ヨハネの黙示録2章1節ー7節には、イエス・キリストがエペソにある教会に語られたみことばが記されています。先主日は、その最後の7節に記されています、
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。
というみことばの前半の、
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
ということばについてお話ししました。今日は、そのことばによって導入されている、
勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。
というみことばについてお話しします。ただし、今日お話しできるのは、最初に「勝利を得る者に」と言われているときの「勝利を得る」ということの根本にあることについてです。
ここで「勝利を得る」と訳されているニカオーということばは、「勝つ」、「勝利する」、「征服する」などを意味しています。新約聖書の中では26回用いられていて、そのうちの16回が黙示録に出てきます。その他では、ルカの福音書に1回、ヨハネの福音書に1回、ローマ人への手紙に2回、ヨハネの手紙第1に6回出てきます。それで、ヨハネが記した文書に23回、その他に3回出てくることになります。また、これは動詞ですが、その名詞形のニケーがヨハネの手紙第一に1回出てきます。このことばは、一般的には戦いにおける勝利を意味していますが、新約聖書の中では、すべて霊的な戦いにおける勝利を意味しています。
「共観福音書」と呼ばれるマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の中で、このことばが出てくる唯一の個所であるルカの福音書11章22節を見てみましょう。20節から引用しますと、そこには、
しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
と記されています。ここで、
強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。
と言われているときの「強い人」はサタンのことです。そして、
しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
と言われているときの「もっと強い者」は、イエス・キリストのことです。また、
彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
と言われているのは、まだ戦いが続いている中であればこのようなことはできませんので、完全に勝利することを意味しています。
それとともに、この、
分捕り品を分けます。
と言われていることは、先主日に簡単に触れました「苦難のしもべ」のことを預言的にあかししているイザヤ書52章13節ー53章12節の最後の部分を思い起こさせます。53章10節ー12節には、
しかし、彼を砕いて、痛めることは
主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを
罪過のためのいけにえとするなら、
彼は末長く、子孫を見ることができ、
主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの
激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、
その知識によって多くの人を義とし、
彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、
そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、
そむいた人たちのためにとりなしをする。
と記されています。
ここでは、この「苦難のしもべ」が「自分のいのちを罪過のためのいけにえとする」と言われていますし、「多くの人・・・の咎を彼がになう」と言われています。また、彼は「そむいた人たちとともに数えられ」、つまり、背いた人たちと一つとなり、「多くの人の罪を負」うと言われています。そして、そのように、
彼を砕いて、痛めることは
主のみこころであった。
と言われています。今お話ししていることとの関連で注目したいのは、12節で、
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
と言われていることです。ここで言われている「分捕り物」は人々のことです。それでここでは、この「苦難のしもべ」が私たちの「罪を負」い、私たちの「咎」をになって、ご自分の「いのちを罪過のためのいけにえ」とされることによって、私たちの罪が贖われ、私たちはこの方のもの、この方の民とされるということが預言的に記されています。
このイザヤの預言のことばに照らして見ますと、イエス・キリストが、
しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
と言われているときの、
分捕り品を分けます。
ということは、ご自身の十字架の死によって、私たちの罪を完全に贖ってくださって、私たちを私たちの罪がもたらす死と滅びの中から救い出してくださり、ご自身の民としてくださることを意味しているということになります。
このことは、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったことによって、すでに、私たちの間で実現しています。そのことをあかししていて、霊的な戦いとの関連を示しているみことばをいくつか見てみましょう。
コロサイ人への手紙1章13節ー14節には、
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
と記されています。かつては「強い人」が私たちをその「暗やみの圧制」のうちに縛りつけてしまっていました。しかし、今は「もっと強い者」すなわち父なる神さまの「愛する御子」が「贖い、すなわち罪の赦し」をもって、私たちをご自身の「ご支配の中に移してくださいました」。
また、ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
と記されています。かつて、私たちは「悪魔という、死の力を持つ者」の巧妙な働きによって欺かれ、また、自らの罪によって自分自身を欺いて「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた」状態にありました。主イエス・キリストは私たちと同じ「血と肉とを」もつ方、すなわち、まことの人として来てくださいました。これは、イザヤ書53章12節で、「苦難のしもべ」が「そむいた人たちとともに数えられた」と言われていることに当たります。そして、イエス・キリストは、その十字架の死をもって、私たちを罪とその結果である死の力から解放してくださり、悪魔の働きを無効なものとしてしまわれました。そして、いつでも悪魔に対する最終的なさばきを執行できる状態を生み出されました。ただし、ご自身の民を最後の一人まで救い出されるまで、すなわち、世の終わりまでその最終的なさばきを執行することを差し控えておられます。
