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説教日:2014年7月6日 |
きょうは、このこと、エデンの園が神である主がご臨在される所であったということとの関わりで、もう少しお話ししたいと思います。 創世記1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。詳しい議論は省いて結論的なことを言いますと、これは、独立した文で、1章1節ー2章3節に記されています、神さまの天地創造の御業の記事全体の「見出し」に当たるものです。この「天と地」ということばは、ヘブル語の慣用句で、「(神さまによって造られた)この世界のすべてのもの」を意味しています。今日の私たちからしますと、137億光年の彼方に広がっていると言われている、大宇宙のすべてのものを指しています。 続く2節には、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 と記されています。これも結論的なことですが、2節の冒頭には「さて」と訳すことができる(離接的な)接続詞があり、この2節から、創造の御業の記事の関心は「地」に向けられています。一節から分かりますが、神さまの創造の御業は宇宙全体にわたってなされていたのですが、ここに記されている天地創造の御業の記事では「地」に焦点が合わされています。しかも、この記事は「地」に住む者である人の視点から見た創造の御業が記されています。もちろん、人は創造の御業の第6日に造られますから、人が神さまの創造の御業を見ていたわけではありません。これは神さまご自身の啓示によって示されたことです。それは、人に示された啓示ですので、この記事が記された時代の人に分かるように啓示されています。そのために、あたかも「地」に人がいて神さまの創造の御業を見ているかのように示されているのです。これによって人は、自分が住んでいるこの世界、自分が目で見ているこの世界がどのように造られたものであるかを知ることができるようになっています。 2節では、この「地」が造り出された時の最初の状態が、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 と記されています。最初に、 地は茫漠として何もなかった。 と記されている中に出てくる「茫漠として」と訳されていることば(トーフー)は、イザヤ書45章18節にも出てきます。そこには、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てた方、 これを茫漠としたものに創造せず、 人の住みかにこれを形造った方、 まことに、この主がこう仰せられる。 と記されています。ここでは、神さまがこの「地を形造り、これを仕上げ」、「これを堅く立て」、「人の住みかにこれを形造った」と言われています。神さまは創造の御業によって「地」を「人の住みか」に形造られたと言うのです。そのことが記されている中で、「茫漠としたもの」(トーフー)が「人の住みか」と対比されています。つまり、この場合は、「茫漠としたもの」は人が住むことができない所を意味しています。 創世記1章2節では、 地は茫漠として何もなかった。 と言われていていて、人が住むことができない状態を表す「茫漠として」(トーフー)だけでなく、さらに、「何もなかった」ということば(ボーフー)が付け加えられていて、人が住むことができない状態であることが強調されています。そのことは、さらに、 やみが大水の上にあり、 と言われていることによって、さらに強調されています。「人の住みか」のために必要な、光による明るさも暖かさもなく、何よりも、「地」そのものが「大水」に覆われていたのです。ですから、最初に造り出された時の「地」が、まったく人の住むことができない状態にあったことを示しています。 けれども、それで終わってはいません。続いて、 神の霊が水の上を動いていた。 と記されています。その時、すでに、この「地」には神の御霊がご臨在されていたこと、神さまが御霊によってこの「地」にご臨在しておられたことが示されています。 先ほどのイザヤ書45章18節に示されていますように、神さまは創造の御業において、この「地」を「人の住みか」に形造っていかれました。けれども、それに先立って、ご自身がこの「地」にご臨在され、この「地」をご自身がご臨在される所として聖別しておられます。その意味で、創世記1章1節ー2章3節に記されています神さまの天地創造の御業は、ご自身がご臨在される神殿の建設に当たる御業であったと理解することができます。 イザヤ書66章1節には、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」 と記されています。ここで、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 と言われていることは、天と地に神である主がご臨在しておられることを意味しています。そして、この天と地は神さまがお造りになったすべてのものを指しています。それで、今日のことばで言いますと、この宇宙全体が神である主のご臨在される所、すなわち「神殿」としての意味をもっています。そして、この場合は、それが「王座」と「足台」の表象で示されていますので、契約の神である主、ヤハウェが王としてご臨在されて、すべてのものを治めておられることを示しています。エレミヤ書23章24節には、 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。 ――主の御告げ―― とも記されています。その前の部分とのつながりで見ますと、これは、主がさばきを執行されることとの関わりで述べられています。やはり、主が主権者としてご臨在しておられることを示しています。 このように、神さまは創造の御業においてこの世界(宇宙)全体を「神殿」としての意味をもったものとしてお造りになりましたが、その中でも、特に、この「地」に特別な意味でご臨在されて、「地」をご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもつ所として聖別しておられます。そして、ご自身がご臨在される所として聖別された「地」を「人の住みか」として形造っていかれました。