黙示録講解

(第166回)


説教日:2014年6月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1節ー7節
説教題:エペソにある教会へのみことば(13)


 黙示録2章1節ー7節には、イエス・キリストがエペソにある教会に語られたみことばが記されています。これまで7節後半に記されています、

  勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

という約束のみことばに出てきます「勝利を得る者」との関連で、「勝利を得る」ということについてお話ししました。今日は、それに続いて記されています、

  わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

という約束のみことばについてお話しします。


 ここで、

  わたしは・・・いのちの木の実を食べさせよう。

と言われているときの、

  わたしは・・・食べさせよう。

ということばは、(かなり硬直化した)直訳では、

  わたしは・・・食べることを与えよう。

となります。この場合の中心の動詞は「わたしは与える」(ディドーミ)です。ここでは未来時制「わたしは与えよう」(ドーソー)で、終わりの日に完全に実現する祝福を指し示しています。この祝福は今すでに私たちの間で現実のものとなっていますが、その完成、完全な実現は、終わりの日に再臨されるイエス・キリストによってもたらされます。
 この「わたしは与えよう」(ドーソー)という言い方で示されている祝福の約束は、アジアにある七つの教会のうち、五つの教会に与えられている祝福の約束に出てきますので、それを見てみましょう。
 2章10節には、スミルナにある教会へのみことばに出てくる祝福の約束が、

  死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と記されています。ここには「勝利を得る者」が出てきませんが、「勝利を得る者」のことは、最後に記されています。
 2章17節には、ペルガモにある教会へのみことばに出てくる祝福の約束が、

わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されています。新改訳では「わたしは与える」となっていますが、7節と10節で「わたしは与えよう」と訳されているのと同じことば(同じ未来時制)です。これが2回出てきます。
 2章26節ー28節には、テアテラにある教会へのみことばに出てくる祝福の約束が、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。

と記されています。ここでも「わたしは与えよう」ということばが2回出てきます。
 そして、3章21節には、ラオデキヤにある教会へのみことばに出てくる祝福の約束が、

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

と記されています。ここで、

  わたしとともにわたしの座に着かせよう。

と言われていることは、直訳では、

  わたしは彼にわたしとともにわたしの座に着くことを与えよう。

です。
 これら五つの教会に与えられている祝福のみことばによって、その祝福がイエス・キリストの一方的な恵みによって「与えられる」ものであることが示されています。
 これ以外の教会に与えられている祝福のみことばを見てみますと、3章5節に記されている、サルデスにある教会へのみことばに出てくる祝福の約束は、

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

となっています。ここでは、

  勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。

と、

  わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

は未来時制で表されています。
 また、3章12節に記されているフィラデルフィヤにある教会へのみことばに出てくる祝福の約束は、

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

となっています。ここでは、

  勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。

と、

わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

は未来時制で表されています。
 これら二つの教会へのみことばに出てくる祝福の約束には、「わたしは与えよう」ということばはでてきませんが、その祝福が、イエス・キリストの一方的な恵みによるものであることは十分汲み取ることができます。
 また、この「わたしは与えよう」や「わたしは・・・しよう」というイエス・キリストの祝福のみことばは、それが、1章17節ー18節で、ご自身のことを、

恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

とあかししておられるイエス・キリストの権威、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられ、歴史を支配しておられ、贖いの御業を成し遂げられた方としての権威に基づいて与えられており、必ず実現することをも示しています。
 神である主がお与えになることを表す「与える」ということばは、黙示録を理解する上での鍵のことばの一つです。これまでお話ししてきました、アジアにある七つの教会へのみことばにおいて約束されている祝福を示している「わたしは与えよう」というイエス・キリストのみことばはその事例の一つです。ほかの事例は、不定過去時制で、契約の神である主、歴史の主であられる方がお与えになったことを表すものですが、それにつきましては、それが出てきたときにお話しすることにします。

