黙示録講解

(第153回)


説教日:2014年3月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1節ー7節
説教題:七つの教会へのみことば


 黙示録2章ー3章には、ローマの属州であるアジア、今日の小アジア西部にあった七つの教会のそれぞれに対するイエス・キリストのみことばが記されています。今日は、このイエス・キリストのみことばを全体として見たときに考えられることをお話しします。
 このイエス・キリストのみことばは、これに先立つ1章9節ー20節に記されています、イエス・キリストが栄光の御姿を、黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことと関連しています。1章9節には、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていて、ヨハネがローマ帝国からの迫害を受けてパトモスという島にいたことが示されています。ヨハネはローマの属州であるアジアにある諸教会の指導的な牧会者であったと考えられます。もちろん、それぞれの教会には長老たちがいたと考えられますが、その長老たちにとっても指導的な立場にあったと考えられます。それと同じようなことは、ペテロの手紙第一・5章1節に、

そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。

と記されていますように、ペテロが長老たちに勧めをしていることに見られます。アジアにある七つの教会は、そのような指導的な牧会者としての立場にあったヨハネがローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスに流刑となっているという厳しい状況にありました。ヨハネも、自分が主から託された群れから切り離されてしまっていることに、どれほど心を痛めていたことでしょうか。そのようなヨハネに、先ほどのペテロの手紙第一・5章の4節で「大牧者」と言われているイエス・キリストが、ご自身の栄光の御姿を現してくださいました。
 黙示録1章10節ー11節には、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

と記されています。
 イエス・キリストはご自身の栄光の御姿をお示しになるに当たって、まず、ヨハネに語りかけておられます。そして、「あなたの見ること」、すなわち、これからヨハネに黙示によって啓示されることを記して、七つの教会に送るように命じられました。その後、イエス・キリストはご自身の栄光の御姿を示されました。12節ー13節に、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されていますように、イエス・キリストは七つの教会を表象的に表している「七つの金の燭台の真ん中に」ご臨在しておられました。そのイエス・キリストの栄光の御姿については、14節ー16節において、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。その御姿を見たヨハネは、17節前半に記されていますように「その足もとに倒れて死者のように」なってしまいました。しかし、イエス・キリストはその右の御手をヨハネの上において、

恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と言われて、ご自身がどなたであるかを啓示してくださいました。
 このみことばは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを示しています。主、ヤハウェは、永遠にご自身で存在しておられ、創造の御業によってこの歴史的な世界のすべてものを造り出され、ご自身の契約に入れてくださり、真実な御手をもって支え、導いておられる方です。特に、人をご自身との契約のうちにあるものとして、神のかたちにお造りになり、ご自身を礼拝することを中心として、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。もちろん、主はそのために必要なすべてのものを備えてくださっていますし、人の働きのすべてを支え、導いてくださっています。その意味で、主、ヤハウェはご自身の契約に対して真実な方であり、歴史の主です。
 主、ヤハウェは、人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、贖い主を与えてくださって、ご自身の民を罪の結果である死と滅びから贖い出してくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに回復してくださることを約束する契約を与えてくださいました。そのことを福音のみことばによって約束してくださっただけでなく、出エジプトの時代には、エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民をその奴隷の状態から贖い出され、罪と死の力に捕らえられてしまっている人を、その力から解放してくださることをあかしする「地上的なひな型」としての贖いの御業を遂行されました。
 イエス・キリストは無限の栄光の主、ヤハウェであられますが、今から2千年前に人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。これによって、イエス・キリストはこの地上の世界の歴史の主であられるだけでなく、死者の領域をも治めておられる歴史の主として、父なる神さまの右の座に着座されるようになりました。
 この栄光の主として、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストが、ご自身のからだである教会の真ん中にご臨在しておられます。そのことが、イエス・キリストが七つの教会を表象的に表している「七つの金の燭台の真ん中に」ご臨在しておられることにおいて示されています。七つの教会の「7」は完全数で、歴史をとおして地上に現れるキリストのからだである教会を表象的に表しています。
 このようにして、17節後半ー18節において、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばによって、ご自身が契約の神である主、ヤハウェであられることをお示しになったイエス・キリストは、19節において、

 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

と言われて、改めて、ご自身が黙示によってヨハネにお示しになることを書き記すことを命じられました。もちろん、それはそれを書き記して七つの教会に送るためです。このようにして、栄光のキリストがヨハネにお示しになることを書き記して七つの教会に送ることを命じられたことが、9節ー20節に記されている栄光のキリストの顕現の記事の始めと終わりに記されています。これはインクルーシオーと呼ばれる、初めめと終わりが対応している表現形式で、これによって、このこと、栄光のキリストがヨハネにお示しになることを書き記して七つの教会に送ることを命じられたことが大切なこととして強調されています。

