黙示録講解

(第168回)


説教日:2014年7月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1ー7節
説教題:エペソにある教会へのみことば(15)


 黙示録2章1節ー7節には、イエス・キリストがエペソにある教会に語られたみことばが記されています。いま取り上げているのは、7節後半に記されています、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

という約束のみことばです。
 先主日と先々主日には、そこに出てきます「神のパラダイス」について、その背景となっていることをお話ししました。今日は、同じくそこに出てきます「いのちの木」の背景となっていることをお話ししたいと思います。
 創世記2章7節ー9節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

と記されています。
 いのちの木について理解するためには、いのちの木だけでなく、これとともにエデンの園の中央に生えていた善悪の知識の木のことをも合わせて理解する必要があります。
 この二つの木は、園の中央に生えさせられた木であることと、それぞれに特別な名がつけられていることによって、その他の木と区別されています。けれども、詳しい議論は省きますが、木そのものとしてはほかの木と同じように「見るからに好ましく食べるのに良い」木であったと考えられます。
 この二つの木がどのようなものであったかということについて考えるに当たってまず注意したいことがあります。
 先主日と先々主日にお話ししましたように、創世記1章1節ー2章3節に記されています天地創造の御業において、神さまは、まず、この地にご臨在されて、この地を「人の住みか」(イザヤ書45章18節)に形造られました。それで、この地は「人の住みか」として整えられていく前に、神さまがご臨在される所として聖別されています。この世界が光に満ちた明るく暖かな世界であること、すみきった大気の循環により、大地は適度に乾き適度に潤い、多様な植物が花を咲かせ実をならせること、多様な生き物たちのいのちの営みがあることなどは、神さまの御臨在に伴う豊かさです。
 エデンの園には特別な意味での神である主の御臨在がありました。創世記2章15節に、

 神であるは人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されていますように、神である主は、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人をそこに置いてくださり、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださいました。私たちは「エデンの園に特別な意味での神である主の御臨在があった」と言っていますが、それは、神である主が神のかたちに造られている人との愛の交わりをもってくださるために、そこにご臨在してくださっていたということによっています。
 エデンの園はそのような所として豊かな祝福に満ちていました。その現れが9節に、

神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。

と記されています。また、10節ー14節には、エデンの園が水源となっている川が、その全体を潤しているとともに、そこから流れ出て、広大な地域を潤していたことが記されています[この理解は、10節に出てくる「エデン」とエデンの「」が同じものであると理解するものです(エゼキエル書47章1節ー12節、黙示録22章1節ー5節)]。このことも、神である主の御臨在に伴う祝福の豊かさの現れです。
 このように、エデンの園には神である主の特別な意味での御臨在があり、そこで、神である主は、ご自身がお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人との愛による交わりをもってくださいました。その意味で、エデンの園は造られた世界の焦点としての意味をもっています。そうであるとしますと、神である主がその中央に生えさせられたいのちの木と善悪の知識の木は、さらに、そのエデンの園の焦点としての意味をもっていたと考えられます。このことはこの二つの木が園の中央にあったことにおいて象徴的に表されています。
 創世記2章16節ー17節に記されています、