 エペソにある教会に与えられている祝福に戻りますが、その、

  勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

というみことばには「パラダイス」が出てきます。この「パラダイス」は、もともとペルシアの王や貴族たちの、壁に囲まれた「庭園」、「園」を表すことばでした。これがギリシャ語化されて聖書の中で用いられています。これは、聖書では、創世記2章に記されている神さまのご臨在の場であったエデンの園を原形としています。ただし、聖書の中では、エデンの園を「パラダイス」ということばで表している事例は(ここで示唆されているほかには)ありません。
 いずれにしましても、

  勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

という祝福のみことばの背景となっているのは、創世記2章7節ー9節に、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

と記されていることです。
 イエス・キリストの祝福のみことばの「背景」となっていることですので、あまり詳しく説明すべきことではないかも知れませんが、いくつかのことを考えるために、エデンの園について少し立ち入ってお話ししたいと思います。
 8節では、

  神であるは東の方エデンに園を設けられた。

と言われています。
 ここで「設けられた」と訳されていることば(ナータァ)は「植える」ことを意味することばです。創世記9章20節、申命記20章6節、28章30節、39節、詩篇107篇37節、箴言31章16節、イザヤ書37章30節、65章21節、エレミヤ書31章5節、エゼキエル書28章26節、アモス書5章11節、9章14節、ミカ書1章6節、ゼパニヤ書1章13節などでは、ぶどう園とぶどうの木を植えることを表しています。代表的に、エレミヤ書31章5節を見てみますと、そこには、

  再びあなたはサマリヤの山々に
  ぶどう畑を作り、
  植える者たちは植えて、
  その実を食べることができる。

と記されています。この「(ぶどう畑を作る」と訳されていることばと、

  植える者たちは植えて

ということばが同じ「植える」ことを表すことば(ナータァ)です。
 その他、レビ記19章23節では「果樹」、伝道者の書2章5節では「くだものの木」、申命記6章11節では「オリーブの木」、ヨシュア記24章13節では「柳の木」、創世記21章33節やイザヤ書44章14節では「月桂樹」を「植える」ことを表しています。
 これらのみことばでは、言うまでもないことですが、植える人がそこから収穫をえるため、よい結果をえるために植えることを表しています。人は確かな目的をもって、なにかを植えるのです。
 このことを踏まえて注目すべきことですが、聖書の中では、主がご自身を「植えられる方と」して示しておられます。神である主がエデンの園を「植えられた」のもそれに当たりますが、それはむしろ例外的なことで、主が「植えられる」と言われているのは、おもに「国家」や「民」のことです。
 出エジプト記15章17節には、

  あなたは彼らを連れて行き、
  あなたご自身の山に植えられる。
  よ。御住まいのために
  あなたがお造りになった場所に。
  主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。

と記されています。
 この「彼ら」とは、主がエジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民のことです。主はイスラエルの民をただエジプトの奴隷の状態から解放してくださっただけでなく、ご自身がご臨在される聖所に植えてくださると言われています。
 また、同様のことは詩篇80篇8節にも、

  あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、
  国々を追い出して、それを植えられました。

と記されています。ここではイスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられています。
 同じたとえによってイスラエルの民が背教してしまっていることが、イザヤ書5章1節ー2節に、

  さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。
  そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。
  わが愛する者は、よく肥えた山腹に、
  ぶどう畑を持っていた。
  彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、
  そこに良いぶどうを植え、
  その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、
  甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。
  ところが、酸いぶどうができてしまった。

と記されています。
 これは、主の一方的な恵みによってご自身のご臨在される地に植えられたイスラエルの民がよい実を結ばないで、悪い実を結んでしまったこと、イスラエルの民が主に背いてしまっている現実を述べています。そのことは、さらに7節において、

  まことに、万軍ののぶどう畑はイスラエルの家。
  ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。
  主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。
  正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。

と記されています。
 エレミヤ書には、主が国家や民を「植えられる」ことが、2章21節、11章17節、12章2節、18章9節、24章6節、31章28節など、頻繁に出てきます。
 たとえば、2章21節には、

  わたしは、あなたをことごとく
  純良種の良いぶどうとして植えたのに、
  どうしてあなたは、わたしにとって、
  質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。

