黙示録講解

(第158回)


説教日:2014年4月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1節ー7節
説教題:エペソにある教会へのみことば(5)


 黙示録2章1節ー7節には、1章9節ー20節に記されていますように、ご自身の栄光の御姿をヨハネに現してくださったイエス・キリストが、ヨハネを通して、エペソにある教会に語られたみことばが記されています。それは、

エペソにある教会の御使いに書き送れ。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。『わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。』」

というものです。
 これまで、2節ー3節に記されています、

わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

というみことばについてお話ししました。これはエペソにある教会の賞賛されるべきこととしてイエス・キリストが認めておられることです。
 今日はこれに続いて、4節ー5節に記されています、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

というみことばについてお話しします。
 最初に出てきます、

 しかし、あなたには非難すべきことがある。

と訳されていることばは、直訳調には、

 しかし、わたしはあなたに対立することをもっている。

というようになります。続いて明らかにされる、

 あなたは初めの愛から離れてしまった。

ということが、イエス・キリストにとって受け入れられないこと、より積極的には、「非難すべきこと」であるということを意味しています。
 イエス・キリストは1節でご自身のことを「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」として示しておられます。イエス・キリストはアジアにある七つの教会を愛してくださり、その愛のゆえに、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、罪の力と罪をとおして支配する暗やみの主権者の圧制の下から贖い出してくださって、ご自身のもの、ご自身のみからだとしてくださいました。さらにその愛をもって、七つの教会に心を注いでくださり、守り、支え、導いて、お育てくださっている方です。
 黙示録1章5節後半ー6節前半には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

と記されています。
 また、エペソ人への手紙5章25節には夫への戒めが記されていますが、そこでは、

 キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた

と言われています。そして、続く26節ー27節では、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

と言われています。
 26節で、

みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするため

と言われているときの、

 教会を・・・聖なるものとする

ということは、私たちの地上の生涯を通してなされる聖化の過程、すなわち、私たちの生涯にわたって継続して私たちを聖めてくださることではなく、私たちを聖別してご自身の民としてくださること、イエス・キリストの血による新しい契約の民としてくださることを意味していると考えられています。この場合、

みことばにより、水の洗いをもって・・・きよめて

ということは、そのためにイエス・キリストが用いられる手段を表しています。
 このようにして「教会を・・・聖なるものとする」ことは、すでに私たちの間で現実になっていることで、ペテロの手紙第一・2章9節で、

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

と言われていることに当たります。また、先ほど引用しました、黙示録1章5節後半ー6節前半で、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

と言われていることも、これに当たります。
 もちろん、ご自身のみからだである教会を、

 みことばにより、水の洗いをもって・・・きよめて

くださって、ご自身のものとして聖別してくださったイエス・キリストは、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、絶えずご自身の民を罪から聖めてくださり、ご自身の栄光のみかたちへと養い育ててくださっています。その意味での聖化のお働きをなさっておられますが、そのことはここ(エペソ人への手紙5章26節)では言われていないということです。
 そして、続く27節で、

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

と言われていることは、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」ということから分かりますが、終わりの日における完成を表しています。
 そして、ここに出てくる「聖く傷のない」ということばは1章4節で、

神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

と言われていることにも出てきます、それで、27節で、

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

と言われていることは、1章4節で、

 私たちを・・・御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

と言われている神さまの永遠からのみこころが完全に実現することであることが分かります。
 このように、イエス・キリストは私たちを愛してくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださり、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださいました。そして、私たちをご自身の民として聖別してくださって、なおも、ご自身の愛を注いでくださっています。そのイエス・キリストにとって、ご自身のみからだである教会から愛が失われてしまうことは、まことに心が痛むことであり、憂慮すべきことであるのです。


 黙示録2章4節で、イエス・キリストは、

 あなたは初めの愛から離れてしまった。

と言われました。この「初めの愛」と言われている「」が神さまへの愛なのか、それとも、信仰の家族の兄弟姉妹への愛なのかと論じられることがあります。けれども、契約の神である主への愛と、契約共同体の隣人への愛を切り離すことはできません。ヨハネの手紙第一・4章19節ー5章2節に、

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。

と記されているとおりです。
 さらに注目すべき教えがあります。同じヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。まず、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と言われています。そして、これを受けて「ですから私たちは」と言われています。ここでは「私たちは」が強調されていて、私たちの応答の大切さが示されています。普通に考えますと、この場合、「ですから」の後には、