これによって、神のかたちに造られている人が住まうべき所は、神さまがご臨在される所であること、人は神である主の御臨在の御前に住まうものであることが示されています。 人は神である主の御臨在の御前に住まうものであるということは、聖書が一貫して示していることです。 まず、私たちがなじんでいる二つの詩篇を見てみましょう。 詩篇23篇6節には、 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと 恵みとが、私を追って来るでしょう。 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 と記されています。また、84篇10節には、 まことに、あなたの大庭にいる一日は 千日にまさります。 私は悪の天幕に住むよりは むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。 と記されています。 さらに、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地のことを記している黙示録21章3節ー4節には、 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されています。このみことばは、終わりの日には、人が神である主の御臨在の御許に住まうことが完全に実現することを示しています。 ですから、天地創造の御業から新しい天と新しい地の創造に至まで、一貫して、人は神である主の御臨在の御許に住まうべきものであることが示されています。 創世記1章に戻りますが、3節には、 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。 と記されています。この「地」にご臨在しておられる神さまは、その御臨在の御許から発せられた、 光があれ。 というみことばによって、「地」に「光」があるようにされました。 これは、続く4節ー5節に、 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。 と記されていることから、この「光」と「やみ」は今日まで続いている「昼」と「夜」としての意味をもっていることが分かります。それで、この「光」があるようになったことは、原始の太陽の光が地球に届くようになったことを示していると考えられます。そうしますと、この場合の「光」と「やみ」との区別は、地球の自転によってなされていると考えられます。 いずれにしましても、この「光」は神さまの御臨在に伴うもの、神さまの御臨在の現れとして、神さまの御臨在を指し示す最初のものであったと考えられます。そのことを示唆するみことばをいくつか見てみましょう。 民数記6章24節ー26節には「大祭司の祝福」として知られている、三つの祝福の祈りが記されています。その2番目の祝福の祈りは、 主が御顔をあなたに照らし、 あなたを恵まれますように。 というものです。主の「御顔」が光として、主の契約の民の上に照らされるようにということです。主の「御顔」(パーニーム)は主の御臨在を意味しています。 また、イザヤ書60章1節ー2節には、 起きよ。光を放て。 あなたの光が来て、 主の栄光があなたの上に輝いているからだ。 見よ。やみが地をおおい、 暗やみが諸国の民をおおっている。 しかし、あなたの上には主が輝き、 その栄光があなたの上に現れる。 と記されています。これはその前の部分とつながっていて、主が贖い主としてシオンに来られ、その贖いの恵みによる回復によって、主の御臨在が主の契約の民とともにあることを預言的に示しています。ここでは、主の栄光の御臨在の光が主の民の上に輝いていることが、主ご自身がその民の上に輝いてくださることとして記されています。これらのみことばでは、主の御臨在が光の表象で表されています。そして、この少し後の19節ー20節には、 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、 月の輝きもあなたを照らさず、 主があなたの永遠の光となり、 あなたの神があなたの光栄となる。 あなたの太陽はもう沈まず、 あなたの月はかげることがない。 主があなたの永遠の光となり、 あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。 と記されています。 さらに、終わりの日の完全な回復の実現のことを預言的に記している、黙示録21章22節ー23節には、 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。 と記されていますし、22章1節ー5節には、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。 21章23節の、 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。 というみことばと、22章5節の、 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 というみことばは、先ほどのイザヤ書60章1節ー2節、19節ー20節に記されていることの成就を記しています。 これらのみことばから、創世記1章3節において、「地」にご臨在しておられる神さまが、その御臨在の御許から発せられた、 光があれ。 というみことばによって、「地」にあるようにされた「光」は、ヨハネの手紙第一・1章5節に、 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。 と記されていますように、「光」であられる神さまご自身の御臨在の現れとしての「光」であったと考えられます。それで、私たちは神さまが創造の御業において「地」にあるようにされた「光」を手がかりとして、神さまが「光」であられることがどのようなことかを理解しているのです。 「光」のことを詳しくお話ししてしまいましたが、「光」だけでなく、神さまが創造の御業において造り出されたすべてのものが、この「地」にご臨在しておられる神さまの御臨在に伴うものであり、神さまの御臨在を指し示してると考えられます。