黙示録講解

(第159回)


説教日:2014年4月27日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1節ー7節
説教題:エペソにある教会へのみことば(6)


 先々主日には春の伝道集会、先主日には復活節の礼拝をしましたので、黙示録からのお話は2週空いてしまいました。今日は黙示録に戻りまして、お話を続けます。2章1節ー7節には、イエス・キリストが、ヨハネを通してエペソにある教会に語られたみことばが記されています。そこには、

エペソにある教会の御使いに書き送れ。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。『わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。』」

と記されています。
 前回は、4節ー5節に記されています、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

というみことばの初めの部分で、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

と言われていることについてお話ししました。
 いつものように、すでにお話ししたことを簡単に振り返りながら、補足しておきます。
 イエス・キリストはこれに先立って、エペソにある教会の賞賛されるべきことについて語ってくださっています。それは、エペソにある教会の信徒たちがにせ使徒たちの「偽りを見抜いたこと」と、そのために、たゆむことなく忍耐したことです。そのような賞賛すべきことを取り上げてくださった後で、「非難すべきこと」を指摘してくださっています。そして、その後に、

しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

と言われて、再び賞賛すべきことについて語っておられます。
 ここにはまことの牧会者としてのイエス・キリストのご配慮があります。私たちの傾向として、人に大きな欠点があった場合、それが目に付いて、その他の長所を公平に見ることができなくなってしまいがちです。特に、その欠点が自分に害をもたらしたり、不快な思いをさせたりする場合にはそうです。
 イエス・キリストはご自身のみからだである教会のかしらとして、エペソにある教会にある「非難すべきこと」を指摘しておられます。その「非難すべきこと」については、

もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

と言われています。これにつきましては、改めてお話ししますが、深刻な結果に至ることです。イエス・キリストはそのような重大な問題があることをご存知ですが、そうであるからといって、賞賛すべきことを無視してしまってはおられません。むしろ、賞賛すべきことを先に取り上げてから、「非難すべきこと」を取り上げ、さらにその後で、賞賛すべきことを取り上げておられます。
 また、その逆のこともあります。イエス・キリストは賞賛すべきことを認めてくださって、それを推奨してくださいますが、そのために、欠けていることをいい加減に取り扱うことはなさいません。ただし、後ほどお話ししますが、ここで、また、その他の個所でイエス・キリストが「非難すべきこと」として問題としておられることは、それがキリストのからだである教会の本質に関わることであり、それを放置するなら、教会がキリストのからだとしての本質を失ってしまうからです。その意味で、この「非難すべきこと」の指摘は、牧会的な配慮から出ています。
 ですから、イエス・キリストはご自身の目にとまる教会の欠点をすべて数え上げて、告発しておられるわけではありません。そのようなことをするのは、同じ黙示録12章10節において、

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者

と言われているサタンであって、イエス・キリストは私たちのためのあわれみ深い大祭司として、私たちすべてのために、それゆえにキリストのからだである教会のためにとりなしてくださっています。ローマ人への手紙8章34節ー35節に、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されているとおりです。
 イエス・キリストはエペソにある教会が

 初めの愛から離れてしまった。

と言っておられます。その「初めの愛」の愛が神である主への愛なのか、神の家族の兄弟姉妹への愛なのかが問題となっています。結論的に言いますと、聖書の教えでは、その二つは一つのことの裏表の関係にあり、決して切り離すことができません。そのことを踏まえたうえでのことですが、ここでは、私たちが神である主の愛と恵みに包んでいただいて、お互いに愛し合う愛が前面に出ていると考えられます。その愛が失われてしまうなら、神である主への愛も失われていることになります。ヨハネの手紙第一・4章20節に、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

と記されているとおりです。
 エペソにある教会において「初めの愛」が失われてしまった原因も問題となっています。イエス・キリストが、

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

と語りかけておられますから、その原因を知ることは大切なことです。ただし、それは当事者である人々、この場合は、エペソにある教会の信徒たちにとって、その原因を知ることが大切であるという意味です。
 その原因について、一般的には、エペソにある教会の信徒たちがにせ使徒たちの「偽りを見抜いたこと」に関連していると考えられています。にせ使徒たちの「偽りを」見抜くためにお互いを疑ってかかるようになってしまったために愛が冷えてしまったとか、知的なことばかりが強調されたために冷たくなって、愛が失われたとか、にせ使徒たちの「偽りを」見抜くことが目的化してしまい、神である主への愛が失われて、主ご自身を目的とすることがおろそかになってしまったとか、いくつかの説明がなされています。けれども、エペソにある教会が置かれている状況の厳しさと複雑さを視野に入れないで、このことを考えることは、エペソにある教会に対して公平ではないと考えられます。一般的な見方とは別の可能性も考えられます。
 そのようなわけで、エペソにある教会において「初めの愛」が失われた原因については示されていないと考えた方がいいと思われます。それはエペソにある教会の信徒たちが主の御霊のお導きに信頼して、自らを省みて、悔い改めるべきことでした。同じことは、私たちにも当てはまります。私たちの間から「初めの愛」が失われる原因はいくらでもありえます。私たちの間から「初めの愛」が失われてしまうようなことがあった場合には、それを単純化してしまって、真相を見失うことがないようにしたいものです。