神であるは人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

という神である主の戒めと、この戒めをめぐって、3章に記されています人類の堕落という出来事から、善悪の知識の木が何か願わしくないもの、人に害を与えるものであったと考えることはできません。なぜなら、創造の御業において、神さまがそのような「願わしくないもの」をお造りになったと考えることができないからです。また、この木は、神である主が神のかたちに造られている人をご自身との愛にある交わりにあずからせてくださるためにご臨在されるエデンの園の中央に、いのちの木とともに生えるようにされた木だからです。
 先ほど引用しました善悪の知識の木についての神である主の戒めは、多くの食べるのによい木がある中で、園の中央にあった善悪の知識の木だけから取って食べてはならないという戒めです。この戒めを守るために、何の労力も使うことはありませんし、我慢を強いるものでもありません。また、この木から採って食べないことによって、ほかの誰かが益を受けることもありません。この戒めを守る理由はただ一つです。それは、神である主がそのように命じられ、自分は主のしもべであり、主に従うべきものであるということです。それ以外の理由はありません。それで、この戒めは、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人に、神である主が主であられ、自分はそのしもべであることを思い起こさせてくれる戒めであり、その意味で、神である主が備えてくださった「恵みの手段」でした。
 どうしてそのような「恵みの手段」が必要であったかということですが、二つのことが考えられます。
 一つは、エデンの園は神である主の御臨在に伴う祝福によって、とても豊かに潤っていました。そのような所で、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしていくとき、人がなすすべてのことはうまくいき、豊かな実が結ばれていきます。そのような状態にありますと、人のうちにある種の「全能感」、「自分には何でもできる」というような思いが生じてくる可能性があります。
 もう一つは、神である主がエデンの園にご臨在してくださって、人との愛にある交わり、親しい交わりをもってくださっています。そのような中で、もし人が先ほどのような「全能感」をもってしまいますと、神である主も自分たちとそんなに違わないのではないか、自分たちも神のようなものではないかというような思いを抱かないとも限りません。実際、サタンが神である主に対して犯した罪の本質は、そのような思いをもって神である主の御前で高ぶったことです。神である主を神とすることなく、自らを神としようとしたことです。
 この「善悪の知識の木」が「恵みの手段」であったということには、さらに、より積極的な意味がありました。詳しい論証が必要ですが、結論的なことだけを言いますと、この木の名の「善悪の知識」あるいは「善と悪を知る」ということばは「神のようになる」ということを意味しています。けれども、それはこの木から取って食べることによるのではありません。人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たしていく中で、神である主を主として愛し敬い(善悪の知識の木についての戒めはこのことに関わっています)、そのみこころに従いとおしたときに、そのことへの報いとして、最初に神のかたちに造られた時の栄光より豊かな栄光を与えられるようになること、そして、これによって、人は神である主とのより豊かな栄光にある交わり、すなわち、永遠のいのちにあずかるようになるという、契約の神である主の人に対するみこころの中心にあることを指し示しています。


 エデンの園の中央にあった二つの木のうち、いのちの木のことは、終わりの日に再び来られるイエス・キリストによって再創造される新しい天と新しい地について記している、黙示録22章1節ー5節の最初の部分である1節ー2節に、

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

と記されている中に出てきます。そして、これが、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

というイエス・キリストの約束の実現を示しています。その他、箴言3章18節、11章30節、13章12節、15章4節、いまお話ししています黙示録の2章7節、22章14節、19節にも出てきます。けれども、善悪の知識の木は再び取り上げられることはありません。
 神である主との愛による交わりが、神のかたちに造られている人の本質です。そして、いのちの木は、そこに神である主がご臨在してくださり、神のかたちに造られた人をご自身との愛の交わりにあずからせてくださるという、いのちの祝福を表示し、保証するものです。その意味で、いのちの木も「恵みの手段」でした。これがいのちの木の基本的な意味ですが、神のかたちに造られている人のいのちの本質である、神である主のとの愛の交わりを表示し、保証するものものとして、永続的な意味をもっています。それで、いのちの木は、聖書の中で繰り返し取り上げられていると考えられます。
 このように、いのちの木には永続的な意味がありますが、黙示録に記されていることと照らし合わせてみますと、いのちの木には終わりの日における完成という終末論的な意味もあることが分かります。
 黙示録22章1節ー5節では、終わりの日において神である主と人との交わりがさらに栄光に満ちたものとなることが、いのちの木の表象によって示されています。2節には、