          *
 このことを受けて、栄光のキリストが七つの教会のそれぞれに語りかけておられます。その語りかけが2章ー3章に記されています。まず、その語りかけられる順序ですが、先ほど引用しました1章11節には、

その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

というイエス・キリストのみことばが記されていました。ここでイエス・キリストが挙げておられる町の順序が、イエス・キリストが七つの教会のそれぞれに語りかけておられる順序となっています。これは、パトモスからいちばん近いエペソから始まって、スミルナ、ペルガモと北上して行き、そこから、南東に、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤと下って行くルートに沿っています。
 イエス・キリストが七つの教会のそれぞれに語られたみことばには共通していることがいくつかあります。それを、最初に記されていますエペソにある教会に語られたイエス・キリストのみことばを例に取って見てみましょう。2章1節ー7節には、

エペソにある教会の御使いに書き送れ。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。『わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。』」

と記されています。
 1節では、まず、

 エペソにある教会の御使いに書き送れ。

と言われていますが、七つの教会の一つ一つに対する語りかけは、それぞれの町の名前が違っているだけで、これとおなじことばで始まっています。
 この「御使い」につきましては、先週お話ししましたので、結論だけを言いますと、これは文字通りの御使いで、それぞれの町にある教会を代表的に表わしています。そのために御使いが用いられているのは、七つの教会が地上にあってローマ帝国からの迫害にさらされていたり、自らのうちに悔い改めるべき問題を抱えていたりしますが、それでも、キリストのからだである教会として、かしらであられる栄光のキリストがおられる天に属していることを表象的に表していると考えられます。
 また、ここで栄光のキリストは、

 エペソにある教会の御使いに書き送れ。

というように、「書き送れ」と命じておられます。それで、これは七つの教会のそれぞれに宛てられた手紙であると考えられています。そうではあっても、これは、一つ一つの町にある教会に、その教会に宛てて記された手紙だけが送られたということではありません。七つの教会の一つ一つが、すべての教会に対して語られた手紙を受け取っています。
 1節では、続いて、

 右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。

と記されています。これは、1章9節ー20節に記されています、栄光のキリストの顕現において示されたことを受けています。1章16節では、栄光のキリストが「右手に七つの星を持」っておられることが記されていますし、12節ー13節では、栄光のキリストが「七つの金の燭台」の真ん中にご臨在しておられることが記されています。
 これと同じように、七つの教会の一つ一つに対する語りかけにおいて、イエス・キリストがどなたであられるかを示すことばがあります。そのうちの最初の四つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラにある教会に対する語りかけでは、1章9節ー20節に記されています栄光のキリストの顕現において示されたことを受けています。それ以外の三つ、すなわち、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤにある教会に対する語りかけでは、それ以外の個所において示されていることを受けています。
 2章2節ー3節には、

わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

と記されています。これは、直訳調には、

 わたしは知っている、・・・を。

という言い方で、七つの教会の一つ一つに対して語られているすべてのことばに出てきます。七つの教会の「大牧者」として七つの教会の真ん中にご臨在される栄光のキリストは、その一つ一つの群れのことをすべてご存知でいてくださいます。もちろん、群れ全体のことだけでなく、そのうちにある一人一人のことをもすべてご存知でいてくださいます。ヨハネの福音書6章39節ー40節に記されています、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えにおいて、「すべての者を・・・ひとりも失うことなく、ひとりひとりを」と言われていることに示されている丁寧さをもって知っていてくださいます。
 黙示録2章2節ー3節には、栄光のキリストがエペソにある教会の賞賛されるべきことを知ってくださっていることが記されています。このような賞賛はサルデスとラオデキヤにある教会においては取り上げられていません。ただし、サルデスにある教会の中には、賞賛されるべき人が「幾人かいる」と言われています(3章4節)。
 2章では、これに続く4節ー5節に、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

と記されています。
 エペソにある教会のことをつぶさに知っていてくださる栄光のキリストは、そこに賞賛されるべきことがあるだけでなく、「非難すべきことがある」ことも指摘しておられます。ただ「非難すべきこと」を指摘しておられるだけでなく、それを悔い改めて、本来のあり方に立ち返るように勧めておられます。さらに、「もしそうでなく、悔い改めることをしないならば」というように、悔い改めない場合に対する警告も与えておられます。
 七つの教会のうち、スミルナとフィラデルフィヤにある教会に対しては、「非難すべきこと」あるいはまた悔い改めるべきことが指摘されていません。それで、警告も与えられていません。また、サルデスとラオデキヤにある教会には賞賛されるべき点が示されていませんので、「しかし、・・・非難すべきことがある」という言い方がなされていなくて、初めから悔い改めるべきことが指摘されており、警告も与えられています。
 また、2章6節には、

しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

と記されていて、非難すべきことの指摘と、悔い改めの勧めと、悔い改めない場合の警告が与えられた後に、なおも、推奨すべきことが指摘されています。このようなことは、テアテラ(2章24節)と、先ほど触れたサルデス(3章4節)にある教会に語られたみことばにも見られます。

          *
 最後に、2章7節には、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と記されています。
 このみことばの最初に出てくる、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

ということばは、七つの教会に宛てられたすべての手紙に、同じことばで出てきます。これは、それぞれの教会に対して語られていることが「諸教会に言われること」というように、七つの教会すべてに対して語られていることを示しています。この場合も、七つの教会は歴史をとおして地上に現れてくるすべての教会を表象的に示していますので、これは、今日の私たちにもそのまま当てはまります。
 また、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

というみことばは、諸教会に語っておられる方が「御霊」であることを示しています。この点は、七つの教会のすべてに当てはまります。これに対して、やはり、七つの教会への語りかけのすべてに当てはまることですが、それぞれの語りかけの最初に、栄光のキリストがそれを語っておられることが示されています。エペソにある教会の場合は、2章1節に、

 右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。

と記されていました。この二つのことは矛盾することではなく、栄光のキリストが御霊によって、それぞれの教会に、また諸教会に語りかけておられるのです。この場合も、七つの教会は歴史をとおして地上に現れてくるすべての教会を表象的に示していますので、これは、今日の私たちにも、そのまま当てはまります。
 7節では、続いて、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と記されています。これは祝福の約束です。このような祝福の約束は、七つの教会の一つ一つに対する語りかけに例外なく示されています。ただ、順序としては、このエペソにある教会への語りかけと同じように、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

ということばが先にあって、その後に祝福の約束があるのは、これに続く、スミルナとペルガモにある教会への語りかけです。その後の、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤにある教会への語りかけでは、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

ということばが、祝福の約束の後にきています。最初の三つの教会への語りかけと、後の四つの教会への語りかけにおいて順序が違っているということと、最初の三つの語りかけには非難すべきことが指摘されていないスミルナにある教会が含まれており、後の四つの教会には同じように非難すべきことが指摘されていないフィラデルフィヤにある教会が含まれているということから、この順序の違いには特別な意味はなく、単純に、記し方に変化を加えただけのことと思われます。
 それぞれの教会に与えられている祝福の約束は次のようになっています。先ほど触れましたエペソにある教会への語りかけにおいて与えられている約束は、7節に、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と記されています。以下簡略にしますが、11節のスミルナにある教会には、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

と言われています。17節のペルガモにある教会には、

わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と言われています。26節ー28節のテアテラにある教会には、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。

と言われています。3章5節のサルデスにある教会には、

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

と言われています。12節のフィラデルフィヤにある教会には、

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

と言われています。そして、21節のラオデキヤにある教会には、

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

と言われています。
 これらの祝福の約束は、すでに実現し始めているものもありますが、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地において、その完成、完全な実現を見るものです。しかも、それぞれの教会に与えられている祝福の約束は、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

と言われていますように、すべての教会に与えられています。すべての教会が、七つの祝福の約束にあずかっています。
 このように、七つの教会に対する栄光のキリストの語りかけのすべてが、最後には、終わりの日にまったきものとして実現する祝福を約束しています。七つの教会がそれぞれ、ローマ帝国からの迫害にさらされたり、福音のみことばを曲げる異端的な教えに惑わされたりして、試練を経験しています。そうであっても、すべての教会がキリストのからだである教会として、栄光のキリストがおられる天に属しています。またそれゆえに、栄光のキリストご自身がそこにご臨在してくださっています。この栄光のキリストのみことばに従うとき、栄光のキリストご自身が、御霊によって、迫害などの試練の中にある教会を支えてくださり、異端的な教えに惑わされそうな教会を、真理の道へと導き返してくださり、愛の失われた教会に愛を回復してくださいます。そして、必ず、約束してくださった祝福にあずからせてくださいます。そのことは、先ほど引用しました、ヨハネの福音書6章39節ー40節に記されています、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えに明確に示されていることです。
 このように、最後には、終わりの日における救いの完成を約束し、そこに望みを置くようにと招き、励ましているという点で、七つの教会に対して語られている栄光のキリストのみことばは、旧約聖書に記されています預言者たちの預言と同じ特質をもっています。というより、この栄光のキリストのみことばは、旧約聖書の預言者たちの預言が実現し始めていることと、それが完全なものとして実現することを明確に示しています。それは、栄光のキリストこそが、歴史の主にして、預言者たちの主である契約の神である主、ヤハウェであられるからです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第152回)へ戻る

「黙示録講解」
(第154回)へ進む
-->

(c) Tamagawa Josui Christ Church