黙示録講解

(第157回)


説教日:2014年3月30日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1節ー7節
説教題:エペソにある教会へのみことば(4)


 黙示録2章1節ー7節には

エペソにある教会の御使いに書き送れ。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。『わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。』」

と記されています。
 これは、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっていたヨハネにご自身の栄光の御姿を示されたイエス・キリストが、エペソにある教会に語られたみことばです。
 先主日には最初の、

 わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。

というみことばについてお話ししました。この場合の、「あなたの行いとあなたの労苦と忍耐」三つのことではなく、「あなたの行い」のことを「あなたの労苦と忍耐」がさらに説明しています。エペソにある教会の信徒たち(長老たちも含めて)の「行い」は「労苦と忍耐」をともなうものでした。
 エペソには、世界の7不思議の一つに数えられている壮大なアルテミス神殿がありました。最初にエペソに伝道をしたのはパウロですが、その働きのことが使徒の働き19章23節ー41節に記されています。それによりますと、アルテミス神殿の模型を作って商売をしていた銀細工人デメリオとその仲間たちには、パウロの働きは自分たちを脅かすことになると感じられました。それで、人々を扇動して騒乱を引き起こしました。その騒乱は、町の書記役によってやっと鎮められました。
 これは、エペソでイエス・キリストを信じる者として生きることが、どんなに大変なことであるかを物語っています。
 そればかりではありません。エペソはローマ帝国の属州であるアジアにおける皇帝礼拝の中心地でもありました。黙示録が記された頃には、そのためにイエス・キリストを信じている主の民がローマ帝国からの迫害にさらされている状況にありました。実際、ヨハネはそのためにパトモスという島に流刑になっていました。ヨハネはアジアにある諸教会の指導的な立場にあったと考えられますが、ヨハネがその身を置いて牧会していたのはエペソでした。
 ですから、エペソにおいて、イエス・キリストを主として信じて、主のみこころのうちを歩むことを貫くことは、今日、この国において生活している私たちの想像を越える困難を伴うことであったと考えられます。イエス・キリストが、

 わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。

と言われたことには、このようなことがかかわっています。
 先主日には、さらに、このことの背後に、黙示録13章に記されています「」すなわちサタンと、後に「」と呼ばれるようになる、海から上ってきた「」と、後に「にせ預言者」と呼ばれるようになる、地から上ってきた「」の働きがあることをお話ししました。「」と「にせ預言者」に権威を与えたのは「」すなわちサタンです。「にせ預言者」は「」の前で行うしるしをもって人々を惑わし、「」の像を造らせ、その像を拝ませます。そして、その像を拝まない人々を殺させます。さらに、「すべての人々にその右の手かその額かに」「」の「刻印を受けさせ」、「」の「刻印」をもっていない人々が「買うことも、売ることもできないように」しました。これは、アジア州にある七つの教会にとっては、皇帝礼拝を強要されることであり、それを拒否した主の民に対する迫害を意味しています。このことはエペソにある教会においても起こっていたことです。
 「」すなわちサタンから権威を与えられて人々を惑わしている「にせ預言者」は、先ほどお話ししました皇帝礼拝を推し進めるための政策を立てて実行に移しています。それが、アジアにある七つの教会にとっては、ローマ帝国からの迫害としてやってきました。経済的に追いつめられ、人々からは十字架につけられて殺された者を主としているとあざけられ、疎まれ、憎まれました。さらには、投獄され、処刑されることさえありました。
 これは、イエス・キリストを主として信じ、そのみこころに従って生きる者たちに、その信仰を捨てさせようとして、外かやってきた脅威です。


 けれども、「にせ預言者」の働きは、そのように外からの脅威を生み出しただけではありません。キリストのからだである教会の中から、福音を曲げてしまう、教えを説く人々が現れてくるようになりました。
 使徒の働き20章17節ー38節には、パウロが第3次伝道旅行を終えてエルサレムに行く途中で、「ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ」(17節)時のことが記されています。パウロがエペソにある教会の長老たちに語ったことばは18節後半ー35節に記されていますが、その中の28節ー31節には、

あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。

と記されています。
 ここで「狂暴な狼」(複数)と言われているのは、先週取り上げましたマタイの福音書7章15節に記されています、

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

というイエス・キリストの教えに出てくる「にせ預言者たち」、にせ教師たちです。パウロは彼らのことを「狂暴な狼」と言っていますが、この狂暴さは、彼らがもたらす打撃の大きさ、傷の深さを指しています。彼らの働きは、人を福音から遠ざけて、滅ぼしてしまうものです。
 この「狂暴な狼」は、エペソにある教会にとっては、外からやって来る者たちですが、キリストのからだである教会に属している者として、つまり「羊のなりをして」やってきます。その意味で、「にせ預言者たち」、にせ教師たちはキリストのからだである教会のうちから現れる者たちです。パウロはさらに、エペソにある教会の中からも、

いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こる

と言っています。
 パウロの後にエペソで牧会者として働いたのはテモテです。テモテへの手紙第一・1章3節ー4節には、

私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。

という、パウロがテモテに書き送ったことばが記されています。ここから、「にせ預言者たち」、にせ教師たちが働いて信徒たちを惑わそうとしていることを感じ取ることができます。これは1章1節ー2節に記されている挨拶に続いて記されていますから、誤った教えを説くことや「果てしのない空想話と系図とに心を奪われ」ることを警戒することが大切なことであるとともに、緊急の課題であったことを示しています。
 実際に、同じ1章の19節ー20節には、

ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。

と記されています。
 ここでは、

 私は、彼らをサタンに引き渡しました。

と言われています。これが何を意味しているかについては、見方が別れていますが、一般には、主の契約の共同体としての教会から締め出してしまうことであると考えられています。主の契約の共同体としての教会の外は、この世であり、サタンが支配している領域です。パウロは彼らをそこに属する者であるとしたということです。今日のことばで言いますと、「除名」という戒規を執行したということになります。
 ここでは、それをパウロがなしたと言われていますが、必ずしも、パウロが直接、除名を宣言したという意味ではありません。パウロが使徒としての権限においてエペソにある教会に除名を指示して、それが執行されたという可能性もあります。
 さらに、4章1節ー5節には、

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

と記されています。
 また、テモテへの手紙第二・2章16節ー18節にも、

俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。

と記されています。
 ここにも「ヒメナオ」が出てきます。先ほどお話ししましたように、すでに彼はサタンに引き渡されていましたが、ひるむことなく、「ピレト」と組んで、エペソにある教会の信徒たちを惑わし続けていたようです。
 このことはイエス・キリストが「にせ預言者たち」のことを「貪欲な狼」と呼んでおられることを思い起こさせます。「貪欲な」と訳されたことば(ハルパクス)は「強盗」を連想させることばで「強欲」を意味しています。飽くことなく貪り食う狼という感じです。また、このことは「にせ預言者たち」、にせ教師たちの働きの特質を示しています。彼らの働きの本質が明らかにされて、使徒の権威に基づいて最も厳しい戒規が執行されても、それで、彼らの働きが止むことはありません。
 このことは、黙示録2章6節で、

しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

と言われているときの「ニコライ派」についての理解と関わっています。「ニコライ派」については、あまりよく分かっていませんが、それについては改めてお話しします。今お話ししていることとかかわっているのは、3節でイエス・キリストが、

あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。

と言われたときの「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」と、6節に出てくる「ニコライ派の人々」が同じ人々なのか、別の人々なのかという問題です。多くの学者がこれらは同じ人々であるという見方をしていますが、これらは別の人々であるという見方もあります。その主な根拠は、「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」はすでにその正体が見抜かれていて、その人たちの問題は解決して終わっているけれども、「ニコライ派の人々」が引き起こしている問題はまだ終わっていないということにあります。
 けれども、先ほどの「ヒメナオ」の事例が示していますように、エペソにある教会において、「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」の正体が解明されて、断罪されたとしても、それでエペソにある教会では彼らの働きが止んで、その影響はなくなっていたと主張することはできません。とはいえ、これだけで「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」と「ニコライ派の人々」が同じ人々だと結論することができるわけではありません。
 いずれにしましても、「ヒメナオ」の事例が示していますように、また、イエス・キリストが「貪欲な狼」と呼んでおられるように、「にせ預言者たち」、にせ教師たちの働きは執拗なものです。もちろん、彼らは自分たちの教えこそが正しい教えであると信じているからこそ、ひるむことなくその教えを説いているわけです。
 このように、「にせ預言者たち」、にせ教師たちの働きに対して警戒しなくてはならないということは、イエス・キリストご自身の教えであり、パウロも教えたばかりか、ガラテヤ人への手紙などに見られるように、パウロ自身がそのために戦いました。さらに、「にせ預言者たち」、にせ教師たちを警戒すべきことは、パウロが繰り返しテモテに語ったことでした。
 古くからの教会の言い伝えでは、テモテの後、1世紀の終わりにかけて使徒ヨハネがエペソにある教会で牧会者として働くようになったとされています。そのヨハネも、ヨハネの手紙第一・4章1節ー3節で、

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。

と教えています。
 ですから、エペソにある教会を指導し牧会したパウロとテモテとヨハネは一貫して、「にせ預言者たち」、にせ教師たちの働きに警戒してきました。そして、その、よい伝統を受け継いでいるエペソにある教会について、黙示録2章2節ー3節には、

また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

というイエス・キリストのみことばが記されています。

 この、イエス・キリストのみことばでは、

あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。

と言われています。この場合の、「悪い者たち」と「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」は同じ人々を指しています。エペソにある教会の信徒たちは、彼らを「ためして、その偽りを見抜いた」と言われています。
 これに続く、

あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった

というイエス・キリストのみことばでは、「よく忍耐して」(「忍耐を持っていて」)と「耐え忍び」(がまんし)という同義語が重ねられて、忍耐深く耐え忍んだことが強調されています。外からの迫害と、内からの「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」の巧妙な働きに対して、忍耐の限りを尽くして、なお疲れ果ててしまうことはなかったということです。
 また、ここには、

