黙示録講解

(第224回)


説教日:2015年11月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(5)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストのペルガモにある教会へのみことばについてのお話を続けます。先主日は、13節に記されています、

わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

というみことばについてお話ししました。
 ここでは、ペルガモには暗やみの主権者である「サタンの王座がある」と言われています。「サタンの王座がある」ということは、実際に、サタンがその王座に着座してその権威を振るっているということを意味しています。ここでは、さらに、

 わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも

というように、ペルガモにサタンが住んでいるとも言われています。ここで「サタンの住む」と言われているときの「住む」ということば(カトイケオーの現在時制「住んでいる」)と、イエス・キリストが、

 わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。

と言われるときの「住んでいる」は同じことばです。これは一時的に滞在していることではなく、ずっとそこに住んでいることを表しています。
 このように、ペルガモにはサタンの王座があり、ペルガモはサタンが住んでいる所でした。そこではサタンが暗やみの主権者としての権威を振るっていました。それは、ペルガモがローマの属州であるアジアの政治的、文化的、宗教的な中心であったこと、ことに、皇帝礼拝の中心地であったことによっていると考えられます。
 ペルガモにサタンの王座があり、そこでサタンが暗やみの主権者としての権威を振るっていたことはペルガモにある教会の信徒たちへの迫害として現れてきました。それは、彼らがローマ皇帝の像に香をたいて、皇帝が主であると告白することを拒否していたことによっています。そのように、皇帝礼拝を拒否して迫害を受けていたペルガモにある教会の信徒たちに、サタンはさらなる迫害を加えて、イエス・キリストが「わたしの忠実な証人」と呼んでおられるアンテパスを殺しました。それは、イエス・キリストが、

 しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と述べておられることからわかりますように、すでに迫害を受けて苦しんでいるペルガモにある教会の信徒たちに、さらなる試練を与えて、イエス・キリストへの信仰を捨てさせようとしたサタンの働きによることでした。しかし、このサタンのもくろみは実現しませんでした。
 イエス・キリストはアンテパスのことを「わたしの忠実な証人」と呼んでおられます。「アンテパス」(アンティパス)という名前は「アンティパトゥロス」の短縮形で、この名前はヨセフスの著作の中にしばしば出てくると言われています。黙示録に出てくるアンテパスについては、後の時代の聖人伝に、ドミティアヌス帝の時代に、真鍮の雄牛の形をした鉢に投げ込まれてゆっくり焼き殺されたという伝承が記されているようですが、確かなことはわかりません。
 この「わたしの忠実な証人」と訳されていることば(「ホ・マルトュース・ムー・ホ・ピストス・ムー」、「ムー」は「わたしの」を意味しています)の「忠実な証人」は、1章5節で、

 忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

と言われていますように、イエス・キリストご自身に当てはめられていることば(「ホ・マルトュース・ホ・ピストス」)です。イエス・キリストはまことの「忠実な証人」であられ、すべての「忠実な証人」の主であられます。
 ここでイエス・キリストが「わたしの忠実な証人」と呼んでおられるアンテパスの場合には、「わたしの」ということばが「証人」にも「忠実な者」(ホ・ピストス)にもついています。そのために、新アメリカ標準訳(NASB)や新改定標準訳(NRSV)などのように「わたしの証人、わたしの忠実な者」(「わたしの証人にして、わたしの忠実な者」)と訳すこともできます。それがどちらであっても、アンテパスがイエス・キリストの「忠実な証人」であったことが示されています。
 ここでは、イエス・キリストがアンテパスのことを「わたしの忠実な証人」と呼んでおられますが、この「わたしの忠実な証人」は、「わたしの」をどのように理解するかによって、二つの意味に理解できます。
 一つは、「わたしの」という属格を所有を示す属格と理解して、アンテパスがイエス・キリストのものである「忠実な証人」、イエス・キリストに属する「忠実な証人」であると理解するものです。
 すべてのクリスチャンに当てはまることですが、アンテパスはイエス・キリストを主と告白している主の民でした。ローマ人への手紙14章7節ー9節には、

