![]() |
説教日:2014年3月9日 |
イエス・キリストは、エペソにある教会への語りかけにおいて、 右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。 と語り始めておられます。ことばの順序を明らかにすることを念頭において、直訳調に訳しますと、これは、 これらのことを言われる、右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が。 となります。このように、 これらのことを言われる。 ということばの後に、語られる方がどのような方であるかが紹介される導入のことばは、七つの教会のそれぞれに対する語りかけに見られます。 このような言い方は、旧約聖書の預言者たちが主のみことばを伝えたときに導入のことばとして用いたものに当たります。最も一般的な言い方は、 主はこう仰せられる。 ということばです。これはことばの順序としては、 こう仰せられる、主は となります。時には、この後に、主がどのような方であるかの説明が続くことがあります。たとえば、イザヤ書44章2節では、 あなたを造り、 あなたを母の胎内にいる時から形造って、 あなたを助ける主はこう仰せられる。 となっています。これは、 こう仰せられる、主は から始まっていて、この後に、 あなたを造り、 あなたを母の胎内にいる時から形造って、 あなたを助ける という「主」についての説明のことばが続いています。[注]このことから、 右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。 ということばは、ヨハネが栄光のキリストから預言のみことばを受けて、それをエペソにある教会に伝えていることが分かります。 [注]旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳では、黙示録の七つの教会に宛てたイエス・キリストのみことばの導入のことばとまったく同じ言い方(タデ・レゲイ・・・「・・・がこれらのことを言われる」)をしている個所は限られていますが、別の言い方(フートース・レゲイ・・・「・・・がこのように言われる」))をしている個所も、ヘブル語では同じ言い方(コー・アーマル・・・「・・・がこのように言われる」)で表されています。また、BAGD(ギリシャ語のレキシコン)第2版、553頁には、このイエス・キリストのみことばの導入のことば(タデ・レゲイ・・・「・・・がこれらのことを言われる」)は、ペルシャの王たちによって用いられた言い方でもあると記されています。 ヨハネはイエス・キリストから七つの教会に宛てたみことばを託されますが、その際に、1章9節ー20節に記されていますように、イエス・キリストの栄光の御姿に接しています。そして、その栄光のキリストから、七つの教会に宛てたみことばを託されています。これは、イザヤ書6章やエゼキエル書1章ー3章に記されていますように、イザヤやエゼキエルが契約の神である主、ヤハウェの栄光の御臨在の啓示に接して、主がどのような方であるかを示された後に、その御臨在の御許から遣わされていることと同じです。イザヤもエゼキエルも主の御臨在の御許から遣わされてユダの民の所に行って預言しましたが、ヨハネは流刑の地にいましたから、栄光のキリストが啓示してくださったみことばを書き記して、七つの教会に送るという形を取っています。このことも、ヨハネが栄光のキリストから預言のみことばを受けて、それを七つの教会に伝えていることを示しています。 旧約聖書の預言者たちは、契約の神である主、ヤハウェが、モーセを通して出エジプトの贖いの御業を成し遂げられたときに、シナイ山にご臨在されて、イスラエルの民と結んでくださった契約に基づいて活動をしました。言い換えますと、トーラー(律法)あるいは「モーセ五書」と呼ばれる旧約聖書の最初の五書を基盤として、そこでイスラエルの民に与えられている主との契約に照らして、イスラエルの民、特に、王たちや指導者たちに対して、主、ヤハウェのみこころを伝えました。実際には、イスラエルの民はかたくなな民で、その歴史の初めから、主への不信を募らせて、背教してしまいました。(私たちはそのように言って、イスラエルの民を見下すことはできません。私たちも本質においてイスラエルの民と同じもので、イスラエルの民は私たちを映し出すものです。)そのために、主、ヤハウェの御許から遣わされた預言者たちは、イスラエルの民の不信と背教の罪を、主との契約に違反することとして糾弾し、告発することを、その主な努めとするようになりました。もちろん、主のみこころを示して、それに従う者たちを励ましたり、支えたりすることもありました。 これに対して、ヨハネは、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて立てられた契約、イエス・キリストの血による新しい契約にかかわる使命を委ねられています。そのことは、先ほども触れましたように、ヨハネが1章9節ー20節に記されていますイエス・キリストの栄光の御姿に接して、その栄光の御臨在の御許から遣わされたことに表されています。そこには、「契約」ということばは出てきません。けれども、栄光のキリストがご自身のことをあかししてくださっている、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 というみことばは、イエス・キリストこそが、出エジプトの贖いの御業を遂行された契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。 主、ヤハウェは、ご自身の契約に対して真実な方であり、契約において約束してくださったことを、必ず、成し遂げてくださる、歴史の主です。イエス・キリストは、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、「地上的なひな型」としての意味をもっていた出エジプトの贖いの御業が指し示していた、「出エジプトの本体」としての贖いの御業を成し遂げられました。 イエス・キリストはご自身の十字架の死によって、私たちご自身の契約の民の罪をすべて完全に贖ってくださいました。それで、私たちはもはや罪のさばきを受けることはなく、罪の結果である死と滅びから贖い出されています。