黙示録講解

(第221回)


説教日:2015年10月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(2)


 黙示録2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストのペルガモにある教会へのみことばについてのお話を続けます。
 先主日は、そのイエス・キリストのみことばの背景となっていることとして、ペルガモにある教会があったペルガモがどのような町であったかについてお話ししました。
 また、先主日には、2章12節において、イエス・キリストがご自身のことを、

 鋭い、両刃の剣を持つ方

として示しておらることについてお話ししました。この「両刃の剣」は、イエス・キリストがヨハネにお示しになったご自身の栄光の御姿を記している14節ー16節に、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されている中に出てくる、イエス・キリストの御口から出ている「鋭い両刃の剣」のことです。
 これは。「両刃の剣」がローマ帝国におけいて皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものであったこととかかわっています。それはローマ帝国に害をもたらす者たちをさばいて死刑に処する権威です。そのような、究極的な刑罰にかぎらず、あらゆる刑罰を執行することは、裁判をとおして決定されることです。ただし、ローマ帝国においては、その裁判は今日私たちが考える裁判とは違っていて、皇帝や総督たちが自分たちの判断で告発された人を死に処することができました。いずれにしましても、裁判の根底に義があります。その義は原則的、理想的には普遍的なものであって、あらゆる時代のあらゆる社会に共通しているはずですが、現実的には、国家や社会の利害、特に支配者たちの権益と深く結びついています。そのような国家や社会では、自分たちを脅かすものは悪とされます。より大きなスケールでは、国家間の争いでは、相手が悪であるとされます。また、その利害にかかわらないとされる、弱い立場の人々は無視されたりします。そのような社会では、不当な抑圧と搾取が生み出されますが、合法的とされる形での抑圧と搾取さえも生み出されます。
 これに対して、イエス・キリストを主としていただく神の国、メシヤの国においては、主であられ王であられるイエス・キリストがご自身の民である私たちのために、ご自身のいのちをお捨てになられました。このことが、メシヤの国のあり方を根本的に特徴づけています。
 そのことを示しているのは、いろいろな機会にお話ししています、マルコの福音書10章42節ー45節に記されているイエス・キリストの教えです。そこには、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

と記されています。
 ここではイエス・キリストが十二弟子を教えておられます。その十二弟子は、イエス・キリストが王として治められるメシヤの国を、この世の国々の最上位にあるものとして理解し、そのメシヤの国の中でメシヤの次の位に就きたいとして争っていました。イエス・キリストは彼らに、「異邦人の支配者」たちや「偉い人たち」の支配の仕方と、メシヤの国の王であられるご自身の支配の仕方とが本質的に異なっていることを示しておられます。
 イエス・キリストはまず、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

と語られました。「異邦人の支配者」たちや「偉い人たち」は人々の上に権力を振るって、支配するということが示されています。ここで用いられている「支配する」ということば(カタキュリエウオー)と「権力をふるう」ということば(カテクスーシアゾー)は、よくない意味で支配し、権力を振るうという意味合いを伝えています。つまり、人々の上に立ち、自分たちの権益を守るために、人々を搾取したり、抑圧したりするような支配の仕方です。
 これは異邦人の国々だけに見られるものでありません。契約の神である主、ヤハウェは、古い契約の下にあってメシヤの国をあかしする「地上的なひな型」としての意味をもっていたイスラエルの民の支配者たちが、この世の権力者と同じ特質をもつようになってしまっていることを、預言者たちをとおして糾弾されました。
 その典型的な事例がエゼキエル書34章1節ー6節に記されています。そこに記されています主のみことばだけを引用しますと、2節ー6節には、

人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。

と記されています。
 ここに出てくる「牧者たち」は、古代オリエントにおいて古くから民の支配者たちを表すことばでした。それは、考え方として、支配者たちの理想的なあり方を示しています。しかし、実際には、権力に物を言わせて民を搾取し、抑圧することが絶えることはありませんでした。
 そのことは、異邦の王たちのあり方に倣っているイスラエルの王たちも同じでした。それで、主は預言者たちをとおして、イスラエルの王たちを糾弾されました。ここエゼキエル書34章2節ー6節で神である主は、イスラエルの王たちが羊の「脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふる」と言って糾弾しておられます。イスラエルの王たちは、「」にたとえられている民を搾取して、自らを肥やし、「力ずくと暴力で彼らを支配した」のです。
 イエス・キリストが、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