 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

と記されています。アンテパスはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、イエス・キリストのものとなりました。そして、イエス・キリストを主として告白し、イエス・キリストのしもべとして最後まで主に従い続けました。特に、1章5節において、主であられるイエス・キリストご自身がまことの「忠実な証人」であられると言われていることとのかかわりで、「忠実な証人」であられるイエス・キリストに属する「忠実な証人」であったということです。
 アンテパスはサタンの働きによって迫害を受けて殺されました。けれども、彼はそれによって失われてしまったのではありません。アンテパスはイエス・キリストに属する「忠実な証人」として死にました。そして、いまもイエス・キリストのものであり、この時代に生きる私たちに対しても、イエス・キリストに属する「忠実な証人」であるとして、まことの忠実な証人であられるイエス・キリストによってあかしされています。
 もう一つの理解は、「わたしの」という属格を目的属格と理解して、アンテパスはイエス・キリストをあかしする「忠実な証人」であると理解するものです。
 スミルナにある教会へのみことばを記している2章10節には、

 死に至るまで忠実でありなさい。

というイエス・キリストのみことばが記されています。この「忠実な」ということば(形容詞・ピストス)が用いられて、アンテパスはアンテパスはイエス・キリストから「忠実な者」(ホ・ピストス)と呼ばれています。まさにアンテパスは死に至るまで忠実にイエス・キリストをあかしし続けたということになります。しかも、それがサタンの王座があり、サタンが住んでいると言われているペルガモにおいてのことです。皇帝礼拝を拒否して、おそらく見せしめのために、無残に殺されるようになってもイエス・キリストを主として告白し、あかしし続けたということです。
 この二つの理解が示すことは、そのままアンテパスに当てはまりますし、この二つの理解は矛盾するものではありません。それで、このどちらかを取る必要はないのではないかと思われます。ただ、先ほど触れましたように、「わたしの」ということばが「証人」にも「忠実な者」(ホ・ピストス)にもついています。このことから、ここでは、アンテパスがイエス・キリストのものであることの方を強調していると考えられます。アンテパスは殺されたけれども、なおも、イエス・キリストのもの、イエス・キリストの民であるということをイエス・キリストがあかししてくださっているということです。


 ローマ皇帝を頂点とするローマ帝国の権威者たちは「剣の権威」(ユス・グラディイ)すなわち「生殺与奪の権威」を帯びていました。それは神さまから委ねられた権威です。ローマ人への手紙13章1節には、

 神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

と記されており、4節では、支配者は「あなたに益を与えるための、神のしもべ」であると言われています。そして、「彼は無意味に剣を帯びてはいない」と言われた後、

 彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

と言われています。
 このように、この世の権威者たちは「神のしもべ」として立てられています。それで、この世の権威者たちは神さまみこころにしたがってその権威を発揮すべきです。このことについて、神さまはこの世の権威者たちをおさばきになります。
 この世の権威者たちは神さまみこころにしたがってその権威を発揮すべきですが、ローマの属州であるアジアにおいては、ローマ帝国の権威を代表する者が、イエス・キリストの民であり、イエス・キリストの「忠実な証人」であるアンテパスを、イエス・キリストの「忠実な証人」であるがゆえに殺しました。
 このことも含めて、最終的に人をさばく方は、ペルガモにある教会にご自身のことを、

 鋭い、両刃の剣を持つ方

として示しておられるイエス・キリストです。イエス・キリストこそまことの「剣の権威」、すなわち霊的な「剣の権威」をもっておられる方です。マタイの福音書10章28節には、

 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」とは父なる神さまのことですが、父なる神さまは御子イエス・キリストによってそのさばきを執行されます。
 そのイエス・キリストがアンテパスのことを「わたしの証人、わたしの忠実な者」とあかししてくださっています。

