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説教日:2014年5月25日 |
イザヤが幻による啓示によって示された、主の御臨在の御許にはまったくの恵みによって贖いが備えられているということは、主の御臨在の御前の祭壇に、主の契約の民のための贖いをするいけにえが備えられているということでした。そのいけにえとは、イザヤにとっては、後に、イザヤ自身が預言のみことばとしてあかしするようになる、52章13節ー53章12節に記されています「主のしもべの第4の歌」として知られているみことばに出てくる「苦難のしもべ」です。この「苦難のしもべ」について53章4節ー6節には、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を 彼に負わせた。 と記されています。 イザヤは、その「苦難のしもべ」こそは栄光の主であられるということを預言的に示しています。52章13節には、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と記されています。もちろん、これも主がイザヤに啓示してくださったことであり、イザヤに「知らされたこと」、「与えられたこと」でした。 そして、新約聖書は、イザヤが預言的にあかししている「苦難のしもべ」が、人としての性質を取って来てくださった栄光の主、イエス・キリストであることをあかししています。イザヤが幻による啓示を通して示された、主の栄光の御臨在の御許にある祭壇の上でほふられたいけにえの本体は、この人としての性質を取って来てくださって、その地上の生涯の終わりに、十字架にかかってご自身の契約の民の罪を完全に贖ってくださった栄光の主、イエス・キリストです。 ユダヤ人たちがイエス・キリストを信じなかったこととの関わりで、イザヤ書6章に記されているイザヤの経験とイザヤの宣教のことに触れている、ヨハネの福音書12章39節ー41節には、 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。 と記されています。 ここでヨハネが引用している、 主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。 というみことばは、先ほど引用しましたイザヤ書6章10節に記されているみことばです。ヨハネは、イザヤ書6章に記されている幻による啓示を通して、イザヤに示された栄光の主とはイエス・キリストのことであり、あの時、イザヤはイエス・キリストの栄光を見たとあかししています。 これらのことすべてを考え合わせて総合して言いますと、イザヤが見た高い王座に着座しておられる栄光の主も、その主の御臨在の御許にある祭壇においてほふられているいけにえも、イエス・キリストであったということになります。 そのことは、これに先立つ、37節ー38節に、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。 と記されていることからもうかがわれます。ここでヨハネが引用しているイザヤの、 主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか ということばは、先ほど触れました「苦難のしもべ」のことを預言的に記しているイザヤ書52章13節ー53章12節の中の「苦難のしもべ」の苦難のことを記し始める53章1節に記されている、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現れたのか。 というみことばです。 これに先立ってイザヤは先ほど触れました52章13節で、この「苦難のしもべ」のことを、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と預言しています。ここには、主から「わたしのしもべ」と呼ばれている主のしもべ、すなわち「苦難のしもべ」が高められることを表す三つのことばが出てきます。そのうちの最初の二つのことばは、6章1節に、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と記されているときの、「高く」と「あげられた」と訳されていることばと同じです。52章13節の主のしもべについてのみことばでは、この二つのことばに加えて「非常に高くなる」ということばが付け加えられています。このように同義語を、6章1節のように二つでなく、三つ重ねることによって、このうえなく高くなることが示されています。これによって、この主のしもべこそが6章においてイザヤが幻による啓示を通して示された、「高くあげられた王座に座しておられる主」であることが示されています。そして、イザヤは、この主のしもべが主の民の罪の贖いのために砕かれる「苦難のしもべ」であることを預言的に示しています。 ヨハネは12章37節ー41節で、ユダヤ人がイエス・キリストを信じなかったことを記していますが、それに先立って、同じ12章の20節ー33節には、イエス・キリストが「一粒の麦」(24節)のように、また「地上から上げられる」(32節ー33節)形で死なれること、すなわち、十字架にかかって死なれることを通して、父なる神さまの栄光が豊かに現されるようになるということが記されています。このことからも、ヨハネがイザヤはイエス・キリストの栄光を見たと言っているときの栄光は、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死なれたことに現されているイエス・キリストの栄光のことであることが分かります。繰り返しになりますが、主が幻による啓示を通して示してくださったので、イザヤはイエス・キリストの栄光を前もって見ることができました。それはイザヤが自分の力でつかんだことではなく、まったくの恵みによって、イザヤに知らされたこと、与えられたことです。 