黙示録講解

(第163回)


説教日:2014年5月25日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1節ー7節
説教題:エペソにある教会へのみことば(10)


 ヨハネの黙示録2章1節ー7節に記されています、イエス・キリストがエペソにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。今日は、その最後の7節に記されています、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

というみことばについてお話しいたします。
 これは、1章9節ー20節に記されていますように、この時、ヨハネに栄光の御姿を現してくださったイエス・キリストが、エペソにある教会に語ってくださったみことばの最後にある約束のことばです。このような約束のことばは、この時にイエス・キリストが語りかけてくださったアジアにある七つの教会のそれぞれに与えられています。
 イエス・キリストは、最初に、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

と呼びかけておられます。この呼びかけのことばは、2章ー3章に記されていますアジアにある七つの教会のそれぞれに語られているイエス・キリストのみことばのすべてに出てきます。ただ、この呼びかけのことばが出てくる順序が違っています。最初の三つの教会へのみことばでは、約束のことばの前にありますが、後の四つの教会へのみことばでは約束のことばの後にあります。
 この呼びかけのことばは、ここでは、エペソにある教会に語られていますが、

 御霊が諸教会に言われること

と言われていますように、エペソにある教会に限らず、「諸教会に」語られています。それで、このことばによって導入されているイエス・キリストの約束のことばは、すべての教会に当てはまります。
 それはアジアにある七つの教会だけでなく、アジアにある七つの教会が象徴的に表している、歴史を通して世の終わりまで存続していくすべての時代の、すべての地域にある教会に当てはまります。そのようなわけで、地上に存在しているすべての教会は、黙示録2章ー3章に記されています、七つの約束のことばに示されているすべての約束を与えられています。
 この呼びかけのことばは、イエス・キリストがたとえをもって神の国について教えられたときのみことばを思い起こさせます。
 マルコの福音書4章では、2節ー8節に、イエス・キリストが「種まきのたとえ」をもって人々に語られたことが記されています。それに続いて、9節には、

 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

と記されています。これは、「種まきのたとえ」をもって神の国について教えられた後に、イエス・キリストが、

 聞く耳のある者は聞きなさい。

と言われたことを際立たせるものです。この、

 聞く耳のある者は聞きなさい。

ということばと黙示録2章7節の、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

ということばは互いに似ているだけでなく、同じイエス・キリストのことばとして関連しています。
 このことばを理解するヒントが同じマルコの福音書4章の10節ー12節に記されています。そこには、

さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」

と記されています。
 12節で、

それは、「彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため」です

と言われているときの「彼ら」は、イエス・キリストが、

 聞く耳のある者は聞きなさい。

と言われたときの「聞く耳」のない状態にある人々に当たります。
 ここでイエス・キリストが引用しておられる、

彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため

というみことばは、旧約聖書のイザヤ書6章9節ー10節に記されています、

 行って、この民に言え。
 「聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。」
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、
 自分の心で悟らず、
 立ち返っていやされることのないように。

という、主が預言者イザヤを遣わされた時に語られたみことばの最後の部分の引用です。主がイザヤを遣わされたのは、主が与えられる預言ののみことばを伝えるためです。でもここでは、それが、

 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、
 自分の心で悟らず、
 立ち返っていやされることのないように。

と言われています。どうして、そのようなことになってしまうのでしょうか。
 このみことばは、この時にイザヤが経験したことを受けています。イザヤ書6章1節ー4節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。
 これは幻による主からの啓示の中で起こっていることですが、ここでイザヤは栄光の主の御臨在の御前に立たせられています。「セラフィム」(サーラーフの複数形)は、「ケルビム」(ケルーブの複数形)と同じように、主の栄光の御臨在の御前で仕えている最も聖い生き物たちです。その彼らであっても、主の栄光の御臨在の御前ではその顔を上げることはできず、ひたすら、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の

と叫びつつ、主の栄光を讃えるほかはありませんでした。もちろん、彼らがこのように主を讃えることができたことは主の恵みによっています。彼らはわけも分からず、主を讃えているのではなく、主が無限、永遠、不変の栄光の主であられることを最も現実的なこととして経験して感じ取っているからこそ、このようにひれ伏して讃えているのです。それはセラフィムにとっては、この上ない幸いであり祝福でした。
 けれども、それは最も聖い生き物であるセラフィムにとってのことで、イザヤにとっては事情はまったく違いました。続く5節には、

そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。」

と記されています。これは栄光の主の御臨在の御前に立たせられてしまったイザヤが主の無限の聖さに触れたとき、自らの汚れを思い知らされ、自分が直ちに主の御前で滅ぼされてしまうことを直感して、その恐ろしさの中から叫んだことばです。私たちはその恐ろしさを実感することはできません。それは、私の経験に照らして言いますと、あちこちに雷が次々と落ちていて、自分のそばにも落ちたときの恐怖、それもかすんでしまうほどの恐怖であったはずです。
 イザヤは、

 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

と叫びました。イザヤは同じイスラエルの民の間では、人よりはすぐれたところのある人物であったことでしょう。その意味で、主により近いところにいると感じていたかも知れません。けれども、そのような、人の前での義、人との比較によって感じられる義は、無限の栄光の主の御臨在の聖さの御前では、なんの役にも立たなかったのです。後にイザヤは、64章6節で、

 私たちはみな、汚れた者のようになり、
 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

と告白しています。
 しかし、滅びの恐怖に包まれてしまっているイザヤにとって、まったく思いがけないことが起こりました。6節ー7節には、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されています。なんと、主の栄光の御臨在の御許には祭壇があり、そこには、罪の贖いが備えられていたのです。イザヤは恐ろしさのあまり思い至ることはできなかったでしょうが、主の聖所の前にある祭壇の火について、レビ記6章12節ー13節には、

祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。

と記されています。
 イザヤは古い契約の地上的なひな形である聖所と祭壇とそこでささげられる動物のいけにえが指し示していた罪の贖いの本体に当たることを経験しました。主の御臨在の御前で仕えている最も聖い生き物たちでさえ顔を上げることができない栄光の主の聖さに触れて、直ちに滅ぼされるべき自分の罪の汚れの現実に恐れおののいたイザヤに、罪の贖いの恵みが確かな現実であることが示されました。
 そのイザヤがこの主の一方的な恵みによって備えられている罪の贖いをあかしするために遣わされました。イザヤ書6章には、続く8節に、

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

と記されています。
 そのイザヤに、先ほど引用しました、

 行って、この民に言え。
 「聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。」
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、
 自分の心で悟らず、
 立ち返っていやされることのないように。

というみことばが語られたのです。
 主がその幻を通してイザヤに啓示してくださったことは、イザヤであっても、主の栄光の御臨在の御前に立たせられるなら、たちどころに滅ぼされるほかがないことを実感して恐れおののくほかはないという、自らの罪の現実と、主がご自身の御臨在の御前に、そのような者のために罪の贖いを備えてくださっているという、驚くべき恵みの事実でした。そして、この主の驚くべき恵みは、そのように自らの罪の現実を思い知らされた者、自分の義は「不潔な着物」のようなものであるということを悟ることができた者だけが受け止めることができるということでした。
 それで、自分の義がいささかでも主の御前に通用するという思いをもって、自分の良さを頼みとしている者、自分の義を誇っている者には、イザヤが伝える福音は、とても受け入れられません。実際に、人々はイザヤが語る福音のみことばに心を閉ざしてしまいます。イザヤの宣教が、

 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、
 自分の心で悟らず、
 立ち返っていやされることのないように。

というものであったのは、このような事情によっています。その意味で、イザヤの宣教は、イスラエルの民の現実をあらわにしてしまうものでした。
 これがマルコの福音書4章11節ー12節に記されています、

あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、「彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため」です。

というイエス・キリストの教えの背景にあることです。
 このイエス・キリストの教えで注目したいのは、

 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている

ということです。
 先ほどお話ししましたイザヤの経験において、イザヤが悟ったことは、主の栄光の御臨在がいかに聖なるものであるかということも、イザヤ自身の罪の現実も、そして、主の御臨在の御許にはまったくの恵みによって贖いが備えられているということも、すべて主が幻による啓示によってイザヤに示してくださり、イザヤ自身のこととして悟らせてくださったことです。それは、