 ここで「証人」と訳されていることば(マルトュース)は後に(3世紀になって)「殉教者」を表すようになったと言われています。この(マルトュースという)ことばが黙示録の中でどのように用いられているかを見てみましょう。このことばは、すでに触れました1章5節と2章13節の他に、3章14節、11章3節、17章6節に出てきます。
 3章14節では、イエス・キリストがご自身のことを、

 アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方

として示しておられます。それで、これは1章5節で、イエス・キリストがご自身のことを「忠実な証人」として示しておられることにつながっています。
 11章3節には「わたしのふたりの証人」が出てきます。この「ふたりの証人」は「荒布を着て千二百六十日の間預言する」と言われています。この「千二百六十日」は、その前の2節で異邦人が「聖なる都を四十二か月の間踏みにじる」と言われているときの「四十二か月」に当たります。1ヶ月を30日として、42ヶ月かける30日は1260日になります。この「ふたりの証人」については、7節ー8節で、

 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

と言われています。
 最後に(マルトュースという)ことばが出てくるのは17章6節です。そこには、

 そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。

と記されています。ここには、「イエスの証人たち」が出てきます。
また、ここに出てくる「この女」については、その前の5節において、その名前が、

 「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名

であると記されています。「イエスの証人たち」の血はこの「大バビロン」で流されました。この「大バビロン」は黙示録が記されたときのローマ帝国を典型として、終わりの日に出現する反キリストの国に至るまで連綿と続いていくこの世の国々を表しています。18章には、この「大バビロン」へのさばきが執行されることが記されています。
 これらのことからわかりますが、黙示録では、イエス・キリストの「証人」たちはイエス・キリストをあかししたために殺されることが示されています。それで、黙示録に記されていることは、この「証人」と訳されていることば(マルトュース)が「殉教者」を表すことの出発点になっていると考えられています。
 そして、黙示録に出てくる最初のイエス・キリストの「証人」が、サタンの王座があり、サタンが住んでいると言われているペルガモにおいて殺されたアンテパスです。
 さらに、これらのことからわかりますが、「殉教者」が基本的に意味していることは、死に至るまでも、イエス・キリストをあかしし続けるということです。その場合に、その死が迫害によってもたらされることが典型的なことになりますが、その死に方に中心があるわけではありません。肉体的に殺されることがないとしても、この世にあってさまざまな形でやって来る迫害にさらされながらも、イエス・キリストの「証人」としての歩みを続けることが基本的に大切なことです。

 2章13節に戻りますが、そこには、

 わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と記されています。
 ここでは、ペルガモにある教会の信徒たちがイエス・キリストの御名を堅く保って、イエス・キリストに対する信仰を捨てなかったと言われています。ここで、

 わたしの名を堅く保って

と言われているときの「堅く保って」と訳されていることばは一つのことば(クラテオー)で「しっかりとつかむ」ことを表すことばです。ここでは、現在時制で用いられていす。これはサタンの王座があり、サタンが住んでいると言われているペルガモにある教会の信徒たちが迫害の中にあってもイエス・キリストの御名を堅く保ち続けていることを示しています。
 ここには、イエス・キリストの御名が出てきますが、聖書の中では「名」はその名のついているものの本質を表しています。人の場合は、その人の本質や本質的な特性などを表しています。
 イエス・キリストの御名は、特に、イエス・キリストが遂行された贖いの御業とかかわっています。
 「イエス」という名については、イエス・キリストの誕生の次第を記しているマタイの福音書1章21節に、御使いがヨセフに告げた、

 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

ということばが記されています。「イエス」(イエースース)という名はギリシア語名ですが、そのヘブル語名は「ヨシュア」(イェホーシューア)で「ヤハウェは救いである」ということを意味しています。それで、ここでは、「イエス」という名と、