この世界が光に満ちた明るく暖かな世界であること、すみきった大気の循環により、大地は適度に乾き適度に潤い、多様な植物が花を咲かせ実をならせること、多様な生き物たちのいのちの営みがあることなどは、神の御臨在に伴う豊かさです。詩篇65篇9節ー13節には、 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、 これを大いに豊かにされます。 神の川は水で満ちています。 あなたは、こうして地の下ごしらえをし、 彼らの穀物を作ってくださいます。 地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、 夕立で地を柔らかにし、 その生長を祝福されます。 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、 あなたの通られた跡には あぶらがしたたっています。 荒野の牧場はしたたり、 もろもろの丘も喜びをまとっています。 牧草地は羊の群れを着、 もろもろの谷は穀物をおおいとしています。 まことに喜び叫び、歌っています。 と記されています。 これは神のかたちに造られている人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の、その意味で、人の罪ののろいが及んでいる状態の「地」のことを記しています。このみことばは、それでも、この「地」には神さまの御臨在の現れとしての豊かさがあることをあかししています。そうであれば、最初に造られた状態の「地」には、どれほど豊かな神さまの御臨在の現れがあったことでしょうか。 このこととの関わりで、一つの疑問が生まれてきます。それは、このように、神さまが全宇宙にご臨在されることと比べて、この「地」が、特別な意味で、神さまがご臨在される所であるのであれば、どうして、エデンの園が設けられたのかという疑問です。 これにつきましては、やはり、「地上的なひな型」として建設された建物であるエルサレム神殿の表象をもって説明することができるかと思います。神さまがご臨在しておられる全宇宙は、エルサレム神殿の境内を含む建物全体にたとえることができます。そして、神さまが特別な意味でご臨在しておられるこの「地」は、神さまが特別な意味でご臨在しておられる「聖所」にたとえることができます。さらに、エデンの園は「聖所」のさらに奥の「至聖所」にたとえることができます。実際、黙示録では、先ほど引用しました21章22節ー23節に記されている「都」(新しいエルサレム)は、16節で、 長さも幅も高さも同じである。 と記されていて、「至聖所」の表象で示されています。そして、その「都」が22章1節ー5節では、エデンの園の表象で表されています。 別の観点から、もう少し説明いたしますと、神さまがこの「地」に特別な意味でご臨在されるのは、この「地」を「人の住みか」としてお造りくださったからです。けれども、神さまがこの「地」にご臨在されることは、ただ、神のかたちに造られている人に関わっているだけではなく、この「地」に存在しているすべてのもの、特に、さまざまな草花、果樹、樹木などの植物の生長や、さまざまな生き物たちのいのちの営みを支えてくださるためでもあります。 そして、神のかたちに造られている人は、創世記1章28節に、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています、歴史と文化を造る使命を委ねられています。それは、この「地」にご臨在してくださっている神さまのいつくしみに満ちたお働きを通して現されている栄光を汲み取って、神さまを礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命です。これはより広い意味での神さまの御臨在に関わっています。 これに対して、エデンの園にご臨在してくださることの目的は、神のかたちに造られている人との愛による人格的な交わりのためです。その中心は、神のかたちに造られている人が、神である主の御臨在の御前に近づいて、主を神として礼拝することです。神さまはそのことのために特別にご臨在してくださる所として、エデンの園を設けてくださったのであると考えられます。 そうであるとしますと、もう一つの疑問が生まれます。それは、歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、 地を満たせ という戒めに従って増え広がっていくなら、エデンの園からはみ出す人が続出することになるのではないかという疑問です。 これにつきましては、神である主の御臨在は場所に固定されているものではなく、神のかたちに造られている人とともにあるものであるということが考えられます。 神のかたちに造られている人が神さまから委ねられた使命にしたがって、地に増え広がり、神さまを礼拝することを中心とした歴史と文化を造っていく所には、必ず、神である主の特別な意味での御臨在が伴います。そうしますと、そこが、神である主の御臨在の御許からあふれ出る祝福である豊かさと潤いによって満たされるようになります。これによって、その所が、いわば「エデン化」されることになります。このようにして、人が増え広がっていくに従って、この「地」が全体として「エデン化」されていったことでしょう。 ただ、実際には、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、このことは、このような形では実現しなくなってしまいました。けれども、神さまは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業を通して、このことを、私たちご自身の民の間で回復してくださっています。それで、私たちはいまこの時に、神である主の御臨在の御許に近づいて、主を礼拝することを中心として、主の御臨在の御前を歩んでいます。 また、主は終わりの日に、これを完全に実現してくださいます。そのことは、すでに引用しましたイザヤ書60章1節ー2節、19節ー20節に記されていました預言のみことばや、黙示録21章22節ー23節と22章1節ー5節に記されていましたみことばに示されていたことです。 |
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