 イエス・キリストは「初めの愛」を失ってしまったエペソにある教会に対して、

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

と命じておられます。ここで「どこから落ちたかを思い出し」と言われているときの「思い出しなさい」ということばは(現在時制の命令形で)、常に思い起こし続けることを求める意味合いがあります。また、この場合の「思い出す」ということばは、思い出したことを行動に移すという意味合いがあります。
 このことは、神さまがご自身の契約を思い出してくださると言われていることから、よりよく理解できます。創世記9章15節には、

わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。

という神さまがノアとその息子たちに語られたみことばが記されています。ここで神さまが「わたしの契約を思い出す」と言われたのは、忘れていたことを思い出すという意味ではありません。神さまは何かを忘れることはありません。これは、ご自身の契約に約束されたことを実行されるということです。
 人の場合には、忘れることがありますので、一般的な意味として、忘れていたこと、あるいは、おぼろげになっていることを思い出すという意味があります。しかし、エペソ人への手紙2章5節でイエス・キリストが述べておられることは、ただ単に、記憶を呼び覚ますということではなく、思い出したことに沿って、生きる姿勢を変えたり、行動を起こすことを意味しています。それは、私たちがしなければならないことを忘れていて、「あっ、そうだった」と「思い出す」ことは、思い出したことを行うことにつながっているのと同じです。
 エペソにある教会の信徒たちの場合は、思い出すことが「どこから落ちたか」ということですので、この後に、

 悔い改めて、初めの行いをしなさい

と言われています。これは(不定過去時制命令形で)緊急性を示唆していると考えられます。
 ここでは、「悔い改めて、初めの愛」を取り戻しなさい、と言われることが期待されますが、

 初めの行いをしなさい

と言われています。もちろん、これは「初めの愛」を取り戻しなさい、ということですが、それが具体的な形で現れてくることを求めています。ヨハネの手紙第一・3章16節で、ヨハネは、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と述べた後に、17節ー18節で、

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

と勧めています。愛を単なる気持ちのこととしないで、さらには、「ことばや口先だけで愛する」のでもなく、「行いと真実をもって」愛するように戒められています。このように、「行いと真実をもって」愛することが、

 初めの行いをしなさい

と言われていることの意味です。
 ヨハネの手紙第一・3章17節では、貧しい兄弟姉妹を顧みるべきことが取り上げられていますが、より広くは、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に記されています、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

ということになります。主がそれぞれに委ねてくださった賜物を生かして、兄弟姉妹たちの徳を高めるために仕えていくことです。
 このことをさらに具体的に述べているのは、ペテロの手紙第一・4章7節ー11節です。そこには、

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

と記されています。
 このように、愛をもって互いに仕え合うことには目的があります。それは、ペテロが、

それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

と述べていることが、実現するようになることです。

 これが究極的な目的ですが、その目的が実現するようになるときに、私たちの間に二つのことが実現するようになります。
 第一に、私たちが愛をもって互いに仕え合うことによって、私たち自身のうちに愛が根づくようになります。先ほど、私たちがそれぞれに与えられている賜物をもって、兄弟姉妹たちの徳が高められるように仕えると言いましたが、それは兄弟姉妹たちの徳を高めるようになると同時に、自分自身のうちに愛が現実的に根づき、成長するようになるのです。
 それによって、ローマ人への手紙8章28節ー30節に、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されている、神さまが私たちを「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ということが実現するようになります。イエス・キリストこそが地上において、最も豊かに神さまの栄光を現された方です。神さまのみこころは、私たちがそのイエス・キリストの「かたちと同じ姿に」なることです。
 30節で、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われていますように、そのすべては神さまがなしてくださったことです。イエス・キリストは私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださり、私たちを栄光あるいのちに生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。神さまはそのイエス・キリストを信じる私たちを、義と認めてくださいました。そして、御霊によって、私たちをイエス・キリストの栄光のみかたちと「同じ姿に」造り変えてくださっています。そのことは、私たちが御霊に導いていただいて、愛をもって互いに仕え合うことをとおして私たちの現実となっていきます。
 これは、父なる神さまが御子イエス・キリストによって私たちそれぞれに対してなしてくださっていることです。
 第二に、このように、私たちが愛をもって互いに仕え合うことをとおして、キリストのからだである教会が建て上げられていくようになります。エペソ人への手紙4章11節ー16節には、