 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている

というイエス・キリストのみことばと同じように、イザヤに「知らされたこと」でした。


 イザヤが幻による啓示によって示された、主の御臨在の御許にはまったくの恵みによって贖いが備えられているということは、主の御臨在の御前の祭壇に、主の契約の民のための贖いをするいけにえが備えられているということでした。そのいけにえとは、イザヤにとっては、後に、イザヤ自身が預言のみことばとしてあかしするようになる、52章13節ー53章12節に記されています「主のしもべの第4の歌」として知られているみことばに出てくる「苦難のしもべ」です。この「苦難のしもべ」について53章4節ー6節には、

 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

と記されています。
 イザヤは、その「苦難のしもべ」こそは栄光の主であられるということを預言的に示しています。52章13節には、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と記されています。もちろん、これも主がイザヤに啓示してくださったことであり、イザヤに「知らされたこと」、「与えられたこと」でした。
 そして、新約聖書は、イザヤが預言的にあかししている「苦難のしもべ」が、人としての性質を取って来てくださった栄光の主、イエス・キリストであることをあかししています。イザヤが幻による啓示を通して示された、主の栄光の御臨在の御許にある祭壇の上でほふられたいけにえの本体は、この人としての性質を取って来てくださって、その地上の生涯の終わりに、十字架にかかってご自身の契約の民の罪を完全に贖ってくださった栄光の主、イエス・キリストです。
 ユダヤ人たちがイエス・キリストを信じなかったこととの関わりで、イザヤ書6章に記されているイザヤの経験とイザヤの宣教のことに触れている、ヨハネの福音書12章39節ー41節には、

彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

と記されています。
 ここでヨハネが引用している、

主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。

というみことばは、先ほど引用しましたイザヤ書6章10節に記されているみことばです。ヨハネは、イザヤ書6章に記されている幻による啓示を通して、イザヤに示された栄光の主とはイエス・キリストのことであり、あの時、イザヤはイエス・キリストの栄光を見たとあかししています。
 これらのことすべてを考え合わせて総合して言いますと、イザヤが見た高い王座に着座しておられる栄光の主も、その主の御臨在の御許にある祭壇においてほふられているいけにえも、イエス・キリストであったということになります。
 そのことは、これに先立つ、37節ー38節に、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。

と記されていることからもうかがわれます。ここでヨハネが引用しているイザヤの、

主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか

ということばは、先ほど触れました「苦難のしもべ」のことを預言的に記しているイザヤ書52章13節ー53章12節の中の「苦難のしもべ」の苦難のことを記し始める53章1節に記されている、

 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。

というみことばです。
 これに先立ってイザヤは先ほど触れました52章13節で、この「苦難のしもべ」のことを、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と預言しています。ここには、主から「わたしのしもべ」と呼ばれている主のしもべ、すなわち「苦難のしもべ」が高められることを表す三つのことばが出てきます。そのうちの最初の二つのことばは、6章1節に、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と記されているときの、「高く」と「あげられた」と訳されていることばと同じです。52章13節の主のしもべについてのみことばでは、この二つのことばに加えて「非常に高くなる」ということばが付け加えられています。このように同義語を、6章1節のように二つでなく、三つ重ねることによって、このうえなく高くなることが示されています。これによって、この主のしもべこそが6章においてイザヤが幻による啓示を通して示された、「高くあげられた王座に座しておられる主」であることが示されています。そして、イザヤは、この主のしもべが主の民の罪の贖いのために砕かれる「苦難のしもべ」であることを預言的に示しています。
 ヨハネは12章37節ー41節で、ユダヤ人がイエス・キリストを信じなかったことを記していますが、それに先立って、同じ12章の20節ー33節には、イエス・キリストが「一粒の麦」(24節)のように、また「地上から上げられる」(32節ー33節)形で死なれること、すなわち、十字架にかかって死なれることを通して、父なる神さまの栄光が豊かに現されるようになるということが記されています。このことからも、ヨハネがイザヤはイエス・キリストの栄光を見たと言っているときの栄光は、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死なれたことに現されているイエス・キリストの栄光のことであることが分かります。繰り返しになりますが、主が幻による啓示を通して示してくださったので、イザヤはイエス・キリストの栄光を前もって見ることができました。それはイザヤが自分の力でつかんだことではなく、まったくの恵みによって、イザヤに知らされたこと、与えられたことです。