 川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。

と記されています。ここに出てくる「いのちの木」は単数形です。けれども、そのいのちの木は「川の両岸に」あると言われています。それでこれは、集合名詞であると考えられます。これが集合名詞として単数形で示されていることは、これらの木がひとまとまりとなって豊かないのちを表示し、主の契約の民がそれから取って食べることは、その栄光あるいのちにある交わりを表示していると考えられます。
 これに対して、善悪の知識の木は終わりの日に主の契約の民が栄光化されて、神である主との交わりが充満な栄光にある交わりとなる時に、その役割を終えることになると考えられます。
 先ほどお話ししましたように、この「善悪の知識の木」という名が示している「神のようになる」ということは、この戒めが示しているように、神である主を主として恐れ敬いつつ、主を愛してそのみこころに従いとおすことによって、それに対する報いとしての栄光を与えられる時に実現することでした。実際には、人は神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいましたので、このような報いを受けることはできなくなってしまいました。けれども、私たちの主であられるイエス・キリストが、その地上の生涯において、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされ、そのことへの報いとしてより豊かな栄光を受けて、死者の中からよみがえってくださいました。
 私たちはこのイエス・キリストが私たちのために獲得してくださった栄光にあずかっています。エペソ人への手紙2章4節ー9節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と記されているとおりです。
 私たちは神さまの一方的な愛と恵みによって、すでにイエス・キリストの復活の栄光にあずかっています。けれども、その完成、完全な実現は、終わりの日に栄光のからだによみがえり、充満な栄光において新しい天と新しい地にご臨在される主との愛の交わりが実現する時のことです。そして、その時には、「善悪の知識の木」という名が示している「神のようになる」ということが完全に実現しますので、善悪の知識の木は、その役割を終え、再び登場することがなくなります。
 とはいえ、このことに関しては一つの疑問が生じます。神のかたちに造られている人が主の戒めを守ることの根底には、主が自分の主であられ自分はそのしもべであるというわきまえがあります。そのことは、そのまま、新しい天と新しい地における主とその民の交わりに当てはまります。そうであるとしますと、そのことを明らかにしている善悪の知識の木が役割を終えてしまっているということはおかしいのではないか、という疑問が出てきます。
 これにつきましては、善悪の知識の木とそれについての戒めは、「恵みの手段」として与えられたものであることを思い出す必要があります。人が、主は自分の主であられ自分はそのしもべであるというということを常に心に刻むための「恵みの手段」です。それは人がそのこと(主が主であられ、自分はそのしもべであること)を忘れて、主に対して罪を犯す可能性がある状態にある時に必要なものです。けれども、終わりの日には、人が栄光化されて御子の栄光のかたちに似た者となります。ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されているとおりです。それは、ローマ人への手紙8章29節に、

神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と記されていることが、完全に実現することを意味しています。
 私たちは今なお自分自身のうちに残っている罪によって悩まされています。けれども、その時には、このような悩みや苦しみはすべて取り去られます。その時には、人はもはや罪を犯すことがありません。それで、その「恵みの手段」も必要でなくなります。新しい天と新しい地においては、主が主であられ、自分はそのしもべであることのわきまえが、決して揺るぐことはなくなるのです。
 このように、いのちの木と善悪の知識の木には終末論的な完成、終わりの日に完成することに関わる面があります。そのうちでも、いのちの木は人のいのちの本質である、神である主との交わりを表示するという点で、永続的な意味をもっています。新しい天と新しい地においても、この意味は変わってはいません。黙示録では、いのちの木が表示している神である主との愛の交わりが、栄光あるもの、さらに豊かなものになるということが示されています。

 創世記2章9節に戻りますが、「いのちの木」(エーツ・ハハッイーム)の「いのちの」は定冠詞付きの複数形です。アアルダース(Aalders, p. 87)は、この複数形は「抽象の複数形」(plural of abstruction)であり、この場合の定冠詞は、この木が「いのち」の特殊な概念に関わっていることを示しているとしています。おそらくこれがこの「いのちの木」の意味するところであろうと思われます。
 どういうことかと言いますと、神である主がエデンの園に生えさせた木は、どの木も「見るからに好ましく食べるのに良い」木でした。つまり、食べ物としてよい実をならせる木でしたので、人のいのちと関わっていました。
 神さまは、創造の御業において、人も含めて、生き物たちを食べ物を食べて生きるものとしてお造りになりましたし、そのために食べ物を備えてくださっています。創世記1章29節ー30節に、