 この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

ということが結びつけられています。
 また「キリスト」(クリストス)という名はギリシア語ですが、ヘブル語の「メシア」(マーシーァハ)という名に当たります。どちらも、王や祭司たちなど、特定の役割のために「油注がれた者」を表します。これは一般的なことばですが、やがて、神である主の民のために贖いの御業を遂行される「メシア」を表すようになりました。
 イエス・キリストの御名はイエス・キリストがどのような方であるかを表しています。使徒の働き3章ー4章にはペテロとヨハネがエルサレム神殿の「美しの門」で施しを求めていた「生まれつき足のなえた人」をイエス・キリストの御名によっていやしたことが記されています。その時にペテロがユダヤの指導者たちに語ったことばを記している4章10節には、

 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。

と記されており、12節には、

 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。

と記されています。
 このように、イエス・キリストは、

 ご自分の民をその罪から救ってくださる方

であられますが、これまでお話ししてきたことからもわかりますが、同時に、暗やみの主権者であるサタンとそのしもべたちを最終的におさばきになる方でもあられます。
 イエス・キリストの「キリスト」という御名は、イエス・キリストがご自身の民の救いのために贖いの御業を遂行してくださる方であることを示していると同時に、暗やみの主権者であるサタンとそのしもべたちに対するさばきを執行される方であられることを示しています。ペルガモにある教会の信徒たちは、暗やみの主権者であるサタンの働きによってもたらされた迫害にさらされながらも、このイエス・キリストの御名を堅く保っていました。
 黙示録2章13節では、このことにさらなる説明がつけられていて、

 わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と記されています。[注]

[注]「わたしに対する信仰」と訳されたことば(テーン・ピスティン・ムー)は、文字通りには「わたしの信仰」です。この場合の属格(ムー)は目的属格であると考えられますので、新改訳は「わたしに対する信仰」と訳しています。

 先ほどお話ししましたように、ペルガモにある教会の信徒たちがサタンの働きによってもたらされた迫害にさらされながらも、このイエス・キリストの御名を堅く保っていたことは現在時制で表されていて、常になされていたことです。これに対して、

 わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と記されていることは、不定過去時制で記されていて、すでになされたことです。これによって、イエス・キリストが、

 あなたは、わたしの名を堅く保っている

と述べておられることは、イエス・キリストの「忠実な証人アンテパス」が殺されるという試練の中にあってもゆるぐことがなかったイエス・キリストへの信仰をもって、イエス・キリストの御名を「堅く保っている」ということを意味しています。
 このことから、一つのことが見えてきます。
 ここで、

 わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と言われていることは、サタンのもくろみは、アンテパスが殺されることによって、ペルガモにある教会の信徒たちの間に恐怖心を生み出して、イエス・キリストへの信仰を捨てさせることにあったということを示しています。けれども、

 あなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

というイエス・キリストのみことば全体を見ますと、サタンの働きによってアンテパスが殺されたことが、自分たちの身近なこととして起こったことによって、かえって、ペルガモにある教会の信徒たちがしっかりとイエス・キリストの御名を保つようになったということが示されています。
 このことには意味があると考えられます。
 言うまでもなく、これは、イエス・キリストの恵みによっています。イエス・キリストが御霊によって、ペルガモにある教会の信徒たちの心を恐怖心から守ってくださり、信仰を支えてくださったことによっています。
 このことと関連して、イエス・キリストがアンテパスのことを「わたしの忠実な証人アンテパス」と呼んでおられることを思い出す必要があります。
 先ほどお話ししましたように、アンテパスはサタンの働きによってもたらされたより厳しい迫害の中で、死に至るまでも「忠実な証人」としてイエス・キリストをあかしし続けました。そのあかしは、ことばによるあかしだけでなく、厳しい迫害の中でイエス・キリストの御名を告白し続ける信仰の姿勢をもってのあかしであったと考えられます。そして、そのあかしはペルガモにある教会の信徒たちにとって大きな衝撃を与えたと考えられます。イエス・キリストは御霊によって、ご自身の「忠実な証人アンテパス」の信仰の姿勢をもってのあかしをお用いになって、ペルガモにある教会の信徒たち全体をより確かな信仰の高みへと導いてくださったと考えられます。


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