 私たちも、キリストのために、いのちを捨てるべきです。

と言われるであろうと考えます。そして、私たちがイエス・キリストを愛することは当然のことです。けれども、ここでは、

 ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と言われています。このことから、イエス・キリストの愛に応えてイエス・キリストを愛することが、兄弟姉妹を愛することを離れては考えられないことが分かります。
 これと同じことが、神さまの私たちへの愛についての教えにも見られます。同じヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。そして、これを受けて、11節には、

 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた

と言われています。この後には「神を愛すべきです」という教えが続くことが期待されます。けれども、実際には、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。さらに続く12節では、

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

と言われています。
 そして、このことから話が進んで、先ほど引用しましたみことばの一部ですが、20ー21節において、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

と言われているわけです。
 また、このことと関連して、パウロの教えも見てみましょう。ローマ人への手紙13章8節ー10節には、

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

と記されています。また、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節には、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

と記されています。
 これら二つの個所に記されていますみことばでは、互いに愛し合うことが律法をまっとうすることになると教えられています。
 マタイの福音書22章35節ー40節には、

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

と記されています。ここでイエス・キリストは、この「第二の戒め」も「第一の戒め」と「同じようにたいせつです」と言われましたし、

 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

と言われました。ですから、神さまの律法の全体は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ

という「第二の戒め」によって要約されます。
 そうしますと、パウロが、

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

と教えていることをどのように考えたらいいのでしょうか。もちろん、これらの個所でパウロが、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ

という「第二の戒め」を取り上げているのは、これらの個所においてお互いの間の関係のあり方を取り扱っているからです。そうではあっても、

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

と言い切ることができるのは、この「第二の戒め」が「第一の戒め」と裏表の関係にあって、切り離すことができないからであると考えられます。先ほど引用しました、ヨハネの教えが示していますように、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業をとおして示されている父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を受け止めて、それに応えることは、兄弟姉妹たちを愛することとして現れてきます。兄弟姉妹たちを愛することなくして、神さまを愛していると言うことはできません。同じように、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を受け止めて、それに応えることなくして、兄弟姉妹を愛することはできません。ヨハネは、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と言っていますが、ここでは、

 それによって私たちに愛がわかったのです。

ということばが先に出てきて強調されています。これによって、私たちはイエス・キリストの十字架の死に現されている愛によって初めて、真の愛を知ることができたということが示されています。
 私たちはこのようにして知った愛をもって、お互いに愛し会うように召されています。ヨハネの福音書13章34節に記されていますように、イエス・キリストは、地上の生涯の最後の夜に、

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

と教えられました。

 わたしがあなたがたを愛したように、

と言われているイエス・キリストの私たちへの愛は、十字架において示された愛です。とても私たちの力ではこのような愛をもってお互いに愛し合うことはできません。しかし、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちのうち2個のような愛を生みだしてくださいます。御霊は私たちをイエス・キリストの復活にあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。そして、私たちをイエス・キリストの栄光の御姿に似た者となるように造り変えてくださっています。コリント人への手紙第二・3章17節ー18節に、

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。この御霊が、私たちのうちに、また、私たちの間に、真の愛を生み出してくださいます。
 このように、私たちの神さまへの愛と兄弟姉妹への愛は表裏一体の関係にあり、切り離すことができません。ただ、これまでお話ししてきましたことから分かりますが、実践的な観点から言いますと、目に見えない神さまを愛することは、神さまの愛を受け止めて、兄弟姉妹を愛することに現れてくるということになります。
 もちろん、神さまを愛することは神さまを礼拝し、讃え、感謝し、信頼することなどに現れてきます。しかし、その礼拝も神さまの御臨在の御前における礼拝ですので、基本的には、兄弟姉妹と心を合わせての礼拝となります。兄弟姉妹を愛していないのに心を合わせるということはできません。また、個人的な礼拝や、祈りにおいても、兄弟姉妹のことを思いやることも、とりなして祈ることもないとしたら、それは神さまの御前における礼拝や祈りとは言えません。もちろん、緊急時の祈りにおいては、その緊急事態にかかわる祈りだけがなされます。今お話ししていることは、礼拝や祈りにおける基本的な姿勢のことです。

