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説教日:2015年11月15日 |
この「バラムの教え」については14節に、 バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。 と記されています。 ここに出てくる、バラムとバラクのことは民数記22章ー24章に記されています。バラムは(民数記)24章1節に記されていますように、異邦のまじない師です。そして、バラクは22章4節に記されていますように、モアブの王でした。 エジプトを出てきたイスラエルが「エモリ人の王シホン」(21章21節ー32節)と「バシャンの王オグ」(21章33節ー35節)を打ち破って、モアブの方に進んで来た時、バラクは非常に恐れて、ミデヤンの長老たちに相談しました(22章1節ー3節)。後ほど取り上げることとのかかわりで注目しておきたいことは、このことでモアブとミデヤンが連合していたということです。そして、バラクはモアブの長老たちとミデヤンの長老たちを遣わして、 同族の国にあるユーフラテス河畔のペトルにいるベオルの子バラム を招き寄せ、イスラエルをのろうよう要請しました(22章4節ー7節)。しかし、バラクからイスラエルをのろうようにとの要請を受けたバラムに、主、ヤハウェが現れて、イスラエルをのろうことを禁止し、むしろ、イスラエルを祝福するよう命じられました。主、ヤハウェが怖くて恐れていたバラムは、主の命令に従う他はありませんでした。 これはそこに記されていることをひとことでまとめたものですが、実際には、バラムとバラクが遣わした家臣たちとのやり取りと、それに対する主のバラムへの語りかけのことや、バラムの乗ったロバが話をしたこと、そして、バラムが主の命令に従ってイスラエルを祝福したときのことばなど、いろいろなことが記されています。 これだけですと、バラムは、主が怖かったためのことではありますが、主に従ったということになります。しかし、黙示録2章14節には、 バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。 と記されています。これは、民数記では、22章ー24章に続く25章の1節ー3節に記されていることを指しています。そこには、 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。 と記されています。ここには、 民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。 と記されていますが、これにはミデヤンの娘たちも関わっていました。そのことは、この出来事を受けて、主の御怒りによるさばきがイスラエルに下されたときのことを記している6節に、 モーセとイスラエル人の全会衆が会見の天幕の入口で泣いていると、彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミデヤン人の女を連れてやって来た。 と記されていることから分かります。また、先ほど触れましたように、この時、モアブとミデヤンは連合して、イスラエルと対立していたことからも、このことは理解できます。 ただ、ここにはバラムは出てきません。けれども、民数記31章16節には、ミデヤンの女たちについて、モーセが、 ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行わせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。 と言ったことが記されています。 ここでモーセは、25章1節ー3節に記されているイスラエルの民がミデヤンの娘たちや「モアブの娘たちと、みだらなことをし」、彼女たちの誘いに従って「バアル・ペオル」を拝むようになった出来事のことを述べています。ここでは、その出来事が「バラムの事件」と言われていて、バラムがこの出来事に関わっていることを示しています。 このことを踏まえて、黙示録2章14節では、 あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。 と言われています。 14節で、 あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。 と言われているときの「奉じている」と訳されていることばと、15節で、 あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 と言われているときの「奉じている」と訳されていることば(どちらもクラテオーの分詞で現在時制)は、13節で、 しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、 と言われているときの「堅く保っている」と訳されたことばと同じことばです。このことは、ローマ帝国からの迫害にさらされていても、また、「忠実な証人アンテパス」が迫害を受けて殺されたときでさえ、イエス・キリストの御名を堅く保ち続けているペルガモにある教会の信徒たちに混じって、異端的な教えを堅く保っている人々がいたということを際立たせています。 ここには「バラムの教え」と「ニコライ派の教え」が出てきます。この「ニコライ派の教え」と訳されていることばは、直訳調に訳しますと、「ニコライ派の人々の教え」です。 この二つの教えについては、これらは似かよった二つの教えを表しているという考え方と、これらは同じ教えの別の呼び方であるという考え方がありますが、そのどちらであるかを判断することは難しいことです。 まず、15節に記されています、 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 というイエス・キリストのみことばのことですが、これは「それと同じように」という前の節(14節)に記されていることとの類似性をを示すことば(フートース)によって始まっています。それがさらに「あなたのところにも」の「にも」(カイ)によって強調されています。そればかりではなく、新改訳には訳し出されていませんが、最初のことば(フートース)と同じような意味合いをもったことば(ホモイオース・「同様に」、「同じように」)が最後にあって、終わっています。