黙示録講解

(第165回)


説教日:2014年6月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1節ー7節
説教題:エペソにある教会へのみことば(12)


 いろいろな事情によりまして、ヨハネの黙示録からのお話は2週続けてお休みいたしました。今日は黙示録のお話を続けます。今お話ししているのは2章1節ー7節に記されています、イエス・キリストがエペソにある教会に語られたみことばの最後の7節に記されています、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

というみことばについてです。前回は、7節後半の、

勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

というみことばに出てきます「勝利を得る者」との関連で、「勝利を得る」ことについてお話ししました。今日は、それについてもう少しお話ししたいと思います。
 前回お話ししましたように、ここで「勝利を得る」と訳されていることば(ニカオー)は、新約聖書の中では26回用いられていますが、すべて、霊的な戦いにおいて「勝利する」ことを意味しています。その26回のうちの16回が黙示録に出てきます。また、ヨハネの福音書に出てくる1回と、ヨハネの手紙第一に出てくる6回を合わせると、ヨハネが記した文書には23回出てくることになります。また、黙示録に出てくる16回のうちの半分の8回が、2章ー3章に記されています、「アジヤにある七つの教会」に対して語られているイエス・キリストのみことばの中に出てきます。七つの教会のそれぞれに対する語りかけに「勝利を得る者」への約束のことばが記されています。これでこの「勝利を得る」ということば(ニカオー)は7回出てくることになりますが、最後の、ラオデキヤにある教会へのみことばを記している3章21節には、

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

と記されていて、「勝利を得る」ということばが2回出てきますので、合計で8回になります。
 繰り返しになりますが、新約聖書においては、この「勝利を得る」ということば(ニカオー)は、すべて、霊的な戦いにおける勝利を意味しています。それで、これは血肉の戦い、すなわち、武力や経済力、腕力や口数などの力による戦いにおける勝利とは質的に違っています。これは私たちの力によって実現することができるものではありません。霊的な戦いにおける勝利は、すでに、神の御子イエス・キリストが十字架の上で、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださったことによって、また、十字架の死に至るまでも父なる神さまのみこころに従い通されたことによって、私たちのために義を立ててくださったことによって、そして、その完全な従順に対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって実現しています。これは今から2千年前に、イエス・キリストが私たちの契約のかしらとして、私たちご自身の民のために成し遂げてくださった贖いの御業です。
 第2次世界大戦のヨーロッパ戦線の行方は、連合軍のノーマンディ上陸作戦によって、決定的なものとなりました。その作戦が実行された1944年6月6日は、「ディー・ディ(D day)」と呼ばれます。それ以降は、ナチス軍は撤退に次ぐ撤退を余儀なくされていきます。そして、連合軍が勝利した日である1945年5月8日が「ヴィー・ディ(V day)」あるいは、ヨーロッパ戦線における勝利の日ということで「ヴィー・イー・ディ(V-E day)」と呼ばれます。イエス・キリストが私たちの契約のかしらとして、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださったことによって、霊的な戦いにおける勝利は決定的なものとなりました。イエス・キリストが私たちのために十字架におかかりになった日は、ディー・ディに当たります。言うまでもなく、霊的な戦いのヴィー・ディは、イエス・キリストが再び来られる終わりの日です。
 ヨハネの福音書12章31節ー33節には、

「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

というイエス・キリストの教えが記されています。これは、23節ー24節に記されています、

人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

というイエス・キリストのみことばに示されていますように、イエス・キリストが十字架におかかりになる時が来ていることを悟られて語られた教えです。それで、イエス・キリストは、27節ー28節前半に記されていますように、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。

と祈られました。これに対して、28節後半に記されていますように、父なる神さまは、

 わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。

とお答えになりました。
 31節には、

 人の子が栄光を受けるその時が来ました。

と記されていました。イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架におかかりになって死なれて「豊かな実」が結ばれることによって、イエス・キリストは栄光をお受けになります。また、それによって、父なる神さまの栄光が現されます。そのことを受けて、イエス・キリストは、

今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

とお教えになりました。

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

と言われていることは、何気なく読みますと、イエス・キリストが天に上られることを指しているのではないかと思われるのですが、そういうことではありません。これについてヨハネは、

イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

と説明しています。それで、これはイエス・キリストが十字架につけられることを指しています。その意味で、これは23節ー24節に記されていますイエス・キリストの、

人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

という教えに当たることです。そして、ここで、

 人の子が栄光を受けるその時が来ました。

と言われている「その時」、すなわち、イエス・キリストが十字架におかかりになる時こそが、

 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

と言われている、「この世のさばき」の時であり、「この世を支配する者は追い出される」時です。
 この世の人々の目には、イエス・キリストが十字架につけられて殺されたことは敗北と写ります。また、同じヨハネの福音書の少し後の13章2節に、

悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた

と記されていますが、サタンの目にも、イエス・キリストが十字架につけられて殺されたことは敗北と写っていたと考えられます。けれども、イエス・キリストが十字架におかかりになって死なれたことによって、霊的な戦いにおける勝利は決定的なものとなりました。このことによって、黙示録12章7節ー9節に記されている、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

ということが、歴史の現実となりました。
 御子イエス・キリストは、私たちを愛してくださって、これらすべてのことを私たちのために成し遂げてくださいました。そして、その愛に基づく恵みによって、私たちをご自身が成し遂げてくださった罪の贖いにあずからせてくださいました。
 今から2千年前にイエス・キリストが私たちご自身の契約の民のために成し遂げてくださった御業がもう一つあります。それは、栄光を受けて死者の中からよみがえられた後、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座されたことと、そこから、約束の聖霊を注いでくださったことです。これは使徒の働き2章に記されています、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に起こったことです。
 このようにして、イエス・キリストが遣わしてくださった御霊は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになります。御霊は私たちご自身の契約の民を父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。
 このように、御霊によって新しく生まれた私たちは、同じ御霊によって導いていただいて、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストを信じることができるようになり、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業が、自分たちのためのものであったこと、ほかならぬ、この自分のためのものであったことを信じることができるようになりました。私たちはこの信仰によって、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の完全な贖いにあずかり、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって立ててくださった義にあずかって、父なる神さまの御前に義と認められています。それで、今は、御子イエス・キリストにある父なる神さまの栄光の御臨在の御前に恐れなく近づいて、このように、親しく御顔を仰ぎ見て、礼拝をささげています。
 このことにおいて、イエス・キリストが、

人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

と言われたこと、また、

 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

と言われたことが、私たちの現実になっています。そのことはまた、イエス・キリストが、

 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

と言われたことが、今この時の現実になっていることをも意味しています。
 黙示録2章7節においては、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と約束されています。私たちが「勝利を得る者」となるのは、私たちの契約のかしらであるイエス・キリストが、すでに、霊的な戦いのディー・ディにおいて実現してくださっている勝利にあずかることによっています。それは、私たちが信仰によって、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の完全な贖いにあずかり、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって立ててくださった義にあずかって、父なる神さまの御臨在の御前に近づいて礼拝することを中心として、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにおいて、私たちの間に実現しています。

          *
 黙示録2章7節に記されています、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

という約束との関連で、もう一つ注目したいことがあります。
 これはエペソにある教会に対して語られたみことばの中で与えられている約束です。エペソにある教会の信徒たちにとって「勝利を得る者」となることは、これに先立って4節ー5節で、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

と言われていることを離れて考えることはできません。
 すでにお話ししましたように、ここで言われている「初めの愛」は、基本的に、私たち信仰の家族の兄弟姉妹たちの間の愛ですが、その根底には、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって、私たちそれぞれを愛してくださっていることがあります。ヨハネの手紙第一・3章16節ー18節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

と記されています。また、4章9節ー12節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

と記されていますし、19節にも、

 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と記されています。
 イエス・キリストにある父なる神さまの私たちへの愛と、イエス・キリストの私たちへの愛については、改めてお話しするまでもないことですが、霊的な戦いとの関わりにおいて、二つのみことばのあかしを見ておきましょう。
 ローマ人への手紙8章37節には、

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

と記されています。
 ここで

 圧倒的な勝利者となる

と訳されているのは一つのことばで、黙示録2章ー3章で「勝利を得る」と訳されていることば(ニカオー)に「・・・を越える」とか「・・・以上」という意味の接頭辞(ヒュペル)が付いている動詞(ヒュペルニカオー)です。それで、新改訳では「圧倒的な勝利者となる」と訳されています。新改訳では、

 圧倒的な勝利者となるのです。

と訳されていますので、なんとなく将来のことのような感じがするかも知れませんが、これは現在時制で表されていますので、今すでにそうであるし、いつでもそうであるという意味合いがあります。
 また、