そればかりでなく、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。イエス・キリストはこれに基づいて、私たちをご自身のよみがえりにあずからせてくださり、私たちを新しく生まれさせてくださり、永遠のいのちをもつ者、ご自身と父なる神さまとの愛の交わりに生きる者としてくださいました。 黙示録5章9節ー10節には、天において、父なる神さまの御座の前で仕えている4つの生き物と24人の長老たちが「ほふられたと見える小羊」としてご自身を現しておられる栄光のキリストを讃える讃美を歌っていることが記されています。彼らは、 あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 と歌っています。ここに出てきます、ほふられた「小羊」、「あらゆる部族、国語、民族、国民の中から」、「王国とし、祭司とされました」ということばは、出エジプトの贖いの御業にあずかってエジプトの奴隷の状態から解放され、シナイ山にご臨在される主、ヤハウェの御許に来たイスラエルの民に主、ヤハウェが語られたみことばを背景として、その成就を示しています。 そのことについて少しお話しします。まず、ほふられた「小羊」についてですが、主がイスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対するさばきを執行されて、エジプトの初子を撃たれたときのことを記している出エジプト記12章3節ー11節には、過越の小羊に関する主の戒めが記されています。そこでは、イスラエルの民はニサンの月の14日の夕暮れにその小羊をほふり、その血を、家の2本の門柱とかもいにつけるように命じられました。12節ー13節には、 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。 と記されています。過越の小羊の血が、その家ではすでにさばきが執行されていることを示していて、その家のうちにいる者に対してはさばきが執行されませんでした。 次に、「あらゆる部族、国語、民族、国民の中から」ということばと「王国とし、祭司とされました」ということばについてですが、エジプトの地を出たイスラエルの民が主がご臨在されるシナイ山のふもとに宿営し、主がご自身の契約を与えてくださるようになったときのことを記している19章5節ー6節には、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 という、主、ヤハウェのみことばが記されています。ここに出てくる「すべての国々の民の中にあって」ということばと「わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」ということばが、天における「ほふられたと見える小羊」への讃美の背景となっています。 ご自身のことを、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 とあかししておられる栄光のキリストは、契約の神である主、ヤハウェであられ、「出エジプトの本体」としての贖いの御業を成し遂げられました。それで、イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の民である私たちは、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている者として、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりのうちに生きる者とされています。 ヨハネがイエス・キリストの栄光の御臨在の御許において委ねられた使命は、七つの教会に、イエス・キリストの血によって確立された契約に基づく預言のみことばを書き送ることです。そのみことばをとおしてイエス・キリストは、七つの教会に対して、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている者として歩むように勧め、励ましてくださると同時に、その道から逸れてしまっていることに対すして警告を与えてくださり、悔い改めることを求めておられます。 そして、先主日にお話ししましたように、旧約聖書の預言のみことばと同じように、また、その成就として、最後には、栄光のキリストのみことばに従って歩む者たちを、約束してくださった祝福にあずからせてくださること、そして、終わりの日にその祝福のすべてを完全に実現してくださることを約束してくださっています。 エペソにある教会への語りかけでは、イエス・キリストは、 右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方 としてご自身を示しておられます。これは、1章9節ー20節に記されています、栄光のキリストの顕現において示されたことを受けています。 最初の、 右手に七つの星を持つ方 ということは、1章16節に、 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。 と記されていることを受けています。ここ1章16節では、栄光のキリストが「右手に七つの星を持」っておられると言われています。そして、1章20節には、 七つの星は七つの教会の御使いたち・・・である。 と言われています。 この「七つの教会の御使いたち」は、七つの教会のそれぞれにかかわる「御使い」です。この「御使い」と訳されていることば(アンゲロス)は「使者」をも表しますが、黙示録のこのほかの個所では「御使い」を意味していますので、ここでも「御使い」であると考えられます。この「御使いたち」は、かかわっているそれぞれの教会を表象的に表わしています。七つの教会は地上にあって、ローマ帝国からの迫害にさらされて苦しみ、内からは、異端的な教えを持ち込んでくる者たちによって誘惑され、福音のみことばがねじ曲げられてしまっている状態にあったり、この世的な繁栄によって信仰の実質を失いつつある状態にあったりしています。七つの教会は、そのようなさまざまな問題にさらされつつありますが、「御使いたち」によって表象的に示されていることは、それでもなお、キリストのからだである教会として、天に属していることを意味しています。 