と記されていて、先ほどのイザヤ書5章2節や7節のみことばと同じたとえで、同じことを述べています。
 また、11章17節では、その前の16節でオリーブの木にたとえられているユダ王国について、

あなたを植えた万軍のが、あなたにわざわいを言い渡す。これはイスラエルの家とユダの家が、悪を行い、バアルにいけにえをささげて、わたしの怒りを引き起こしたからである。

と記されています。
 ほかにもありますが、これらの個所では、主がご自身の民を地に植えられるのは主の主権的で一方的な恵みによることであること、そして、それはご自身の民としての歩みを支えてくださるためのことであることが示されています。また、その彼らが植えられた地の上に主権をもっておられるのは主ご自身であり、主はその民の歩みから実を刈り取ること期待しておられることが示されています。その実の中心にあるのは、主の御臨在の御許に住まう民として、主を神として礼拝することを中心とした、主との愛の交わりと、お互いの間にあるの愛の交わりです。それこそが、主との契約関係のあり方を示している主の律法が示している、主の民のあり方です。

 創世記2章8節において、

  神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

と言われていることからも、これと同様のことを汲み取ることができます。
 これに先立って、7節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。
 7節前半では、

  神であるは土地のちりで人を形造り、

と言われています。ここでは、神である主が「陶器師」の表象で表されています。
 これによって、神である主が人をお造りになるに当たって、この地にご臨在されて、ご自身の知恵と巧みさを傾けて人をお造りになったことが示されています。
 また、聖書の中では「陶器師」の表象は、「陶器師」が形造ったものに対して主権的な立場にあることを表すのに用いられています。たとえば、イザヤ書29章16節には、

  ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。
  陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
  造られた者が、それを造った者に、
  「彼は私を造らなかった」と言い、
  陶器が陶器師に、
  「彼はわからずやだ」と言えようか。

と記されています。(また、イザヤ書30章14節、64章8節、エレミヤ書18章2節ー6節、19章11節、ローマ人への手紙9章21節ー22節なども見てください)。
 主はその主権的な恵みによって、この地にご臨在してくださり、ご自身の知恵と巧みさを尽くして人を形造ってくださいました。
 また、7節後半では、

  その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と言われています。ここではこの地にご臨在してくださっている主が、ご自身の形造られた人と親しく向き合ってくださって、

  その鼻にいのちの息を吹き込まれた

ことが記されています。このようにして、人は初めから、そこにご臨在してくださっている神である主と向き合い、主との人格的な交わりに生きる者として造られています。実際に、

  そこで人は生きものとなった。

と言われている時、人が最初に意識したことは、親しく自分と向き合ってくださっている神である主であり、自分が主の御臨在の御前にあるということであったはずです。
 続く8節で、
  神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
と言われていることは、このことの延長線上にあります。神である主は人をお造りになった時に、この地にご臨在されて、親しく人と向き合うようにして人を形造られただけではありません。そのようにして形造られた人のために、「東の方エデンに園を」植えてくださり、そこに人を置いてくださいました。
 「エデン」ということばについてはいろいろなことが言われていますが、ここではこの園があった場所を示しています。そして、2章15節と3章23節では「エデンの園」と言われていていて、固有名詞化されています。
 ヘブル語においては、この「エデン」ということばは「喜び」、「楽しみ」を表しています。詩篇36篇8節(マソラ本文9節)には、

  彼らはあなたの家の豊かさを
  心ゆくまで飲むでしょう。
  あなたの楽しみの流れを、
  あなたは彼らに飲ませなさいます。

と記されています。ここで「あなたの楽しみの流れ」と言われているときの「楽しみ」が「エデン」ということば(エーデンの複数形)です。
 この意味での「エデン」ということばと、園があった場所としての「エデン」との結びつきは必ずしも確かなものではありませんが、エデンの園が潤いと豊かさ、喜びと楽しみと結びついていることは、みことばが示しています。創世記2章10節ー14節に、