 これらすべてのことの中にあっても

と言われているのは、ギリシャ語の原文では、対比の接続詞「しかし」の次にに出てきて強調されています。この「これらすべてのこと」とは、この前の35節で、

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

と言われていることを受けています。
 ここに出てくる一つ一つのことを見てみますと、「患難」(スリプシス)は「患難」、「迫害」、「苦難」、「苦しみ」などを表しています。
 「苦しみ」(ステノコーリア)ということばは、「狭い」を表すステノスと、「空間」、「場所」を表すコーロスからなることばで、「窮地」、「窮すること」、「行き詰まり」、さらには「苦悩」などを意味しています。先ほどの「患難」とこの「苦しみ」を連ねることによって、あらゆる種類の苦しみを示しています。
 「迫害」は、言うまでもなく、すでに初代教会の信徒たちが現実のこととして経験していることでした。
 「飢え」は私たちこの社会に生きている者には、なかなか実感できないことかも知れませんが、その当時の社会では、飢饉や干ばつやイナゴの大群、害虫の発生などによる飢饉は現実的なことでした。
 「」も、私たちには実感できないことですが、これは単なる「」ではありません。あまりの貧しさのために、着る物も手に入らない状態を指しています。「飢え」と「」の組み合せによって、極度の貧しさを表しています。
 「危険」(キンデュノス)は、その当時では、治安の悪さ、自然災害の予測の難しさ、飢饉、戦争、犯罪、伝染病などがもたらす、さまざまな危険がありました。
 「」(マカイラ)は、同じローマ人への手紙の13章4節で、社会的な権力者が剣を帯びていると言われているときに出てきます。それで、これは権力者による処刑を意味していて、信仰のための迫害の行き着くところを指していると考えられます。
 ローマ人への手紙が記された時に、これらのことはすでに現実的なことでしたが、黙示録が記された時には、さらに深刻な状況にありました。それは、先ほど引用しました黙示録12章7節ー9節に、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されていることによっています。このことを受けて、12節には、

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。

と記されています。そして、13章では、「」すなわちサタンが、海から上ってきた「獣」すなわち「反キリスト」と、地から上ってきた「獣」すなわち「にせ預言者」を用いて、主の契約の民たちに対する迫害を激しくしていきます。
 ローマ人への手紙8章37節では、これらのことを受けて、私たちは、

 これらすべてのことの中にあっても・・・圧倒的な勝利者となるのです

と言われています。しかし、それは、私たちの力によることではなく、

 私たちを愛してくださった方によって(圧倒的な勝利者となるのです)

と言われています。

 これらすべてのことの中にあっても・・・圧倒的な勝利者となる

ことは、「私たちを愛してくださった方」の愛に包まれて初めてできることです。
 この「私たちを愛してくださった方」が父なる神さまのことなのか、イエス・キリストのことなのかをめぐっては見方が別れています。そのどちらかの区別をつける必要はないのかも知れませんが、

 これらすべてのことの中にあっても

ということが、35節を受けていますので、そこで、

 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。

と言われている、イエス・キリストのことであると考えられます。
 黙示録12章では、10節ー11節に、

今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。サタンは、

私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者

であると言われています。サタンにとって「私たちの兄弟たち」は憎しみの対象です。なぜなら、サタンが最終的に憎んでいる父なる神さまと御子イエス・キリストが、「私たちの兄弟たち」を愛して、そのために、父なる神さまは御子イエス・キリストを遣わしてくださり、御子イエス・キリストは十字架にかかって、「私たちの兄弟たち」をご自身の民としてくださり、ご自身の御前において仕えるものとしてくださっているからです。黙示録1章5節後半ー6節に、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

と記されているとおりです。
 黙示録12章11節において、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と言われていることも、このような、父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちへの愛のうちに生きることを離れては、現実のこととはなりません。
 霊的な戦いとの関わりで、もう一つのみことばを、ごく簡単に取り上げておきます。コロサイ人への手紙1章13節ー14節には、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されています。
 これは、すでに、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、霊的な戦いのディー・デイが現実のものとなって、サタンの敗北が決定的なものとなっていることの現れを示しています。ここで、私たちが救い出されたのは「暗やみの圧制から」であり、移されたのは「愛する御子のご支配の中」であると言われています。注目したいのは、御子のことが父なる神さまの「愛する御子」と言われていることです。これは、マルコの福音書1章11節に記されていますが、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを始めるに当たって、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった時に、父なる神さまが、

 あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。

とあかしされたことを受けていると考えられます。さらに、マルコの福音書9章7節に記されていますが、イエス・キリストが初めて、ご自身の苦難の死とよみがえりのことを弟子たちにお話しになった後に、「変貌の山」において、父なる神さまがイエス・キリストに栄光をお与えになり、

 これは、わたしの愛する子である。

とあかしされたことを受けていると考えられます。そのように、父なる神さまは私たちのために十字架におかかりになった御子イエス・キリストを愛しておられます。私たちはその「愛する御子のご支配の中」に移されています。そして、

この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 

と言われています。私たちは御子イエス・キリストにあって、父なる神さまの愛を受けています。私たちがその愛のうちを歩むことは、霊的な戦いにおける勝利に欠くことができないことです。


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