黙示録講解

(第219回)


説教日:2015年9月20日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(48)


 先主日には、川崎 淳先生が説教を担当してくださいましたので、黙示録からのお話はお休みしました。きょうは、黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストのスミルナにある教会へのみことばについてのお話に戻ります。
 今お話ししているのは、最後の11節に記されています、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

という約束のみことばについてです。
 すでにお話ししましたように、このような約束のことばは、イエス・キリストが語りかけられたアジアにある七つの教会のそれぞれに与えられています。
 イエス・キリストの約束のことばのうち、スミルナにある教会に与えられた約束のことばは、そのほかの教会に与えられた約束のことばと少し違っていることがあります。それは、スミルナにある教会に与えられた約束のことばが、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

となっていて、「・・・されることはない」という、消極的な言い方で示されているということです。
 このことを踏まえて、そのほかの教会に与えられた約束のことばを見てみましょう。
 エペソにある教会へのみことばでは、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

となっています。
 ペルガモにある教会へのみことばでは、

わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

となっています。
 テアテラにある教会へのみことばでは、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。

となっています。
 サルデスにある教会へのみことばでは、

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

となっています。
 フィラデルフィヤにある教会へのみことばでは、

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

となっています。
 そして、ラオデキヤにある教会へのみことばでは、

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

となっています。
 これら6つの教会への約束のことばでは、すべて、イエス・キリストが「勝利を得る者」になしてくださること、その意味で積極的なことが記されています。
 これに対して、スミルナにある教会に与えられた約束は、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

というものです。スミルナにある教会の信徒たちはローマ帝国からの迫害を受けて「苦しみと貧しさ」の中にあってもなお、イエス・キリストを主として告白して歩み続けていました。そのような群れをさらにサタンの働きによる厳しい迫害が襲ってこようとしていました。しかも、イエス・キリストはそのような状況にあるスミルナにある教会に「非難すべきこと」を見出してはおられません。このスミルナにある教会に与えられている約束が、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

であるということは、バランスを欠いているのではないかというような思いがわいてきます。
 このことは、賞賛されるべきことが何も見られないラオデキヤにある教会に与えられた約束でさえ、

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

というものであったこと、あるいは、ラオデキヤにある教会と似たような状態にあり、かろうじて、

 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。

と賞賛されている、サルデスにある教会にも、

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

というように、いくつかのことが積み上げられるような約束が与えられることを見ますと、そのような思いになります。さらに、スミルナにある教会と同じように迫害の中にあって主に忠実であり続けたと賞賛されているフィラデルフィヤにある教会への約束が、

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

という約束であったことを見ますと、やはり、バランスを欠いているのではないだろうかというような思いになります。
 このような疑問について取り扱っている文書が見つからないために、すでに考えられていることと対話しながら考えることができません。それで、不十分なことを承知の上で、考えられることをお話ししたいと思います。


 そのことをお話しするためにも必要なことですので、まず、スミルナにある教会に与えられている約束そのものについてお話しします。
 その前に、一つのことをお話ししますと、この約束を語っておられるイエス・キリストは、スミルナにある教会の信徒たちのことを深く心にかけておられます。そのイエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちにはこの約束で十分であるとお考えになっておられます。それはイエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちを認めておられることを意味しています。イエス・キリストは、スミルナにある教会の信徒たちがこの約束の主旨を汲み取り、それによって支えられて、さらに襲ってくるであろう迫害の中でも、ご自身の御足の跡を踏みながら歩み続けると信じてくださっているのです。
 スミルナにある教会に与えられている約束は、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

というものですが、これは、その前の10節の最後に記されています、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

という戒めと約束につながっています。そして、この、

 死に至るまで忠実でありなさい。

という戒めは、その前に記されています、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

ということばを受けて語られたものです。
 すでに迫害を受けて「苦しみと貧しさ」の中にあったスミルナにある教会の信徒たちが、心を一つにして、主であられるイエス・キリストの御足の跡を踏み行く歩みを続けていることに対して、サタンがさらに厳しい迫害を加えようとしていることが示されています。そのために、スミルナにある教会の信徒たちの「ある人たち」を投獄しようとしているということが示されています。その投獄は、これから裁判を受けるための拘束か、すでに処刑されることが決まっている人を処刑するまで拘束しておくものです。このことを受けてイエス・キリストが、

 死に至るまで忠実でありなさい。

という戒めを与えておられることは、その投獄が処刑を執行するまでの間の拘束である可能性を示しています。
 イエス・キリストがこのように戒められるとき、イエス・キリストご自身が投獄された信徒たちとともにいてくださいます。彼らを死に至るまで忠実であるようにと支えてくださり、御足の跡を踏み行く弟子としての歩みを続けさせてくださり、全うさせてくださるのはイエス・キリストです。
 このような戒めを受けて、イエス・キリストは、

 そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

という約束を与えてくださっています。すでにお話ししたことですので詳しい説明を省略しますが、この「いのちの冠」は「いのち」という「」ということです。この場合の「」(ステファノス)は、花や葉や枝などの冠で、金などの金属で作られた王冠(ダイアデーマ)とは違います。この「」は、ここでは、

 死に至るまで忠実でありなさい。

という戒めを守ることとの関連で与えられるものですので、競技の勝利者に与えられる冠のことだと考えられます。スミルナにある教会の信徒たちは、また、私たちは主であられるイエス・キリストの御足の跡を踏み行く歩みを続けていくことによって、霊的な戦いに勝利することになります。
 また、この場合の「いのちの冠」の「いのち」は、この「いのちの冠」が

 死に至るまで忠実でありなさい。

という戒めを守って、イエス・キリストの御足の跡を踏み行く歩みを続けることによって霊的な戦いに勝利する者に与えられるものです。それで、この「いのち」は肉体的ないのちのことではありません。これは、このいのちを与えてくださるイエス・キリストが、このスミルナにある教会へのみことばにおいて、ご自身のことを、8節で、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

として啓示してくださっていることにかかわっています。ここで、イエス・キリストはまず、ご自身が、

  初めであり、終わりである方

であられることを啓示しておられます。
 これはイエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられること、そして、この歴史的な世界の歴史を始められた方であり、終わらせる方であられること、また、それゆえに、この歴史全体をご自身のみこころにしたがって支えておられ、導いておられ、必ずご自身のご計画を実現される方、特に、私たちご自身の民に与えてくださった契約を実現してくださる方であられることを意味しています。
 さらに、イエス・キリストはご自身のことが、

 死んで、また生きた方

であられることを啓示してくださっています。
 これは、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、ご自身の契約に示してくださった約束を実現してくださるために、十字架にかかって死んでくださって私たちご自身の民の罪を贖ってくださった方であられ、私たちを復活のいのちに生きる者としてくださるために栄光を受けてよみがえってくださった方であられることを意味しています。[注]

[注]ここでは「死んで、また生きた方」が関係代名詞(ホス)によって「初めであり、終わりである方」につながっていて、「初めであり、終わりである方」を説明しています。

 ですから、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

であられるイエス・キリストが与えてくださる「いのちの冠」が表している「いのち」は、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことにあずかるいのち、すなわち、永遠のいのちのことです。このイエス・キリストが与えてくださる「いのち」、永遠のいのちは、最終的には、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、すでにご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げておられる贖いの御業に基づいて、再創造される新しい天と新しい地に属している者たちのいのちです。

 もともと、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人のいのちの本質は、神である主との愛にある交わりにあります。神である主は人をご自身との愛の交わりに生きる者としてくださるために、神のかたちとしてお造りになりました。そして、ご自身が人ともにお住みになり、人ともに歩まれるために、ご自身の御臨在の場として聖別されたエデンの園にご臨在されました。これが最初に神のかたちとして造られた人が享受していた祝福です。そして、このようにご臨在してくださっている神である主との愛の交わりに生きることが人のいのちの本質です。このことは、人が人であるかぎり変わることがありません。
 このように、神である主との愛の交わりに生きることが人のいのちの本質ですが、みことばの啓示全体が示していることは、神である主との愛の交わりは、最初に、創造の御業において人が神のかたちとして造られたときに享受していた愛の交わりよりさらに栄光ある交わりへと高められるべきものであったということです。もし神のかたちとして造られている人が、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、完全に神さまのみこころに従いとおしたなら、神さまはそのことへの報いとして、人をより豊かな栄光をもつ者としてくださることになっていたのです。
 けれども、人は神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。その結果、神である主の聖なる御臨在の御許から退けられ、罪の結果である死と滅びの力に捕らえられてしまいました。その死は単なる肉体的な死ではなく、神である主の罪に対する聖なる御怒りによるさばきよってもたらされる霊的な死です。この死は終わりの日に執行される栄光のキリストによるさばきによってもたらされます。それが黙示録では「第二の死」と呼ばれています。
 黙示録20章11節ー15節には、

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

と記されています。ここでは「火の池」に投げ込まれることが「第二の死」であると説明されています。
 この「火の池」はまた19章20節では「硫黄の燃えている火の池」と呼ばれていますし、20章10節では「火と硫黄との池」とも呼ばれています。この「火の池」の「」は物理的な火ではありません。というのは、この「火の池」にはその罪をさばかれた人ばかりでなく、霊であって肉体をもたない悪魔や「死とハデス」も投げ込まれると言われているからです。「ハデス」は死者が行く所を示しています。ただし、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっている人は、肉体的に死んでも、その霊が、ただちに、父なる神さまとイエス・キリストがご臨在しておられる「第三の天」とも呼ばれるパラダイスに引き上げられます。ルカの福音書23章43節に、イエス・キリストとともに十字架につけられてからイエス・キリストを信じるようになった犯罪人に、イエス・キリストは、

 まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

と言われました。このように、「火の池」に投げ込まれるのは、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人やサタンや悪霊たちだけでなく、その罪がもたらした死や死者が行く所など、すべて、神である主の聖なる御臨在の御前から絶ち滅ばされてしまうべきものです。この「」は、栄光の主の御臨在に伴う「焼き尽くす火」[後で、申命記9章3節、詩篇104篇4節、イザヤ書29章6節、30章27節、30節、33章14節、ヘブル人への手紙12章29節などをご覧ください]の最終的な(終わりの日における)現れであると考えられます。

 「第二の死」はこのようなものですが、先ほど引用しました黙示録20章11節ー15節の少し前の6節には、

 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。

と記されています。
 この6節に記されていることばは、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばの中で与えてくださった、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

という約束と符合しています。
 ここで、すでにいろいろな機会にお話ししてきたことを簡単にまとめておきたいと思います。
 それでは、どうして人の罪が「第二の死」に相当するものとしてさばかれるのでしょうか。それは、罪とは、神さまによって神のかたちとして造られた人が、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに背くことであり、それゆえに、人の罪の重さは無限だからです。それで、神さまは私たちの罪を贖ってくださるために、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子を贖い主として遣わしてくださいました。そして、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子が、私たちが受けなければならない罪の刑罰を、私たちに代わって受けてくださり、そのいのちを捨ててくださいました。
 これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、イエス・キリストは十字架において私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになりましたが、それはイエス・キリストが「第二の死」の苦しみをすべて味わい尽くされたということを意味しています。人も悪魔も悪霊たちも被造物として限界のあるものです。それで、人や悪魔や悪霊たちは、永遠に「第二の死」の苦しみをすべて味わい尽くしてしまうことはできません。ただ無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストだけが私たちの罪を完全に贖うことがおできになりますし、実際に、十字架におかかりになって私たちの罪を完全に贖ってくださいました。
 そればかりではありません。イエス・キリストはそのような底知れない苦しみをもたらす十字架の死に至るまで、ご自身の意志で父なる神さまのみこころに従いとおされました。その結果、そのことに対する報いとして、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。
 ですから、イエス・キリストの十字架の死あずかって罪を贖われている主の民は「決して第二の死によってそこなわれることはない」のです。そればかりでなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、復活のいのちに生きるようになっている主の民は「いのちの冠」を受けています。そのいのちの本質は、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって導かれる、父なる神さまとの愛にある交わりにあります。ローマ人への手紙8章14節ー15節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されています。
 このように、私たちはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、すでに「いのちの冠」を受けています。スミルナにある教会の信徒たちにとっては、そのように御霊に導かれて父なる神さまとの愛にある交わりに生きることは、迫害をもたらすことを意味していました。しかし、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

としてご自身をお示しになったイエス・キリストが、すべてのものを働かせて、父なる神さまのみこころを完全に実現してくださいます。その完全な実現の様子が、黙示録21章1節ー4節に、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されています。

 このように、イエス・キリストがスミルナにある教会に与えてくださった、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

という約束は消極的な約束ですが、その前に与えられている、

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

という積極的な約束の裏打ちをするような約束です。二つの約束はいわばお互いに補強し合うようになっています。このよう見ますと、スミルナにある教会に与えられている約束は、必ずしも他の約束とのバランスを欠いているとは言えない気もします。
 このスミルナにある教会に与えられた約束のことばはごく短いものですが、その約束の実現が、後で具体的に示されるようになります。消極的な「決して第二の死によってそこなわれることはない」ということは、先ほど引用しましたが、終わりの日において執行される最終的なさばきを記している20章11節ー15節と6節に示されています。また、積極的な「いのちの冠」の表すいのちの完全な実現は、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地のことを記している21章1節ー4節に示されています。
 これは大きな視野で見たものですが、もう少し細かいこととしては、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と言われているときの、

 死に至るまで忠実でありなさい。

という戒めについても、12章11節に、

 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。
 その当時最強のローマ帝国といえども、肉体的ないのちを奪うことしかできません。しかし、人がほんとうに恐れなければならないのは「第二の死」です。その「第二の死」から私たちを贖い出してくださるのは、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

としてご自身をお示しになったイエス・キリストです。
 イエス・キリストはさらに、ご自身の契約の民を「いのちの冠」によって表されている、父なる神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わりという祝福に満ちたいのちによって生きる者としてくださっています。それは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地において完全に実現します。
 スミルナにある教会は、このように、父なる神さまと御子イエス・キリストの、主の契約の民に対する愛から出ている豊かな祝福を約束されています。


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