と言われるのは、このような支配者たちの現実です。


 イエス・キリストの弟子たちは、そのような特質をもつ王たちが支配するこの世の国の中で、メシヤが支配する国がその頂点にあって、他の国々を支配するようになると考えていました。それは、ひとつの国において王がすべての権力機構の頂点に立って支配し、その家来たちがそれに次ぐ権力を持つようになっていることが、この世の国々の間でも見られるようになるというだけのことです。その当時であれば、ローマ帝国が地中海世界のあらゆる国々の頂点にあって、君臨していたのですが、メシヤの国がローマ帝国に代わって君臨し、すべての国々を支配するということです。もしメシヤの国がそのようなものであるとしますと、メシヤの国もこの世の国々の頂点に立つ国として、その主権のもとにある国々を「力ずくと暴力で彼らを支配し」、搾取することになってしまいます。
 いくら、メシヤの国は特別であって、メシヤが支配するようになることによってこの世界に正義と公正が行き渡り、平和が実現するようになると言っても、もし、メシヤの国がこの世の権力機構の頂点に立って支配するということであれば、その権力は必ず腐敗してしまうことになります。なぜなら、これまでお話ししてきました、この世の権力機構は、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人が生み出したものであるからです。自らの本性が罪によって腐敗してしまい、罪の力によって縛られてしまっている人が生み出す権力は、罪の自己中心性を現すものになってしまいます。
 そして、これもいろいろな機会に引用してきましたが、イザヤ書14章12節ー15節に、バビロンの王について、

 暁の子、明けの明星よ。
 どうしてあなたは天から落ちたのか。
 国々を打ち破った者よ。
 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
 あなたは心の中で言った。
 『私は天に上ろう。
 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
 北の果てにある会合の山にすわろう。
 密雲の頂に上り、
 いと高き方のようになろう。』
 しかし、あなたはよみに落とされ、
 穴の底に落とされる。

と記されていますように、この世の権力者が権力を極めれば極めるほど、暗やみの主権者であるサタンの主権を映し出すようになっていきます。そのように、この世の権力構造の最頂点には、暗やみの主権者であるサタンがいます。ヨハネの手紙第一・5章19節には、

 私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。

と記されています。
 また、コロサイ人への手紙3章13節ー14節に記されています、

 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

というみことばは、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって救われる前には、「暗やみの圧制」の下にあったことを示しています。同じようなことは、エペソ人への手紙2章1節ー3節に記されています、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

というみことばにも示されています。
 これに対して、「いや、暗やみの主権者であるサタンのさらに上にはメシヤがおられる」と言われるかも知れません。しかし、気をつけなければなりません。もしこれが、この世の権力機構の頂点にこの世で最強の国があり、その上にサタンの暗やみの主権があるけれども、さらにその上に、メシヤの権威があるというような、一連の権力構造の中でのことであれば、それは、メシヤの国をこの世の国々の権力と同じ本質をもつ国であるとしてしまうことになります。
 このこととのかかわりで思い出されるのは、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを開始されたときに、サタンの誘惑に会われたことです。そのことはマタイの福音書4章1節ー11節に記されていますが、そこにはイエス・キリストが会われた三つの誘惑が記されています。その第3の誘惑のことが、8節ー10節に、

今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

と記されています。これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、ここでサタンはイエス・キリストとイエス・キリストの御国をこの世の権力構造のうちに取り込もうとしています。もちろん、イエス・キリストはそれを退けられました。

 メシヤの主権は、この世の権力者の主権と本質的に異なったものです。メシヤの主権がこの世の権力者の主権と本質的に異なったものであることは、先ほど引用しましたイエス・キリストの教えに示されています。
 このことをお話しする前に、そのイエス・キリストの教えに出てくる、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

という教えについて、一つのことをお話しします。それは、

 異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し

と言われているときの「支配者と認められた者たち」という言い方についてです。ここで「認められた」と訳されていることば(ドケオー)は「見える」、「思われる」、「見なされる」というような意味合いを伝えています。もちろん、これらの支配者は実際に支配している人々です。この場合、「支配者と認められた者たち」を認めているのは人々です。
 とはいえ、これは、人がそう認めているだけであって、神がお立てになったものではないという意味合いを伝えているわけではないと思われます。というのは、ローマ人への手紙13章1節ー4節に、

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

と記されているからです。ここに出てくる「上に立つ権威」や「支配者」はイスラエルの支配者にかぎられるのではなく、ローマ帝国の主権の下にある社会における支配者です。それで、ここに記されていることに照らして見ますと、イエス・キリストが言われる「異邦人の支配者と認められた者たち」や「偉い人たち」も「神によって立てられたものです」し、「神のしもべ」です。
 けれども、先ほどお話ししましたように、マルコの福音書10章42節に記されています、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

