黙示録講解

(第169回)


説教日:2014年7月20日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1節ー7節
説教題:エペソにある教会へのみことば(16)


 黙示録2章1節ー7節には、イエス・キリストがエペソにある教会に語られたみことばが記されています。先主日には、7節後半に記されています、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

という約束のみことばに出てきます、「いのちの木」の背景となっていることを創世記2章7節ー9節に記されているみことばに基づいてお話ししました。今日は先主日にお話ししたことを振り返りつつ、それを補足するお話をしたいと思います。
 創世記2章7節ー9節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

と記されています。
 先主日には、9節後半に、神である主が、

園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

と記されていることから、「いのちの木」と「善悪の知識の木」がどのような意味をもっている木であったについてお話ししました。
 「いのちの木」と「善悪の知識の木」は、木そのものとしては、神である主がエデンの園に生えさせられたそのほかの木と同じように「見るからに好ましく食べるのに良い」木であったと考えられます。ほかの木との違いは、この二つの木が「園の中央に」生えていたことと、この二つの木のそれそれに「いのちの木」と「善悪の知識の木」という名がつけられていたことにありました。そして、「いのちの木」と「善悪の知識の木」は、ともに神である主が備えてくださった「恵みの手段」でした。
 今日はおもに「いのちの木」のことを取り上げます。
 エデンの園に生えていたどの木も「見るからに好ましく食べるのに良い」木でした。「食べるのに良い」ということは直訳調には「食べ物として良い」ということで、その実を食べることによって、肉体的ないのちが支えられることになりました。その点は、人に限らず、神である主がお造りになったあらゆる生き物たちのいのちにも当てはまります。地に生えていたすべての木は、神である主がいのちあるものの「いのち」を支えてくださるために備えてくださったものです。その中で特に、特別な意味で神である主がご臨在されるエデンの園に生えていた木は、神である主が人のいのちを育んでくださるために備えてくださったものです。これはエデンの園に生えていた木をほかの生き物たちが食べてはならなかったという意味ではありません。神である主がエデンの園にいろいろな木を生えさせられたときのみこころの中心は、それによって人のいのちをはぐくんでくださることにあったということです。
 人がエデンの園に生えていた木々から採って食べることによっていのちが支えられることは、ほかの生き物たちと共通することです。けれども、神のかたちに造られている人のいのちには、ほかの生き物たちのいのちとは異なった面があります。神のかたちに造られている人のいのちは肉体的ないのちで終わるものではありません。人のいのちの本質は神である主との愛の交わりにあります。神である主の愛といつくしみに包まれているものとして、愛と敬いをもって主を礼拝することを中心として、主の愛に応答することに、人のいのちの本質があります。
 そのように、人が神である主との愛の交わりに生きるためには、神である主が人とともにいてくださらなければなりません。もちろん、神である主は存在において無限、永遠、不変の神さまです。その意味で神さまは造られた世界のどこにでもおられ、造られたすべてのものを真実にお支えになっておられます。それを、私たちは神さまの「遍在」と呼んでいます。けれども、神さまは、ご自身が神のかたちとして、それゆえに、人格的な者としてお造りになった人に対しては、特別な意味で、愛といつくしみをもって親しくご自身を現してくださり、その愛の御顔を向けてくださいます。そのようにして、愛といつくしみをもって、神のかたちに造られている人とともにいてくださり、人がご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださいます。このことを私たちは神さまの「御臨在」と呼んでいます。ちなみに、ヘブル語では、この神さまの「御臨在」を「顔」を意味することば(パーニーム)で表します。
 このように、神である主が特別な意味でご臨在してくださり、人がご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださることは、人の権利によることではありません。すべては神さまの主権的で一方的な愛と恵みによることです。人がご自身との愛の交わりに生きる者として、神のかたちに造られたことも、神さまが愛といつくしみをもってご臨在してくださって、人に御顔を向けてくださり、人がいつもご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださっていることも、神さまの主権的で一方的な愛と恵みによることです。その意味で、これは神さまのみこころによること、神さまのご意思によることです。そのことを神さまはご自身の契約によって約束し、保証しておられます。
 私たちは自分の家族とはともに住まい、生活をともにします。その根底には「家族関係」があります。それはおもに「血縁関係」の上に成り立っていますが、血縁関係には基づかない関係もあります。その一つが、親が養子を迎えることによる親子関係です。これは養子縁組みという「法的な関係」です。また、男女が結婚してともに住まい、生活をともにすることもあります。これも婚姻という「法的な関係」です。聖書に示されている神である主と私たち主の民の関係も、当然のことですが、血縁関係ではありません。それは主の「契約」に基づく「法的な関係」すなわち「契約関係」です。
 神さまはご自身の契約に基づいて、ご自身の民の間にご臨在してくださり、ご自身の民がご自身との愛による交わりに生きることができるようにしてくださいます。


