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説教日:2015年10月18日 |
このように、栄光の主であられるイエス・キリストが、「わたしはあなたのことを知っている」と言っておられることを、私たちはどのように受け止めるでしょうか。 私自身の経験をお話ししますと、私にとって、栄光の主が私のすべてを知っておられるということは、とても恐ろしいことでした。それは、私が小さい頃から、「悪いことをしてもお天道さまが見ていらっしゃるよ」というようなことを言い聞かされてきたことによっています。 とはいえ、私は「悪いことをしてもお天道さまが見ていらっしゃるよ」と言われても、まったく怖くはありませんでした。「お天道さまってなあに」と聞いたときに、それは「お日さま」太陽のことだと教えられたからです。私は「お日さまがものを見るわけがない」と思っていました。この場合は、「天道」とは太陽のことというよりは、「天の神」のことを指していたようですが、そのように、教えられたとしても、その「天の神」というものが現実的に感じられなかったために、怖いこととは思えなかったはずです。 そうではあっても、「悪いことをしてもお天道さまが見ていらっしゃるよ」ということは、何か自分たちを超えた存在が自分たちを見張っている、監視しているという発想を伝えています。「悪いことをしてもお天道さまが見ていらっしゃるよ」と言われても、まったく怖くはなかったのですが、自分たちを超えた存在が自分たちを監視しているという発想は、無意識のうちにではありますが、身に染みついてしまっていたのでした。 このような発想をもったまま、生きておられるまことの神さまを知るようになったとき、神さまが自分の秘かな行いだけでなく、心の思いも、さらには、自分の本性をもすべて知っておられるということは恐ろしいことであると感じられるようになったのです。その恐ろしさは恐怖と呼ぶべき恐ろしさです。 けれども、そのような恐怖と呼ぶべき恐ろしさを抱いていた時には、私はまだ神さまのことをよく知っていませんでした。もちろん、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じて救われていましたし、神さまを礼拝していました。神さまは、ご自身がどのような方であるかを、御子イエス・キリストをとおして、特に、十字架におかかりになった御子イエス・キリストをとおして、最も豊かに、また、最もはっきりとお示しになったということを、ほんとうには、わかっていなかったのです。 それがどのようなことか、黙示録1章の流れの中でお話ししたいと思います。 イエス・キリストがヨハネにお示しになった栄光の御姿のことを記している1章10節ー18節より前の5節後半ー6節において、ヨハネは、直訳調に訳しますが、イエス・キリストのことを、 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方に、この方に栄光と力とが、とこしえにありますように。アーメン。 とあかししています。 このヨハネのことばから、イエス・キリストの栄光は、イエス・キリストが、 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった ことと深くつながっていることがわかります。 さらに、黙示録の中では、天上のことを記しています、4章1節ー8節には、 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」 と記されています。 これは神さまの栄光の御臨在が天にあることを示しています。そして、5章6節には、 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。 と記されています。ここには、天におけるイエス・キリストの栄光の御臨在が示されています。その御姿は「ほふられたと見える小羊」として示されています。このように、イエス・キリストの栄光の御姿は「ほふられたと見える小羊」として記されています。 これがイエス・キリストの栄光の御姿であることは、「四つの生き物と二十四人の長老」の賛美を記している9節ー10節に、 あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 と記されていることからわかります。 これは、先ほど引用しました、1章5節後半ー6節にイエス・キリストのことが、 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方に、この方に栄光と力とが、とこしえにありますように。アーメン。 と記されていることと符合しています。 これら二つの個所では、イエス・キリストが、十字架におかかりになって、いのちの血を流され、私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、罪から解き放ってくださって、王的な祭司としてくださったことがほめ讃えられています。これは、イエス・キリストは十字架につけられて殺されたけれども、ほめ讃えられるべき栄光の主であられる、ということを意味しているのではありません。ここでは、イエス・キリストが十字架におかかりになって、いのちの血を流されて、私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、罪から解き放ってくださったことが、ほめ讃えられています。これは十字架につけられて殺された方こそが、ほめ讃えられるべき栄光の主であられるということを意味しています。 「四つの生き物と二十四人の長老」の賛美を記している5章9節ー10節に続いて、11節ー12節にも、 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 と記されています。 1章5節後半ー6節において、 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方 とあかしされている方は、私たちの大祭司であられます。ヘブル人への手紙2章17節ー18節に、 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 と記されているとおりです。また、4章14節ー16節にも、 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されています。 この私たちの大祭司は天において父なる神さまの右の座に着座しておられます。1章3節に、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されていますし、10章12節ー14節にも、 キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されています。 ここで注目したいのは、2章17節で、 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 と言われていることです。これは、基本的には、その前の14節ー16節に、 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。 と記されていますように、イエス・キリストが私たちご自身の民と一つとなってくださるために、人としての性質を取って来てくださったことと、十字架の死によって「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださ」ったことを指しています。 それと同時に、イエス・キリストが「すべての点で兄弟たちと同じように」なられたことは、メシヤとしてのお働きの最後に十字架におかかりになられたことだけを指しているのではありません。