 イエス・キリストはエペソにある教会に対して、

 あなたは初めの愛から離れてしまった。

と言っておられます。
 この場合の「初めの愛」の「初めの」と訳されていることば(プローテー)は、時間的に「初めの」という意味とともに、重要性において「最も大切な」とか「主要な」という意味もあります。この場合は、その愛がかつてはあったけれども、今はないということですので、時間的に「初めの」という意味であると考えられます。
 また、「離れてしまった」と訳されていることば(アフィエーミ)は「離れる」という意味とともに「見捨てる」とか「放棄する」という意味もあります。ここでは「捨ててしまった」あるいは「放棄してしまった」ということでしょう。
 それがどのようなことであったのかについては、ここでは述べられてはいません。イエス・キリストは、それについて指摘されないで、

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

と言っておられます。これは、おそらく、エペソにある教会の信徒たちが自分で考えて、気づくことが、真に悔い改めるために必要なことであったからでしょう。
 エペソにある教会において「初めの愛」が捨てられてしまったことがどのようなことであったのか、どのようなことが原因であったのかについては、いろいろなことが考えられています。たとえば、2節に出てくるにせ使徒たちや、6節に出てくるニコライ派の人々など(この二つは同じ人々であるという見方もあります)、誤った教えを持ち込んでくる人々や、それに影響されて従ってしまった兄弟姉妹たちのことを批判的に見ているうちに、お互いをさばき合うようになってしまい、愛が失われてしまったという見方があります。また、異端的な教えを見抜くために知的なことばかりを強調したために、冷たくなってしまい、愛が失われてしまったという見方もあります。さらには、異端的な教えを調べてその偽りを見抜いていくうちに、その成果あるいは達成感の方が大切に感じられて、それが神さまへの愛とすり替わってしまったという見方もあります。これらの見方は、エペソにある教会において「初めの愛」が失われた原因を、にせ使徒たちの教えやニコライ派の教えの問題点を見抜いたことと関連づけて、そのことの中に潜んでいる不備や欠陥が原因となって、「初めの愛」が失われたとしています。
 確かに、コリント人への手紙第一・8章1節には、

 知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

と記されています。それはよく見られる現実です。しかし、真の知識と愛は相対立するものではありません。知識という点で人後に落ちなかったパウロはまた、真の謙遜を身につけ、愛を強調し、実践した使徒でもありました。
 また、先週お話ししましたように、エペソにある教会の信徒たちがにせ使徒たちの教えやニコライ派の教えの問題点を見抜いたことの動機は主の御名のためのことであって、そのことはイエス・キリストも認めておられます。それで、そのことと、「初めの愛」が失われてしまったことは、関連していない可能性があります。
 すでにお話ししましたように、エペソはローマ帝国の至るところから巡礼者が訪れるアルテミス神殿の「門前町」でしたし、アジア州における皇帝礼拝の中心地でした。このことは、エペソでイエス・キリストを主として告白して、従い続けることがとても困難なことであったとを意味しています。そのことがもたらす試練と苦しみを経験している人々の間にあつれきが生まれてきて、愛が失われてしまった可能性もあります。たとえば、より大きな困難を経験している人々が、比較的平穏な生活をしている人々をねたんだり、逆に、妥協していると批判的に見てしまったりするということも考えられます。また、比較的平穏に暮らしている人々が、より大きな困難を経験している人々を心から思いやり、具体的な形で支えることがないというようなことも考えられます。
 また、黙示録が記された時がいつであるかについては、見方が別れていて、決定的なことは言えませんが、それが1世紀の終わりに向けての時期であれば、エペソにある教会においては、信徒の世代交代が起こっていた可能性もあります。それが起こっていたとしますと、世代交代とともに、困難な状況の中で育った子どもたちが、第一世代が育んできた愛を捨ててしまったという可能性もあります。
 いずれにしましても、エペソにある教会が置かれていたとても複雑で困難な状況を考えますと、愛が失われていった原因や事情を単純化して考えることは差し控えた方がよいと思います。よく分からないのに、エペソにある教会には知的な高ぶりがあったと決めつけてしまうことは、それこそ愛のないことでしょう。
 大切なことは、私たちの間でも愛が形骸化してしまう危険性が常にあるということに気づくことです。そして、思い当たることがありましたら、

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

というイエス・キリストのみことばに従って、主の御前に悔い改めて、主の愛を思い起こし、その愛を新たに受け止めて、兄弟姉妹への愛に生きることです。


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