![]() |
説教日:2014年5月4日 |
これらのこととの関連で、さらに、一つのことを考えておきたいと思います。 私たちがなじんでいる警告には二つの種類があります。 一つは、ある種の威嚇としての警告です。たとえば、子どもがなかなか言うことを聞かないで、いつまでたってもお片づけをしない時に、「あと十数えるまでにしないと、おやつをあげませんよ」というような警告です。この子どもに対する警告では、子どもがお片づけをしないことと、おやつを食べられなくなることとの間には、因果関係のような、直接的な関連性がありません。この場合の警告は、お片づけをしないことをに対する罰を与えるということで、ある種の威嚇です。このような警告はそれとしての意味をもっています。それによって、その警告されていることが大切なことであることを示しています。もっとも、私たち人間の場合には、警告を与える強い立場にある者のエゴがからんでいる場合もあって、少し複雑ですが・・・。 これに対して、警告の中には、取り上げられている問題と警告されていることの間に、因果関係のような関連性がある場合があります。たとえば期末試験が目前に迫ってきているのに、遊び歩いている子どもに向かって、そのようなことをしていると、試験が無残な結果になると警告することは、直接的な関連性があることを警告することです。 ここで、イエス・キリストがそれぞれの教会に悔い改めないことに対する警告を与えておられることは、この2種類の警告のうちの後の方のものに当たると考えられます。そのことを理解するうえで、うってつけの事例が、これら五つの教会に対する警告のうちで、いちばん最初に出てくる、エペソにある教会へのみことばに見られる、 もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 という警告です。後ほどお話ししますがこの警告は教会の存在そのものが失われてしまうことを意味していると考えられます。 これまでお話ししてきましたように、この警告は、 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 という指摘に基づいてなされた、 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。 という戒めを受けてなされた警告です。確かに、エペソにある教会が「初めの愛」から離れてしまったことは、イエス・キリストが、 わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 と警告されるほど重大な問題であるということを意味しています。「事の重大さ」であれば、先ほどお話ししました2種類の警告のうちの最初の警告でも示すことができます。しかし、このイエス・キリストの警告は、事の重大さを示しているだけではありません。さらに、その警告が示しているように、エペソにある教会が「初めの愛」から離れてしまったことによって、教会がキリストのからだである教会としての本質的な特性を失ってしまうようになることをも示しています。 このことから、イエス・キリストがそれぞれの教会に警告を与えてくださっていることの意味が見えてきます。 どのような理由によってであるかは分かりませんが、エペソにある教会は「初めの愛」から離れてしまいました。それが「初めの愛」と言われていますように、もともとエペソにある教会は愛の共同体として形成されました。そして、時間の経過とともに、その「初めの愛」が失われていきました。 「初めの愛」が失われていったといいましたが、すでにお話ししましたように、ここでは、エペソにある教会の信徒たちが「初めの愛」を「捨ててしまった」と言われています。それは、自然となくなっていったものではありません。けれども、それはイエス・キリストがそのようにご覧になっておられるということで、エペソにある教会の信徒たち自身がそのことを自覚できているとは限りません。私たちだれもが気づいていることですが、「自分のことは自分がいちばんよく知っている」ということは一面的な主張であって、「自分のことは自分がいちばんよく分かっていない」という一面もあります。 ここでイエス・キリストが、エペソにある教会の信徒たちが「初めの愛」を捨ててしまっていることを指摘しておられることからしますと、エペソにある教会の信徒たちは、その事実にも気づいていなかった可能性があります。少なくとも、その事実に薄々気づいていたとしても、それがどれほど深刻なものであるかには気づいていなかったと考えられます。そのようなことから、ここで、イエス・キリストは、その事実を指摘されただけでなく、 わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 と警告されることによって、教会が「愛」を捨ててしまうことは、教会がキリストのからだである教会としての本質的な特性を失ってしまうことを意味していることを明らかにしておられるのです。 ですから、この警告には、エペソにある教会の信徒たちが自分たちの問題が何であるかを理解するために必要な助けを与えるという、その意味での「教育的な」意味があります。ただエペソにある教会の信徒たちが「初めの愛」を捨ててしまっているという事実だけでなく、それがキリストのからだである教会としての本質的な特性を捨ててしまうことであるという、問題の意味をも示してくださっているのです。