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

と記されています。
 11節に、

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

と言われている人々はみことばに仕える人々です。これは、同じエペソ人への手紙の2章20節ー22節に、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

と言われていますように、キリストのからだである教会が「使徒と預言者という土台の上に建てられて」いることによっています。教会が「使徒と預言者という土台の上に建てられて」いるときに、また、そのときにだけ、「キリスト・イエスご自身がその礎石」となってくださっています。「使徒と預言者という土台の上に建てられ」るということは、実際には、新約聖書に記されているみことばの上に建てられるということです。
 このことを受けて、4章11節では、

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

と言われています。そして、続く12節ー13節では、

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

と言われています。ここで、

 聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ

と訳されていることばは、11節に出てくる、「使徒」、「預言者」、「伝道者」、「牧師また教師」たちが聖徒たちに奉仕をさせることであるかのような印象を与えます。しかし、これは、

 聖徒たちを奉仕の働きのために整えて

ということで、それは「キリストのからだを建て上げるため」の「奉仕の働き」で、聖徒たちが愛をもって行うこと、つまり、愛をもって互いに仕え合うことです。それは聖徒たちがイエス・キリストにある自由の中で、愛に導かれて行うことです。みことばに仕える者たちは、それを支えるのです。それによって、

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する

ようになります。
 さらに、そのさらなる目的が14節ー16節に、

それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

と記されています。
 ここでは、まず、「・・・ではなく」という消極的な面として、

子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、

と言われています。「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすること」がキリストのからだである教会の中で起こるのは、にせ預言者、にせ使徒、にせ教師たちの働きによることです。黙示録2章2節では、エペソにある教会の信徒たちは、彼らを試して、その偽りを見抜いたと言われています。
 エペソ人への手紙4章14節では、そのことは消極的なこととして記されています。しかし、これには積極的な面があります。それが、15節ー16節に、

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

と記されています。
 ここで「愛をもって真理を語り」と訳されていることばは、文字通りには、「愛にあって真理を語り」です。この場合の、「真理を語り」(これで一つのことば、動詞の現在分詞)は、福音の真理を語ることを意味しています。福音の真理を語るためには、にせ預言者、にせ使徒、にせ教師たちのように「悪巧みや」「人を欺く悪賢い策略」によって、人を翻弄するような語り方はしません。福音の真理のみことばを語ることは、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みをあかしすることです。それで、語る者自身が父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包んでいただいていなければなりませんし、その愛に動かされて語るものです。その福音のみことばが曲げられるようなことがあれば、人を滅びへと至らせてしまいます。それで、そこには偽りがあってはなりません。そのことも、福音のみことばを与えてくださっている神さまと、福音のみことばをあかしする相手の人への愛から出ています。
 そして、そのように、「愛にあって真理を語る」ことによって、

あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する

ようになると言われています。これは教会がキリストのからだとして成長し、成熟することを意味しています。これが完全に実現するのは、終わりの日にかしらであられるキリストが再臨されて、私たちの救いを完全に実現してくださる時のことですが、その、イエス・キリストのお働きはすでに始まっています。そのことが、「かしらなるキリスト」ということばに示されています。イエス・キリストが教会のかしらとして、福音のみことばをもって、これを養い育ててくださっているのです。
 16節冒頭の「キリストによって」と訳されていることばは、文字通りには「この方から」で、イエス・キリストがそのからだである教会の成長と成熟、また、そのために必要な賜物や愛など、すべての源であることを示しています。
 そして、16節は、

 愛のうちに建てられるのです。

と言われているときの「愛のうちに」(「愛にあって」)ということばで終わっていて、「愛にあって」ということが強調されています。ですから、キリストのからだである教会においては、「愛にあって」のみ、真理のみことばである福音のみことばを語ることができますし、「愛にあって」のみキリストのからだとして成長し、成熟することができます。
 これらのことから、教会が愛を失ってしまうことが、キリストのからだとしての本質的な特性を失ってしまうことであることが分かります。それで、かしらであられるイエス・キリストは、エペソにある教会に対して、

 あなたは初めの愛から離れてしまった。

と警告を発し、

 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

と命じておられます。これはまた、私たちをも探るみことばです。


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