 先主日お話ししましたように、この「奉じている」と訳されていることば(クラテオー)は、13節でペルガモにある教会の信徒たちがイエス・キリストの御名を「堅く保って」いると言われているときの「堅く保って」と訳されていることばと同じことばです。 このことも、サタンの働きの巧妙さをうかがわせます。サタンはローマ帝国の官憲たちによってペルガモにある教会の信徒たちに迫害を加えたけれども、ペルガモにある教会の信徒たちはイエス・キリストの御名を「堅く保って」、イエス・キリストへの信仰を捨てませんでした。それは過去のことではなく、迫害はさらに続いていますし、ペルガモにある教会の信徒たちはそれに耐え続けています。サタンはそのようにローマ帝国の官憲たちによってもたらされた迫害に苦しみつつ、それに耐え続けているペルガモにある教会の信徒たちのうちに、福音のみことばの教えを曲げる「ニコライ派の教え」を持ち込んできていました。 ただし、14節でイエス・キリストが、 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。 と語っておられますように、それは、まだ一部の人々が「ニコライ派の教え」を「奉じている」状態でした。 けれども、イエス・キリストは、16節で、 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 と語りかけておられます。ここで、 わたしは、すぐにあなたのところに行き ということばは現在時制で表されていて、イエス・キリストが来られることが確かなことであり、差し迫っていることを示しています。これに「すぐに」ということばが付け加えられていて、その緊急性が強調されています。ですから、もし、ペルガモにある教会の信徒たちが悔い改めることがないなら、イエス・キリストはすぐに来られるということを強調しておられます。 さらに、 わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 ということは、イエス・キリストが霊的な戦いにおけるさばきを執行されることを示しています。このイエス・キリストの御口から出ている「剣」は、最終的には、終わりの日に再臨される栄光のキリストが「万物の支配者である神の激しい怒り」によるさばきを執行されるときに用いられるものです。先主日引用しました19章11節ー16節に、 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。 と記されているとおりです。 ここ2章16節では、そのような最終的なさばきにつながるさばきが、ただちに執行されるということが示されています。このことによって、ペルガモにある教会の信徒たちの間に入り込んできている「ニコライ派の教え」がもたらすものがとても深刻なものであることが示されています。 先主日も(プリントされたものにはありませんが、口頭で)お話ししましたが、福音のみことばの教えは人から出たものではありません。イエス・キリストがまことの神にして、無限、永遠、不変の栄光の主であられるということ、そのイエス・キリストが、私たちの罪を贖うために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったということは、人の考えをはるかに超えています。そればかりでなく、人はその十字架におかかりになって死なれたイエス・キリストを信じるだけで救われるということも、人の考えを超えています。 福音のみことばは人から出たものではありません。パウロはガラテヤ人への手紙1章11節ー12節で、 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 と述べています。 福音のみことばは、御霊によって心を開いていただき、悟らせていただかない限り理解することも信じることもできません。コリント人への手紙第一・2章12節ー14節に(途中を省略しますが)、 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。・・・生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 と記されているとおりです。 これに対して、異端的な教えは、福音のみことばを、それぞれの時代や文化や社会の中で、人の考えや発想に合うように脚色していますので、人々が受け入れやすいものです。そのために、ある程度の人々がそのような教えを信じますと、その影響がさらに広がりやすくなります。それで、このような福音のみことばをねじ曲げるような教えは、それが一部の人たちを惑わしている段階であっても、すぐに、取り除かなければならないのです。 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 というイエス・キリストのみことばはこのことを反映しています。 ここで注目すべきことですが、イエス・キリストはペルガモにある教会の信徒たちの中の「ニコライ派の教えを奉じている人々」に対して「悔い改めなさい」と命じておられるのではなく、ペルガモにある教会の信徒たちすべてに対して「悔い改めなさい」と命じておられます。福音のみことばを曲げることなく保ち続けることは、キリストのからだである教会全体が目を覚ましていて、心を注いでいかなければならないことなのです。 とはいえ、このことによって、「ニコライ派の教えを奉じている人々」をペルガモにある教会から追い出しなさいと命じられているわけではありません。パウロはガラテヤ人への手紙1章6節において、 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。 