神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。

と記されているとおりです。それで、私たちは食べ物といのちの結びつきは深いと感じています。
 いのちの木も善悪の知識の木も、他の木と同じように「見るからに好ましく食べるのに良い」木であり、ただ、この二つの木がエデンの園の中央にあったということと、神である主がそれらに名をつけられたということで他の木と区別されていたと考えられます。食べるのによい木であったという点では、いのちの木も他の木と同じように食べ物といのちの関係を表しているということになります。けれども、それは他の木と共通していることであり、エデンの園の中央にあり、「いのちの木」という名がつけられているこの木の独自性を示すものではありません。「いのちの木」という名は、それとは別のこと、つまり、神のかたちに造られている人のいのちの特殊な面、特殊な概念に関わっているということになります。
 このように、いのちの木は、神のかたちに造られている人のいのちの特殊性、神のかたちに造られている人のいのちが特別なものであることに関わっています。それで、神のかたちに造られている人のいのちが特別なものであることについてお話しします。
 神のかたちに造られている人のいのちは、他の生き物たちのいのちとは違って、単に有機体としての生命活動があるというだけのものではありません。
 創世記2章の文脈で見ますと、7節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。この記事は、人がまず最初に出会ったのは「神である」であることを示しています。
 「神である」(ヤハウェ・エローヒーム)という御名は、固有名詞としての神さまの御名である「ヤハウェ」(新改訳では太字の「」で表されています)と属名すなわち総称的な名である「エローヒーム」(「神」)の組み合わせです。
 「ヤハウェ」という御名は、出エジプト記3章14節に記されています、神さまがモーセに啓示してくださった、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名が短縮され3人称化されて生み出されたものであると考えられます。これは、存在を強調する御名で、神さまが永遠にまたご自身で存在しておられる方であられること、さらに、お造りになったすべてのものの存在の根拠であり支えであられることを示していると考えられます。そして、これが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という呼び名とともに啓示されていることから、特に、神さまが契約の神、ご自身の契約に約束されたことを必ず実現してくださる方であられることを表していると考えられます。
 「エローヒーム」は創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事に用いられている御名です。もちろん、この御名は聖書の至る所で用いられています。
 また、「ヤハウェ・エローヒーム」という順序から、「ヤハウェはエローヒームである」という意味合いがあると考えられます。新改訳の「神である」という訳は、このことを反映しています。これを、創世記2章に記されている記事に当てはめますと、ご自身の契約に基づいてこの「」にご臨在してくださり、人と親しく向き合って、人の鼻に「いのちの息」を吹き込んでくださったヤハウェ、また、人をご自身の御前に住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださっておられるヤハウェは、天地創造の御業を遂行されたエローヒームである、ということを意味していることになります。
 この世界のすべてのものの創造者であられる神さまが、無限に身を低くしてこの「」にご臨在してくださって、この「」の「ちり」から形造られた人と親しく向き合ってくださり、「その鼻にいのちの息を吹き込まれ」、人が最初に出会った方となってくださったのです。このすべては、神さまの主権的で、それゆえに一方的な愛から出たことです。そして、人のいのちの本質はこの契約の神である主、ヤハウェとの愛の交わりのうちにあります。
 また、神である主がご自身の民の間にご臨在してくださることは契約の神である主、ヤハウェの契約に基づいています。それで、神のかたちに造られている人のいのちは神である主の契約の祝福として理解する必要があります。そして、いのちの木も主の契約との関わりで理解すべきものです。
 人のいのちが神である主の契約の祝福であることは、先ほど引用しました、黙示録22章1節ー2節に記されていますように、いのちの木が表していることが、終わりの日に栄光に満ちたものとして完成するようになるということからも分かります。どういうことかと言いますと、いのちの木が表していることが、終わりの日に栄光に満ちたものとして完成するようになるといっても、それは自動的に完成するようになるのではありません。黙示録1章17節後半ー18節には、

恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というイエス・キリストのあかしのみことばが記されています。ここで、イエス・キリストは、ご自身が契約の神である主、ヤハウェであられ、ご自身の主権的なみこころにしたがって歴史を支配し導いておられる主であられることを示しておられます。この御子イエス・キリストがご自身の契約をとおして約束してくださったことを、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業によって実現してくださいます。それで、いのちの木が表していることが、終わりの日に栄光に満ちたものとして完成するようになります。
 神のかたちに造られている人のいのちには、これらのことが関わっています。その意味で、神のかたちに造られている人のいのちは特別なものです。そして、いのちの木は、このような、特殊な本質をもっている神のかたちに造られている人のいのちに関わっています。先ほどお話ししましたように、いのちの木は、そこに特別な意味での神である主の御臨在があることを見える形で指し示しつつ、神である主が人をご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださっていることを約束し、保証するものとして、神である主ご自身がエデンの園の中央に生えるようにしてくださったものです。
 イエス・キリストは、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と約束してくださっています。それは、イエス・キリストが終わりの日に再臨されて、私たちをより豊かな栄光にあずからせてくださり、神である主との愛によるいのちの交わりに生きる者としてくださることを意味しています。


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