マルコの福音書4章に戻りますが、11節で、イエス・キリストは弟子たちに、 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている と言われました。これも、主の一方的な恵みによって、弟子たちに知らされているという意味です。聖書の中では、また、それはその当時の発想でしたが、「神の国」というときの「国」は、今日の「国」ということばが示している領域的に「領土」を意味するだけでなく、機能的に「王の統治」や「王の支配権」を表します。通常、レキシコン(古代語の辞書)に最初に出てくるのは、この機能的な意味の方です。ですから、イエス・キリストが御国の王として統治しておられることにおいて、「神の国」が成立しています。 ルカの福音書11章20節に記されています、 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。 というイエス・キリストの教えは、この意味で理解することができます。 また、同じルカの福音書の17章20節ー21節に、 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」 と記されている中にあるイエス・キリストの教えも、同じように理解することができます。 これは、神の国が私たちの心の内にあるという意味ではありません。というのは、ここで、 神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。 と言われているときの「あなたがた」は、「神の国はいつ来るのか」とイエス・キリストに尋ねた「パリサイ人たち」で、「神の国」は、少なくともこの時は、彼らのものとなってはいないからです。ここでイエス・キリストは、イエス・キリストがそこにおられて、御業をなさっておられることにおいて神の国がある、ということを示しておられます。パリサイ人たちは、どこかほかのところを探したりする必要はなく、イエス・キリストとその御業を見ればよいということです。 このように、神の国はイエス・キリストがメシヤとしての主権を行使しておられるところに成立しています。それで、神の国の奥義を知るということは、イエス・キリストがどなたであるかを知ることです。しかし、イエス・キリストがどなたであるかを知ることは、主の恵みによることであり、知らされることです。 マタイの福音書16章15節ー17節には、 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。 と記されています。これは、弟子たちが最初にイエス・キリストこそが父なる神さまから遣わされたメシヤであることを告白したときのことです。この時は、弟子たちを代表してペテロが告白したのですが、イエス・キリストは、それはペテロの力による悟りではなく、父なる神さまがペテロに示してくださったことだと教えておられます。これは、イエス・キリストが弟子たちに、 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている と言われたことの現れです。 このことに照らして見ますと、イエス・キリストが、「種まきのたとえ」を語られた後に、 聞く耳のある者は聞きなさい。 と言われたことの意味が見えてきます。イエス・キリストが弟子たちに、 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている と言われたことは、また、イエス・キリストが弟子たちに「聞く耳」をも与えてくださるということを意味しています。 先ほど、イエス・キリストのことを、 あなたは、生ける神の御子キリストです。 と告白したペテロは、イエス・キリストが続いて、ご自身の苦難と死について予告された時には、即座に、また、強くそれを否定しました。その時のペテロには、また、ほかの弟子たちには、まだ十分に「聞く耳」がありませんでした。それは、やがてイエス・キリストが十字架におかかりになって、ご自身の民のために罪の贖いを成し遂げられ、ご自身の民を永遠のいのちに生きるものとしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった後に、その御業に基づいて、与えられるものでした。 より具体的には、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、父なる神さまの右の座に着座されて、そこから遣わしてくださった御霊が、私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださり、復活のいのちに生かしてくださり、「聞く耳」をもつ者としてくださいます。コリント人への手紙第一・2章14節には、 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 と記されています。 これらのことから、黙示録2章7節で、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 と言われているときの「御霊」は、ここで祝福の約束を語ってくださっているだけでなく、それを聞く者たちに「聞く耳」をも与えてくださり、その約束を信じて待ち望むようにしてくださる方であると考えられます。そしてこれが、ここで、 御霊が諸教会に言われること というように「御霊が言われる」と言われていることの意味でしょう。これは、ローマ帝国による迫害の嵐がまずます激しくなってきている状況にあるエペソにある教会にとっては、そのような厳しい状況の中で、御霊が、イエス・キリストのみことばに聞き従い、約束のみことばを受け取り、その望みのうちに歩むように導いてくださるということです。まさに、栄光のキリストが恵みによってなしてくださっていることでした。 |
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