その間、イエス・キリストは手をこまねいておられるのではありません。この14節ー15節の2節後の17節ー18節には、
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
と記されています。同様のことが、4章14節ー16節に、
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
と記されています。私たちのために十字架にかかって罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、今もなお、父なる神さまの右の座に着座されて、私たちのために「あわれみ深い、忠実な大祭司」としてのお働きを続けてくださっています。
さらに、ヨハネの手紙第一・5章18節ー20節には、
神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
と記されています。先ほどお話ししましたように、悪魔に対する最終的なさばきの執行は世の終わりまで引き延ばされています。そのために、今は、
世全体は悪い者の支配下にある
という状態にあります。悪魔は今なお「死の力を持つ者」として罪の力に縛られている人々を「一生涯死の恐怖につながれて奴隷」としてその「暗やみの圧制」の下に閉じ込めてしまっています。かつての私たちはそのような状態にありました。しかし、今は、「神から生まれた方」すなわち御子イエス・キリストが私たちを「守っていてくださるので、悪い者は」私たちに「触れることができないのです」。これは、「悪い者」すなわちサタンが私たちに対してなんの働きもできないという意味ではなく、私たちに対してどのような働きかけがなされたとしても、私たちを御子イエス・キリストと、イエス・キリストにある父なる神さまの愛から引き離すことはできないという意味です。
そのことが、ローマ人への手紙8章31節ー39節に、
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、
死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
と記されています。
今お話ししていることと関連していることを注釈をしておきますと、33節ー34節には、
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
と記されています。
33節で、
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
と言われているときの、「神に選ばれた人々を訴えるのは」サタンです。黙示録12章10節では、サタンのことが「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われています。サタンは私たちを訴えます。なぜなら、私たちには今なお罪の性質が残っており、実際に、思いとことばと行いにおいて罪を犯すからです。けれども、ここでは、
神が義と認めてくださるのです。
と言われています。その根拠は私たちのうちにはありません。御子イエス・キリストが今から2千年前に、私たちと同じ人の性質を取って来てくださって、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことにあります。イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪はすべて完全に贖われています。永遠の神の御子イエス・キリストの十字架の死は、私たちがすでに犯してしまった罪だけでなく、これから犯すであろう罪をも贖って余りある贖いとなっています。そればかりでなく、神さまは、御子イエス・キリストがその十字架の死に至るまでみこころに従い通されたことによって確立された義、すなわち、イエス・キリストの義を私たちの義と認めてくださるのです。
そのことが、同じローマ人への手紙5章18節ー19節に、
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
と記されています。ここに出てくる「ひとりの義の行為」と「ひとりの従順」とは、御子イエス・キリストが今から2千年前に、私たちと同じ人の性質を取って来てくださって、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことです。そして、このことに基づいて、私たちは罪を完全に贖っていただいていますし、神さまの御前に義と認めていただいています。これが、
神が義と認めてくださるのです。
と言われていることの意味です。
続く34節で、
罪に定めようとするのはだれですか。
と言われているときの「罪に定めようとするのは」サタンであると言いたくなりますが、サタンではありません。サタンには私たちを罪に定める権限はありません。サタンは私たちを罪に定めるようにと「日夜」すなわち「絶えず」私たちを「私たちの神の御前で訴えている者」です。けれども33節では、
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
と言われていていました。私たちを罪に定める権限をもっておられる神さまが私たちを「義と認めてくださるのです」から、私たちを罪に定める者はいない、ということになります。
ただ、これにはもう少し込み入った事情があります。ヨハネの福音書5章22節には、
父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
というイエス・キリストの教えが記されています。また27節にも、
父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。
と記されています。
このことの背景には、「最初の福音」があります。
最初の女性であるエバがサタンの誘惑によって神である主の戒めに背いて罪を犯した後、彼女の勧めを受け入れて、最初の人アダムも神である主の戒めに背いて罪を犯しました。その後、二人は罪の意識を与えられましたが、自分から罪を認め、悔い改めて神である主の御許に帰ることはできませんでした。これに対して、神である主は、サタンへのさばきの執行を宣言されましたが、それはサタンがエバを誘惑するために用いた「蛇」を用いてのさばきの宣言でした。それが創世記3章15節に、
わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。
と記されています。
この時、神である主がサタンに対する最終的なさばきを執行されて、サタンを滅ぼしてしまわれるとしたら、罪によってサタンと一つになってしまっていた最初の人アダムとその妻エバもさばきを受けて滅びてしまうことになったでしょう。そうしますと、せっかく神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、人を神のかたちにお造りになって、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったみこころは実現しないことになってしまいます。それでは、霊的な戦いにおいて、サタンが勝利することになっていまいます。
しかし、神である主は、このサタンへのさばきの宣言において、ご自身が「おまえ」と呼ばれている「蛇」すなわちサタンと「女との間に」「敵意」を置いてくださって、罪によって一つに結ばれてしまっているサタンと「女」との関係を断ち切ってくださると言われました。そればかりでなく、その「敵意」は一代で消えてしまうのではなく、さらに「おまえの子孫」の共同体と「女の子孫」の共同体にまで及ぶことが宣言されています。そして、「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方が、「おまえ」すなわちサタンにたいする最終的なさばきを執行するというみこころを示されました。この「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方こそが、人としての性質を取って来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストです。
このような歴史的な事情によって、最終的なさばきを執行する権限はイエス・キリストに委ねられています。また、このような事情のために、サタンに対する最終的なさばきは「女の子孫」の共同体に属する最後の一人が救われるまで、すなわち、終わりの日まで引き延ばされています。
では、先ほどのローマ人への手紙8章34節で、
罪に定めようとするのはだれですか。
と言われているときの「罪に定めようとするのは」イエス・キリストでしょうか。確かに、イエス・キリストは最終的なさばきを執行される方として、神さまに逆らって罪を犯しているサタンとその子孫たちを罪に定めて、それに対する刑罰を執行される権限をもっておられます。けれども、ここローマ人への手紙8章34節では、そのイエス・キリストのことが、
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
と記されています。罪に定めるべき者たちを罪に定める権限を委ねられているイエス・キリストご自身が、私たちのための罪の贖いを成し遂げられた方です。私たちの罪が完全に贖われていることをだれよりもよく知っておられる方です。このイエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、絶えず、私たちのためにとりなしをしてくださっています。これは、過去のことではなく、今も変わることなくなされていて、世の終わりまで続けてくださることです。ヘブル人への手紙7章24節ー25節に、
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
と記されているとおりです。
これらのことから、霊的な戦いの状況が理解できます。
霊的な戦いにおける勝利は、人としての性質を取って来てくださった永遠の神の御子、栄光の主であられるイエス・キリストの十字架の死によって、決定的なものとなっています。イエス・キリストは、その地上の生涯において、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて、私たちご自身の民のために義を確立してくださるとともに、その十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださいました。また、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことへの報いとして、栄光をお受けになり死者の中からよみがえられました。これによって、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して
くださり、永遠のいのちをもつ者としてくださいました。そして、
私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者
であるサタンの働きを無力なものとされました。今やサタンは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって執行されるさばきに服すべきものとなってしまいました。
この状況が、黙示録では、12章に記されています。その一部ですが、サタンの主権が砕かれてしまっていることを記している7節ー12節には、
さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」
と記されています。
ここでは、
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。
と言われています。そのように、私たちが「勝利を得る者」となることは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかることによっています。具体的には、イエス・キリストの十字架の死によって罪をまったく贖っていただいて、義と認められている者として、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包んでいただいて、恐れなく歩むことによっています。そして、イエス・キリストの復活にあずかって、新しく生まれた者として、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまを礼拝することを中心として、兄弟姉妹への愛に生きることによっています。さらには、そのことの中で福音のみことばがあかしされ、新たな主の民が「暗やみの圧制から救い出」されて「愛する御子のご支配の中に」移されるようになることによっています。
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