というイエス・キリストの教えでは、「上に立つ権威」や「支配者」の支配がよくないものであるとされているのではなかったでしょうか。それはそのとおりです。そうではあっても、彼らが「神によって立てられた」、「神のしもべ」であることには変わりありません。この点も加味して、イエス・キリストの教えを膨らませて言いますと、「神によって立てられた」、「神のしもべ」であるこの世の権力者たちは、自分たちをお立てになった主であられる神を認めず、神のみこころに背いて、自分たちに委ねられている民を搾取し、抑圧し、自分たちの権益を守り、自分たちを肥やしているということになります。それで、彼らは「神によって立てられた」、「神のしもべ」としてどのようにその務めを果たしたかを、神である主によってさばかれることになります。
 そのさばきを執行される方は、ペルガモにある教会への語りかけにおいて、ご自身を、

 鋭い、両刃の剣を持つ方

としてお示しになっておられる栄光のキリストです。
 黙示録19章11節ー16節には、この方のことが、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。

と記されています。15節では、

 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。

と言われています。ここで「鋭い剣」と訳されていることば(ロムファイア・オクセイア)には「両刃の」ということば(ディストモス)がありませんが、1章16節に、

 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています、イエス・キリストの栄光の御姿の描写にに出てくる「鋭い両刃の剣」のことです。
 19章11節ー16節では、イエス・キリストの御口から出ている「鋭い剣」は「諸国の民を打つため」の剣であると言われています。それは、イエス・キリストが「諸国の民を」おさばきになることを意味しています。11節に、

見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

と記されているとおりです。

 マルコの福音書10章42節ー45節に記されています、イエス・キリストの教えに戻りますと、43節ー45節において、イエス・キリストはご自身の御国、メシヤの国としての神の国の支配がどのようなものであるかを示しておられます。それを突き詰めていきますと、最後の45節に記されています、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

という教えに行き着きます。神の国の権威がどのようなものであるかということは、主であられ王であられるイエス・キリストが、ご自身の民の罪を贖うために、十字架におかかりになって死なれたことによって最も鮮明に示されているということです。
 このことは、ヨハネの福音書10章18節に記されています、

 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

というイエス・キリストの教えにも示されています。イエス・キリストは、

 わたしが自分からいのちを捨てるのです。

と言われました。イエス・キリストがご自身のいのちをお捨てになるのは、11節に、

 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

と記されていますように、ご自身の民である私たちのためです。これは先ほどお話ししました、主が預言者たちをとおして糾弾しておられたイスラエルの王たちが自分たちを肥やすために、自分たちに委ねられた民を抑圧し、搾取していたことと、まったく違っています。
 このようにして、イエス・キリストはご自身の権威によってすべてのことをお導きになり、ご自分から進んで十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わってすべてお受けになりました。ヨハネの福音書12章23節ー24節には、

人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

というイエス・キリストの教えが記されています。この教えの中心は、「人の子が栄光を受けるその時」です。その「人の子が栄光を受けるその時」は、イエス・キリストが「一粒の麦」として、豊かな実を結ぶために死なれる時であると言われています。これによって、私たちの罪の贖いのために死んでくださることが、イエス・キリストの栄光であるということが明らかにされています。
 またこのことは父なる神さまの栄光が現されることでもありました。同じヨハネの福音書12章の27節ー28節には、

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

と記されています。
 28節には、

 わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。

という父なる神さまのみことばが記されています。これはイエス・キリストがご自身の十字架の死が迫ってきていることを受けて、

 父よ。御名の栄光を現してください。

と語りかけられたことに、父なる神さまがお答えになったみことばです。

 わたしは栄光をすでに現した

と言われていることは、父なる神さまのみこころにしたがってイエス・キリストが人としての性質を取って来てくださり、メシヤとしてのお働きをされたことをとおして、父なる神さまの栄光が現されたことを指しています。そして、

 またもう一度栄光を現そう

と言われていることは、27節に、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

と記されていることに照らして見ますと、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって死んでくださることを指していると考えられます。このことは、また、これに先立って、23節ー24節で、

人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

と言われたこととの関連によっても支持されます。イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって死んでくださったことによって、ご自身の栄光を現されました。それはまた、父なる神さまの栄光を現されることでもありました。
 先ほどお話ししましたように、すべての権威は神さまがお立てになりました。それで、すべての支配者は「神のしもべ」です。それで、すべての支配者は自分に委ねられた権威をもって、神さまの栄光をあらわさなければなりません。このことは、父なる神さまから遣わされたイエス・キリストにも当てはまります。そして、イエス・キリストは私たちご自身の民のために十字架におかかりになっていのちを捨ててくださったことにより、父なる神さまの栄光を現されました。
 そうであれば、すべての支配者も同じようにして、神さまの栄光をあらわすべき者として立てられています。しかし、実際には、この世の国々の支配者たちは自らの栄光を求め、自らを肥やすために、その主権の下にある民を抑圧し、搾取しています。これに対する最終的なさばきを執行するお方は、この上なくはっきりと父なる神さまの栄光を現された御子イエス・キリストです。その意味で、イエス・キリストは、

 鋭い、両刃の剣を持つ方

です。


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