一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

と記されていることは、エデンの園が豊かに潤っていたことを示しています。
 さらに、これはエデンの園がどこにあったかをも示しています。その意味で、これはエデンの園が単なる神話の中に出てくるものではなく、実際に存在していたことを意味しています。ただ、それが、この記事が記された時には、記した人にとって「東の方」にあったということ、また、メソポタミアにあったということ以外は、具体的なことは分からなくなっていたと考えられます。それはおそらく、ノアの時代の大洪水によるさばきよって、エデンの園が失われてしまったことによっているのではないかと思われます。そのさばきの時には、創世記7章11節に、
  その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け
と記されていますように、大雨だけでなく、地殻変動による地下水の噴出もありました。

 エデンの園が豊かさと潤いとかかわっていることを示すみことばとして、創世記13章10節には、

ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。

と記されています。ここではエデンの園が「の園」と呼ばれており、豊かに潤っている地の典型として描かれています。
 また、イザヤ書51章3節には、

  まことにはシオンを慰め、
  そのすべての廃墟を慰めて、
  その荒野をエデンのようにし、
  その砂漠をの園のようにする。
  そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。

と記されています。ここでは、主の一方的な恵みによる回復が預言されています。これに先立って記されているユダ王国へのさばきの執行の預言の後に、回復が預言されていますが、これもその一つです。その回復を示すために、

  その荒野をエデンのようにし、
  その砂漠をの園のようにする。

ということばが並行法において用いられていて、互いに同じことを表しています。ここではまた、「エデン」と「の園」が「荒野」と「砂漠」とに対比されています。そして、「エデン」と「の園」は「楽しみと喜び、感謝と歌声」と結びつけられています。
 注目すべきことは、これらのみことばでエデンの園が「の園」と呼ばれているということです。また、エゼキエル書28章13節や31章8節ー9節ではエデンの園が「神の園」と呼ばれています。黙示録2章7節で、

  勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と言われているときの「神のパラダイス」ということばも、これと同じであると考えられます。
 人はエデンの園を人間の楽園であると考えていますが、みことばはエデンの園は「の園」、「神の園」であると教えています。それは、創世記2章8節に、

  神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

と記されていますように、このエデンの園を植えられたのは契約の神である主、ヤハウェであられるからです。
 そして、これまでお話ししてきましたように、神である主は確かな目的をもってエデンの園をお植えになりました。神である主はご自身が神のかたちにお造りになった人と共にいてくださり、人がご自身との愛の交わりに生きるために、ご臨在してくださる所として、エデンの園を設けられました。
 エデンの園が神である主がご臨在してくださる所であったことは、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時のことを記している創世記3章8節に、

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

と記されていることから分かります。
 「そよ風の吹くころ」というのは、午後の涼しい風が吹く頃のことを意味しています。また、神である主が「園を歩き回られる」と言われているときの「歩き回る」と訳されていることば(「歩く」のヒトパエル形)は神である主の御臨在があることを表しています。このことばは、主の契約の祝福の核心にあることを表している、レビ記26章11節ー12節にも用いられています。そこには、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と記されていますが、

  わたしはあなたがたの間を歩もう。

と言われているときの「歩む」がこのことば(「歩む」のヒトパエル形「歩き回る」)です。
 このように、エデンの園は神である主が、ご自身がご臨在される所として植えられたものです。それで、その豊かさと潤いは主の御臨在の現れにほかなりません。しかも、神である主がエデンの園に御臨在されるのは、そこで、ご自身が形造られた人との愛の交わりをもってくださるためです。それで、ご自身の御臨在の現れとしてのエデンの園の豊かさと潤いは人への祝福のために備えられたものです。
 このように見てきますと、エデンの園の名である「エデン」ということばが「喜び」や「楽しみ」を意味していることの大切な面が見えてきます。それは、そこが人にとっての「喜び」や「楽しみ」の場所、すなわち、人の楽園である以上に、神である主にとっての喜び」や「楽しみ」の場所であったと考えられるということです。もちろん、それは神である主がご自身の愛を人に注いでくださること、また人の愛を受け止めてくださることを、ご自身の喜びとしてくださっているという意味です。


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