このことを生かして直訳調に訳しますと、 それと同じように、あなたもまたニコライ派の教えを奉じている人々を同じように持っている。 となるでしょうか。 このことについては、双方に言い分があります。これほど類似性が強調されているから二つの教えは同じものであると考えられると主張されているのに対して、これほど二つの教えの比較が強調されているのであるから、二つの教えは似かよっているけれども別のものであるとも主張されています。 けれども、この二つの教えは同じものであると考えられます。その理由は二つあります。 第一に、「ニコライ派」のことは、すでに、エペソにある教会へのみことばの中に出てきます。2章6節に、 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。 と記されているとおりです。このことは「ニコライ派」は黙示録が記された時代に、アジアにある七つの教会のいくつかを荒らしていた異端的な分派であったことを示しています。 これに対して、「バラム」のことは旧約聖書(民数記22章ー24章、31章16節)に出てきます。それで、「バラムの教え」と「ニコライ派の教え」が同時代のものであるとは考えにくくなります。もし「バラムの教え」がこの時代のものであり、しかも、それが「ニコライ派の教え」とは違う教えのことであれば、この時代のどの教えであるかが示されているはずです。けれども、そのようなことは示されていません。このようなことから、ここでは「ニコライ派の教え」が旧約聖書に出てくる「バラムの教え」になぞらえられていると考えた方がいいと思われます。 第二に、「バラムの教え」と「ニコライ派の教え」が同じものであると考える根拠として、「バラム」という名前と、「ニコライ派」(ニコライテース)という異端的な分派の呼び名のもととなっている人の名前である「ニコラオス」の語源が似ていることが指摘されています。ユダヤ教のラビたちの文献では「バラム」という名の語源が「民をむさぼり尽くす者」であるとされています。また、「バラム」という名の語源が「民を支配すること」であると考えることもできます。そして、「ニコラオス」という名前の語源は「彼は民に打ち勝つ」です(Beale, p.251)。 おそらく、イエス・キリストは、この二つの名前の語源が似ていることをお用いになって、ここで「ニコライ派の教え」がもたらした危険を「バラム」が「イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置」いて、イスラエルの民を堕落させたこととになぞらえて、説明しておられると考えられます。 このように、「バラムの教え」と「ニコライ派の教え」は同じ教えを指していると考えられます。そうしますと、ここでイエス・キリストは、「バラムの教え」について、 バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。 ということを示してくださって、「ニコライ派の教え」もそれと同じように、ペルガモにある教会の信徒たちの「前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせ」ているということ、そして、実際に、そのような「ニコライ派の教えを奉じている人々」がペルガモにある教会の信徒たちに混じって存在しているということを示してくださっていると考えられます。 これに対して、一つの疑問が生まれてきます。 イエス・キリストはエペソにある教会へのみことばにおいては、 あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。 と言っておられるだけで、「ニコライ派」のことを説明しておられません。このことは、「ニコライ派」のことがアジアにある七つの教会においてよく知られてたのではないかというような印象を与えます。それなのに、どうして、ペルガモにある教会へのみことばにおいては、「ニコライ派の教え」が「バラムの教え」になぞらえられて説明されているのでしょうか。 これについては、イエス・キリストのエペソにある教会へのみことばをよく見ればわかります。そこでイエス・キリストは、 あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。 と言っておられます。このことは、エペソにある教会の信徒たちが「ニコライ派の教え」が異端的な教えであることと、実際に、その教えに従っている人々の生き方が主であられるイエス・キリストの教えに背くものであることを見破っていたことを示しています。2章2節に、 あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。 と記されていることも、このことを示しています。ですから、エペソにある教会の信徒たちには「ニコライ派の教え」について、改めて、説明する必要がありませんでした。 しかし、ペルガモにある教会では事情がまったく違っていました。ペルガモではサタンがその座について働いていました。サタンはローマ帝国の権威を帯びている官憲たちを用いて教会を迫害していました。そして、おそらく見せしめのために、イエス・キリストから「わたしの忠実な証人」と呼ばれているアンテパスを殺害しました。ペルガモにある教会の信徒たちは、このような厳しい迫害にさらされながら、なおも、イエス・キリストの御名を堅く保ち、イエス・キリストへの信仰を捨てませんでした。 しかし、それは容易ならないことでした。ペルガモにある教会の信徒たちにとっては、私たちの想像をはるかに超える厳しさがあったはずです。そのような厳しい試練を前にして、ペルガモにある教会の信徒たちが、その試練に耐えることにだけ心を注いでしまっていることは容易に想像できます。サタンはそのようなペルガモにある教会の信徒たちの隙をついて、「ニコライ派の教え」をペルガモにある教会の信徒たちの間に持ち込んできたと考えられます。 そうであれば、それは秘かに、また、巧妙に持ち込まれてきたと考えられます。そのために、ペルガモにある教会の信徒たちは、エペソにある教会の信徒たちのようには、「ニコライ派の教え」の正体とその危険を見抜くことができていなかったと考えられます。それで、イエス・キリストは、「ニコライ派の教え」を旧約聖書に出てくる「バラムの教え」になぞらえて、それがどのようなものであるかを示してくださっているとともに、実際に、「ニコライ派の教えを奉じている人々」がペルガモにある教会の信徒たちに混じって存在していることを示してくださっていると考えられます。 