 このことを反映して、聖書の中では、神さまと私たちご自身の民の関係は、基本的に、夫と妻の関係になぞらえられて示されています。それは、夫と妻の関係が婚姻という法的な関係によっているからであると考えられます。さらに、聖書においては、神さまと私たちご自身の民との関係を示すのに、父と子の関係が用いられますが、それは父によって養子として迎えられた子の関係になぞらえられるもので、やはり法的な関係です。
 まず、夫と妻の関係ですが、みことばは、もともと、夫と妻の関係が契約の神である主、ヤハウェと、その民の関係を表示するものとしての意味をもっていたことを示しています。エペソ人への手紙5章31節ー32節に、

「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

と記されています。ここでパウロが引用している、

 それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。

というみことばは、神である主が「ふさわしい助け手」としての女性をお造りになったことを記している創世記2章24節に記されています。ここでは、それが「キリストと教会とをさして」いることが示されています。言い換えますと、契約の神である主とその民の関係を指し示しているということです。
 このことに基づいて、預言者たちはイスラエルの民の偶像礼拝を「姦淫」として糾弾しています。具体的には、エレミヤ書3章1節ー13節、13章27節、エゼキエル書16章15節ー34節、23章全体、ホセア書1章2節、2章2節ー5節、4章10節ー19節などを見てください。
 また、聖書の中では、神さまと私たちご自身の民の関係が、やはり法的な関係である、養子縁組みによる父と子の関係になぞらえられています。
 ローマ人への手紙8章14節ー15節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されています。ここで「子としてくださる御霊」と言われているときの「子としてくださる」と訳されていることば(ヒュイオセシア)は「養子とすること」を表します。またガラテヤ人への手紙4章5節で、

 私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

と言われているときの「子としての身分」と訳されていることばが、この「養子とすること」を表すことば(ヒュイオセシア)です。また、エペソ人への手紙1章5節で、

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と言われているときの「子にしようと」と訳されていることばが、この「養子とすること」を表すことば(ヒュイオセシア)です。
 その当時の発想では、養子も実子と同じ権利・特権を与えられていました。それで、ローマ人への手紙8章17節やガラテヤ人への手紙4章7節では、養子とされた子のことが「相続人」でもあると言われています。
 旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳には、この「養子とすること」を表すことば(ヒュイオセシア)は出てきません。これは、ユダヤ人の間に養子を迎える習慣がなかったことによっていると考えられています。けれども、神である主と主の契約の民との関係に関しては、それに相当することが示されています。たとえば、出エジプト記4章22節ー23節には、主がモーセに語られた、

そのとき、あなたはパロに言わなければならない。
はこう仰せられる。「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。」

というみことばが記されています。ここでは、イスラエルが主、ヤハウェの子であると言われています。主、ヤハウェはご自身の子であるイスラエルの民のために出エジプトの贖いの御業を遂行されようとしています。
 生来の権利によって、神さまの子であると言うことができる方は、イエス・キリストお一人です。イエス・キリストが地上の生涯の最後の夜に、ゲツセマネにおいて祈られた祈りを記しているマルコの福音書14章36節には、

アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。

と記されています。ここで、イエス・キリストは父なる神さまのことを個人的に親しく「アバ、父よ。」と呼んでおられます。ガラテヤ人への手紙4章6節に、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されていますように、私たちは御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神さまの養子としていただいていますので、神さまは、

 「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

それで、ローマ人への手紙8章15節に記されていますように、「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」。

 このように、神さまと私たち主の民との関係は、私たちの主であられるイエス・キリストが、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて回復されたものです。それが夫と妻の婚姻の関係と、養子縁組みによる父と子の関係になぞらえられて示されています。そのようにして、イエス・キリストが、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて回復された、私たちと主の関係は、やはり契約関係ですが、その契約はイエス・キリストが十字架の上で流された血による「新しい契約」です。私たちが聖餐式の時に読みますみことばには、このイエス・キリストの血による新しい契約のことが出てきます。ルカの福音書22章20節には、