これによって、エペソにある教会の信徒たちは、イエス・キリストが与えておられる警告が示しているさばきが怖くて悔い改めるのではなく、問題の本質を理解して悔い改めるように導かれています。 このこと、すなわち、イエス・キリストが与えておられる警告には教育的な意味があるということは、イエス・キリストが先ほどの五つの教会のそれぞれに与えておられる警告にも当てはまります。もちろん、すぐにそれとして分かる場合とそうでない場合があります。いずれにしましても、主が求めておられる罪の悔い改めは、ただ、それに対する主のさばきが恐ろしいからということだけでなされる悔い改めではありません。その罪がどのようなことであるかをみことばの光と御霊のお導きによって悟って、悔い改めることです。 どうしてそのようなことが必要であるかと言いますと、少なくとも二つの理由があります。 一つには、私たちは分かっていないこと、気づいていないことを悔い改めることができないからです。イエス・キリストがアジアにある五つの教会のそれぞれに対して、「非難すべきこと」を指摘しておられるのもそのためです。 もう一つには、私たちは明確な罪であっても、それがどのようなことであるかを、よく分かっているとは限らないからです。 このことは少し分かりにくいかと思いますので、簡単に説明しますと、私自身のことを振り返ってみましても、偶像礼拝は、造り主である神さまのみにささげるべき礼拝を、罪ある人間が考え出した「神ではないも」のにささげることですので、神さまの栄光を貶(おとし)め、聖さを冒すことであるということは、それなりに分かっていました。けれども、そればかりでなく、偶像礼拝は神のかたちに造られている自分自身の尊厳性を損なうことであるということは、人が神のかたちに造られていることの意味が分かるようになって気づいたことです。どういうことかと言いますと、造り主である神さまは、人をこの世界において、ご自身を代表し、現すものとして、神のかたちにお造りになりました。ですから、神さまが神のかたちにお造りになったもの以下のもので、神さまを表してはいけないのです。自らの存在と働きにおいて、神さまを代表し、現すものであることに神のかたちとしての人の尊厳があります。人が神のかたちに造られていることの意味はこれだけではありませんが、今は、偶像礼拝の問題を考えていますので、このことだけを取り上げています。人は偶像を拝むことによって、造り主である神さまを神としてあがめることを否定しているばかりでなく、神のかたちに造られている人としての尊厳性を根本から損なっています。私は自分がかつては造り主である神さまを神として礼拝していなかったことを認めて悔い改めた者ですが、それが神のかたちに造られている自分自身の尊厳性をも損なうことであったことには気づいていませんでした。そのようなことも、気づいたときに改めて、悔い改める必要がありました。 エペソにある教会に対するイエス・キリストの警告は、 わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 というものです。 この警告については、二つのことが問題となっています。 一つは、 わたしは、あなたのところに行って というイエス・キリストのことばの意味です。この場合の、「行って」と訳されていることば(動詞・エルコマイ)は、現在時制で表されています。 この「行って」と言われていることをめぐっては、見方が二つに別れています。 一つは、終わりの日にイエス・キリストが再臨されることを指しているという理解です。 この理解の根拠は次のようなものです。1章ー3章には、この「行って」と訳されていることば(エルコマイ)が、ここを含めて7回出てきます。このことばは、英語のcomeと同じように、前後の関係から、「行く」とも「来る」とも訳すことができます。この理解をする人々は、ここ以外の個所では、すべて終わりの日におけることを指しているから、ここでも、終わりの日における主の再臨を指していると主張します。これと付随して、黙示録では、イエス・キリストの再臨が差し迫ったこととして示されているということが指摘されています。さらに、ここ2章5節では、「行って」と訳されていることばが現在時制で表されていることも、これが終わりの日におけることであることを示唆していると主張されています。 ただこの主張には問題があります。ここで「行って」と訳されていることばが出てくるこの他の個所を見てみましょう。 1章4節では、父なる神さまのことが、 今いまし、昔いまし、後に来られる方 と言われています。 1章7節では、イエス・キリストのことが、 見よ、彼が、雲に乗って来られる。 と言われていますし、続く8節では、神である主のことが、 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者 と言われています。 また、2章16節に、 もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 と記されています。 そして、3章10節には、 わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。 と記されていますし、続く11節には、 わたしは、すぐに来る。 と記されています。 確かに、これらの個所のほとんどが、終わりの日に主が来られること、あるいは、それにかかわることを述べています。