18節に、 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 と記されていますように、イエス・キリストが地上の生涯をとおして経験されたことも、イエス・キリストが私たちご自身の民と一つになってくださるためのことでした。 このことに関しては一つの問題があります。 4章15節には、 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 と記されています。イエス・キリストはまことの人となって来てくださいましたが、私たちと違って罪の性質がなく、罪を犯すこともありませんでした。そのイエス・キリストが自らの罪のために苦しんでいる私たちのことをほんとうにわかってくださり、ご自分のこととして同情されるのだろうかという疑問がわいてきます。 このこととの関連で思い出されるのは、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを始められた頃のことを記しているマタイの福音書8章16節ー17節です。そこには、 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 と記されています。 マタイの福音書においては、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを始められたことは4章に記されていますが、人々の間で御業をなさったことは8章から記されています。この16節ー17節に記されていることは、1節ー15節に記されているイエス・キリストがなさった一連の御業の記事を締めくくるものです。そして、ここでは、イエス・キリストが悪霊を追い出し、病気の人々をみなおいやしになったことは、 彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。 という「預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった」と言われています。この「預言者イザヤを通して言われた事」とは、イザヤ書53章4節に記されています、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 というみことばを指しています。 マタイは、このみことばを引用することによって、イエス・キリストが全能の御力を働かせて、いともたやすく、人々の病をいやされ、悪霊を追い出されたのではないことを示しています。イエス・キリストはいたずらにご自身の御力を働かされることはありません。イエス・キリストはその御力を働かせて、御許にやって来た人々の痛みや苦しみや悲しみを、ご自身のこととして味わってくださいました。そして、そのことをとおして、人々をその痛みと苦しみから解放してくださいました。 私たちががこの世で病に冒されたり、悪霊に支配されたりすること、また、戦争などの人災や自然災害など、それ以外のさまざまな苦しみに遭うことは、すべての人がアダムにあって罪を犯した者として罪責を負っていて、神さまのさばきの下にあるからです。これは、アダムにあって、すべての人が罪ののろいの下にあるという意味であって、病を負った人や災いや苦しみに遭った人が特に罪が深いという意味ではありません。そのことはイエス・キリストの教えに示されています(ルカの福音書13章1ー5節、ヨハネの福音書9章1節ー3節)。イエス・キリストは、このような形で執行されている罪へのさばきを自業自得とされることなく、ご自身のこととして負ってくださって、ご自身の痛み、苦しみ、悲しみとして受け止めてくださいました。福音書の中には、イエス・キリストが人々の痛み、苦しみ、悲しみに深く同情し、あわれまれたこと(マルコの福音書6章34節)、嘆息されたこと(マルコの福音書7章34節)、涙を流されたこと(ヨハネ11章35節)が記されています。 そうであるからこそ、イエス・キリストは、これらの痛み、苦しみ、悲しみの原因、元凶となっている私たちの罪を何としても贖わなければならないとの思いを強くしていかれたのだと考えられます。実際、イザヤ書52章13節ー53章12節に記されている「主のしもべの第4の歌」においては、主のしもべがご自身の民の病や痛みをになってくださることは、ご自身の民の罪と咎を負って死んでくださることにつながっています。 イエス・キリストには罪がなく、実際に罪を犯すこともありませんでした。けれども、それで私たちの罪がもたらす苦しみ、痛み、悲しみがご自身のこととしてお分かりにならなかったのではありません。むしろ、私たち罪ある者は、罪の自己中心性に縛られているために、人の痛み、苦しみ、悲しみを、そっくりそのまま、自分のこととして感じ取ることができません。 そればかりではありません。ルカの福音書19章41節ー44節には、 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」 と記されています。ここでは、人々が平然としていて、苦しみも痛みも悲しみも感じていないときに、イエス・キリストはその人々のために泣いておられます。 このように、イエス・キリストは地上の生涯をとおして、人々が悲しむ以上に悲しまれ、人々が痛む以上に痛まれ、人々が苦しむ以上に苦しまれました。それが最後には極まって、私たちの罪がもたらす地獄の刑罰の苦しみを、私たちに代わって味わってくださいました。 イエス・キリストはこのようにして、私たちのためにあわれみ深い大祭司となってくださいました。そして、私たちのためのあわれみ深い大祭司として、私たちの弱さに真の意味で同情してくださるとともに、私たちのためにとりなしてくださっています。ローマ人への手紙8章34節には、 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 と記されています。 このようなことが福音のみことばにあかしされているイエス・キリストの栄光の核心にあります。イエス・キリストの栄光は恵みとまことに満ちた栄光です。そうであるとしますと、栄光のキリストが私たちのすべてのことを知っていてくださることは、私たちにとっては喜びの源となります。 それはよい羊飼いが羊のことをよく知っていることにたとえられます。ヨハネの福音書10章14節ー15節には、 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。 というイエス・キリストのみことばが記されています。それで、私たちはイエス・キリストを信頼して、その御声に従って歩みます。同じヨハネの福音書10章の4節には、まことの牧者のことが、 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。 と記されています。 このことは、いまの私たちの現実ですが、終わりの日には、それが完全な形で実現することになります。黙示録7章16節ー17節には、 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。 と記されています。 その1方で、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが、私たちのような者のために「ほふられた小羊」となられたことに、また、私たちのような者を 愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった ことに、大きな驚きを覚えるとともに、恐れの念を抱かずにはいられません。それは、深い感謝を伴う恐れであって、決して恐怖を伴う恐れではありません。 その意味で私たちは、主を恐れる者です。そして、主を恐れる者として、私たちのために十字架におかかりになって、いのちの血を流してくださったイエス・キリストは主であると告白し、その恵みとまことに満ちたご栄光をほめ讃えます。 |
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