食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

と記されています。同じことは、コリント人への手紙第一・11章25節にも記されています。また、マタイの福音書26章28節には、

 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

と記されています。マルコの福音書14章24節にも、これとほぼ同じイエス・キリストのみことばが記されています。これらのみことばは、イエス・キリストが十字架の上で流された血が、主と私たちの間の「新しい契約」を確立してくださるものであったことを示しています。そして、私たちはこのイエス・キリストの血による「新しい契約」に入れていただいています。

 すでに繰り返しお話ししたことですので、みことばの引用はいたしませんが、創世記1章1節ー2章3節に記されています天地創造の御業の記事においては、まず、この「」が神さまがご臨在される所として聖別されました。そして、この「」にご臨在しておられる神さまが、この「」を、イザヤ書45章18節に示されていますように、「人の住みか」として形造られ、整えていかれました。そのようにして神さまがこの「」にご臨在されたのは、ご自身の契約に基づくことでした。
 最初に神さまがこの「」にご臨在された時には、まだ人が造られる前のことです。それなのに、その御臨在をご自身の契約に基づくことである、と言うのはおかしいと感じるかも知れません。それは、私たちがなじんでいる近代の市民律法における契約が、契約の当事者双方の合意によって成り立つことによっています。近代の市民律法の考え方によりますと、まだ、神さまと人との間に合意がなされていないから、そもそも契約が成立していないということになります。けれども、古代オリエントの契約は契約の主権者の契約であって、そのしもべの合意を待って結ばれるものではありません。契約の主権者がその主権に服した属国の王を自分との契約関係に入れるのです。神さまはご自身の主権的なみこころにしたがって、この世界のすべてのものを無から造り出された方であられ、人間同士の間における相対的な主権者を無限に越える、絶対的な主権者であられます。その神さまが人を初めからご自身との契約関係にあるものとして、神のかたちにお造りになりました。それで、人が造られてから、ある時に、人と契約を結んでくださったわけではありません。神さまは永遠からのみこころにしたがって、人をご自身との契約関係にあって、ご自身との愛の交わりに生きる者としてくださるために、創造の御業を遂行され、この地をご自身のご臨在される所として創造され、実際に、人より先にこの地にご臨在されました。
 その創造の御業とともに人が入れていただいていた契約を一般には「わざの契約」と呼んでいます。私たちは近年の研究の結果を踏まえて提案されている「創造の契約」という呼び方を採用しています。「創造の契約」においては、神である主が神のかたちに造られている人の間にご臨在してくださって、人をご自身との愛の交わりに生きる者としてくださることが約束されていましたが、それだけではありません。さらに、人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに従いとおしたなら、そのことへの報いとして、最初に神のかたちに造られた状態の栄光よりさらに豊かな栄光が与えられ、そのより豊かな栄光の状態にある神である主との愛の交わりにあずかるようになること、すなわち、永遠のいのちに生きるようになることが約束されていました。先主日にお話ししました善悪の知識の木が表示していた、「神のようになる」ということは、このことを指し示しています。