けれども、1章に出てくる三つのことのうちの、二つは、 今いまし、昔いまし、後に来られる方 というみことばですが、これは神である主の御名に当たりますから、2章5節で、イエス・キリストが、 わたしは、あなたのところに行って、 と言われたことの背景となってはいますが、そのことと直接的にかかわっているわけではありません。 問題は、2章5節で、イエス・キリストが、 わたしは、あなたのところに行って、 と言われたことと同じように、アジアにある七つの教会に対して語られたみことばの中でどうなっているかということです。確かに、3章10節に記されています、 全世界に来ようとしている試練 は終わりの日に起こることを指していますし、続く11節に記されています、 わたしは、すぐに来る。 ということは、イエス・キリストの再臨を指しています。 けれども、2章16節に記されています、 もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 ということは、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨のことを指していると言い切ることはできません。むしろ「あなたのところに行き・・・彼らと戦おう」と言われていますように、来られるイエス・キリストが念頭に置いておられる対象者が限定的ですので、これは、終わりの日における再臨のことではない可能性の方が高いと思われます。同じように、2章5節に記されています、エペソにある教会へのみことばでも、 わたしは、あなたのところに行って、 というように、「あなたのところに」という限定があります。 また、2章5節で、 わたしは、あなたのところに行って、 と言われているときの「行って」と訳されていることばが現在時制で表されていることは、将来そのことが起こることが確かなことであることを示しています。けれども、これは終わりの日の再臨の確かさを指し示すものではありません。というのは、この場合の「行って」はこの後で、 あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 と言われていることにつながっているからです。エペソにある教会の信徒たちが悔い改めたなら、 あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 と言われていることは起こりません。その場合には、 わたしは、あなたのところに行って、 と言われていることも起こらないことになります。ですから、「行って」と訳されていることばが現在時制で表されていることは、エペソにある教会の信徒たちが悔い改めない場合に、主が「必ず」来られてさばきを執行されるということを伝えているのです。 これらのことから、ここでは、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨のことではなく、もう一つの見方である、歴史の中でイエス・キリストがさばきのためにご臨在されることを意味していると考えられます。 もう一つの問題は、イエス・キリストが、 あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう と言われたことが何を意味しているかということです。 これについても見方が二つあります。一つは、エペソにある教会がもはや主をあかしする使命を果たすことができないようになるということを意味していると理解するものです。もう一つは、教会の存在そのものが取り去られてしまうことを意味しているという見方です。 この二つの見方のうち、後の方の見方である、教会の存在そのものが取り去られてしまうことは、もう一つの見方である、教会がもはやイエス・キリストをあかしする使命を果たすことができないようになることを含んでいます。教会の存在そのものがなくなってしまえば、イエス・キリストをあかしすることはできなくなるからです。ですから、教会の存在そのものが取り去られてしまうことの方が、より厳しいさばきを意味しています。 この点に関しては、特に、先週お話ししましたことから分かりますが、教会が愛を捨ててしまうということは、教会がイエス・キリストをあかしすることができなくなることはもちろんのことですが、そればかりではなく、もはや教会がキリストのからだである教会としての本質的な特性をもたなくなることを意味しています。 また、ここで、イエス・キリストは、ただ、 わたしは・・・あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう と言われただけでなく、わざわざ、 わたしは、あなたのところに行って、 と言われたことは、イエス・キリストがこのさばきを執行するためにご臨在されるということで、このさばきの厳しさを物語っています。しかも、それが現在時制で表されていて、必ずそうなさるという強い意志を示していることは、よりいっそう、さばきの厳しさを示唆しています。 これらのことから、これはエペソにある教会の存在そのものが失われてしまうことを意味していると考えられます。 けれども、使徒教父[使徒との直接的な交流があったとされる教父]であるイグナティオス(イグナティウス)によりますと、エペソにある教会は「賞賛に値する」教会であったようですから、このイエス・キリストのみことばを受け入れて悔い改めて「初めの愛」を取り戻したようです。 |
![]() |
||