栄光のキリストが、その右の御手に「七つの星を持」っておられることは、何よりもまず、栄光のキリストが七つの教会をご自身のものとして所有しておられることを意味しています。そして、右の御手は利き手です。それで、これは栄光のキリストがその右の御手で七つの教会を堅く守ってくださっていることを意味しています。七つの教会はさまざまな問題にさらされて苦しんでいますが、栄光のキリストはその一つ一つの教会にふさわしいみことばを語ってくださり、みことばによって導いてくださり、守ってくださっています。 新改訳では、1章16節は、 右手に七つの星を持ち と訳されており、2章1節でも、 右手に七つの星を持つ方 と訳されているいますが、「持つ」と訳されていることばには違いがあります。1章16節では「持つ」こと、「所有する」ことを意味する一般的なことば(エコー)が用いられています。それで、ここでは、基本的に、栄光のキリストが七つの教会を所有しておられることを意味しています。そして、それが栄光のキリストの右の御手によることですので、栄光のキリストが七つの教会を守ってくださり、導いてくださっていることを汲み取ることができます。 これに対して、2章1節では、「しっかりとつかむ」こと、「保持する」こと、さらには、「支配する」ことをも意味することば(クラテオー)が用いられています。これによって、栄光のキリストが七つの教会をしっかりとつかんで保持してくださり、守り、導いてくださっていることがより強調されています。 これに続く、 七つの金の燭台の間を歩く方 ということは、1章12節ー13節に、 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。 と記されていることを受けています。ここ1章12節ー13節では、栄光のキリストが「七つの金の燭台」の真ん中にご臨在しておられると言われています。そして、1章20節では、 七つの燭台は七つの教会である。 と言われています。 この場合も、2章1節において、 七つの金の燭台の間を歩く方 と記されていることには、進展が見られます。 1章16節で「それらの燭台の真ん中には」と言われているときの「真ん中に」と訳されていることば(エン・メソー)と、2章1節で、 七つの金の燭台の間を歩く方 と言われているときの「間を」と訳されていることばは同じことばです。違いは、1章16節では、栄光のキリストは七つの教会の真ん中にご臨在しておられることが示されていますが、これはイメージとしてはそこに留まっておられることを示しています。これに対して、2章1節では、栄光のキリストが七つの教会の間を歩いておられることが示されています。 この場合の、「歩まれる」ことについては、「支配すること」を意味しているか「見守ること」を意味しているか意見が分かれています。この二つのことは矛盾することではありません。七つの教会のそれぞれを注意深く見守ってくださっている方は、ご自身のことを、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 とあかししておられる契約の神である主、ヤハウェなるお方です。ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、ご自身の民を治めてくださり、契約において約束してくださっている祝福をすべて、また、完全に実現してくださる方です。 最後に注目したいことがあります。ここにはエペソにある教会に対して語られるイエス・キリストのみことばが記されています。けれども、イエス・キリストは、ご自身のことを、 右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方 とあかししておられます。エペソにある教会に対して、ご自身は七つの教会のすべてに関わってくださっている方であることを示しておられるのです。イエス・キリストが最初に語りかけられた教会が、エペソにある教会であったことを考えますと、このことには大切な意味があると考えられます。 一つは、この最初の語りかけにおいて、イエス・キリストが、ご自身がどのような方であるかを示してくださったときに、ご自身が七つの教会すべてにかかわってくださっていることを明確に示してくださったということです。これによって、この後の、6つの教会のそれぞれに対する語りかけにおいて、ご自身がどのような方であるかを示してくださっていることも、ほかのすべての教会に当てはまることであることが分かります。 もう一つのことが考えられます。教会のかしらであられるイエス・キリストは、ご自身のからである七つの教会のすべての群れに対して、心をそそいて治めてくださっています。そのことが、この場合は、エペソにある教会に示されています。このことから、イエス・キリストは、それぞれの教会が自分たちだけのことを考えるのではなく、キリストのからだである教会のすべての群れに対して、心を向けるように求めておられることが分かります。七つの教会の「7」は完全数で、歴史的に現れてくるすべての教会を表象的に現しています。 私たちは、パウロの手紙などを読んでいきますと、古代の教会が交通事情や通信手段が限られている時代なのに、実にに広い範囲の主の民の動向に関心をもっていたことに気づかされます。エペソ人への手紙6章10節ー20節には、霊的な戦いについての教えが記されています。霊的な戦いのために神さまが備えてくださっている武具を身につけることを具体的に述べた後の18節には、 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 と記されています。ここで、 すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 と言われているときの「すべての聖徒」たちとは、いったいどこまでの地域の聖徒たちを視野に入れているのでしょうか。もしかすると、いや、きっと、その当時の世界全体、それは地中海世界全体ですが、そのすべての教会や聖徒たちに心が向けられていたのではないかと思わせられます。もちろん、実際に、すべての教会や聖徒たちのことがつぶさに分かったわけではありませんが、心はそれに向けて開かれていたということです。 |
![]() |
||
|