 創造の御業において神のかたちに造られた最初の人アダムのことが、ルカの福音書3章38節には、

 このアダムは神の子である。

と記されています。
 神さまは創造の御業において、その一方的な愛と恵みによって、人を神のかたちにお造りになり、ご自身との契約関係のうちにあるものとしてくださいました。人は造られたその時から、神さまとの契約関係のうちに入れていただいており、ご自身との愛の交わりに生きることができるようしていただいていました。そのような祝福にあずかっていた「アダムは神の子である」と言われています。
 創造の御業において神のかたちに造られて、罪がない状態にあったアダムにとっても、「神の子である」ことと、それに伴う祝福と特権は当然のものではなく、人を神のかたちにお造りくださった神さまの愛と恵みによって与えられたものです。
 最初の人アダムとその妻であるエバが神である主との愛の交わりに生きることができのは、神である主がご自身の契約に基づいて、エデンの園にご臨在してくださったからですし、アダムとエバをご自身がご臨在されるために聖別されたエデンの園に置いてくださったからです。「いのちの木」はこのことと関わっていました。
 神である主がエデンの園にご臨在してくださっても、人は神である主を目で見ることができたわけではありません。「いのちの木」は、神である主がそこにご臨在してくださることを見える形で表示してくださり、保証してくださるために、神である主が与えてくださった「恵みの手段」でした。
 これまで繰り返し、神である主の御臨在は主の契約に基づくものであるということをお話ししてきました。それで、神である主の御臨在は神である主の契約によって保証されていると言うことができます。それなら、「いのちの木」はいらないのではないか、と言いたくなるかも知れません。けれども、最初に造られた状態の人は、積極的に神である主のみこころに従う状態にありましたが、その一方で、罪を犯す可能性もある状態にありました。これは、人のうちに罪の性質があったということではありません。人のうちに罪の性質があるなら、その人はどうしても罪を犯してしまいます。最初に造られた状態の人は、そのようなどうしても罪を犯してしまう状態にはありませんでしたが、まったく罪を犯すことがない状態にはありませんでした。その意味での「弱さ」(弱さは罪ではありません)のある人のために、神である主は「恵みの手段」を備えてくださったのです。
 このことは、すでに罪を贖っていただいており、子としての身分を与えていただき、神さまとの愛の交わりに生きているけれども、なおも弱さをもっている私たちのために、イエス・キリストが、主の晩餐において、見える形で示される恵みの手段を備えてくださったことと比べられます。私たちはイエス・キリストが指定してくださったパンと杯にあずかるたびに、自分たちがイエス・キリストの裂かれた肉と流された血による罪の贖いにあずかっていることを思い起こすことができるようにしていただいています。また、その「主の晩餐」という聖礼典が執行されるところには、栄光の主であられるイエス・キリストが御霊によってご臨在してくださっていることを信じることができるようにしていただいています。
 「いのちの木」もこれと同じように、目で見ることができない神である主の御臨在が常に人ともにあること、そして、それは人を神である主との愛による交わりに生きる者としてくださるための御臨在であることを表示しつつ、保証しているものでした。このことを神である主の契約との関係で言いますと、「いのちの木」は神である主がご自身の契約によって人に約束してくださっていることを、見える形で表示しつつ、保証しているものとして、神である主が与えてくださった恵みの手段でした。それで、神である主の契約と切り離されてしまいますと、「いのちの木」そのものだけでは、このような意味はなくなってしまいます。

 神のかたちに造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人は最初の契約である「創造の契約」の違反者になってしまいました。人は罪によって汚れたものとして、神である主の御臨在の御前から退けられています。それも、神である主の備えです。人が罪のあるままで神である主の御臨在の御前に近づくなら、神である主の聖さを冒す者として、滅ぼされてしまうからです。そのような状態にある人には、「いのちの木」が表示し、保証していた神である主の御臨在は、恐怖の対象でしかなくなっています。人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後のことを記している創世記3章8節には、

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

と記されています。このようにして、人は神である主の御臨在の御前に近づくことができないものとなってしまいました。
 けれども、神さまはご自身の御子を贖い主として立ててくださいました。その贖い主についての約束は、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に「最初の福音」として与えられています。そして、神さまは今から2千年前に、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。
 御子イエス・キリストはその十字架の死によって、私たちご自身の民を死と滅びの中から贖い出してくださいました。そればかりでなく、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、私たちのために、義を立ててくださり、「創造の契約」に約束されていて、善悪の知識の木において見える形で示されていた、より豊かな栄光にあるいのちを獲得されて、死者の中からよみがえってくださいました。
 神さまは、私たちをイエス・キリストの復活のいのちにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。そして、私たちをイエス・キリストが確立された義にあずからせてくださって、御前に義と認めてくださり、ご自身の養子として迎え入れてくださいました。そして、ガラテヤ人への手紙4章6節に記されていますように、父なる神さまは、

 「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

それで、私たちは神さまに向かって、個人的に親しく「アバ、父」と呼びかけて、神さまとの愛による交わりにあずかっています。
 このことは、御子イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって獲得された、最初の契約である「創造の契約」の祝福によることです。それで、最初に神のかたちに造られた状態にあったアダムやエバも享受することができなかった祝福であり特権です。さらに言いますと、これは御使いたちにも与えられていない特権であり祝福です。
 このことは、私たちがエデンの園の中央に生えていた「いのちの木」が表示し、保証していた神である主との愛の交わりによるいのちよりもさらに豊かな栄光にある愛の交わりに生きるいのち、すなわち永遠のいのちにあずかっていることを意味しています。
 私たちはすでにイエス・キリストにあって、父なる神さまに向かって、個人的に親しく「アバ、父」と呼びかけて、神さまとの愛による交わりに生きています。父なる神さまはイエス・キリストにあって、私たちの間にご臨在してくださっています。それが先ほど触れました主の晩餐において表示されており、保証されています。けれども、まだ、イエス・キリストが私たちのために獲得してくださった栄光の状態は完全に実現してはいません。黙示録2章7節において、栄光のキリストが、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と約束してくださっているのは、このさらに豊かな栄光にある神さまとの愛の交わりが完全に実現することです。


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