これによってイエス・キリストは、ペルガモにある教会の信徒たちが、自分たちのことを振り返ることができるようにしてくださっています。その上で、イエス・キリストは、 だから、悔い改めなさい。 と命じておられます。 これに続いて、イエス・キリストは、 もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 という警告をしておられます。 ここに出てくる「わたしの口の剣」の「剣」ということば(ロムファイア)は2章12節において、イエス・キリストがご自身のことを、 鋭い、両刃の剣を持つ方 と示しておられる中に出てくる、「鋭い、両刃の剣」の「剣」と同じことばです。また、その「剣」がイエス・キリストの「口の剣」であると言われているのは、イエス・キリストの栄光の御姿の顕現を記している1章16節に、 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。 と記されていることを受けています。 この栄光のキリストが終わりの日に来臨されることを記している19章11節ー16節には、 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。 と記されています。 ここではこの方は「義をもってさばきをし、戦いをされる」と記されています。そして、 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。 と記されています。このことは「この方の口から」出ている「鋭い剣」がさばきを執行されるための剣であることがわかります。その剣が「この方の口から」出ているということは、この剣がみことばの剣であることを示しています。ここ(13節)では、 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。 と記されています。この場合の「神のことば」はさばきのことばであると考えられています。 ここ19章11節ー16節では、終わりの日に再臨される栄光のキリストによる最終的なさばきのことが記されています。これに対して、2章16節で、イエス・キリストがペルガモにある教会の信徒たちに語られた、 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 というみことばが示しているさばきは、 わたしは、すぐにあなたのところに行き、 ということばから分かりますように、この時のことです。 ここで、 わたしは、すぐにあなたのところに行き、 と言われているときの「行く」は現在時制で表されています。この現在時制は未来のことを表す現在時制で、これによって表されていることが迫ってきていることと、確かなことを伝えています。ここでは、これに「すぐに」ということばがつけられていて、その緊急性が強調されています。これは、イエス・キリストが来られることの緊急性と確かさですが、 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、 と言われていることを受けていますので、実質的には、悔い改めなければならないことの緊急性を示しています。「ニコライ派の教えを奉じている人々」はペルガモにある教会の信徒たちの一部の人々です。けれども、そのような教えはそれが一部の人たちを惑わしている段階であっても、すぐに、取り除かなければならないということが示されています。 無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖うために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの刑罰を私たちに代わってすべてお受けになったということ、そして、そのために、人はイエス・キリストを信じるだけで救われるということは、人の考えをはるかに超えています。このことは、御霊によって心を開いていただき、悟らせていただかない限り理解することも信じることもできません。これに対して、異端的な教えは、人の考えに合うようなものとして生み出されていますので、人々が受け入れやすいものです。そのために、ある程度の人々がそのような教えを信じますと、その影響が広がりやすくなります。それで、このような教えは、それが一部の人たちを惑わしている段階であっても、すぐに、取り除かなければならないわけです。 しかも、「ニコライ派の教えを奉じている人々」が一部の人たちであっても、ペルガモにある教会の信徒たち全体が、そのような教えの侵入を許してしまったことを悔い改めるようにと命じられています。これは教会全体の問題なのです。 このような緊急性を伴うイエス・キリストの警告のことばは、イエス・キリストが引き合いに出して語っておられるバラムの教えにかかわる出来事を思い起こさせます。民数記25章1節ー9節には、 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、白日のもとに彼らを主の前でさらし者にせよ。主の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。」そこでモーセはイスラエルのさばきつかさたちに言った。「あなたがたは、おのおの自分の配下のバアル・ペオルを慕った者たちを殺せ。」モーセとイスラエル人の全会衆が会見の天幕の入口で泣いていると、彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミデヤン人の女を連れてやって来た。祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰がやんだ。この神罰で死んだ者は、二万四千人であった。 と記されています。 福音のみことばをねじ曲げてしまう異端的な教えは、イエス・キリストの十字架の死を無にしてしまい、人々を主の御前での滅びに陥れてしまいます。ですから、そのような教えはすぐにでも取り除かなければならないという命令と警告のみことばは、私たちご自身の民を死と滅びの中から贖い出してくださるために、十字架におかかりになったイエス・キリストの私たちへの愛から出ています。 |
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