また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

と記されていますが、

 あなたが、悪い者たちをがまんすることができず

と言われているときの「がまんする」と訳されていることばと、

 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び

と言われているときの「耐え忍び」と訳されていることばは同じことば(バスタゾー)です。これについては、ここでは意図的に同じことばが用いられていると考えられています。これによって、イエス・キリストの御名のためには、「よく忍耐して」(直訳「忍耐を持っていて」)がまんしたエペソにある教会の信徒たちは、「悪い者たち」すなわち「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」をがまんすることはできなかったということが示されているということです。
 さらに、これによって、二つのことが示されています。
 第一に、

悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたこと

と、

あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった

ことが結びつけられています。これによって、「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」を試して見分けることは簡単なことではなく、そのためには、忍耐を重ね続ける必要があったということが示されています。「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」の教えは、巧妙であり、人々に受け入れられやすい考え方の上に立っていることが多いために、その偽りを見分けることは容易なことではなかったでしょう。さらには、今日でも、異端的な教えを受け入れてマインドコントロールされた状態になっている人々に接したことがある人は、その人々と語り合うことがいかに忍耐を要することであるかを実感しているはずです。
 第二に、ここでは、エペソにある教会の信徒たちが、このように、忍耐の限りを尽くして、

使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたこと

は、イエス・キリストの御名のためのことであったということです。決して、自分たちの知的な興味から出たことではなく、それがイエス・キリストの御名のためであるということから、エペソにある教会の信徒たちは忍耐の限りを尽くしました。また、それによって疲れてしまうこともありませんでした。
 ここで大切なことは、そのことをイエス・キリストご自身が認めてくださり、賞賛してくださっておられるこということです。エペソにある教会の信徒たちは、イエス・キリストの御名のために、外からの迫害にさらされながら、内からの「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」の巧妙な働きに対して、忍耐の限りを尽くして、その偽りを見抜きましたし、なお疲れ果ててしまうことはありませんでした。その意味で、彼らの動機は純粋でした。これがイエス・キリストの御名のためのことであったということは、そして、それはエペソにある教会の信徒たちの気持ちだけのことではなく、イエス・キリストが認めておられる確かなことであれば、これはイエス・キリストへの愛からなされたことであると考えられます。
 このことは、4節で、イエス・キリストが、

 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

と言われるときの「初めの愛から離れてしま」うことが何を意味しているかを考えるときに踏まえておかなければならないことです。というのは、エペソにある教会の信徒たちが、

悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたこと

は、教理的な純粋さを守ることで、大切なことではあるけれども、その動機が神さまへの愛から出ていなかったので「初めの愛から離れてしまった」と言われているという考えもあるからです。しかし、彼らの動機は純粋で、主のみこころに沿ったものであったと考えられます。
 ですから、イエス・キリストが、

 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

と言われて「非難すべきこと」を指摘しておられることが、エペソにある教会の信徒たちが、外からの迫害と、内からの「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」の巧妙な働きに対して、忍耐の限りを尽くして、その偽りを見抜いたことに欠けがあることを指摘しておられるというように考えない方がいいと思われます。

 繰り返しになりますが、イエス・キリストは山上の説教を締めくくるに先立って、大切なこととして、

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

と教えておられます。また、パウロも、自分が開拓し、指導して建て上げたエペソにある教会の長老たちに、「にせ預言者たち」、にせ教師たちを警戒すべきことを教えましたし、後継者のテモテにも繰り返し教えました。
 「にせ預言者たち」、にせ教師たちは「貪欲な狼」、「狂暴な狼」ですが、「羊のなりをしてやって来る」ために、それを見抜くことは容易なことではありません。エペソにある教会の信徒たちは、イエス・キリストの教えと使徒たちの教えを受け止めて、「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」の巧妙な働きに対して、忍耐の限りを尽くして、その偽りを見抜きました。
 そのようにして、福音のみことばが曲げられることなく語られ、聞かれるためには、イエス・キリストの御名のためにという動機に動かされて初めて得られる、たゆむことがない忍耐と、主のみことばに基づく霊的な洞察力が必要です。
 テモテへの手紙第二・4章1節ー4節には、

神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

と記されています。
 ここで、パウロが預言的に語っている、

人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になる

ということが現実になってしまっている状況で、みことばを曲げることなく語り続け、「寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧め」るためには、たゆむことがない忍耐と、主のみことばに基づく霊的な洞察力が必要です。
 今日の教会の現実はどうでしょうか。ここで、パウロが預言的に語っていることが現実になっているのではないかと危惧されます。「にせ預言者たち」、にせ教師たちを警戒すべき時代状況になってしまっているのに、エペソにある教会に見られた、イエス・キリストの御名のためのたゆみない忍耐と、偽りを見分ける霊的な洞察力が失われてしまってはいないだろうかと危惧されます。


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