 マルコの福音書4章に戻りますが、11節で、イエス・キリストは弟子たちに、

 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている

と言われました。これも、主の一方的な恵みによって、弟子たちに知らされているという意味です。聖書の中では、また、それはその当時の発想でしたが、「神の国」というときの「」は、今日の「国」ということばが示している領域的に「領土」を意味するだけでなく、機能的に「王の統治」や「王の支配権」を表します。通常、レキシコン(古代語の辞書)に最初に出てくるのは、この機能的な意味の方です。ですから、イエス・キリストが御国の王として統治しておられることにおいて、「神の国」が成立しています。
 ルカの福音書11章20節に記されています、

しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。

というイエス・キリストの教えは、この意味で理解することができます。
 また、同じルカの福音書の17章20節ー21節に、

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

と記されている中にあるイエス・キリストの教えも、同じように理解することができます。
 これは、神の国が私たちの心の内にあるという意味ではありません。というのは、ここで、

 神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

と言われているときの「あなたがた」は、「神の国はいつ来るのか」とイエス・キリストに尋ねた「パリサイ人たち」で、「神の国」は、少なくともこの時は、彼らのものとなってはいないからです。ここでイエス・キリストは、イエス・キリストがそこにおられて、御業をなさっておられることにおいて神の国がある、ということを示しておられます。パリサイ人たちは、どこかほかのところを探したりする必要はなく、イエス・キリストとその御業を見ればよいということです。
 このように、神の国はイエス・キリストがメシヤとしての主権を行使しておられるところに成立しています。それで、神の国の奥義を知るということは、イエス・キリストがどなたであるかを知ることです。しかし、イエス・キリストがどなたであるかを知ることは、主の恵みによることであり、知らされることです。
 マタイの福音書16章15節ー17節には、

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

と記されています。これは、弟子たちが最初にイエス・キリストこそが父なる神さまから遣わされたメシヤであることを告白したときのことです。この時は、弟子たちを代表してペテロが告白したのですが、イエス・キリストは、それはペテロの力による悟りではなく、父なる神さまがペテロに示してくださったことだと教えておられます。これは、イエス・キリストが弟子たちに、

 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている

と言われたことの現れです。
 このことに照らして見ますと、イエス・キリストが、「種まきのたとえ」を語られた後に、

 聞く耳のある者は聞きなさい。

と言われたことの意味が見えてきます。イエス・キリストが弟子たちに、

 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている

と言われたことは、また、イエス・キリストが弟子たちに「聞く耳」をも与えてくださるということを意味しています。
 先ほど、イエス・キリストのことを、

 あなたは、生ける神の御子キリストです。

と告白したペテロは、イエス・キリストが続いて、ご自身の苦難と死について予告された時には、即座に、また、強くそれを否定しました。その時のペテロには、また、ほかの弟子たちには、まだ十分に「聞く耳」がありませんでした。それは、やがてイエス・キリストが十字架におかかりになって、ご自身の民のために罪の贖いを成し遂げられ、ご自身の民を永遠のいのちに生きるものとしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった後に、その御業に基づいて、与えられるものでした。
 より具体的には、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、父なる神さまの右の座に着座されて、そこから遣わしてくださった御霊が、私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださり、復活のいのちに生かしてくださり、「聞く耳」をもつ者としてくださいます。コリント人への手紙第一・2章14節には、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

と記されています。
 これらのことから、黙示録2章7節で、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

と言われているときの「御霊」は、ここで祝福の約束を語ってくださっているだけでなく、それを聞く者たちに「聞く耳」をも与えてくださり、その約束を信じて待ち望むようにしてくださる方であると考えられます。そしてこれが、ここで、

 御霊が諸教会に言われること

というように「御霊が言われる」と言われていることの意味でしょう。これは、ローマ帝国による迫害の嵐がまずます激しくなってきている状況にあるエペソにある教会にとっては、そのような厳しい状況の中で、御霊が、イエス・キリストのみことばに聞き従い、約束のみことばを受け取り、その望みのうちに歩むように導いてくださるということです。まさに、栄光のキリストが恵みによってなしてくださっていることでした。


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