と述べていますし、3章1節ー2節において、 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。 と述べています。ガラテヤにある教会の信徒たちは、救われるためには割礼を受けてモーセ律法を守らなければならないという、一般に「ユダヤ主義者」と呼ばれる人々の教えに惑わされてしまって、その教えに従っていました。それで、パウロはガラテヤ人への手紙を記しました。それはガラテヤにある教会の信徒たちを排除するためではなく、ガラテヤにある教会の信徒たちが悔い改めて「ほかの福音」からまことの福音に立ち返って生きるようになることを願ってのことでした。 同じように、イエス・キリストがペルガモにある教会の信徒たちに「悔い改めなさい」と命じておられるのは、ペルガモにある教会の信徒たちがこのことを自分たちの問題として受け止め、そのことに気づくことがなかったことを悔い改めるとともに、「ニコライ派の教えを奉じている人々」がまことの福音に立ち返るように、愛をもって心を配り、祈りつつ説得することを求めておられてのことであると考えられます。そして、それでも「ニコライ派の教えを奉じている人々」が頑なにその教えに従い続ける場合には、その人々をペルガモにある教会に属していないとしなければならないことになります。それも、その人々が悔い改めてまことの福音に立ち返るようになるためのことです。 このこととのかかわりで思い出されるのは、ヤコブの手紙5章20節に記されている教えです。そこには、 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。 と記されています。 もしペルガモにある教会の信徒たちがこのように悔い改めることがないとしたら、イエス・キリストが来られて、ご自身の御口の「剣をもって彼らと戦」われます。 このことは、先ほどお話ししましたように、終わりの日に再臨される栄光のキリストによる最終的なさばきにつながる意味をもっていると考えられますので、「ニコライ派の教えを奉じている人々」が滅びに至ってしまうということを意味している可能性があります。 それと同時に、これはまだ、そこまで行く前の段階も含んでいるという可能性もあります。そのことは、先ほど取り上げました、「預言者だと自称している」、「イゼベルという女」の教えに惑わされているテアテラにある教会のことを記している黙示録2章21節ー23節においてイエス・キリストが語っておられる、 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。 というみことばから汲み取ることができます。ここでは、ただちにに最終的なさばきが執行されるのではなく、 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。 と言われています。これは、「この女」は悔い改めなければ、主のさばきによって「病」に見舞われ、「この女と姦淫を行う者たち」が悔い改めなければ、主のさばきによって「大きな患難」に見舞われるようになることを意味しています。そのことは、なおも、彼らに悔い改めの機会を与えてくださることを意味していると考えられます。「預言者だと自称している」「この女」が「病」に倒れたのを見て、さらに、自分たちが「大きな患難」に見舞われるようになったことをとおして、悔い改めるように招かれているということです。その意味で、このさばきは最終的なものではなく、一時的なさばきです。 そして、これに続いて、 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。 と言われていますが、「この女の子どもたち」「この女の子どもたち」と、この前に出てくる、悔い改めの機会を与えられた「この女と姦淫を行う者たち」が同じ人々であると考えますかどうかについては、見方が分かれています。これにつきましては、この、 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。 と言われていることが、より厳しいさばきを示していますので、さらなる悔い改めの機会が与えられたにもかかわらず、悔い改めなかった人々であると考えられます。 さらに、「この女の子どもたち」ということばは、「この女の子どもたち」が「この女」と同じ本質をもっていることを示していると考えられます。このことは、「この女の子どもたち」が福音のみことばを信じていたのに、「この女」の教えに惑わされた人々ではなく、初めから「この女」の教えか、パウロのことばで言いますと、何らかの「ほかの福音」を信じて従っていた人々であることを示していると考えられます。「この女の子どもたち」には悔い改めの機会が与えられなかったという考え方もありますが、イエス・キリストが、 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。 と述べておられるように、「この女」に悔い改めの機会が与えられたのですから、「この女の子どもたち」にも悔い改めの機会が与えられたと考えられます。ただ、「この女の子どもたち」は決して悔い改めることがなかったと考えられます。 私たちは、ペルガモにある教会の信徒たちが福音のみことばをねじ曲げてしまう異端的な教えの侵入を許してしまったことに対して、すぐに悔い改めるようにと命じておられるイエス・キリストの厳しさと、そのような教えによって欺かれてしまって、さまよってしまっている人々への限りない忍耐を、ともに汲み取りたいと思います。どちらも、ご自身の民を滅びの道から立ち返らせてくださるイエス・キリストの愛から出ています。 |
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